■新今村駅第2展示室

名鉄ほどの規模の鉄道になると多数派の中には1形式1両などの珍車が存在するものです。成り立ちの異なる会社の吸収合併を繰り返し、雑多な形式が存在していた時代とは比べものになりませんが、私の手が届く範囲にもそこそこの数の異端車が存在していました。
 当コーナーでは1形式1両、分割不可能な1形式1編成のほか、同一形式の中でも他車と外観上明らかな差があるものを対象としますが、名鉄が踏切事故の多さに悩まされていた1960〜70年代に実施された高運転台化工事は1形式中1両のみの改造となったものがあり、当コーナーでその比率が高くなってしまうのは致し方ありません。
 なお、本稿に掲載した各車は全て過去帳入りとなりました。必ずしも異端車であることが寿命を縮めたとは言い切れませんが、ある意味個性が失われてしまったことは残念に思います。

(注) 拡大画像はJava Scriptを使用しています。セキュリティーの設定次第では正常に動作しないことがあります。

名鉄の希少車両  その1:1500V車両
3400系3401(旧3403)
デビュー当時の塗装、冷房改造、台車交換を受けた3400系

製造当時からの床下カバー付き流線型を保っている3400系は1993年の鉄道友の会「エバーグリーン賞」の受賞を機に製造当時の塗装に復元、1994年の名鉄100周年では冷房改造を受け、さらに1997年には台車が豊橋鉄道に譲渡されることなく廃車となった7300系中間車のものに交換されています。3400系は3編成が登場しましたが、1967年の更新後、これだけの変更を受けたのはこの1編成だけであるため、本コーナーの対象としました。
 元々モ3403でしたが、同系列が実在していた3401に改番されてしまったのは三郎さんに一郎を名乗らせるようなもので、私は好ましく思いません。

モ3561
3700系の車体でもHL車にあらず。モ3504の火災復旧車、モ3561

高校に入学する直前、いつものカーブに居たところ、1形式1両のモ3561が最後尾に付いた西尾線からの直通急行がやってきました。この車はモ3500形3504が事故で全焼し、その部品を利用して3700系の車体に載せ替えたものです。異質な車体の2両が連結しているため識別しやすいのは幸いでした。
 元々青電だったため、当初は緑色塗装であったとのことですが、もしそうだとすればこんなだったのでしょうか。

ク3716
電装解除されてもパンタグラフを使用していた築港線専用車ク3716。

幼いころ、私は家の前で毎日見ていた2代目3700系と3730系。どう解釈したのか、前者は怒っている電車、後者は笑っている電車と呼んでいました。この怒っている電車の写真は、中学のころ、名鉄の1500V区間全線に乗る目的で築港線へ行ったときのものです。築港線専用のためか広告は全く無くて寂しく、普段よりも暗い車内という、三河線時代とは全く違う雰囲気が印象的でした。
 同車は1958年に製造、後に高運転台に改造されました。三河線などで使用後、1987年に番号不変のまま電装解除。築港線専用となり、3730系とコンビを組んでいました。パンタグラフは補助電源装置(MG)の電源用です。1996年3月、最後まで残った5編成の3730系と共に姿を消しました。

写真、文: Beaver様

3790系
廃止になった中小私鉄の車両が引き取られた異例中の異例、モ3790系。

車両の増備が急務であった1975年、水害から復旧されることなく廃止になった岐阜県の東濃鉄道駄知線からモハ112+クハ212(元西武鉄道)の譲渡を受け、築港線に投入されました。中小私鉄の車両を購入するという軌道線を除けば異例中の異例の事態となったのは、たとえ3800系2両であっても本線に復帰させたいほど余裕がなかったためと思われます。
 当車は発進時に加速度が波状に変化するのがおもしろく、また、凹凸の少ない頑丈そうな車体が印象的でした。

モ3856
モ3850高運転台車では唯一正面窓がHゴム支持だったモ3856

3850系は事故復旧された3857、2857、3859を除いて高運転台に改造されていました。数ある高運転台車の中でもモ3856+ク2856だけはHゴム支持となっていて、趣の異なる顔つきでした。
 1987年、毎日曜日に通っていた資格試験の予備校から帰って来たところ、三河線ホームにその3856が入って来ました。幸いなことに、たまたまカメラを持っていたために撮れたのでした。
 この頃刈谷ではデキが貨車の入れ換えをした国鉄との連絡線の撤去が行われました。

ク2886
ク2880型では唯一元東急デハ3700から電装を解除したク2886

元東急デハ3700系を譲り受けた3880系は3連×7編成が存在しましたが、最後の2編成はクハが不足し、ク2886はデハ3700からの電装解除、ク2887は他系列であるクハ3671からの改造となりました。
ク2881〜2885は前面非貫通であったのに対し、この2両は貫通扉が付いており、さらにク2887はシル、ヘッダー(窓の上下にある帯)がなく、すっきりとした車体が特徴でした。

ク2903
3900系では唯一の高運転台改造車であったク2903

大々的に高運転台改造が実施された3850系に対し、3900系は4編成の先頭車8両中ただ1両、ク2903だけが改造を受けました。4連時代の3400系同様、3900系は新岐阜寄りの先頭車はモーターなしの制御車にもかかわらずパンタグラフが付き、ペアを組んだモ3950にはありませんでした。(さらに第4編成は両端がパンタ付きのク2900でした。)

モ5202
高運転台に改造されたモ5202

5200系の内、モ5202は事故復旧に際して高運転台に改造され、他車と趣が異なっていました。
 優等列車は普通電車と比べて冷房化率高いためその期待は大きく、夏場は5000系や5200系が来ると見送って冷房車が来るまで待つこともありました。

モ5509
竹鼻線江吉良-大須間最終日の「お千代保稲荷号」に使用された高運転台のモ5509

この車は事故ではなく、新川工場の火災によって被災したものを復旧する際に高運転台に改造されたものです。
 名鉄では多くのお別れの日となった2001.9.30、竹鼻線大須-江吉良間の最終日のみの運転となったネームドトレイン「お千代保稲荷号」には同車を含む5500系4連が使われました。

7100系
7000系中間車に6000系並の運転台を取り付けた7100系

1975年に7000系パノラマカーでは最終増備された両開き扉の中間車、7050形7100番台の2両に6000系と同様の運転台を取り付けたものです。改造後も改番されることなく、そのまま7100系と呼ばれるようになりました。1984年の登場時は7101〜7104の連番で4両固定編成でしたが、中間車をパノラマカーの6連化に充当し、7101+7104の2連となりました。
 2009.11.29にさよなら運転を行い、同12.21、名電築港に搬入されて廃車。

7300系7301編成
試験的に電動式方向幕を取り付けていた7300系第1編成

1971年に3800系(一部800系)の機器を流用してパノラマカー並の車体を載せた車両です。性能が同一の旧形車と共通で運用され、夏場は扇風機すらない車両を覚悟していた乗客に思わぬ喜びを与えた功績は大でした。
 外観上の差異はあまりありませんが、目立つものとしては第1編成が試験的に電動方向幕を取りつけていたことが挙げられます。1編成しかないのではサボ(方向版)の差し替え手間を削減するほどでもなかったためか、その後手差し式に戻されました。しかし、豊橋鉄道に転出後、再度電動式に戻されたのはちょっぴり皮肉でもありました。

モ7665
同僚が更新工事を受ける間、先頭車を務めたモ7665

1編成2両のみが存在した7500系の中間運転台はめったに先頭に出ることはありませんでした。1977年の夏、偶然目撃して以来12年目、皮肉にも東京へ転勤した後でしたが、同車をとらえるチャンスが訪れました。7500系の特別整備(更新工事)が2両単位で行われ、先頭車が入場した場合に中間運転台が先頭に出て、日中の限定運用に就くことになったのです。
 シャッターを切った後、思わず拳を振り下ろして「やった!」と思った作品が今までに何点かありますが、この1コマもその内の1点です。

1380系
2002年、踏切事故によって特別車(指定席車)2両が失われた1230系第4編成の4両が装いを改めて復帰。

2002.9.26、「パノラマスーパー」1030系、1230系第4編成が奥田-大里間で踏切事故に遭遇して前寄りの特別車(指定席車)2両が脱線転覆。復旧困難として廃車になりました。残された一般席車4両は豊橋側のモ1384に運転席を新設し、塗装も全面スカーレットに改められて約1年後に本線復帰を果たしました。
 再デビュー後、長らく犬山−東岡崎(伊奈)の普通電車限定でしたが、2005.1.17のセントレア開港後、混雑のひどいP4の運用を一時的に同編成に置き換えた結果、P4+1384Fという編成の急行が見られました。他に回送で1000系全特編成(既に全廃)や5000系との併結が見られるなど、SR車との連結が可能です。
 2015.9.2、最終営業運転後舞木検査場入場、同9/14名電築港で離線。

5700系5601F
5700系の中間車に廃車になった5313Fの運転台を取り付けた5601F

5700系の5701F、5702Fは6連で、連結可能なP6編成と合わせてNSRグループとして共通運用されました。その後、連結非対応P6とも共通化されましたが、P6の全廃によって2本だけとなり、6連固定編成の輸送力を持て余していました。そこで、中間車を抜いて他の編成と同じ4連とし、余った中間車4両には、廃車になった5313Fの運転台を移設してやはり4連固定編成になりました。運転台直後に客席窓がないことで区別ができます。
 同様な中間車の先頭車化改造車、7101Fが廃車になった頃の改造ですが、もし5300系に廃車が出なかったら、7101Fの運転台ユニットが再利用されていたでしょうか?岐阜方のモ5652は本線系では珍しい50番台の先頭車となりました。
 2017.6.16舞木検査場入場、同7/24名電築港で離線。

●「1380系」の呼称はどうも気に入らない・・・

何系になるのだろうかと思った1384Fですが、結局1380系が公式なものになったようです。しかし、この呼称、個人的にはどうも気に入りません。それは、「パノラマスーパー」の形式番号の付け方から逸脱しているからです。それを理解するには1000系が全車指定席車4連で登場したときまで遡る必要があります。
 名古屋本線では1000系のデビュー2年後の1990年、全車指定席特急に自由席車を連結することになりました。しかし、別編成の併結では両者が非貫通であることや、列車によっては指定席と自由席の両数バランスが悪くなるため、翌1991年には1000系は2両ずつに分割し、岐阜向きの2両(1100-1150)を方向転換し、岐阜方にはそれぞれ新製の一般席車1200系4両を連結した編成になりました。その際、トイレありの特別車、ク1100形、モ1150形に連結される1200系は基本の1200系+100番である1300番台、1500番台を名乗り、B編成と呼ばれるようになりました。因みにA編成は特別車ク1000形、モ1050形にトイレがなく、隣接の一般席車モ1250形にあります。
 その後、1992年には7500系から機器を流用した1030系(特別車)、1230系(一般席車)が3本登場しましたが、これらはB編成と同様の構成であるため、形式はB編成に合わせられ、+100番を名乗ることになりました。その結果、系列を表す1030番台、1230番台の車両が存在しない不思議な系列になっています。
 1384Fは本来1230系の第4編成ですが、改造にあたっては改番が行われておらず、パノラマスーパーに千三百何系という系列がないことから、便宜上の編成番号をそのまま系列名にしてしまうのでは少々安易ではないかと感じています。もし、7101F=7100系のようにプラス100番またはプラス50番になっていれば、まだ抵抗感はなかったかもしれません。
 ところでこの1384号、運転台が付いてもモ1380形のままなのでしょうか。そうだとすれば、機器をもらった7500系には形式区分がないながらもモ7566、7665という運転台付き車両が存在した縁と言えるのかも知れません。

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