被団協新聞

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「被団協」新聞2013年 1月号(408号)

2013年1月号 主な内容
1面 ノーモア・ヒバクシャ 原爆被害への国の償いを
2面 年頭所感
中央相談所講習会 四国ブロック、愛媛で開催
アメリカの臨界前核実験に抗議
乖離なくせと被爆者が訴え 第18回認定制度在り方検討会
3面 被爆68年生き抜いて
非核水夫の海上通信101
4-5面 運動ひき継ぐ大切さ実感 二世・三世が長崎で交流会
7面 平和願い贈った折鶴3万羽
体験継承と二世対策強化を
長野駅で原爆展
4-5面 相談のまど
こんなこと、聞いてもいいですか…? 受け継ぐための質問部屋

ノーモア・ヒバクシャ 原爆被害への国の償いを

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志たかく

 冬晴れの空に連凧が2連揚がりました。
 57年前の1956年、日本原水爆被害者団体協議会を結成したときの大会宣言「世界への挨拶」は、「自らを救うとともに人類の危機を救う」と世界に宣言しました。
「ノーモア・ヒバクシャ」「原爆被害への国の償いを」の2つのフレーズは「世界への挨拶」の内容を表現しています。
 年々、被爆者の高齢化がすすむのは自然現象で避けられないことです。それでも、核兵器も戦争もない平和な世界をと強く願い、訴えつづける高い志は衰えません。

(凧は、毎年、成人の日に長野県岡谷市の諏訪湖畔で連凧を揚げている「おかや憲法九条を守る会」の方たちの協力で制作。凧揚げは、八ヶ岳連峰を背景にした茅野市内の農場で)

年頭所感

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ネバー・ギブアップで生き抜こう 日本被団協代表委員 坪井直

 今年は中国哲学の「易十二支」の巳(蛇)年と言われ、金気・長命・無敵の深い因縁があるという。で、皆さんの昨年はいかがでしたか。悔いのない歓喜に満ちた一年でしたか。私にとっては、貧者・弱者への手厚い救いはおろか、生活への難渋を強いられた一年でした。核被害者にとって、難病とのたたかい、不安の底知れなさに苦しみ、行政の施策に明るい兆しは見えない。文化の成熟した国の政治の体様がポピュリズム(大衆迎合・衆愚政治)で日本が救えるのだろうか。耐えるに限界だ。
 ヒト(人種に無関係)の生命は絶対だ。戦争は生命の遣り取りで、もっての外。核戦争に至っては絶対許されない。テロも容赦ない。庶民のなかの殺人など重罪にすべきだ。生命への殺傷はその数量のみではない。
 核の放射線汚染が地球を覆うという恐怖を黙視できない。が、一方、iPS細胞(人工多能性幹細胞)が難病の克服に役立つなど生命維持貢献が期待される朗報に感泣する。
 いかなる事態でもネバー・ギブアップで生き抜こう。

中央相談所講習会 四国ブロック、愛媛で開催

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講習会 愛媛

 中央相談所四国ブロック講習会が11月29日〜30日、愛媛県松山市のホテル八千代で、愛媛、高知、香川の3県から26人が参加して開かれました。被爆者だけでなく、支援者の参加もありました。
 初日は、松浦秀人理事・日本被団協代表理事が「被爆者として原発事故をどう訴えるべきか」、伊藤直子理事が「原爆症認定問題と被爆者の相談活動」をテーマに、それぞれ報告しました。
 2日目は「これからの被爆者運動」をテーマに日本被団協の田中熙巳事務局長が報告。休憩後、2日間の各報告への質疑と、参加各県の活動報告など、参加者がそれぞれ発言し、交流しました。


アメリカの臨界前核実験に抗議

 アメリカが12月5日、ネバダ核実験場で臨界前核実験を行ないました。オバマ政権下で4回目、1997年7月以来27回目と報道されています。
 日本被団協は12月7日「核兵器の開発、保全につながるいかなる核実験も行なうな、核兵器廃絶に取り組めと要請を重ねてきたことを無視する実験の強行に厳しく抗議する」として、オバマ大統領あての抗議文を在日米大使館に送りました。

乖離なくせと被爆者が訴え 第18回認定制度在り方検討会

 第18回原爆症認定制度在り方検討会が12月18日厚労省会議室で開かれました。田中煕巳委員(日本被団協事務局長)は、行政認定と司法判断の乖離がおきないよう認定制度を抜本的に改正する議論を重ねて求めました。
 会議に先立って東友会の呼びかけで厚労省前に集まった首都圏被団協の人たちが、被爆の実態にそって認定制度を抜本改正せよと訴えました。

被爆68年生き抜いて

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 田中熙巳事務局長

田中熙巳事務局長に聞く
 編集部 新年で広島、長崎の原爆被害から68年になります。
 田中熙巳事務局長 全国の被爆者とご家族のみなさん、被爆者運動を支えてくださっているみなさん、本年もよろしくお願いします。
 68年前、広島、長崎で21万人が犠牲になり、その後も原爆症に苦しみながら多くの方が亡くなられました。いつもその方たちの無念さが心をよぎります。私は、長崎の爆心地から3・2キロの自宅で被爆しました。13歳でした。一挙に身内を5人亡くしました。私は怪我もなく比較的健康で、若い時から被爆者運動に携わり2000年に日本被団協事務局長に推され、重責を果たすため精いっぱいとりくんできていつの間にか68年目を迎えたというのが実感です。

ふたたび被爆者をつくるな
 ―― 被爆70年まであと2年です。今、力を入れるべき課題などお話しください。
 田中 被爆者が何をやってきたか、何をやらなければならないか、節目の年を前にきちんと議論しておく必要があると思っています。原爆被害への国の償いを求める運動はめざす目標と比べるとまだまだです。被爆者自身の高齢化、国民の8割が戦後生まれというなかで、原爆被害への理解がすすみにくいことをあらためて知らされました。みなさんに理解して貰える分かりやすい訴えをもっと工夫する努力が必要です。精一杯知恵を出し合いましょう
 憲法「改正」、軍事大国化の主張が繰り返し政治に登場してきます。
 あの戦争の惨禍を体験した日本国民は不戦の決意をしたはずです。「ふたたび被爆者をつくるな」の思いを多くの国民と共有することなど、被爆70年を前に被爆者の役割はますます重要になっていると緊張感をもって新年を迎えました。全国のみなさんとともに力をつくしていきましょう。

きっぱりと原発ゼロを目指そう
 ―― 一昨年の福島原発事故で、いまだに16万人の方が福島県内外で避難生活を強いられています。
 田中 私たちは「ふたたび被爆者をつくるな」と訴えてきました。同じ放射線被害者がつくられたことは誠に残念です。原発とは共存できないことがはっきりしました。原発の使用済み核燃料を処理する技術も確立できないまま、たまる一方で遠い将来の世代にまで危険と困難を押しつけることは許されません。再生可能エネルギーへの転換を急ぐ必要があります。処理方法はそのうち解決されるだろうという人もいますが、無責任な話ですし、事故を起こさないという保障も全くありません。きっぱりと原発ゼロを目指すべきです。

認定制度抜本改正へ全力を
 ―― 原爆症認定制度在り方検討会は、大詰めを迎えています。
 田中 検討会の日程は1、2月まできまっています。認定制度検討会は原爆症認定集団訴訟で、裁判所は連続して、原告の訴えを認めた判決を出し、行政認定と司法判断に大きな乖離がうまれたため、それを埋めるために始まったものです。
 6月の第13回検討会での「中間とりまとめ」は「おおむね認識の共有が図られている意見」として、(1)被爆者に対する援護は、一般の社会福祉とは異なる理由がある、(2)被爆者が高齢化していることも考慮し、裁判での長期の争いを避ける制度を作る、(3)司法判断と行政認定の乖離を認め、これをどのように埋めていくか考えて行く必要がある、(4)科学的知見は重要である一方、科学には不確実な部分もある-としています。
 共有している認識にもとづけば、現行制度を抜本改正する以外にないはずです。ところが残念ながら委員の多数は、抜本改正より現状の認定制度を残して手直しをどうするかに関心があるようにみえます。
 行政認定と司法判断に大きく乖離が生まれる最大の原因は、行政が放射性降下物の残留放射線による被害を一切認めていないことです。
 この乖離を解消するためには、日本被団協が提起しているように現行法の第10条、11条できめている原爆症の認定制度をやめる以外にありません。
 検討会の議論が手当をどうするかに傾きがちですが、他委員の提起も注意深く検討しながら、認定制度の抜本改正にむけて被団協の提言を主張していきたいと思います。

運動ひき継ぐ大切さ実感 二世・三世が長崎で交流会

「学習会これからも必要」の声

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長崎で行われた学習・交流会

 11月17、18日、長崎市の長崎被災協講堂で「被爆者運動継承の学習・交流会」が開かれました。被爆二世の会の、福岡、佐賀、長崎・長崎、長崎・諫早、鹿児島、山口、島根、兵庫各県のほか熊本県二世・三世の会結成準備会事務局の9団体が呼びかけたものです。
 初日は午後1時半〜5時半まで61人が参加。谷口稜曄日本被団協代表委員が歓迎挨拶し、山口仙二同顧問の被爆者として生きてきた人生を写真や証言などでつづったビデオが上映され、山口さんの被爆体験と、運動を初めて知った二世は、衝撃を受けていました。
 つづいて、木戸季市日本被団協事務局次長、山田拓民長崎被災協事務局長、中山高光熊本県被団協事務局長が講演しました(3人の発言要旨は別項)。気迫のこもった話しに、聴衆は圧倒されました。
 二世は、被爆者の並々ならぬ思いと、被爆者運動の一端にふれ、「すごい運動をして来られた」「自分は何も知らなかった。大変良い学習となった」と話していました。
 2日目は午前9時から正午まで同会場で40人が参加。長崎被災協の廣瀬方人理事、長崎被災協・被爆二世の会・長崎の柿田富美枝事務局長、鹿児島県被爆二世の会の大山正一会長が被爆体験の継承について発言、「私たちは被爆者の思い、被爆者運動をどのように継承していくか」に沿って会場から次々と発言があり、交流しました。
 「親は語りたくても子どもへの放射線の影響を考え、意識的に語れない部分がある」との発言に共感が寄せられ、「親からもっと聞いておきたかった」との声や、「原発に反対している人たちにも核兵器廃絶を呼びかけ、つながっていこう」との提唱もありました。
 「被爆者にも良い学習の場となった」「このような学習会がこれからも必要だ」との感想が多く寄せられました。
 会には、日本被団協二世委員会の中村雄子委員長も出席しました。

なぜいま法改正を求めるのか

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長崎被災協事務局長
山田拓民さん

 1945年9月6日、マンハッタン計画(原爆製造計画)副責任者で米軍准将ファーレルは、東京で「広島・長崎では死ぬべきものは死んでしまい、9月上旬において、原爆放射能のため苦しんでいるものは皆無だ」との声明を発表しました。呼応するように日本政府は、10月、広島、長崎で戦時災害保護法の適用を打ち切り、救護所を閉鎖し、得体のしれない病気や怪我に苦しむ被爆者を放置しました。
 54年3月1日、南太平洋ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験で第五福竜丸など日本漁船が被爆、通信士久保山愛吉さんが放射線障害で亡くなったのを契機に広がった原水爆反対のうねりの中で、55年8月、広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれました。これに励まされた被爆者は、翌年8月、第2回世界大会が開かれた長崎で、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)を結成し、原水爆実験の禁止、原水爆被害者援護法制定を掲げました。その翌年3月、政府は「原爆医療法」を制定しました。
 原爆医療法は、被爆地域の指定もいい加減で、最大の犠牲者である原爆死没者への対応を欠き、爆風、熱線による被害を無視する不十分なものでしたが、市民の戦争被害への国の責任を具体化した法律としては画期的でした。
 66年、日本被団協は原爆被害の特質を明らかにし、国家補償の「被爆者援護法」の内容を示した通称「つるパンフ」を発行、被爆者の要求と運動は、さらに力強い一歩を踏み出しました。78年3月、最高裁は「原爆医療法には、国家補償的配慮が制度の根底にあることは否定できない」という判決を出しました。
 政府は驚き厚生省は、元最高裁裁判官や元東大総長など7人の委員で、原爆被爆者対策基本問題懇談会(基本懇)を設置し、80年12月、「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって、何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による『一般の犠牲』として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」という「意見」を発表しました。
 日本被団協は、直ちに声明を出し、戦争被害受忍論は戦争肯定論と指摘。原爆投下の国際法違反を告発し、国の戦争責任を明らかにする「国民法廷運動」にとりくみ、84年には「原爆被害者の基本要求」を発表し全国で壮大な運動を展開しました。94年「原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律」が制定されましたが、「国家補償」を定めた法律ではないため、被爆70周年の2015年をめざし「原爆被害への国の償い」を定める法改正に取り組んでいます。

国内外の戦争被害者と連帯して

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熊本県被団協事務局長
中山高光さん

 私は長崎造船所造機設計ビルで被爆しました。5日後、熊本に帰り、発熱、下痢を起こし初期症状で寝込みました。
 原水爆禁止運動には、第1回世界大会から参加し、日本被団協結成後、熊本の会を結成し、被爆者運動を続けています。
 原爆被害は、日本が戦争を始め、最後にアメリカが原爆を投下してつくられた、二つの責任が問われる人道主義違反の戦争被害です。ビキニ被災後の原水爆禁止運動によって原爆医療法がつくられましたが、政府は、一般戦争被害者に波及しないよう「放射線被害」だけに限定しています。
 2000年に、松谷英子さんが最高裁で勝訴して原爆症認定を勝ちとると、厚労省は翌年5月に原爆症認定にアメリカの「DS86」を採用し切り捨てを図ってきました。被団協は「原爆症認定集団訴訟」を10年近くたたかい、原告306人は、弁護団の素晴らしい活躍と支援者に支えられ、地裁で22勝、高裁で7勝をあげました。
 熊本1次訴訟第1陣は07年7月30日に勝訴、8月6日に広島を訪れた安倍首相が遺憾の意を表明し、「制度見直し」を約束しました。翌年3月に「新しい審査の方針」が決定され、被爆距離を3・5キロ、入市100時間以内2キロ範囲まで広げ、認定疾病も広げられました。第2陣判決(09年8月3日)で10人全員勝訴。その年8月6日、広島で被団協・原告側と会った麻生首相が、訴訟終結を決断、被団協と「確認書」を交わし、原爆症認定集団訴訟は終結に向かいました。
 認定基準の改善で原爆症認定申請が急増し、08年8530件、09年3964件、10年2461件と申請が増えると、国は大量却下し10年に5000件も却下しました。
 日本被団協は国との確認を尊重し集団訴訟は起こしていませんが、却下された被爆者が弁護士を訪ね提訴、東京、名古屋、大阪、広島、熊本でたたかっています。12年3月最初の判決が大阪地裁で出され、原告勝訴、国は控訴しませんでした。
 原爆被害は、日本が中国侵略、真珠湾攻撃を行なった結果であり、アジアでは今も原爆投下歓迎です。米国で過去の侵略戦争による加害を詫び、被爆の実相を話すと、逆にお詫びを受けたことがあります。全ての戦争被害への国家補償を、被爆者と日本、アジアの戦争被害者が連帯してたたかうことが求められているのではないでしょうか。国は「二世への影響はない」と言いますが、私の子どもにも白血球増多症や甲状腺異常など影響は見られます。二世三世の皆さんと力を合わせて頑張りたいと思います。

わたしは三度被爆者になった

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日本被団協事務局次長
木戸季市さん

 幼児被爆の私は三度被爆者になりました。一度目は1945年8月9日です。二度目は52年、被爆者と知った時。三度目は91年以降被爆者運動の中で被爆者とは何かを学んでいる今です。
 80年代、岐阜は被爆者組織がない唯一の県でした。90年夏、日本被団協と岐阜が共同で開いた相談会に100人を超す被爆者が集いました。日本被団協の援助を得て、91年に岐阜県原爆被爆者の会を再建。当初力を注いだのは学習活動です。講師として多くのみなさんに来ていただきました。東海北陸ブロック会議で、いまは故人となられた先輩から被爆者の生き方と被爆者の基本要求の教えを受けました。
 2006年に日本被団協代表理事、08年事務局次長に就き、日本被団協の歴史を学び、日々の活動に追われる毎日が始まりました。
 日本被団協を結成した先輩のみなさんは「原爆が人間に何をもたらしたか」自らの体験を語り、「ふたたび被爆者をつくるな」「核戦争起こすな、核兵器なくせ」「被爆者援護法の制定を」と訴えたたかってきました。
 運動の素晴らしさを三つだけ紹介します。
 第一は60年代に国民運動のあらゆる分野で分裂の楔が撃ち込まれた時、分裂せず統一と団結を守ったこと。第二は被爆者・日本被団協に共感する人びとの運動が、確実に世界を核廃絶の方向に変えてきたこと。第三は原爆被害に「国の償い」を実現させる運動を結成以来続けていることです。
 被爆者の平均年齢が80になろうとしている今日、被爆者は「これまでのようには動けない」が、「旗は降ろせない」と被爆70年の2015年までに現行法を改正させる運動を展開しています。日本被団協の運動は、被爆者の要求を実現させる運動であると同時に、なによりも人類をその破滅から救う運動です。
 被爆者は証言活動を国内外で行なってきました。若者から「私たちにできることはなんですか」と尋ねられると被団協結成時から運動してこられた長野の故前座良明さんの言葉「今日の聞き手は明日の語り手」を紹介しています。「今日帰ったら家族に話します」と言ってくれた少女、「人生を大きく変える出来事でした。私たちの世代、次の世代へと平和な世の中をつくるように行動します」と手紙をくれた女性、多くの方から励ましと力をもらっています。
 昨年の被爆二世交流会で「被爆二世は親である被爆者を身近に見てその苦しみ、悲しみを自分のものとして育ってきました」との発言を聞き、嬉しくて身震いしました。
 核兵器のない世界へ、被爆者と二・三世、非被爆者のみなさんが手を取り合っていくことを願ってやみません。

平和願い贈った折鶴3万羽

30年間続く千羽鶴の交流

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秋山小・山里小両校の教師と児童の感想などを、宮崎県原発被害者の会がまとめた「平和のあかり」

 宮崎県串間市立秋山小学校では、毎年児童会の活動として、長崎市立山里小学校に千羽鶴を贈っています。1982年に始まった活動は昨年夏30年を迎え、贈った折り鶴は3万羽となりました。
 千羽鶴は宮崎県原爆被害者の会串間支部(郡司正明支部長)が秋山小から預かり、山里小まで届けています。串間支部では秋山小の児童に被爆証言をするなど、平和学習にも協力しています。
 秋山小は現在全校児童17人。小さな折り紙で鶴を折るのは1年生には特に難しく、家庭の協力も得て折り上げたといいます。山里小は、原爆投下によって1300人の児童が亡くなっており、贈られた千羽鶴は、校内に建つ「あの子らの碑」に捧げられています。宮崎県原爆被害者の会では、30年を記念して両校の教師と児童の文章をまとめた冊子を発行しました。平和を願う熱い思いが込められています。


体験継承と二世対策強化を

熊本で二世・三世の会結成

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 「熊本県被爆二世・三世の会」の結成総会が、11月25日に熊本市現代美術館で開かれました。二世・三世が10人余と、被爆者40人余が参加しました。
 会長に青木栄さんを選出。被爆体験の聞き取り・継承とともに、二世・三世の健康管理など国の二世対策の強化をめざして活動を行なうことを決めました。会報を年4回発行し、現在30人余の会員を拡大していく計画です。


長野駅で原爆展

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 長野県原爆被害者の会と県・市原水協は10月29〜30日、JR長野駅の改札口前通路で「原爆と人間」展を行ないました。 日本被団協の新パネルをイーゼルを使って展示(写真)し、足を止めて見入る人は800人を超えました。観光客や親子連れ、下校途中の高校生など、駅を利用する幅広い人々で、「核兵器も原発もいらない、の声をもっとあげるべき」「展示を毎月やってほしい」などの感想が寄せられました。


相談のまど
被爆二世の施策について

 【問】現在国が行なっている被爆二世に対する施策について教えてください。

* * *

 【答】現在、国は被爆二世対策として、「被爆二世健康診断調査事業実施要綱」に基づいて、年1回の健康診断を行なっています。
 これは国が予算措置として実施しているもので、原子爆弾被爆者に対する援護に関する法律に定められているものではありません。また「調査事業」として実施しているところからしても、必ずしも二世を援護しようとするものではありません。
 対象者は、健康診断を希望する二世です。内容は、被爆者と同じ一般検査、精密検査です。二世が高齢になってきていることもあり、がん検診を含む検査を望む声も強くなっています。
 地方自治体として、東京都、大阪府の吹田市、摂津市が条例によって、また神奈川県は条例はありませんが、健康診断や医療費を負担するなど、独自の対策をとっています。二世が親の健康管理手当の対象になっている病気になった時は、医療費の自己負担分が支給されます。 
 東京都、静岡県では、がん検診も実施されています。
 東京都と神奈川県の場合は、親が他の都道府県に住んでいても、二世が東京都、神奈川県に住んでいれば受けられます。そのためには、東京都は「健康診断受診票」、神奈川県は「被爆者のこども健康診断受診証」の交付を受けることが必要です。

こんなこと、聞いてもいいですか…? 受け継ぐための質問部屋

証言後の心の痛みについて
 つらい被爆体験を話してくれた方が、その後、悲しくなったり気分が落ち込んだりしないか、いつも心配になります。聞き手の私たちにできることはありませんか。(東京・主婦・40)

読者からの回答
◆手の温かさ忘れない 北海道・広島被爆・83
 直爆、救護の体験を話しております。
 以前、体験を語ったあと、会場から拍手があり、違和感を覚えました。
 その後、私は冒頭に、「私の話は拍手されるようなものではありません。拍手はやめて、その代わりではありませんが、理由も知らずに無残な形で亡くなった方々に、30秒の黙祷を捧げてくださるようにお願いします」と話してから始めるようにしております。
 話し終わって、静かな会場を去る私に、「そんなに自分を責めないで」と、私の手を強く握ってくれた人の手の温かさが忘れられません。

◆無心で聞いてくれれば 熊本・長崎被爆・71
 私は、新聞投稿で広範囲の人へ、講演で地域の人へ、手記で家族や教育機関の人へ、折り紙で園児や小学生へ伝えています。これらを通じて継承されている現実を知り、感謝しています。
 子どもたちとは生きものの折り紙をして、そこからいじめ、命、平和の話へと発展させると、目を輝かせて聞いてくれます。一番多い質問は「命」、次が「原爆」で驚いています。今までで一番印象に残った子どもの言葉は「自分の心の平和が難しい」でした。
 「聞いてくれてありがとう」の心で話していますので、無心で目を輝かせているだけでいいのですよ。

お答え待っています
 幼かったために当時の記憶がほとんど残っていないと言って、証言するのを遠慮する方がおられます。そうした方のお話もうかがいたいと思うのですが、どんなことであれば話していただけるでしょうか。(東京・会社員・35)

 被爆体験の継承に関する質問と回答を「質問部屋」係までお寄せください。次回は3月号に掲載する予定です。