既視感の音楽〜インスタントシトロン、PSY・Sを手掛かりに (1999.3.12)


往時のArnoと私のコラボに通じるものがあると方々から指摘されたので、インスタントシトロンの『チェンジ・ディス・ワールド』をどんなものかと聴いてみたのである。そうかあ、そんなに似てるかなあ。敢えて似てるところを挙げるなら、

(1)オーソドックスなポップソングを志向している
(2)女性ヴォーカル+男性コンポーザーのユニットである

くらいのものか。それじゃPSY・Sじゃないか。そうかマスダさんには「PSY・S的な諦念」とか言われたなあ私ら。

それはさて置き、ではシトロンと私らの違いは何かというと、

(1)ヴォーカルはウィスパーする(Arnoはしない)
(2)コンポーザーはギター弾きである(私はピアノ弾きである)

というところだろうか。ほら、やっぱり私らはPSY・Sじゃないか。いやそうじゃないってば。いや、それとは違う何かでありたい、と思ってはいるのだが。

PSY・Sとシトロンに共通して言えるのは、既視感を強く意識した曲作りだと思うのだ。それがPSY・Sの場合には「日本的な」、シトロンでは「スタンダード・ポップス」というベクトルを持っているのだが、まさしくそこに彼らの弱さが見えてしまうのだ。つまり、既視感の中に普遍的な本質があると考えること自体フィクションなのだ。既視感を持ちながらも、音楽はずれて行かざるを得ない。音楽は常に何かしら新しい。それはコトバのようなものだ。結局、既視感を持って見られているイメージというのは、あくまでも事後的な視点から再構成されたものに過ぎないのだ。にもかかわらず、本質があると考えてこのようなズレを切り詰めていく、その先にあるのは音楽の袋小路ではあるまいか。

それは---いきなり譬えがクラシック系になって恐縮だが---、一時ブームになったグレツキの音楽(『悲歌のシンフォニー』など)や、売れてしまってからのペルトの音楽が、結局自ら袋小路にはまり、痩せ細っていくしかなかった道筋に、どこか似ているようでもある。

話をシトロンに絞ってみる。彼らの音楽は結構アコースティック・ギターをベースに作られているのだが、それでいてフォーキーかと言うとそうではなくて、むしろフォーキーがポップソングに回収される瞬間を描いていると思えるのだ。例えて言うなら、オリヴィア・ニュートン=ジョンが「そよ風の誘惑」を歌った瞬間とでも言おうか。それは、ポップソングがそれ自身以上であるギリギリのポイントでありつつ、しかもそこから先にはポップソングが豊かさを紡ぎ得ない臨界点でもある。

私が彼らとは何かしら違うものでありたい、と思うのは、まさにその点、つまり、ポップソングに回収されるギリギリの地点ではなく、ポップソングがそこから逸脱する瞬間を演じたいがためだ。もちろん、そう言ってるのは簡単だが、そういう音がすると評価してもらえるのは難しい。だが私らはそのために、ポップソングのプロトタイプをなぞるようにして曲を組み立て、メロディラインを前景化して、という方向で曲作りをしていくことになるだろう。どこで逸脱の快楽にたどり着くのかわからないながらに、手探りで。

(end of memorandum)



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ただおん

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