2024年10月11日、日本原水爆被害者団体協議会(日本被団協)がノーベル平和賞を受賞しました。
これを受け、被団協は10月12日に記者会見を行い、受賞の喜びや今後の活動について語りました。本ページでは、会見の模様を要約してお伝えします。
【出席者】
田中熙巳(代表委員)、濱住治郎(事務局次長)、和田征子(事務局次長)、
M中紀子(事務局次長)、工藤雅子(事務室長)
オンライン:田中重光(代表委員)、箕牧智之(代表委員)、木戸季市(事務局長)
工藤雅子 事務室長 |
M中紀子 事務局次長 |
田中熙巳 代表委員 |
和田征子 事務局次長 |
濱住治郎 事務局次長 |
受賞の報を聞いた時は全く本当かいな、という感じで喜びが湧いてこなかったんですけれども、一晩明けて今朝になったらやっぱりと思って嬉しくなってきました。
先輩方が差別とか偏見、そして体の健康を抱えながら語ってこられた、その言葉がずっとだんだん雨水のように浸透していって、そしてそれが核兵器禁止条約につながりました。そして今の国際情勢が「核戦争が起きるんじゃないか」というような情勢のなか、ノーベル委員会が「被団協にノーベル平和賞を授与しないと大変なことになるんじゃないか」と考え、今回の受賞になったのではないでしょうか。
ニュースを聞いて思わず、ほっぺたをつねった。坪井さんがご生存なら、あるいは長崎の谷口稜曄さんがご生存ならもっともっと喜ばれたろうなあと思った次第でした。
被団協が受賞するってあんまり思っていなかったので、昨日は本当に驚きと嬉しさがありました。
今朝、近所の方から「ノーベル賞おめでとうございます」と言われ、「やっぱり違うな、ノーベル賞は本当に全ての人に伝わるし、同時に喜びの言葉をかけていただける」と、ノーベル賞の広がりというか素晴らしさを感じました。同時に、これから私たちがやらなければいけないこと、核兵器禁止条約の方向性は示されているので、それを生涯頑張って貫いていきたいです。
昨日の会合、被団協の中央行動の後にですね、この4人でコーヒー飲んでゆっくりして…2時間ほどかけて家に帰ってテレビをつけた途端、テレビで出ましたので「え?」と思いました。でもまだ半信半疑でいましたら、やはり電話が鳴り出しまして。
それでやっぱりそうだったのかということで、本当に諦めかけていたので嬉しかったです。
9日、10日の2日間は全国の代表者会議がありました。そこでこれからのことを議論しました。
高齢化した被団協の役員のこと、それから財政的にも困っているよというようなことでした。それで2日間ずっとそういう話で、みんなで頑張っていこうと。
だから本当にノーベル賞ということは全然頭になかったのです。「先のことを考えなきゃいけない」ということで、頭がいっぱいだったというような感じがいたします。
受賞後はたくさんの取材をいただいて、電話もいただいたて、嬉しい忙しさでした。
一晩明けてちょっといろいろ思いをしていたのですが、私は広島の胎内被爆者で3ヶ月の時に母親の胎内にいました。その3ヶ月の時に朝、父親が爆心地に出ていってそのまま原爆で亡くなっているんですね。そうした時にやはり父のことを思い、父のことを忘れたことが今までなくて、やはりノーベル平和賞の報告をまず父親に、というふうに今朝思ったところです。
1956年に被団協が結成されて以来、私たちの指針となるものをたくさん残してくれた。
そして多くの皆さんの支えで、今日こういう受賞になっているということをお伝えしたいと思います。
今まで被爆証言を通して核兵器の廃絶を訴える機会・場所を与えてくださった、大学での講義、高校生への平和教育、地域での平和の集い、教会など今まで話に行ったところから、また、被爆者を支えてくださっている団体個人からもたくさんのお祝いの言葉をいただき、自分のことのように喜んでくださって、本当に嬉しくて涙があふれます。
今からも高等学校、大学、小学校、地域団体の集い、学習会で被爆体験と核兵器廃絶を訴える予定があります。
心を込めて丁寧に被爆証言と核廃絶を訴えようと思っています。
ノーベル委員会が、いまの情勢がアメリカに気兼ねしているような状況ではないと判断したのではないか。アメリカに盾ついているかどうか知らないけれども、とにかく被団協にノーベル平和賞を与えて、そして被爆者たちがやってきた訴えを世界中の人たちの共有の認識にして、核兵器の運動を本当に世界的なものにしていかなくてはいけないと委員長が判断したのだと思いました。
やっぱり委員長の判断というのは素晴らしいし、そうさせた厳しい現状がある。私は本当に核戦争が起こるんじゃないかと思っていて、それは本当にやめさせなくてはいけない。委員長もそう感じてくれたのかなと思っております。
石破首相と本日電話で話をしましたが、「今の国際的な状況から考えると、現実的な手段を取っていかざるを得ない」ということを言っていた。しかし「核共有」とか私たちに言わせれば、とんでもない。それを石破さんがいう。日本の政治のトップが、それが必要であると、非核三原則を見直さないといけないと言ってること自体が大変怒り心頭です。
だから今度ぜひ会いたいと思います。会って、徹底的に議論をして、あなたの考え方は間違っているんだと。「どういうふうに間違っているか」ということを説得したいなと思っています。
先日、全国代表者会議で各県からの報告を受けた時も、役員の成り手がいない、いつまで続けられるかわからないという話が出ましたし、会員が減り、財政的にも非常に厳しくなってきている状況はあります。
ただ県によっては、被爆者がいるけれど活動ができないが2世の方が役を担って活動を続けている、という取り組みもあります。
被爆者自身がなかなか動けないのは事実ですが、そんな中でいろんな取り組みをしてくださった団体の皆さんと一緒に、各地のネットワークで乗り切ろうというところもあります。
やはり、核兵器を廃絶していくということと、原爆被害への国家補償=国が償ってほしいという願い、この2つが自転車の両輪みたいな形で、1つの私たちの大きな目標です。それを叶えていかなければ、まだ私たちは役割を果たしたことになりません。
「日本被団協には絶対旗を下ろさないでほしい」という声もありますので、厳しいけれども頑張っていきたいと考えています。
戦争被害を国民は等しく受忍すべきだという日本政府と、それから核兵器は抑止のために持っているべきだという、そういう世界と被爆者がずっと闘ってきて、日本被団協は先頭に立って闘ってきました。
ですが、日本被団協も日本被団協だけでやってきたわけではありません。
これまでもこの会場を提供していただいている生協連さんや青年団さんなど、たくさんの市民組織の人たちと一緒に運動をしてきました。
ですから、これからは本当に「被爆者の皆さんありがとう、ご苦労様、今度は私たちが運動をきっちり引き継ぐよ」というようなそういう時代に入っていくのではないかと、私は被爆者でないものとして思っております。
核兵器を禁止してなくさなければいけないというのは、被爆者の課題ではありません。
大げさに言えば、人類の課題であり、市民の課題です。
ですから「被団協がこれから弱くなっていったら」とか「組織がどう」という問題ではなくて、「その運動をこれからどういうふうにして強化していくか」「その中で被団協の役割はまだどういう役割を果たせるか」という議論をぜひしていただきたいというふうに私は思っています。
私たちが思うのは、本当に実相を知ってほしいということです。
核兵器が使われたらどういうことになるか。それをみんなが分かるようにするにはどうしたらいいか。
いまこの受賞が決まって、被団協が被爆者が何をしてきたのかというのを、やっぱり一生懸命これは伝えるべきであるということ、これが一つの大きなチャンスになるというふうに思っております。
若い方々は、高齢化した私たちができないようなことを、どんどんやって広めてくださってますけど、それに心を寄せていただければ。
機械的なものではなく、血の通ったものと言ったらおかしいのかも知れませんが、そういうふうな思いで、本当にご自分たちのこととして受けておいていただければ、と思っております。
被爆者はさまざまな形で証言しています。私のうちでも3歳で突然亡くなっちゃっているとか、20歳の青年が髪の毛がなくなって死んでいったとか、例えばそういう事例は原爆の一つの大きな症状です。
そういう体験を子どもたちに実際伝えながら原爆の持つ意味を伝えていくということ。
そのことが大事ではないかと、私は個人的には思っております。