聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。

2002.09

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★は借りた新着、☆は新規購入。

今回論評したディスクなど:
Joao Bosco: Grandes Sucessos /
モーツァルト劇場公演 プーランク『人間の声』『ティレジアスの乳房』 /
Pat Metheny Group: Speaking Of Now Tour

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日記鯖上に初出の即興コメントにリンクさせています。時々気まぐれを起こしてリンクしてないこともあります。


Joao Bosco: "Grandes Sucessos" (Epic, 2001)☆

ライブでの強烈な印象から是非CDも聴きたいと思い、この時Ivan再発と同時に購入したのだが、全般にあまり普通にアレンジされてもエッジが削がれてしまって...という印象は拭えない。というか、これはベスト盤なのだから基本的にスタジオではこういう音だったということなのだ。メロディメイカーとしての手練れ振りは十分伺えるが、飼いならされた歌謡なんかであっても面白くはない人のはず。何故こうなんだろう。だから、中でもライブテイクのトラックがやはりエキサイティングだし、'Zona de Fronteira'のようなパーカッシブな曲はスタジオテイクでも結構楽しめる。裏を返すと、この人の音楽の躍動感てのは何て身体的なんだろう、と改めて感心することしきりではあるんだけど。

モーツァルト劇場公演 プーランク『人間の声』『ティレジアスの乳房』(日本語訳、ピアノ伴奏) (東京文化会館小ホール、2002.9.7)

プーランクの歌は洒脱だ。洒脱だが、実は歌にしては訳わかんない楽曲だったりする。そのバランスを辛うじて支えているのがソノリテとしてのフランス語と「意味としての」フランス語の両面であるとすると(なんて言ってもフランス語をよく解さない私には想像の範囲を出ない仮説なんだけど)、それを日本語で上演することの困難は想像するに余りある。ただ、意味を伝えなければ、半ば「語り」が持ち堪えさせているこのシュールな歌曲たちをリアルタイムで聴衆に届けることはできない。そのためには敢えてフランス語の音を捨て、そこに日本語による別の響きを創造する。この2作の上演が敢えてその隘路を歩もうとする試みであることは間違いない。

ただし、である。『ティレジアス』は果たしてそうまでして上演すべき「言語的内容」を持っていたのだろうか。暗喩的というにはあまりに脈絡がなく、ドタバタというにはあまりに剥き出しの主張が声高に歌われ(「子供を産め」---? 余計なお世話だ!)、一体これをどう楽しんでいいものか。場面転換に応じて見事な変わり身を見せるゴージャスな音楽が、空回りするばかりに感じられてならない。

また、これは『ティレジアス』と『声』に共通した問題だが、肝腎の日本語が半分くらいしか聞き取れない。これでは、仮に原テキストがそれなりの内容であっても、試みとしては未完に等しい。ホールの音響のせいも多分にあったと思われるのだが、それにしても『声』のほうは、もっと細部までセリフが聞き取れたなら、主人公の強がりとその破綻がもっと劇的にリアルに立ち表れたかも知れない(あるいは、立ち表れなかったかも知れないが...)だけに惜しまれる。同行した連れ合いは、このモノドラマの主人公は「いかにも男に都合の良さそうな哀れな女」のようで、今一つ共感できないと言うのだが、もしディテールがもっと明らかだったら、これはもっと普遍的な、失意の底にいて強がる一人の「人間」の哀れさとして見えたのではないか...そう思ったりもするのだ。

Pat Metheny Group: Speaking Of Now Tour (NHKホール、2002.9.20=昼の部)

§今回だけは何故かドキュメンタリー風に書こうと思ったので、そんな感じで。

§同行者に誘った音楽畑の彼女とは、知り合ってもう何年になるだろう。向うは音大生で既に音楽業界に片足踏み入れていて、こちらは趣味の音楽に没頭する危なっかしい受験生だった。その頃初めてPat Methenyをまとまった形で聴かせてくれたのが彼女だった。そんないきさつがあり、それに多分彼女は長いことMethenyから離れてるだろうから、たまには面白いかも、と思って声をかけてみた。

§挨拶がわりにタイ旅行土産のアロマキャンドルなど渡して客席へ。P35という席はオーケストラピットの右端、ステージ見る姿勢も首に辛いが、目の前に山と積まれたスピーカから耳障りなノイズが低く漏れていて、不安がよぎる。何がと言ってNHKホールほど音響の悪いホールもない...と言われたのはもう十数年も前のこと。PAはPMGの自前だろうし、ホールの音響も今は少しはましだろう、と気を取り直して開演を待つ。

§しかし予感は当たる。1曲目、アコギを抱えて1人で出て来たMethenyが奏でる音が、くすんで割れて。ああ、先が思いやられる...と思いながら聴いてたので、その曲が実は'Last Train Home'の別アレンジであることに暫く気づかなかったほど。まあ仕方がない、この音響に慣れるしかないと割り切り、楽しむモードに。2曲目、ドラムのAntonio Sanchezとのスピーディな短い'Go Get It'でテンションを上げ、いよいよ全メンバーが舞台へ。

§本編は"Speaking Of Now"から、疾走感あふれる'Proof'で幕開け。だが...Pat Metheny Groupのライブは「CDのあの音をホントに生で再現するんだよ!」という前評判を聞いてきただけに、「あれれこんなもの?」という感が拭えない。理由は二つほどありそうだ。一つはもちろん音響。Lyle Maysのピアノの音が引っ込みすぎで、Richard BonaとCuong Vuのボーカルも音像がぼやけている。これらが丁度Methenyのギターと同じ強さで並び立つことで音全体に立体感や広がりが生まれているのに、これではそれが全く生きてこない。もう一つは、残念ながらインプロビゼーションにある。何だかハマッてないのだ。テクニック的には申し分ないのだが、曲のダイナミクスというか「うねり」に上手く乗ってない。ソロが終わってユニゾンがガツンと来るところにうまくピークが合わない感じがする。新曲はやはり構成的に複雑すぎるのか、単にお疲れなのか。

§この「あれれ?」感は、この後続けざまに演奏された新譜からの数曲でも同じだった。しかも、ただ次々に曲を演奏するだけのスタイルだから益々平板な感じがして、あれほど期待してたのはこれなの...なんて半分疲れた感じで観ていた。ああ何て勿体ない。

§流れが変わったのは中盤、ようやく旧作が出て来たあたり。構成にも変化を付けてきたので更にメリハリが出た感じ。ピカソギター(という42弦の、ハープみたいに鳴るギターがあるのです)を持ち出して来たので例の曲("Imaginary Day"収録の間奏曲的な小品'Into The Dream')だろうと思っていたらそのうちVuのトランペットが絡み、実は'Are You Going With Me?'への長いイントロだと判ったり、ミニギター1台で奏でる'A Map Of The World'のテーマから、Maysのピアノソロを経由してデュオによる'In Her Family'につながったりなど、それは息を呑むような美しい展開で。また旧い曲のほうが、新しいメンバーでやっているにもかかわらず、バンドの一体感、曲のグルーヴ感が勝っていてとても楽しく聴けたのは意外だった。

§後半は他のナンバーも新旧作ともに快調で、新曲('On Her Way')へのイントロではBonaがその場で即興的にサンプリングしたものをループして一人多重で聴かせたり(ってこれ、まさにJaco PastoriusがJoni Mitchellのライブ"Shadows and Lights"で見せてた手法だ)、そのBonaが敬愛するJacoの代わりを務めてトリオで'Bright Size Life'を演ったり(タッピング乱用の超速弾きに溜息!)。締めはおなじみ'Minuano'、そしてアンコールが'Song For Bilbao'でキマリ!
...あれ待てよ、新曲で1曲だけ演ってないのがある。しかも私が一番楽しみにしてた'Wherever You Go'! なんてこと!

§すんでのところで気持ちよくお開きにはならなかったコンサート。だが同行者にそう言えるわけもないので言わないでいると、彼女はMethenyが今も新しいことを取り入れながらやってることに感心したと言う。'Roots Of Coincidence'とか'Scrap Metal'でのVuのエフェクタ使いとか、面白かったらしい。で、こんなにゆっくり会うのも久々なんでお茶しようかと渋谷に向う。

§大御所って言われるアーチストでも、Methenyみたいに新しいことにも挑戦していく人と、昔のスタイルそのまんまを延々やる人がいるよね、と彼女は言う。「でも、周りが新しいことをやらせてくれないってのはあるんだよね。」彼女は音楽の仕事から一時的に遠ざかっているのだが、これはその理由とも関係があるらしい。あるベテランアーチストの制作に関わった際に出くわした、「売れるものがいいものだ」と言ってアーチストの意向をハナから踏みにじる高慢な大手レコード会社員のこと。そこまででなくても、アーチストたちの周りに群がるどうしようもない連中のこと。アーチスト本人がいいもの作ろうと思っても、寄ってたかってそうはさせまいとする環境。そういう中で戦っていくことに彼女は疲れたのだと言う。音楽の仕事をやりたくても、いい仕事ができる環境がない。どうしようかはまだ充電しながら考えているらしい。

§渋谷駅近くで「ちょっと歯医者に寄って矯正具のカバーチップを貰ってくから付き合って」という。OK、と気軽に返事ができるほど気持ちと時間に余裕があるのが随分久し振りって気がする。最近の矯正具はカラフルなパステルカラーだったりして、昔のギプスそのものってイメージとは大違い。これは楽しい。

§記憶を頼りにお目当てのカフェを探して宮益坂を上り、青山通りに出て第一園芸の前を過ぎるが、そもそも情報にバグでもあったか見当たらず。ウィメンズプラザの地下深く、ライトコートに面してあるun cafeでサンドイッチをつまみながらあれこれと喋る。貪欲な彼女は(それゆえ後には草も生えないなんて言われることもあるが)、これまでの人生でやりたいことは大体やった、という。だが一方で、そろそろ今まで生きてきた時間より、これから生きていく時間のほうが少なくなったのかなーとも言う。振り返って自分はといえば、どこか不本意感を持ちながら日々流されて生きている。友達には恵まれてるけど。立場は違えど、それぞれ見果てぬ夢はまだあるのだろう。それを「永遠」って言葉で表すのが適当かどうかはわからないまでも。

§Methenyの話はその後出なかった。あの泣きメロがもっとガツンと来ていれば、自分を語るコトバの一部として使っただろうけど、何だか微妙に肩透かしを食ったような気分だった。
原宿駅のホームからそれぞれ逆方向へ行く電車に乗って別れた。窓からひどく楽しそうに手を振るのを見て、ああこの人は変わらないなあ、と嬉しくなった。友達でいてくれてありがとう。
さ、髪切りに行こう。

§追伸: 後から知ったのだけれど、この東京の昼間のステージだけは曲目がちょっと違ったらしい。他の回では何と本編オープニングに'Phase Dance'があり、真中あたりで'First Circle'も演ったなんて! しかも曲目を変えてる理由は、このマチネがビデオ収録のための追加公演だから、らしいんだけど、だからってそんな著名曲を外すなんて...ひどい。いや、それだけじゃなく、コンサート全体のメリハリだってもっとパキッとしてたはずだ。部分返金してほしいとさえ思った。どうですかキョードー東京。



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