11月10〜11日バチカンで開かれた会議に招待され出席しました。ローマ法王庁が軍縮に関する会議を開くのは初めてです。背景に核兵器禁止条約採択と核兵器使用が懸念される世界情勢があります。(和田征子)
会議の趣旨として提起されたのは、キリスト教のビジョンを発展させた「平和」と「統合的人間開発」の概念としてすべての人々の「開発」なくして真の永続的平和はありえないということでした。▼軍備削減は、根源にある暴力の根絶なしにあり得ない▼戦争は人間の心の中で生まれる▼軍縮とは国家の軍備だけではなく、自らの心を武装解除し平和を作り出す者となるようすべての人間に関わる−とあります。
参加者は教会関係の枢機卿・司祭、牧師、各国大使、科学者、ノーベル平和賞受賞者など約300人。地雷禁止国際キャンペーンのジョディ・ウィリアムズ、北アイルランド問題の平和解決に貢献したマイレッド・マグワイヤ、貧者のために創立したグラミン銀行のムハマド・ユヌス、中満泉国連軍縮担当上級代表など各氏が発言しました。
和田は「核兵器の人道的結末と平和への道」のセッションで被爆者の運動、証言、核兵器廃絶を訴え、共感の拍手を得ました。(発言2面)
法王は謁見の際、広島・長崎の被爆者が行なってきた証言は、次の世代への予言者的な警告の声であるとのべ、核兵器が存在するリスク、所有することを強く非難するスピーチをされました。条約の署名・批准をすでに行われたお礼と被爆者国際署名への賛同をお願いしました。バチカンの最高幹部の方、出席者に署名をいただきました。
国内外の多くのメディアから取材を受け、少しでも多くの人、場所に核兵器廃絶の願いと運動を届けたいと思いました。
最後に出された暫定的結論に「すべては関連している」との言葉が繰り返され、世界が抱える様々な問題の関連が示されました。すべての人が結ばれることで核兵器をなくし、統合的な人間開発に力を注ぎ、平和を築くことができる−暫定的結論が終わりではなく、対話と行動の始まりと締めくくっています。
☆ジョディ・ウィリアムズ(米国)ノーベル平和賞受賞者(97年・地雷禁止キャンペーン)
☆マイレッド・コリガン・マグワイア(英国)ノーベル平和賞受賞者(76年・北アイルランド問題の平和的解決)
☆インゲボルグ・ブレイネス(ノルウェー)国際平和ビューロー顧問
☆ダグラス・ローチ(カナダ)元上院議員・軍縮大使
☆ピーター・タークソン枢機卿(バチカン)人間開発のための部署長官(バチカン会議主催の最高責任者)
☆ブルーノ・マリー・デュフェ(仏国/バチカン)人間開発のための部署書記
☆ジョシュア・マール・イグナチオス(インド)カトリック司教
☆イタリア活動家5人
12月10日ノルウェーの首都オスロで、2017年ノーベル平和賞がTCAN(アイキャン‖核兵器廃絶国際キャンペーン)に授与されます。授賞式にあたって、ノーベル平和賞委員会は日本被団協の田中煕巳代表委員、藤森俊希事務局次長に出席するよう招待状を送りました。両氏は招待に応じ、授賞式に出席するため8日オスロに向かいます。授賞式のほか関連行事にも参加します。
ピースボート共同代表でICAN国際運営委員の川崎哲さんが講師を務める恵泉女学園大学(東京・多摩市)及び関係者が寄付金を集め、授賞式参加の渡航、滞在費用を田中、藤森両氏宛て送りました。反核医師の会からも寄付金が寄せられています。両氏は、篤くお礼を表明しています。
左・前座良明さん(2009年10月)、右・前座明司さん
日本被団協草創期から、被爆者運動にひたむきに取り組み、2009年11月、88歳で永眠した父・前座良明は「核兵器禁止条約」の採択を心から喜んでいると思います。被爆者運動を継いでくださっている方々へ、早口の広島弁交じりの信州弁で感謝する言葉が聞こえてきそうです。
父は故郷広島で被爆、縁あって松本市に無一文で移り住みました。1961年42歳の時、松本市のはずれに、思いを込めて名付けた「ピカドン食堂」を開業しました。経営はけっして楽ではありませんでしたが、「ピカドン」は私たち家族の生活の糧を生んでくれました。ときとして父は家業を亡き母、いま店を継いでいる弟にまかせ、被爆者運動に没頭しました。家族の苦労、支えがあっての被爆者運動でした。
「ぶらぶら病」、胃がん、大腸がん……父は満身創痍でした。背中には大きくえぐれたケロイド状の傷跡がありました。中国戦線で負ったものです。「私は戦争被害者であり、加害者でもある」と、自らの生々しい体験に触れながら、「語り部」活動を行なっていました。「ノーモア・ヒバクシャ9条の会」設立の呼びかけ人でもあった父は、再び、日本が「戦争加害者への道」を歩み始めていることを心配しているはずです。
一日も早い「核兵器廃絶の実現」のため、もとより父の足元にも及びませんが、私も被爆者運動をつないでいかねば、と思っています。
「今日の聞き手は、明日の語り手」。父の言葉です。
(中央左から)大石又七さん、男鹿和雄さん、吉永小百合さん
東京・夢の島の第五福竜丸展示館で「この船を描こう・森の福竜丸 男鹿和雄と子どもたちの絵」展が始まりました。
福竜丸の建造70年を記念して、スタジオジブリの美術監督をつとめてきた画家の男鹿和雄さんが第五福竜丸のすがたを描き下ろしました。夢の島の森にたたずむ福竜丸とマーシャルの海を走る福竜丸、母港・焼津港と漁具(びん玉・六分儀)の5点です。呼びかけに応じて全国から子どもの描いた福竜丸が送られ、60点が飾られています。
11月5日オープニングイベントには絵を描いた小中学生、元乗組員・大石又七さん、俳優の吉永小百合さんも駆けつけました。
吉永さんは、小学生の頃ラジオから流れる福竜丸の久保山愛吉さんの病状を聞き「早くよくなって」と祈っていたこと、そのことが現在も続く原爆詩朗読の原点であることを話し、子どもたちに「今日の体験を覚えていてください」と語りかけました。男鹿さんも「福竜丸のことをお友達にも話してください」と子どもたちにエールを送ると、みな少し照れながらも大きくうなずいていました。
2018年3月25日まで、月曜休館、入館無料。複製画等の頒布もあります。
発言する和田事務局次長
この場に被爆者として話をする機会を与えられましたことを光栄に思い、深く感謝いたします。
私は生後22か月の時、長崎で被爆した和田征子と申します。爆心地から2・9qの自宅で被爆しましたが、山に囲まれた長崎の地形のおかげで生き延びることができました。
7月7日に核兵器を禁止しその全面廃絶に至る法的拘束力を持つ条約が採択されました。広島、長崎の原爆投下後、被爆の報道さえも違法とされたアメリカの占領下の日本で、被爆者は占領軍からも、日本政府からも何の救援もなく放置されました。1954年のビキニ水爆実験をきっかけに起こった原水爆禁止の国民的運動の中で、日本被団協を結成し、被爆者は行動と決意によって61年間、核兵器の廃絶を呼びかけてまいりました。「再び被爆者をつくるな」と訴え続けてきた被爆者にとって、今回の禁止条約採択は誠に大きな喜びです。
名前もわからず、死者数としてだけ記録に残る多くの方々、運動に関わってこられた多くの先達、国内外の支援の方々、条約の採択に貢献しノーベル平和賞を受賞したICANの方々と、共に喜びを分かち合いたいと思います。そして何よりも、バチカン政府が、核兵器禁止・廃絶を目標とする国際会議で議論をリードし、すでに条約に署名し、批准をしてくださったことに、深く感謝いたします。
「核兵器の使用の被害者(hibakusha)の受け入れがたい苦しみ」に心を寄せた条約の前文には、一発の核兵器がもたらした非人道性が明記されています。あの日、理由もわからず瞬時に命を奪われた方々。1945年の12月までの死者数は広島で14万人、長崎で7万人ですが+−1万人とされ、その90%は老人、子どもを含む非戦闘員でした。そしてかろうじて生きながらえてきた被爆者の苦しみ、それは深く、今なお続くものです。愛する者の死、生き残ったという罪悪感、脳裏に焼き付いたままの光景、音、臭い、原因不明の病気、生活苦、世間の偏見、差別、あきらめた多くの夢。それは人種、国籍、年齢、性別を問わずきのこ雲の下にいた者に、被爆者として死に、また生きることを強いるものでした。
生後22か月で被爆した私に当時の記憶は全くありません。他の先輩の被爆者の方々が、あの日、あの時代に経験された筆舌に尽くしがたい光景をお話しすることはできません。
しかし私は母と祖父と共にそこにいました。母が繰り返し語ったことを少しお話しします。
8月9日、空襲警報は解除になった昼前、母は昼食の準備をしていました。私は玄関の土間でひとり遊んでいたそうです。11時2分。大きな爆発音。爆心地から2・9q離れた家の中は、窓ガラス、障子、格子、土壁などがすべて粉々になり、30センチ以上の泥が積もりました。外はオレンジの煙が漂い、向かい側の家も見えなかったそうです。市内を取り囲んでいた緑の山々は茶色の山となっていました。
母はその山道に爆心地から山越えをして火を逃れ、降りてくる蟻の行列のような人々を見ました。チョコレート色に焼け、着けている衣類もほとんどなく、髪の毛は血で固まり、角のようになっている人たちの列でした。
家の隣の空き地で、ごみ車に集められた遺体の火葬が毎日続きました。母は人形のように焼かれる遺体の数とその臭いにさえも、誰もが無感覚になったと話していました。
人間の尊厳とは何でしょうか。人はそのように扱われるために創られたのではありません。
母は治療の手伝いに行った臨時の救護所で、床一杯に収容されている人たちの、火傷や怪我のひどさに気絶してしまい、その後与えられた仕事は、傷口にわいたうじ虫を箒でかき集めることでした。その無数の蛆虫は親指大になっていました。
アメリカ軍は原爆投下と同時に、B29から落下傘につけたラジオセンサーも落としました。原爆の威力、爆圧や強度、熱度などを測定する機器でした。その機器は、アメリカ軍にきのこ雲の下にいた一人一人の生活、その家族のこと、そして生命の尊さは伝えなかったのかと、母は話していました。
母は6年前89歳で亡くなりました。心臓病、胃がん、肝臓がんの他、いろいろな病気を抱え28回の入退院を繰り返しました。生前、私が書いたものを読んだ母は甚だ不満の様子でした。体験した地獄の情景がこんな言葉では表現されていないからでしょう。他の先輩の被爆者の方も同じように感じられるはずです。私には母の体験を話すとき、十分ではない自分の話にいつもためらいがあるのです。でも私たち少しでも若い被爆者が話さなければならないほど、72年が経ち被爆者は平均年齢が81歳と高齢化しています。
核兵器は、爆風、熱線、そして放射能の被害を無差別に、広範囲に、長年にわたってもたらす非人道的な兵器です。再び使われれば、同じ苦しみを世界中が負うことになります。被爆者はそのことを経験してきた者です。日本被団協結成の1956年、私たちは「世界への挨拶」で宣言しました。「私たちは自らを救うとともに、私たちの体験をとおして人類の危機を救おうという決意」でした。今日まで、決してあきらめることなく歩んできました。今、その宣言が実現する道筋が見えてきました。重い錆びついた扉がやっと少し開いて、一筋の光が入ってきました。
被爆者は被爆の実相を国内外で語ってきました。語ることによってあの時に引き戻される辛い努力を続けてきました。条約の前文に「公共の良心」という言葉が記されています。
「公共の良心」は公共の利益、人類の利益、地球の利益の保持のために不可欠なものです。力は正義ではありません。核兵器は正義ではありません。廃絶しなければなりません。それをつくった人類の責任です。核兵器の廃絶のために、祈り、小さな努力を重ねることが、公共の良心であり、正義です。核保有国に、日本を含む同盟国に、禁止条約への署名と批准を訴え続けねばなりません。
昨年4月、私たちは「被爆者が呼びかける核兵器廃絶のための国際署名」を開始しました。これまでに515万以上の署名を国連に提出しました。私たちは世界中に呼びかけて2020年までに数億の署名を、多くの公共の良心を集めようとしています。市民社会の声、一人一人の尊厳を持った人として、平和を実現するものとして、ご出席の皆さまにここバチカンから大きな声を上げていただきたいと切にお願いいたします。
ご清聴ありがとうございました。
10月28日おりづるの子(東京被爆二世の会)が、秋の学習交流会「核兵器禁止条約〜世界を動かす被爆者の声〜」を開催し、日本被団協事務局次長の藤森俊希さんにお話しいただきました。
1歳4カ月のときに広島で被爆された体験、当時の広島の惨状、日本被団協の歩みと訴え続けてきたこと、核兵器開発の進展と核軍縮・核兵器廃絶を求める世界的な動きなどを、順序立てて語っていきました。
また、2013〜14年にかけて開かれた核兵器の非人道性に関する国際会議によって明らかにされたことは、核兵器は国境を越えて広がり、どの国も国際機関も救援の術がない、核兵器の不使用こそ人類の利益であり、それを保証するには核兵器を廃絶する以外ありえない、というものであったことを紹介しました。
10月に発表されたICAN(核兵器廃絶国際キャンペーン)のノーベル平和賞受賞をどう評価し活用するかなどにもふれながら、ヒバクシャ国際署名をさらに広げていきたいと呼びかけました。
後半は質疑、意見交換が続きました。それぞれの父母の被爆体験、被爆者の子として考えてきたこと、取り組んできたことなども交えながら、活発で熱心な語り合いと交流が続き、予定を超えて3時間近くに及ぶ有意義な学習交流会となりました。(おりづるの子事務局長・吉田みちお)
11月4日東海北陸ブロック相談事業講習会(静岡)の懇親会終了後、3回目の二世交流会を4県8人の二・三世と支援者の参加で開催しました。
顔なじみも多くなり、1年間の活動紹介を兼ねて近況報告から始めました。「準備会の中心になっていた事務局長の急死を乗り越え、7月9日正式に二世部会が発足した(静岡)」「3月末に6人の参加で二世懇談会を開催、11月に静岡から講師を呼んで2回目を計画している。親の会の規約改正など準備を進めていて、来年には結成したい(三重)」など、各県で前進している様子が語られました。
一世の役員さんや支援者も討論に加わり、「自治体との折衝に向けた要求とりまとめが大事だ」「被爆者運動の継承のためには、一世の若手と二・三世、支援者が協力する体制が未来形ではないか」「学校での集団的な語り部活動が重要になっている」「二世が語る場合はDVDやパネル、原爆絵画の利用など工夫が必要だ。語りを正確にするために養成講座を開いて欲しい」など要望も出されていました。
東海北陸ブロックでは役員さんの配慮があってブロック内の協力体制が築かれつつあり、励ましあいながら大きく前進した1年だったことを確認しました。来年石川での開催時には、更に一歩前進して集まろうと呼びかけました。(池田治夫)
11月5日〜6日清水市三保園ホテルで、東海北陸ブロック講習会が開催されました。参加者85人でした。
初日、「日本被団協の運動について」の木戸季市事務局長の講演は、豊富な資料を基に時々の話題と成果を盛り込み、被団協運動の歴史を話されました。「被爆者と介護問題について」の原玲子さんの講演は、相談所の役割と意義、援護施策の活用、介護保険の利用の仕方、認知症についてなど、具体的事例をあげながらこれから直面するであろう問題をヒバクシャの立場に立って語られ、すぐ役立つお話でした。「百歳まで生きて核兵器廃絶を見届けてほしい」「ベッドの上で体験を語ることも運動です」との被爆者への励ましの言葉に感動しました。
二日目、「被爆者と放射線、その被害状況−心と身体について」の聞間元医師の講演は、放射線量、外部・内部被ばく、残留放射線など具体例をあげ丁寧に説明。「心の被害」も原爆被害の一部と話されました。
最後に、各県の近況、被爆二世の現状と課題の報告で閉会。参加者が減少する中、被爆二世や70歳代前半の参加が目立ち、会を活性化していると思います。 (金本弘)
11月10日〜11日神戸市で近畿ブロック講習会を開催し、大阪、兵庫の42人が受講しました。
日本被団協の藤森俊希次長と原玲子中央相談所相談員、郷地秀夫東神戸診療所長を講師に、「自らを救い人類の危機を救う被爆者の決意と核兵器禁止条約」、「肥田舜太郎先生に学ぶ」、「被爆者相談と介護保険」の3テーマで学びました。
藤森さんは禁止条約採択に至る世界の流れをたどり、また採択の瞬間に立ち会った体験にも重ねて、被爆者が「ふたたび被爆者をつくるな」と訴え続けてきたことが条約に実ったことを力説。
郷地さんは「わが師」としての肥田先生が、戦中から一貫した「いちばん弱い立場の人の命を守る医師」であり、被爆者救護に奔走する中で「内部被ばく」を目撃して以来、その健康影響を追求した業績を紹介。
原さんは、50年にわたる医療や介護の現場にあって、終始、被爆者相談に関わるなかで被爆者から学んだと自己紹介。介護保険制度を利用するうえでの実際的なアドバイスも含め解説しました。
講演のあとや初日の夜に交流・懇親の場がもたれ、ヒバクシャ国際署名を自治体ぐるみの取り組みに広げた経験、「一人で語る」のでなく「聞き取る」などで被爆体験を継承する工夫、二世の会を立ち上げる努力、などを交流しあい、学びあいました。(副島圀義)
1982年ローマ法王に謁見する副島まちさん(中央)
2010年国連本部を訪れた千葉孝子さん
お母さん、核兵器禁止条約が国連で採択されたよ!! 7月7日母の遺影に叫びました。
母副島まちが被爆後再び広島を訪れたのは1955年の第1回原水爆禁止世界大会でした。原爆が投下された年の11月に京都に引き上げ、さらに芦屋に転居した私たちは、戦後の貧しさの中でもなんとか人並みに生活をしていました。それだけに、10年目の広島の街で母が目にしたもの−それは被爆者の10年間積もり積もった苦しみでした。
のうのうと生きてきたことを恥じた母は、帰ってきてすぐ原水協の方たちの協力を得て動き始めました。そして次の年、二度と被爆者をつくらせない固い決意をもって、核兵器禁止と援護法の制定を柱とした組織を立ち上げていきました。
援護法の方は多くの方たちの努力である程度の成果があがっていますが、核兵器禁止の方は、核を保有している大国がなかなか動こうとせず、あろうことか唯一の被爆国である日本の政府は、核抑止力論のもとアメリカの傘にすっぽり入って追随している始末…。
私たちも証言活動、署名行動を頑張るものの遅々として進展せず、生きている間に核兵器のない世界を見ることはもうムリ…と諦めかけていた時の朗報です。
お母さん、私、頑張ってて良かったよ。私の生きている間に見られるかも…。
ヒバクシャ国際署名青森県連絡会は、結成1周年記念講演と総会を、日本被団協の藤森俊希事務局次長を迎えて11月13日八戸会場に60人、14日青森会場(写真)に70人の参加で開催しました。
「核兵器禁止条約がめざす核兵器のない世界」と題した藤森さんのお話は、家族の被爆体験、被爆者運動の歴史とヒバクシャ国際署名の意義と広がりを、お住まいの長野県の取り組みを交えた話で、とても参考になりました。参加した国連会議の様子から、被爆者の声が世界に届いていることを実感しました。
総会では、県被爆者の会藤田和矩会長が日本政府の対応を厳しく批判。同会副会長の田中正司県連絡会共同代表は、署名を広げて日本が核廃絶の先頭に立つよう求めることを呼びかけました。
昨年11月に15団体でスタートした県連絡会は11月10日現在33団体3個人の加入となり、共同行動や各団体のイベントを通じて目標20万筆に対して8万2466筆の署名を集約しています。28自治体首長の賛同署名をさらに広げ、創意ある取り組みをしていくことを確認しました。 (辻村泰子)
長崎県民の会結成1周年の集いを11月4日、被災協地下講堂で開催し120人が参加しました。
長崎のうたごえ協議会の署名の歌「一人から一人へ」で始まり、川野浩一被爆連議長、本田魂遺族会会長、田中重光被災協会長がそれぞれ「日本政府が提出した国連決議案は恥ずかしい」「このままでは日本の信用をも落とす」「署名の力で日本政府に働きかけていこう」と話しました。また生協ララコープが11万2780筆の署名を朝長万左男共同代表に寄託したほか、団体や、恵みの丘原爆ホームなどからも届けられ、当日現在27万4182筆になりました。県民の会の目標50万人分の半分を超えました。
長崎大学RECNA副センター長の広瀬訓先生の講演、朝長共同代表の2年目に入る決意など、参加者はともに頑張っていこうとの思いを確認しました。(長崎県民の会)
【問】私は「要介護1」の介護認定を受けていますが、介護保険によるサービスはうけていません。身の周りの世話や外出介助は家族がやってくれており、家族の負担を考えるとなんとかしたいと思っています。家族介護手当の申請ができないでしょうか。
* * *
【答】家族介護手当が受給出来る要件として、精神上又は身体上の障害が身体障害者手帳の1級または2級程度の状態の方が家族による介護を受けている場合に受給出来る、となっています。
あなたの場合「要介護1」とのことですので、一般的にみてこの要件には該当しないと思われます。ただ、介護認定は生活実態を含めたあなたの状況を十分反映しているとはかぎりません。主治医に介護手当の診断書をもって行って「別表3」に該当するかどうか相談してみてください。あなたの身体的状況や生活実態から主治医が「該当する」と判断し診断書を作成してくださるかもしれません。申請書類の受け取りや提出などの窓口は最寄りの保健所です。
介護手当とは別に、デイサービスなど介護保険サービスを利用すると、家族の負担が軽減されると思います。入浴介助などは特に負担が大きいと思われます。デイサービスに行った日は家族が自分の時間を持つこともでき、介護を長く続けられることにつながります。
日本被団協は、シンボルマーク(1面題字の右)のバッジ2種類を頒布しています。
@つるバッジ
横幅25ミリ。透明ビニール袋に説明書(日本語英語両面刷り)とともに封入。赤、黄、青、紺、緑の5色で1個300円+送料。
A結成60周年記念バッジ
横幅30ミリ。七宝焼きで、赤、紺、セルリアンブルーの3色。透明プラスチックケースに入って1個500円+送料。
日本被団協事務局までお申し込みください。
日頃からの、皆さまからの大きなご支援に深く感謝申し上げます。
日本被団協は、国際的に「核兵器の反人間性」を明らかにし、すべての国民にがまんを強いる「戦争犠牲受忍論」に抗い、原爆被害をはじめ、すべての戦争被害者への国の償いを実現する道筋を切り開いています。
私たち被爆者の「ふたたび被爆者をつくるな」の心からの叫びが国際社会を動かし、ついに国連会議で、核兵器禁止条約が採択されました。
日本被団協の運動量はますます多くなり行動の重要さは増しています。運動を支えるため、より一層の募金の協力をお願いいたします。
振込先‖[郵便振替]00100−9−22913 日本原水爆被害者団体協議会