イラストレーターの黒田征太郎さん(70歳)が、きのこ雲を題材にしたイラストを発表するなど「ピカドン・プロジェクト」に2004年から取り組み、非核のメッセージを発信し続けています。
都立第五福竜丸展示館(東京・江東区)で開催中の作品展初日だった昨年11月21日、友人の女性アーティスト・ナターリアさん(旧ユーゴ出身)とともにその場でイラストを書き上げ、来館していた女子大生ら100人余りにハガキ大のカードを配りながら「あなた自身の平和への思いを書いて」と呼びかけました。
「今日の聞き手は明日の語り手」日本被団協創立時から被爆者運動に奔走し続け、昨年11月急逝した長野の前座良明さんはつねづねそう語っていました。さまざまな工夫で若い世代に平和のメッセージを手渡すことから、核兵器も戦争もない世界を志す大きな力が育ちます。
(黒田征太郎展は3月22日まで開催)
昨年は私たち被爆者にとって大きな成果を獲得した年でした。6年余の原爆症認定集団訴訟の終結について、8月6日に麻生前首相と日本被団協との間に「確認書」が交わされ、12月の国会では、原告の問題解決のための「基金法」が全会一致で成立しました。
4月にはプラハでオバマ米大統領が演説で「核兵のない世界」をめざすことを表明しました。また鳩山首相は9月の国連安保理首脳会合で「唯一の被爆国としての道義的責任」に言及し、「非核三原則」の堅持を誓いました。
世界の核兵器廃絶への流れは大きく動いてきています。
そして被爆65年目を迎えた今年、5月には「核兵器の不拡散に関する条約(NPT)再検討会議」が開かれます。日本被団協は国連本部での「原爆展」の展示と60人の代表団の派遣のための活動を進めています。
昨年の成果を具体的に実らすのは今年の運動にかかっています。
『日本被団協50年史』にさらに新しい歴史を書き続けていきましょう。高齢化した私たちの残された力を結集して。
長崎で開かれた九州ブロック講習会
九州ブロック相談事業講習会が11月27〜28日、長崎市内で開かれ、九州・沖縄各県から約320人が参加しました。
1日目の開会行事で、まず九州大学大学院の直野章子准教授が発表から25周年を迎えた「原爆被害者の基本要求」の意義について講演しました。つぎに日本被団協の伊藤直子さんが、集団訴訟の取り組みと「新しい審査の方針」のもとでの原爆症認定申請について説明しました。最後に日本被団協の田中熙巳事務局長が、集団訴訟の到達点と「ふたたび被爆者をつくるな」の要求実現をめざす日本被団協のこれからの運動について報告しました。
講習会では初めてだった直野さんの講演では、講師が思わず声を詰まらせ、参加者がもらい泣きする場面もあり、「感動した」との声が多数寄せられました。
2日目は3会場に分かれて分科会を行ないました。このうち第2分科会「被爆者の医療と健康問題」では、長崎原爆病院の朝長万佐男院長の講和をもとに質問や意見を出し合いました。被爆者の治療を長年続けてきた朝長さんのお話は「気さくな人柄で話がわかりやすい」と好評でした。
参加者からは「元気をもらった」「被爆者運動の歴史がよくわかった」「今後の運動の指針をもらった」などの声が寄せられています。
東京都原爆被害者団体協議会(東友会)は、東京都、広島市、長崎市などの後援をえて、今年も東京都庁で原爆展を開きます。
2月9日(火)〜13日(土)、毎日午前9時30分〜午後5時まで(初日は午後1時開始、最終日は午後1時で終了)。会場は、都庁第1本庁舎45階南展望室。期間中無休入場無料です。
問い合わせは、Tel03‐5842‐5655東友会まで。
日本被団協は、非核三原則の法制化を求め、地方議会に意見書採択を促す運動にとりくんでいます。12月18日現在、北海道=札幌市 知内町 東京=中野区 八王子市 三鷹市 埼玉=吉川市 千葉=旭市の各議会の採択が報告されています。
今号から、各県被団協からの報告をもとに、順次紹介していきます。
2009年12月1日、「原爆症認定集団訴訟の原告に係る問題の解決のための基金に対する補助に関する法律」(基金法)が衆議院本会議で可決、制定されました。
この法律は、同年8月6日に交わされた「確認書」に基づいて制定されたもので、主に一審敗訴原告(3人の高裁敗訴も含む)を救済する基金に関する法律です。
法律は4つの条項と2つの附則からなっており内容は極めて簡潔です。
(1)確認書に基づき、主に敗訴原告の問題解決のために法律をつくり、基金をもうける。
(2)政府は約3億円を支援事業実施法人の基金に補助する。
(3)実施法人は一般社団法人または一般財団法人とする。
(4)約3億円の取り扱いは実施法人において定める。
というものです。
目的
第1条は目的です。確認書に基づき、「原告に係る問題の解決のための基金に対する補助に関し必要な事項を定める」となっていますが、「原告に係る問題の解決」の原告は主に敗訴原告を指しています。
集団訴訟を早期に一括解決するために、一審判決にしたがうことが確認書で合意されました。一審勝訴原告は直ちに認定され、医療特別手当を申請時に遡って支給されますが、一方、敗訴原告は上訴を断念することになります。その補償的な意味も含めた救済金の支給という意味を持ちます。
対象となる原告
第2条では対象になる原告を、集団訴訟を継続した原告306人に限定するために、この法律でいう原爆症認定集団訴訟とは何かを定義しています。2003年4月17日から新しい審査の方針が決定された前日(08年3月17日)までに提訴されたものと定義し、3月17日以前に提訴を取り下げたものを除いて、306人になるように定めています。
支援事業実施法人
第3条は基金を用いて支援事業を行なえるのは一般社団法人または一般財団法人であること、ここでいう支援事業は主に敗訴原告の救済に関する補助であることを定めたものです。実施事業が明確で実施期間が限定される場合、事業を行なう一般法人を新たに設立するのは難しくないので、実施日までに新しい法人をたちあげることになるでしょう。
政府の補助金を基金に
第4条は基金について定めています。政府の補助金が基金に充てられます。その他政府以外から出えん(寄付)された金額を加えることができるとしていますが、これは寄付金を広く民間から募ることを指したものではありません。
附則その他で、この法律は2010年4月1日から実施され、必要経費は約3億円とされています。また、認定制度の在り方について検討を加え、その結果に基づいて必要な措置を講ずることが定められています。
訴訟終結時に基金は精算
すべての集団訴訟が終結し、敗訴原告への救済が終了したときに基金が精算され、支援事業は終了し、支援事業実施法人は解散することになります。
(日本被団協事務局長 田中熙巳)
本日「原爆症認定集団訴訟の原告に係る問題の解決のための基金に対する補助に関する法律」が、衆議院本会議において全会一致可決成立しました。
本法律は、今年8月6日、日本原水爆被害者団体協議会と麻生内閣総理大臣・自由民主党総裁との間で締結された、「原爆症認定集団訴訟の終結に関する基本方針に係る確認書」に基づくものであり、6年半以上にわたって争われた原爆症認定集団訴訟の終結に向けて、ようやく目途がつこうとしていることを喜びとするものです。これは、原爆症認定集団訴訟の相次ぐ勝利を勝ち取ってきた運動の成果であり、この間実現のためにご尽力いただいた関係者に心から感謝いたします。
しかし、「確認書」にある厚生労働大臣と私たちの定期協議は、未だ開かれていません。早急に開催をして、8000件とも言われている原爆症認定申請の滞留問題、原爆被害の実態に沿った原爆症認定制度への改善など、解決しなければならない諸課題の協議に入りたいと思います。
また、「訴訟解決は1審判決で」という合意に基づき、今後も7地裁で裁判がつづきます。これら裁判で原告の疾病が原爆症と認められるよう引き続き力を尽くします。
さらに、私たちは、原爆症認定集団訴訟運動の成果を、原告でない被爆者のものとするために、改善点の普及と活用をはかります。
被爆者が願って止まない核兵器の廃絶のためには、核兵器被害の事実・実態をさらに一層広めることが必要です。
核兵器廃絶のために、原爆症認定集団訴訟のなかで明らかにされた原爆被害の実態を国の内外に知らせます。
あわせて原爆被害を過小に評価し、核兵器の存在とその使用さえ容認してきた、政府の核政策の転換を求め、今後とも核兵器のない世界を望む国民の皆さんとともに頑張ることを改めて表明するものです。
2009年12月1日 日本原水爆被害者団体協議会 原爆症認定集団訴訟全国原告団 原爆症認定集団訴訟全国弁護団連絡会 |
被爆65年の年が明けました。今年5月には、ニューヨークの国連本部で、5年に1度の核兵器不拡散条約(NPT)再検討会議が開かれます。このような節目の年の年頭にあたって、3人の方に、それぞれの専門分野からみた、被爆者運動への提言をいただきました。
核廃絶に明確に舵を切らせよう
立命館大学国際平和ミュージアム名誉館長 安斎育郎
今年は、日本が台湾を植民地化して115年、韓国を植民地化して100年、広島・長崎への原爆投下から65年に当たる。「75年間は草木も生えない」と言われた被爆都市は10年を残して外見上の復興を遂げたが、根絶やしにすべき肝心の核兵器の方は「二度と被爆者をつくるな」「長崎を最後の被爆地に」という被爆者たちの願いに反して、いまだに暴力的脅迫政治の道具となっている。二度と戦争をせず、核兵器を持たない国づくりを真剣に進めなければならない。
時あたかも、広島・長崎に原爆を投下し、今なお世界最大の核保有国であり続けているアメリカに「非核の世界」を展望する政治指導者が現れ、そのもとで「核不拡散条約再検討会議」が開かれようとしている。オバマ大統領のノーベル賞が意味をもつためには、彼が責任をもって核兵器廃絶への道筋を示し、その実践にむけてイニシャチブを発揮しなければならない。なぜなら、「核兵器のない世界をめざす」べきことや「核保有国には固有の行動する責任がある」ことなどは、被爆者たちがつとに提起し続けてきたことに外ならず、もしもハープビケン・オスロ国際平和研究所長が言うように「(ノーベル平和賞受賞者は)現在進行形の政治プロセスに影響力を及ぼす人物が好ましい」ということであれば、オバマ大統領はそのことを実証しなければならないからだ。
昨年の11月11日(世界平和記念日=第一次大戦終戦の日)に日本平和博物館会議が開かれ、「共同アピール」を発した。この会議の加盟館は、沖縄県平和祈念資料館、ひめゆり平和祈念資料館、対馬丸記念館、長崎原爆資料館、広島平和記念資料館、大阪国際平和センター(ピースおおさか)、立命館大学国際平和ミュージアム、地球市民かながわプラザ、川崎市平和館、埼玉県平和資料館の10館。こうした有力な平和博物館どうしが協議体を組織しているのは日本だけだ。
「共同アピール」の概要は、「核兵器が存在し続け、紛争・差別・貧困・生態系の危機など、様々な暴力の暗雲に包まれる世界に、一筋の光が差した。それはオバマ大統領の“核兵器のない世界を求める”というプラハ演説だ。とりわけ、“核兵器を使用した唯一の核保有国として、米国には行動すべき道義的責任がある”との言葉は被爆国民を勇気づけ、核廃絶への信念を確かなものとした。国連安保理も“核兵器のない世界の条件を構築する”ことを全会一致で決議した。しかし、道はなお険しい。われわれは、オバマ演説に敬意を表するとともに、核廃絶・恒久平和に向けた取り組みにいっそう邁進することを誓う」というものだ。決して強いメッセージではないが、来館者総数が400万人をこえる平和博物館が共同でこうしたアピールを発した意味はそれなりに大きい。
ところが、この日本文の英訳についてある問題が発生した。プラハ演説の“核兵器を使用した唯一の核保有国として”の原文は“as the onlynuclear power to have used a nuclear weapon”つまり、“一つの核兵器を使用した唯一の核保有国として”となっており、広島・長崎で二つの核兵器を使用した事実とは明らかに矛盾している。そのため英語では趣旨引用の形をとり、核兵器を複数形にした。
大統領の間違いに目をつぶってそのまま引用して素知らぬ顔をするか、間違いを正した上で趣旨引用の形をとるか、どちらも問題なのだが、結局、大統領の間違いを修正して引用する「見識」は失わない方がいいと判断した。もしかすると、大統領演説の書き手も、原稿をそのまま読んだ大統領自身も、広島・長崎への原爆投下やビキニ事件について正確な知識を持ち合わせていないのではないか─そんなことさえ心配になる。
被爆者は、まだまだ、声を大に叫び続ける必要がある。
憲法実現への先頭に立つ被爆者
九州大学大学院准教授 直野章子
「原爆被害者の基本要求」(1984年)を読むたびに、こみ上げてくるものがある。ふたたび被爆者をつくらないために、文字通り命がけで闘ってきた被爆者の姿が浮かび上がってくるからだ。
「基本要求」は「原爆被爆者対策基本問題懇談会答申」(1980年)を乗り越え、被爆者運動を前進させるために作成された。基本懇答申は、原爆被害に対する国の責任を否定し、「戦争被害受忍論」を打ち出している。「およそ戦争という国の存亡をかけての非常事態のもとにおいては、国民がその生命・身体・財産等について、その戦争によって何らかの犠牲を余儀なくされたとしても、それは、国をあげての戦争による「一般の犠牲」として、すべての国民がひとしく受忍しなければならない」というものだ。
基本懇答申の受忍論は、在外資産損失に対する補償を否定した最高裁判決(1968年)を踏襲しているが、その後、空襲被害者やシベリア抑留者、中国残留孤児、旧植民地出身の軍人や軍属に対しても拡大適用されており、戦後補償否定の根拠の一つにされてきた。
受忍論の前提としてあるのは、国家のためなら国民の命を犠牲にしても当然という考え方だ。これは国家主権を原則とした旧憲法の思想であり、主権在民や基本的人権の尊重を謳った日本国憲法の精神に逆らう。さらに、受忍論は国家の戦争遂行権を前提としているものであり、日本国憲法の平和主義にも反する。
被爆者は基本懇答申で展開された受忍論を「おそるべき戦争肯定の論理」と糾弾し、1980年代には国民法廷運動や援護法制定大運動、独自の被害調査など大規模な運動を展開して対抗した。その中で練り上げられてきた思想が「基本要求」に凝縮されている。
「基本要求」では、ふたたび被爆者を作らないために、核兵器廃絶とともに原爆被害者援護法制定を要求している。「反人間的な原爆被害が、戦争の結果生じたものである以上、その被害の補償が戦争を遂行した国の責任で行われなければならないのは当然のこと」だからだ。原爆被害に対する国家補償としての援護法は、戦争被害を受忍させない制度であり、「核戦争を拒否する権利」を確立するものだという。つまり、被爆者の要求は、自らが受けた被害への補償だけでなく、現在そして未来を生きる者が戦争被害を受忍させられることがないよう、日本国憲法の精神に魂を吹き込むことでもあるのだ。
被爆者の長年の運動にもかかわらず「基本要求」はいまだに叶っていない。15年前に制定された現行法は、その理論的根拠を「基本懇答申」に置き、国の戦争責任を認めてはいない。戦争被害者に対して受忍論が貫かれたまま、日本は新しい戦争の道へと歩を進めている。「国民保護法」も、受忍論にのっとった理論構成になっている。つまり、受忍論は、私たちすべてに向けられているのだ。
「人類が二度とあの“あやまちをくり返さない”ためのとりでをきづくこと。原爆から生き残った私たちにとってそれは、歴史から与えられた使命だと考えます。この使命を果たすことだけが、被爆者が次代に残すことのできるたった一つの遺産なのです」(「基本要求」)
私たちに違う未来を手渡すために、被爆者は、受忍論を克服し日本国憲法の精神を実現する運動の先頭に立ち続けてきてくれた。65年の長きに渡って作り上げてくれた「とりで」を大切に守り、闘いを引き継いでいきたいと思う。それが「次代」からの、ほんのささやかな恩返しです。
真の「人間の安全保障」確立へ
弁護士 内藤雅義
原爆症認定訴訟は、滞留等、問題を残しながらも大きな山を越えた。
しかし、原爆症認定訴訟は、あくまで放射線影響による健康被害を中核とする現行法の枠内の訴訟であり、生き残った被爆者が強く求めている受忍論の突破や死没者の補償にはつながらない。私自身は、前から死没者補償を実現するためには、他の戦争被害者との共闘が必要だと考えてきた。そんなこともあり、昨年の夏から、東京大空襲訴訟の弁護団に積極的に参加するようになった。
戦争被害の国家補償問題については、最高裁でも「戦争被害、戦争損害は‐‐等しく受忍せざるを得なかった」とされ、このような判断が、被爆者の基本懇意見にも反映している。上記の最高裁判決の存在もあり、弁護団では、裁判だけではなく、運動と立法による解決が必要と考え、原爆症認定訴訟でも作成したような市民と国会議員向けのパンフを作成することとなり、私がその責任者となった。そこで作成されたのが「空襲被害者等援護法Q&A 差別なき国家補償を 空襲被害者の人間回復」である。
パンフ作成経過の中で強く感じたのが、日本の戦後処理の大きな歪みである。欧州諸国の戦争被害補償では、どの国でも「国民平等主義」により、軍人と民間人を区別することなく、また「内外人平等主義」により、自国民と外国人を差別していない。その根底にあるのは人権と人道である。すなわち、一人一人の個人を人間として大切にする思想であり、戦争という国家が起こした行為による人間の被害については、国家の構成員が等しくその被害を分かち合おうという理念である。
ところが、日本ではこれとは全く異なる。戦後処理が行なわれるきっかけとなったサンフランシスコ条約の発効による独立前後に、米ソ冷戦の深刻化、朝鮮戦争の勃発という状況の下でアメリカは、戦前の支配層の活用を企図するようになった。そして、戦後処理を行なった厚生省が旧内務省出身者により構成されていたこともあり、明治憲法的な「お国」「お役人」を価値基準の上位におく戦後処理を行なわれるようになってしまったのである。まず、国籍により外国人を排除し、日本国民についても、明治憲法的な「臣民」(下僕)として「受忍」を原則とし、ただ「お国のため」に死に、傷ついた人については、これを援護するという制度の基礎ができあがってしまった。僅かに大きな運動や訴訟があった被爆者、中国残留孤児、シベリア抑留者等に例外的な、しかし極めて限定的な制度で対応してきたというのが現状である。
東京大空襲訴訟の原告達は、被爆者と同様に、高齢化して晩年を迎え、戦争で亡くなった人、そして、障害者、そして孤児として苦しんできた人々の戦後を回想するにつけ、一人一人の命、そして生きる権利を重く見ないこの国の戦後の有り様をそのままにして死ねないという想いが強くなった。そして、死没者の遺骨処理問題を通じて結びつき、訴訟に立ち上がったのである。
それは、戦後日本が本当に人権を守る民主主義国家となったのかの新たな問い直しである。同時に、その要求は、前文において「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることがないようにすることを決意」し、「全世界の国民が等しく恐怖と欠乏からまぬがれ、平和のうちに生存する権利」を保障することを述べた日本国憲法の精神の実現の意味を持つ。
核時代において今「国家の安全保障」から「人間の安全保障」への移行がうたわれている時、被爆者は、真の「民主主義」「人間の安全保障」を確立するために他の戦争被害者とともに闘うことが求められているのではないだろうか。
栗原さんが発行 書き手と読み手つなぐ『つうしん』
「自分史つうしん ヒバクシャ」を200号を超えて発行しつづけている、元日本被団協事務局員の栗原淑江さんに、その思いをつづってもらいました。
「つうしん」1号(右)と200号(左)
被爆者に「自分史」を書いてみませんか、と呼びかけて17年。書く人・読む人の交流のため月刊で発行してきた「自分史つうしん ヒバクシャ」が200号(09年9月)を超えました。これまで寄稿してくださった方は延べ800人。ここまで続けて来られたのは、被爆者たちの書きたい、伝えたいという思いの強さと、読者(現在640人)のみなさんの物心両面からの支えのおかげです。
人生をふり返るなかで〈原爆〉の意味を問う
人生の丸ごとの軌跡を「自分史」として書いてほしい。それは、〈原爆〉は被爆者にとっても自明なものではなく、広く自身の人生をふり返るなかでこそその意味が確かめられる、と思うからです。
とかく過去の特異な体験ととらえられがちな被爆体験記と比べて、生い立ちから現在までの人生を社会の動きや歴史に重ねて書く「自分史」は、同時代を生きる等身大の人間の喜びや悲しみをとおして、戦争や原爆を体験していない若い世代にも共感をもって受け止められてきました。原爆被害に苦しみながらも、それを言葉にしてのり越えていく被爆者たちの姿に読む者は励まされます。
周囲の人との協働も
しかし、被爆から65年も経ち、今後の課題は少なくありません。高齢化のため書くのが難しくなってきた人や、被爆時の記憶が定かでない「若い」被爆者が多くなり、書くための工夫や周囲の人たちとの協働がますます重要になってきています。愛知では、自分史の会の例会を重ね、いっしょに読み合いながら書き続けており、広島では原爆被害者相談員の会が自分史集『生きる』の4集に向けてとりくみを開始しました。
「自分史」は被爆体験の軽重にかかわらず、だれでも書くことができます。
自分がどのようにして「被爆者」として生きるようになってきたのか、一人でも多くのみなさんに人生をふり返りつつ書いてみていただけたら、と思います。そのためにも、「先輩たちの生き方を知る場」「若い人たちと共有できる場」として、「つうしん」を充実させていきたいと考えています。
【問】介護手当(他人介護)は、毎月申請しないといけないのですか。
* * *
【答】介護手当には、費用を払って他人に介護を受ける他人介護と、家族に介護を受ける家族介護があります。
家族介護の場合は「介護手当継続支給申請書」を提出することで、その後は申請する必要はありません。ただし、家族介護手当の支給条件である「重度障害」ではなくなったときや、入院や施設入所などで在宅で介護を受けない月があったときは、届けをすることになります。
費用を払う他人介護の場合は、毎月の支払い状況を確認することが必要になります。このため毎月、介護手当申請書に、(1)介護手当用診断書(病気によって1〜3年省略することができます)(2)介護を受けて費用を払ったことがわかる領収書をつけて提出することが必要です。
今も去来する原子雲
熊本 川原征一郎
3歳の時長崎で被爆した私は、19歳の時初めて被爆者検診を受けた。
以来何もなかった私が半世紀後の今68歳になって、血液がんである成人T細胞白血病に感染と診断された。
このウイルスは一生涯体の中にとどまり、持続感染状態と知った。救いは千人に1〜2人の割合で発病するという確率だけ。心配なのは妻や子どもへの感染だ。
私には今でも原子雲が去来している。
はがきや手紙、Eメールで、身のまわりで起こったこと、ふと思いついたこと、日頃思っていること、証言活動の報告などをお送りください。読者文芸も募集しています。住所、氏名、年齢、電話番号を必ず記入してください。(匿名も可)
送付先=〒105‐0012 東京都港区芝大門1‐3‐5ゲイブルビル9階 日本被団協