これがホントの人間交差点。譬えが古くてごめん。
〜ミナス派旗揚げ作品『クルビ・ダ・エスキーナ』を聴く
(2000.1.15)


ミルトン・ナシメントというと、何か孤高の音楽世界を持っているようなイメージで見られがちだが、彼のもう一つの魅力は、同郷ミナス・ジェライス州出身のミュージシャン達を中心とした友人たち---このサークル自体を「クルビ・ダ・エスキーナ(街角のクラブ)」と名付けていた---との美しい響き合いにある。中でも、ミナス派とも呼ばれる彼らのほぼ最初のコラボレーションである『クルビ・ダ・エスキーナ』("Clube da Esquina" Milton Nascimento/Lo Borges、 1972。なお、1978年発表の"2"もあるが内容は異なる)には、参加メンバーの様々なテクスチャが入り交じり、彼らの来し方行く末までを想像させるような広がりもあって圧巻だ。

ということで、珍しく今回は、1枚のCDの聴きどころ紹介だけでコラム1本使ってみようという気になったのである。いやほんと、それくらい聴く価値のあるものだと思います、これは。


2つの中心

ところでこの作品、既に記したとおり、ミルトン個人の名義ではない。少し小さめではあるが、ロー・ボルジスという名が併記されている。ミルトンに比べると知名度は低いが、独特の和声感覚でたゆたうようなメロディを紡ぎ出すソングライターであり、頼りない声で歌うボーカリストでもある。『クルビ…』ではミルトンと彼(ともう一人の頼りなげな声の男、ベト・ゲヂス)とが交互に、時には一緒にリードボーカルを取り、収録曲のほとんどを2人のどちらかが作曲している。しかしことはそんなに単純ではなく、この2人はさまざまな形で役割を分担し、アルバム全体に驚くべき多様性をもたらしているのだ。

パターン分けすると味気ないが、わかりやすくするために敢えてそのように整理してみると、

1) ミルトンの曲をミルトン自身が歌う
2) ミルトンの曲をローが歌う
3) ローの曲をロー自身が歌う
4) ローの曲をミルトンが歌う
5) その他: ベトが歌う曲、ゲストボーカルの曲、既存曲のカバーなど

となる。何だ「順列・組み合わせ」じゃないか、って? それはそうだけど(笑)。でもそれが何倍もの効果を生むのは何故なのかを、ローの個性に注目しながら考えてみたい。


ロー・ボルジスの個性

ローの書く曲の特徴を、ミルトンとの対比で単純化して表現すると、(1)リズムは規則的な2拍子系のポップ/ロック的なリズム構造が主体で、変拍子はもちろん、ブラジル独自のリズムパターンもあまり用いない、(2)メロディは、旋法面ではブラジル的というよりむしろ西欧的で、フレージングも2もしくは4の倍数の小節数で区切られることが多い、となろうか。

こう見るとローは、ブラジル外から見た場合に、あまりブラジルっぽい特徴のないソングライターであり、それが今一つ知られていない理由なのかも知れない。だが、逆に彼の旋律を欧米を中心としたポップマーケットの中に置いてみると、その繊細で独自な感覚は際立つはずだ。敢えて近いイメージのアーチストを挙げるなら、ミッシェル・ポルナレフだろうか。へなへなっとしたボーカルスタイルもあって、よけい似て聞こえるのかもしれないが(笑)。


さまざまな響き合い

そんなローの曲をロー自身が歌うと、鼻母音や「ジュ」の音が多いポルトガル語の音声上の特徴と相俟って、「ポルナレフ(くどいようですが)と同時代のフレンチ・ロックではないか」と耳を疑うよう陰影と涼しさを醸し出す。言うなれば太陽の高度が低い土地の温度感、空気感というか。(T-3 "O Trem Azul", T-8 "Um Girassol da Cor de Seu Cabelo", T-19 "Trem de Doido")

ところがローの曲をミルトンが歌うとまた面白いのだ。彼の歌唱法には独特のリズムの揺れ、音程間の移動があるが、それによってカッチリできているローの曲に変化が生じる。クールであったはずのテクスチャに波風が立ち、がぜん温度が上がってくる感じ。陰影と言っても、これは陽差しが厳しい地方の森林の奥深くのものに変貌してしまっている。(T-1 "Tudo Que Voce Podia Ser", T-5 "Nuvem Cigana")

ミルトンの曲を彼自身が歌う場合について、あまり説明はいらないだろう。ここでは弦楽アンサンブルやピアノを効果的に使った、ミディアムテンポの内省的な曲が際立っている。(T-2 "Cais", T-9 "San Vicente", T-14 "Os Povos", T-16 "Um Gosto de Sol" etc.)


2人を包み込むアンサンブルの多様さ

一方、ミルトンの曲をローが歌った場合は(T-6 "Cravo e Canela" 1曲のみだが) 、ブラジル固有のリズムを軸に熱を帯びるリズムセクションに対して、奇妙な冷静さを保つボーカルが対峙するというコントラストにより、逆説的にリズムセクションを際立たせる効果を生み出している。実は同じようなことが、ベト・ゲヂスがミルトンと一緒にリードを取っているT-20 "Nada Sera Como Antes"にも当てはまる。

こうした側面に至ると、ローやミルトンのボーカリストとしての個性もさることながら、参加ミュージシャンたちが作る変幻自在なアンサンブルが重要な要素になってくる。2人と響き合う腕っこきのプレイヤーたちには、ヴァグネル・チゾ(キーボード)、ホベルチーニョ・シルヴァ(ドラム、パーカッション)、トニーニョ・オルタ(ギター、ベース)、ベト・ゲヂス(ベース、ボーカル)ら。今や押しも押されぬギタリストであるトニーニョが主にベースを弾いているのは驚きだが、まだ若かったせいか(?)。

彼らが息の合ったアンサンブルを聴かせるのは当然としても、その芸域の広さ、またリズムやテクスチャのドラスティックな変化についていく様には息を呑む。2コーラス目に入った瞬間にワッと分厚くなるボサノヴァ・パーカス隊(T-13 "Me Deixa Em Paz")や、ドラムスのフィル・インを合図にシャッフル系のリズムから8ビートになだれ込む展開(T-20 "Nada Sera Como Antes")、あるいは段々と分厚くなっていくT-9 "San Vicente"のボレロ風3拍子。現れるリズムの種類も多様だが、展開も見事。

また、敢えて特筆すべきなのが、この後も長いことミルトンの相棒としてアレンジの腕をふるうヴァグネル・チゾのオーケストレーションだろう。軽やかなローの曲の中間部が、彼の仕組んだ管の咆哮で劇的に変化する瞬間(T-5 "Nuvem Cigana")は、このアルバム中で最も美しくコラボレーションが結実した瞬間の一つかも知れない。


ところで、デオダートという人物

アレンジという話になると、このアルバムに数トラック、しかも「アレンジ」というクレジットでだけで登場する人物がいる。エウミール・デオダート。ミルトンを米CTIレコードの主催者クリード・テイラーに紹介し、初の米国録音『コーリッジ』をプロデュースさせ、自らアレンジを手掛けた人物。また、A.C.ジョビン『ストーン・フラワー』で目眩くオーケストレーションを聴かせた人物。そして、その後活動の場を米国に移してからは、ディスコなインストゥルメンタル・ナンバーで一世を風靡した人物でもある。

面白いことにこの『クルビ・ダ・エスキーナ』では、デオダートのそうしたキャリアの変遷の途中とも言うべき様子が垣間見えるのだ。T-8 "Um Girassol da Cor de Seu Cabelo" などはその最たるもので、フラジオレットの高音を多用した不安げな弦アレンジから始まり、中間部では弦セクションだけがシュニトケかと思うような強烈な不協和音を奏でたかと思うと、エンディングにはいきなりディスコなビートにスチャラカ・カッティングのギター(笑)。まるで「今まではこんな感じでしたけど、これからはこう変わります」と言っているかのよう。この意外なゲストの意外な活躍により、このアルバムは更に不思議な奥行きを加えることになった。


『クルビ・ダ・エスキーナ』から始まる音楽のたのしみ

こんなアルバムなので、これから何を聴こうか楽しみで仕方がないのである。ちょっと挙げてみるだけでも、

1) ロー・ボルジスのリーダー作(探してるけど見つからない)
2) 『クルビ・ダ・エスキーナ2』
3) トニーニョ・オルタの初リーダー作(これも見つからない)
4) ヴァグネル・チゾ作品
5) ディスコなデオダート。まあ興味半分だけど(笑)

それぞれがこの後、どう展開していったか興味は尽きない。というわけで、この辺を既にお聴きの方がいらっしゃったら、是非コメント下さい。お待ちしてます。

(end of memorandum)



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