被団協新聞

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「被団協」新聞2010年 2月号(373号)

2010年2月号 主な内容
1面 “核なき世界へ”一日も早く NPT再検討会議へ
「非核三原則」の法制化を
厚生労働大臣との定期協議
募金にご協力ください
2面 「認定審査の処理計画示したい」
3号被爆者の手帳交付基準を緩和
非核水夫の海上通信66
3面 非核三原則法制化
わが街の被爆者の会―香川県被団協
第14回被爆者問題研究会
4面 確定申告
被爆者手帳取得の証人さがし
声のひろば

“核なき世界へ”一日も早く NPT再検討会議へ

  日本被団協から56人の代表団

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2005年NPT再検討会議代表団、ニューヨーク平和パレード

 今年5月、ニューヨークの国連本部で開かれる「核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議」に、核兵器廃絶への大きな期待が高まっています。日本被団協も代表団を派遣します。

 国連ロビーで原爆展も
 日本被団協はこの会議に56人の大代表団を派遣して「ふたたび被爆者をつくるな」「核兵器をなくせ」と訴え、国連本部ロビーのメインギャラリーで大型パネル50枚の原爆展を開催し、会議の成功に全力をあげます。
 オバマ米大統領が昨年4月、プラハで「米国には核兵器を使用したことのある唯一の核保有国として、核兵器のない世界をめざして行動する道義的責任がある」と演説、核状況に大きな転換の兆しが生まれました。それから1年。5核保有国が「自国の核兵器の完全廃絶」を「明確に約束」した2000年のNPT再検討会議から10年、今年の会議で新たな前進が期待されているのです。
 被団協の活躍
 日本被団協はこれまで何度も海外に代表団を送って、被爆の実相を語り伝え、核兵器廃絶を訴えてきました。1978年の第1回国連軍縮特別総会(SSD1)、82年のSSD2、88年のSSD3には30〜40人規模の代表団を送り、SSD2では山口仙二代表委員が国連総会で演説し、「ノーモア・ヒロシマ・ナガサキ」「ノーモア・ウォー」と訴えました。
 90年代には世界法廷運動、ハーグアピール99、2000年のミレニアムフォーラムなど。05年のNPT再検討会議には36人の代表団を派遣、国連本部で原爆展を開催し大きな反響を呼びました。
 昨年5月、ノーベル平和賞受賞者17人が発表した「ヒロシマ・ナガサキ宣言」は被爆者の功績をこうたたえています。
 「人類が3度目の核兵器による悪夢を避けることができたのは、第二のヒロシマやナガサキを回避するために世界へ呼びかけ続けてきた被爆者たちの強い決意が役立ってきたからです」
 被爆者の訴えが、世界の流れを変える深層海流となっているのです。
 NPTとは
 「核兵器の不拡散に関する条約」の略称。締約国は09年4月現在189カ国。アメリカ、ソ連、イギリス、フランス、中国を「核兵器国」とし、その他の国を「非核兵器国」と区別したうえで、核軍縮、核不拡散、核技術の平和利用を3大柱にしている。核保有五大国が加盟している核兵器に関する唯一の国際条約。〈被団協発行のパンフ「核兵器はなくせる なくすのはわたしたち」(頒価150円)に詳述〉

「非核三原則」の法制化を

 

 昨年は私たち被爆者にとって大きな成果を獲得した年でした。6年余の原爆症認定集団訴訟の終結について、8月6日に麻生前首相と日本被団協との間に「確認書」が交わされ、12月の国会では、原告の問題解決のための「基金法」が全会一致で成立しました。
 4月にはプラハでオバマ米大統領が演説で「核兵のない世界」をめざすことを表明しました。また鳩山首相は9月の国連安保理首脳会合で「唯一の被爆国としての道義的責任」に言及し、「非核三原則」の堅持を誓いました。
 世界の核兵器廃絶への流れは大きく動いてきています。
 そして被爆65年目を迎えた今年、5月には「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)再検討会議」が開かれます。日本被団協は国連本部での「原爆展」の展示と60人の代表団の派遣のための活動を進めています。
 昨年の成果を具体的に実らすのは今年の運動にかかっています。
 『日本被団協50年史』にさらに新しい歴史を書き続けていきましょう。高齢化した私たちの残された力を結集して。

厚生労働大臣との定期協議

  「確認書」に基づき第1回開催

 日本被団協および原爆症認定集団訴訟原告団、同弁護団と厚生労働大臣との第1回定期協議が、1月14日午後2時30分から約1時間、厚生労働省省議室で開かれました。昨年8月6日に交わした、集団訴訟終結に関する「確認書」で約束されていたものです。
 厚労省側から長妻昭大臣ほか副大臣、政務官、健康局長など6人が出席し、被爆者側から統一交渉団として被団協5人、原告団4人、弁護団6人が出席しました。被爆者を中心とする傍聴者約100人とマスコミにも公開されました。
 協議は、事前に提示していた「原爆症認定に関する統一要求書」(2面に抜粋を掲載)の中身を交渉団側が説明し、大臣が答える形で行なわれました。(2面に詳報

募金にご協力ください

 

 NPT再検討会議への日本被団協代表団は、原爆展の場での証言のほか、各国の国連代表部に被爆の実相を訴え、NPT再検討会議の成功のための尽力を要請します。NGOの大集会や平和パレードに参加し、学校や集会などでの証言活動も行ないます。
 原爆展は、国連本部ロビーのメインギャラリーで50枚の大型パネルを展示します。
 そこで、国連での原爆展と被爆者行動のための募金にご協力いただきたく、本号の付録として、募金用の振込用紙を同封しています。どうかよろしくお願いいたします。

「認定審査の処理計画示したい」

 長妻厚生労働大臣が回答

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第1回定期協議の席に着く長妻昭厚生労働大臣(写真左前列)と統一交渉団(写真右)

 第1回定期協議(1面参照)の長妻厚労大臣の回答は以下の通りです。
 定期協議は次回10月をめどに開きたい。情報開示はするべき。対象や時期、項目を絞るなどして検討したい。審査基準は法律改正なしにこれ以上の緩和は難しい。約7800件の審査待ちの問題は、期間を提示できるよう審査処理計画を早期に示したい。広島長崎での分科会の開催は、効率化に直結するかという問題があるので現状のまま迅速化したい。医療分科会委員は、審査の方針に基づいて審査している、委員の交代ではなく法律改正の議論が先決である。申請者への追加資料請求は、行政が直接医師にお願いする手法を考える。認定制度の改定は、法律改正で取り組むのが本筋と考える。作業部会ではなく、法律を変える検討をすすめていく。山井政務官が窓口になる。
 以上の回答を受け、さらに意見交換しました。交渉団から、具体的事例をあげて現在の認定基準の問題点を指摘し、「白内障と心筋梗塞は保留が多く、せっかく作った制度が機能していない」「命との引き換えだということを認識してほしい、迅速な審査は緊急に必要だ」「大臣は法改正に軸足を置きすぎている。現行制度の中でできることをまずやってほしい」と要求しました。

3号被爆者の手帳交付基準を緩和

 広島長崎 4県市

 救護(3号)被爆者への手帳交付について、広島県、広島市、長崎県、長崎市の4者は、昨年11月27日に新たな基準となる「被爆者援護法第1条第3項に係る審査指針」と「運用のガイドライン」を確定し、運用を開始しました。
 「救護(3号)被爆者裁判」が、昨年3月25日広島地裁で勝訴し、4月に広島市が控訴断念、原告への手帳交付に至りました。これをうけ、広島市を中心に4者で「3号手帳交付基準」の見直しを進めていたものです。
 「旧基準」では、1日に10人以上の被爆者に直接接触して救護・看護したことが要件で、「背負われた子」は救護者と一体とみなされ手帳の交付対象でしたが、歩いていた子は、国民学校4年生以下は救護能力なしとして却下されていました。
 「新基準」では、(1)15人以上の被爆して負傷した者が収容された施設など、また病室などの閉鎖された空間であれば5人以上が収容されたところに、2日(午前も午後もいた場合は1日)以上とどまった者、(2)(1)に該当しない場合は被爆して負傷した者と1日当たり5人以上の接触が認められる者、を交付対象とし、(3)(1)(2)に該当しない場合は諸状況を総合的に勘案して判断する、となっています。行政が救護所と指定した収容所以外の場所や自宅が救護所になった場合も、交付対象として拡大されました。
 4者が「3号手帳交付基準」を改めたことは厚生労働省にも伝えられており、他の都道府県へも周知して欲しいと要望しているとのことです。他の都道府県においても「3号手帳交付基準」が改められることを願っています。(広島・3号被爆者裁判支援の会)

非核三原則法制化

 地方議会の意見書採択広がる

 非核三原則の法制化を求める地方議会の意見書採択が広がっています。
北海道と千葉、三重の取り組みを紹介します。
 〈北海道〉北海道被爆者協会会長名で、要請文を被団協作成の「意見書例文」を添え各議会議長あてに郵送しました。「採択した場合には写しを」と、切手を貼った返信用封筒も同封。届いた頃に議会事務局に電話し「遠方で訪問できないが、ぜひ協力を」とお願いしました。その際、「陳情」「要請」「お願い」等、当該議会に上程しやすいやり方を相談し、必要に応じて要請文を書き直して再送付しました。
 採択の通知には礼状を送り、否決や預かりなどの場合は「ぜひ再上程していただきたい」旨の書状を送りました。
 〈千葉〉県議会は、まず被爆2世の県議に相談、「陳情」で議会事務局に要請文を提出後、全会派に要請の結果、全会一致で採択されました。市議会等へは、地元の被爆者の会の役員が議会事務局を訪問しています。
 〈三重〉三重県原爆被災者の会の支部長10人が、行脚により担当区の議会を直接訪問、全自治体の議会に要請しました。
 1月号掲載以降12月18日〜1月28日までの採択議会報告分は次のとおりです。北海道=北斗市 赤平市 歌志内市 士別市 木古内町 余市町 岩内町 蘭越町 沼田町黒松内町 松前町 古平町 積丹町 ニセコ町 江差町 寿都町 仁木町別海町 猿払村 泊村 東京=武蔵村山市 稲城市 千葉=千葉県議会 勝浦市 松戸市 千葉市館山市 鎌ヶ谷市 三重=津市 四日市市 伊賀市 川越町 朝日町 紀北町 石川=かほく市 津幡町 兵庫=相生市

わが街の被爆者の会―香川県被団協

 平和願い灯ろう流し

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 高松市内を流れる新川の河川敷で、昨年9月13日夜に灯ろう流しが行なわれました(写真=NHKニュースより)。これは、平和祈願灯ろう流し実行委員会の主催で、毎年夏に行なっています。実行委員長を香川県原爆被害者の会会長が務めており、昨年で20回目を迎えました。
 原爆死没者の名前や平和へのメッセージが書かれた灯ろうに、大窪寺(八十八カ所結願寺・さぬき市)に1988年から灯されている「平和の火」を運んで点火し、川に流します。多くの市民とともに平和を願うこの行事を大事にしています。



第14回被爆者問題研究会

 『被団協史』でシンポ

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 第14回被爆者問題研究会が昨年12月19日、東京の日本大学歯学部講堂で開かれました。日本被団協と日本科学者会議の共催です。第一部は「核兵器廃絶への道」をテーマに、第二部は「日本被団協50年史刊行記念シンポジウム」でした。
 第一部は、沢田昭二氏の「核兵器廃絶を巡る国内・国際情勢」で始まりました。沢田氏の核兵器廃絶を願う熱い思いが伝わるものでした。次いで鼎談「原爆症認定集団訴訟の成果と今後の課題」が、安斎育郎氏と宮原哲朗弁護士、田中煕巳被団協事務局長とで行なわれました。会場からも「原爆症を明らかにすることは並大抵のことではないが、それをやり遂げた。粗雑な総括はしてほしくない」「確認書、基金法による解決は真の解決につながるのか」など、活発な発言が続きました。
 シンポジウムでは4氏が発言しました。被団協代表委員藤平典氏の「『受忍論』とのたたかい」、気象学者増田善信氏の「支援者から見た被爆者運動」、日本原水協事務局長高草木博氏の「被団協の国際運動」、そして『自分史つうしんヒバクシャ』発行人栗原淑江氏の「被爆者運動から教えられたこと」です。
 被爆者運動に深くかかわり、そこで何を学び、また運動の発展に4氏がどのように貢献されたか真摯に、謙虚に語られました。参加者の多くが目に涙を浮かべて聞き入りました。4氏の発言が一日も早く多くの人に伝えられるよう、報告書の早急な刊行に努力したいと思います。

確定申告

 被爆者で、障害者控除または特別障害者控除の対象者は?

 【問】確定申告の時期が近づいています。
 被爆者であれば障害者の控除が受けられると聞いたのですが、どうすればよいでしょうか。

*  *  *
 【答】障害者控除は、被爆者健康手帳を持っていれば受けられる、というわけではありません。
 障害者控除が受けられるのは、被爆者では原爆症の認定を受けている場合です。原爆症認定被爆者は、特別障害者として40万円の控除が受けられます。確定申告の際に「原爆症認定書」を提示してください。
 このほか、被爆者ということではなく、身体障害者の場合や、介護保険法の要介護状態の場合には、障害者控除、特別障害者控除の対象になります。
 介護保険の要介護認定における「障害者」は、およそ要介護1以上です。また、「特別障害者」は要介護4以上が目安となっています。特別障害者控除は40万円、障害者控除は27万円です。
 これらに該当する方は、確定申告の際に市区町村が発行する「障害者控除対象者認定書」を提示してください。

被爆者手帳取得の証人さがし

 坂本 貞夫さん 大正15年10月生まれ、石川県出身。
坂本さんは、昭和19年12月鳥羽商船学校を卒業し飯野海運神戸支店(三上三郎支店長)に採用されました。20年7月から広島の宇品港で、勝邦丸(陸軍に徴用された輸送船で沈没し、引き上げられた)のエンジン修理に従事。事務方2人と船員7〜8人が一緒でした。
 8月6日朝、船室で着替え中に被爆。陸軍の慰安所(下柳町)に行っていた事務方2人を探すよう命じられ、その日から1週間、市内を歩き回りましたが見つかりませんでした。同僚の及川という名前を覚えています。
 連絡先(石川県原爆被害者友の会・西本さん)=金沢市額谷3‐123 Tel0762‐98‐2487

*  *  *
 東(あずま) 昇さん 昭和8年3月生まれ、長崎県出身。
 東さんは当時、長崎市の城山小学校の北500メートルのところに、父・和三郎さん(運送業)と母・良枝さんと3人で暮らしていました。
 8月9日、ひとり家で本を読んでいて被爆。全壊した家の下敷きになりましたが自力で抜け出し、数時間後に父母と会えました。親子3人、長与村本川内郷にあった伯母の家に、野宿しながら徒歩で避難。納屋を借りて住みました。傷が化膿して膿が止まらず、頭髪も半分ぐらい抜けました。半年ほどかかって回復した後、長与村の洗切山小学校に通いました。
 連絡先(本人)=大阪府箕面市石丸3‐23‐11 Tel072‐729‐0005
*  *  *
 M野 高義さん 大正5年9月生まれ、香川県出身。
 浜野さんは当時、逓信省高松電気通信工事局の線路工員でした。昭和19年4月30日福岡県の西部防衛通信施設部へ出向。筑紫山脈に司令部隊の防空壕を作るという極秘の作業に従事しました。7人の班で、班長は東原さんでした。
 20年8月6日の午前10時頃、班長から同じ班の後藤又一(当時42歳)横関緑(同31歳)両名の安否確認の命令を受け、軍用車に乗り込み広島へ。運転手と他班からの2人(徳島・愛媛出身)が一緒でした。夕方5時頃、中部防衛通信施設部工作隊があった段原の兵舎に到着。兵舎は半壊しており、白島の逓信病院へ行きましたが2人の安否は確認できず、翌日から市内を捜索しました。2人はみつからないまま、重症者を市内ところどころに張られたテントに運ぶ仕事に従事。逓信病院に寝泊まりしましたが4日目頃に体調が悪くなり、11日ごろ広島駅にとまっていた貨物列車に乗り込み丸亀まで帰りました。
 連絡先(近石美智子さん)=丸亀市土器町東7‐181‐1001 Tel0877‐24‐1825(携帯電話090‐7570‐4213)

声のひろば

クイズ応募はがきの「ひとこと」から
 ◆肥田舜太郎先生のあと、高橋健先生の「トシをとるということ」。「神隠し」の記事、実感として読ませていただきました。感謝。
(千葉・78歳・男)
 ◆新年号8面の「広島生変図」では、1981年8月号をはっきりと思い出しました。合掌。
(静岡・83歳・女)
 ◆本年からは被爆者が一致団結して後世に向けて頑張らなければ、とますます思いをあらたにしています。
(福岡・77歳・女)
 ◆主人が被爆者です。いつも拝読致しております。非核三原則には賛成です。ますますがんばってください。陰ながら応援しております。
(兵庫・79歳・女)
 ◆長崎の悲惨だったことを子ども、孫に話し、今も苦しんでいることを話して原爆の恐ろしさを教えております。核をなくそう。
(香川・83歳・男)
 ◆楽しみに、被団協新聞読ませていただいています。特にまちがいさがしは大好きです。
(長崎・66歳・女)