ポストモダンは既に無効か?
リゲティの近作をめぐって
(1998.05.12, revised 1998.09.29)


Ligeti: Piano Concerto, Viloin Concerto etc. (Grammophon)
Ligeti: Works for Piano - Etudes Livre I, II & III etc. - (Sony)

これら評価の高いリゲティの近作を聴いて思い出したのは「ポストモダン・デコ」なる言葉だ。バブル華やかなりし頃に磯崎新が、蔓延するポストモダン風建築を皮肉って名付けたものだが、彼が批判したのは、表層的な戯れに終始する、人畜無害で透明な建築としてのポストモダンであったのだろう。モダニズムの「機能」「目的」「普遍性」への懐疑から出発し、「差異こそが意味」であることを拠り所に形象の記号的な差異を増殖させ、それにより建築を空間的な意味たらしめるという戦略そのものの重要性を否定するつもりはない。だが、「ラディカル・エクレクティック(過激な折衷主義者)」を自認する磯崎にとって、ひたすら差異の再生産と戯れる多くの建築家たちは、とても安全なものに見えたに違いない。聞きかじりのデリダ的言い方をするなら、ポストモダン建築と磯崎が考えるものはおそらく、「構造そのものの内部に棲みつき、構造を内部から食い破る」ようなアプローチすなわち、表象の中に分裂症的な、変容への契機を匿していなければならないのだ。磯崎が「折衷」にこだわるのは、まさにそうした裂け目を建築の中に埋め込まんとするが故に他ならないと思う。それは、建築家自身の立場に立つなら「ひそやかな悪意」と言ってもいいだろう。巨大建築や公共建築物を多く磯崎が手掛けることを体制寄りと批判する声があるが、それはこのような悪意の存在と、それが建築を通じてまさに花開かんとする契機とを見逃しているということではなかろうか。

リゲティに話を戻そう。

このような見方をするとき、リゲティの音楽はどう響くだろうか(ここでは近作のピアノとヴァイオリンの協奏曲、そしてピアノ・エチュードに話を絞る)。真に悪意に満ちた、真正のポストモダンだろうか。それともその「デコ」に過ぎないか。残念ながら私には後者だ。ある優れた批評家がかつて「リゲティには感心はしても、感動はできない」という趣旨のことを述べていたが、それはまさにこのことと同じだと思う。良く出来ている、格好いいのは間違いない。だが、何か食い足りないのだ。

耳は正直だ。聴いてから楽曲分析の解説(本人談を含む)を読むと、それがよくわかる。本人は自らこれを「皮肉っぽいポストモダン」ではないと規定しているが(ピアノ曲集の解説)、それは却って彼自身「ポストモダン・デコ」に陥り兼ねない危険の徴となってしまう。皮肉っぽいのはいわばポストモダンの宿命である。そこに異質のもの同士を並存させることによって否応なく生じる歪み、緊張、バカらしさ、それらは全て意図されたものであり、それらの存在しないポストモダンは、去勢され手なづけられれた野獣に過ぎない。リゲティの作曲方法の隙のなさ、seamlessnessとでも言うか、は、まさに見事な手さばきでありながら、それゆえに全ての変容の契機を封じ込めてしまっている。それは、先に述べた解説文が自ら暴いてしまうだけではない。説明より前にそのことを見抜いてしまっているのは、我々自身の耳なのだ。

彼より半世紀先んじて、やはり同様の手法的な熟練を手に入れていたと思われるラヴェルはしかし、曲の裂け目から生々しい怨念が噴き出すことがままあった(「左手」「ラ・ヴァルス」など)。リゲティには全くないのではないか、と思う。聴きながら時々、上質のCM音楽かと聞き紛うのはまさにそのためだ。

むしろ、注目を浴びた近作のピアノやヴァイオリンの協奏曲より、1960年代の末に書かれたチェロ協奏曲(ピアノ協奏曲などと併録)のほうが「感動する」。禁欲的な音響のなかに張り詰めた緊張感が漲っている。極めて限られた音響的要素から、無限の奥行きを感じさせるふくらみを引き出している。2楽章の終盤のチェロ独奏の速いパッセージには、その緊張の綻びから噴き出す「狂気」のようなものさえ感じられる。評価の高い最近の作風よりこのほうがずっと「独創的」だと思うのだが。

リゲティは1970年代にミニマル、ポストモダンなどいわゆる「流行」の後追いをして質を落としたとの批判を受けているが、そう評する評者たちも近作については高い評価を与えている。しかし私には、その後ナンキャロウやアフリカ音楽に触発されて複雑なリズム構造に関心が移ったことも、結局その流行の後追いの続きにしか感じられない。たまたま、そうしたことを「現代音楽のフィールドでやった人がいなかった」ことで独創的であるかのような評価を受けているだけではないのか。

エッシャーの騙し絵など、認知科学的視点を引き合いに自作を解説するリゲティだが、作品そのものの聴こえ方とのあいだに齟齬が感じられてしまうのは、決して僻目ではないと思う。リゲティの着眼点や発想は面白いと思うのだが、仕上げの綺麗な職人仕事よりも、小さな綻びが大きな変容へと膨れ上がってしまいそうなスリルが聴きたいのだ。それとも、クラシック音楽の枠の中では無理というのだろうか。

(end of memorandum)



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ただおん

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