聴いた、観た、買った ---淡々と音喰らう日々。
2002.07
★は借りた新着、☆は新規購入。
今回論評したディスクなど:
山下達郎: Go Ahead! / Underworld: Everything, Everything /
モーツァルト劇場公演 ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』
◆CDタイトル前などのマーク(◆)はそのレビュー項目自身へのダイレクトリンクになっています。
◆CDタイトル等のリンクは、日記鯖上に初出の即興コメントにリンクさせています。時々気まぐれを起こしてリンクしてないこともあります。
◆ 山下達郎: "Go Ahead!" (RCA, 1979)☆
これがセールス行かなくて「夏男タツロー」路線にある程度迎合しなきゃいけなくなった、みたいな記事をどこかで見たけど、うーん、早すぎたのか。その後の彼を彷彿とさせるバラードナンバーもあるけど、'Love Celebration', 'Bomber', 'Paper Doll'といったタイトなR&Bナンバーが全体の基調色を決めている印象。さらに加えて、'This Could Be The Night'でのBrian Wilson趣味や「2000トンの雨」のPhil Spector風の徹底的に緻密なアレンジ仕事が唸らせる。リゾートサウンド路線はすごいと思うけどあんまり聴くとちょっと食傷気味になる、という私みたいなリスナーにとっては、こっちこそがタツローの醍醐味。
にしても、「日記鯖」にも書いたとおり、彼の独特のリゾートサウンドの源流は本当にどこにあるんだろう。この前考えた大瀧詠一というのも実はタツローと同時多発的(『ナイアガラ・トライアングル』は1976年)に発生・発達しているので、それ以前に何かあるのだろうか。うーん、ちっとも思いつかない。
◆ Underworld: "Everything, Everything" (BMG/V2, 2000)★
Underworldのライブ。どうカテゴライズされてるのかよく知らないんだけど、基本的に「ニューウェーブ」な音だなあと思う。そういう意味では慣れ親しんだ音という感じで、なかなか「これは!」と引っ掛かる部分が少ないんだけど、そんな中で耳に残るのはミニマル的なフレーズの重ね合わせがモワレ状のテクスチャを醸し出すような箇所だ。実はライヒの「ピアノ・フェイズ」あたりのミニマルをどこか連想させたりもする。案外テクノの酔わせ方/飛ばせ方ってあれに近いものがあるようにも思うがどうだろう。
◆ モーツァルト劇場公演 ドビュッシー『ペレアスとメリザンド』(日本語訳) (新国立劇場・中劇場、2002.7.14)
とても完成度の高いプロダクションだった。2回限りの公演というのは惜しい気がする。
このドビュッシー唯一のオペラは、言葉の抑揚がそのまま音楽になったような微細なテクスチャゆえ、日本語での上演は意義があると同時に、その陰影をいかに再現するかにも細心の注意が求められるが、手堅いだけでなく息の揃った演奏(アンサンブル of トウキョウ)と、演出・美術とが渾然一体となって、繊細かつ明瞭な世界像を描き出していた。
演出と美術が、雲の音楽であり水の音楽であるドビュッシーの音の陰影に理想的な形で寄り添う。適度な抽象性と曖昧さの上に成り立つ象徴性。美術で言えばそれはプロジェクターで映し出される雲であり、中空に掛かる大きなツタ状の植物であり、背景を染め上げる夜の青、夕暮れの赤である。
メーテルランクの戯曲自身は抽象的な台詞回しに終始し、それ自身では曖昧すぎる輪郭しか描き得ず、100年前のデカダンスをリアルタイムで知らない我々にはよそよそしいほど素っ気ないが、演出は要所要所で登場人物たちの動きに生々しいリアリティを吹き込むことで、このドラマに饒舌にならないギリギリの抑揚をもたらすことに成功した。特に、無邪気なファム・ファタールとしてのメリザンド、心乱れ終幕ではメリザンドの髪を手に取り後悔を露わにする人間的なゴローの描き方は秀逸で、この霧の向こうで起こっているようなドラマに現代的な説得力を与えた。
これだけのプロダクションでありながら、実は一番惜しいのは日本語という存在そのものだった。日本語訳は申し分ない。だが、元々がフランス語の生理に則って書かれた旋律であるというそのこと自体が、日本語の息遣いとの葛藤・相剋を生む。具体的には、フレーズの最終音節ごとにアクセントが来るフランス語固有のリズムが、現代日本語の標準語発音と馴染まないのだ。例えば「〜です」「〜ます」で終わる文の場合、それぞれ「で」や「ま」に最終音節アクセントが割り振られ、「す」は母音を伴わない「s」の音として前の音節に添えられる。確かに、日常会話などでは「です」「ます」はそうやって発音しているが、歌われるフレーズの末尾としては尻切れとんぼな、何か性急に切り上げたかのような印象を与え、落ち着かない。曖昧模糊と生成され消滅するようなうねりを持つ音楽との親和性という意味では、少々厳しい。これは訳詞の技術で解決するような問題ではなく、ドビュッシーのスコア自体を日本語向けにアダプテーションするところまで踏み込むことが求められる課題ではなかろうか。そこまでの作業が許される環境というのは、今の日本ではまず実現は期待できないだろう。その意味においても、これは「現在の状況で望みうる限り」最高の公演だったと言えそうだ。
→インデックスへ
→ただおん目次に戻る
ただおん |
(c) 2002 by Hyomi. All Rights Reserved. |