用語の解説(2)

初心者の方、ちょっとのぞいてみたという一般の方のために用語の解説を作りました。なにぶん専門家ではありませんのでわからないことはそのままわからないと書いています。

掲載用語へのショートカット

◆出発進行  ◆腕木式信号機  ◆タブレット閉塞  ◆湘南色、スカ色  ◆入出場  ◆吊掛式(旧性能車)  ◆金太郎塗り  ◆(名鉄の)HL車、AL車  ◆昇圧  ◆ライトパープル塗装  ◆信号場  ◆三河弁  ◆甲種、乙種鉄道車両輸送  ◆列車番号  ◆東、稲、名カキ、名シン・・・  ◆SG、EG  ◆EF65  ◆絶気  ◆協調運転、総括制御  ◆VVVFインバーター制御  ◆バス窓  ◆4輪(2軸)単車、ボギー車、連接車  ◆3・3・SUNフリーきっぷ  ◆更新工事(特別整備)  ◆混合列車  ◆ジョイフルトレイン  ◆プッシュプル  ◆共通運用、限定運用  ◆突放  ◆スプリングポイント  ◆アメリカントレインとオリエント急行  ◆電気信号検測試験車、軌道試験車  ◆工事列車  ◆重連、3重連、(”ブツ6”)  ◆出発合図、出発指示合図   ◆ロイヤルエンジン   ◆ED500型


■4輪(2軸)単車、ボギー車、連接車    01.6.9 NEW

鉄道車両はレールの上に車輪があり、台車を介して車体を支えていますが、国内の旅客車両には構造上表題のような3つの形式があります。名鉄にはその3形式共が実在していましたので、実例を掲げてご説明しましょう。

  4輪(2軸)単車 ボギー車 連接車
形式例 キハ10 モ750 モ870(元札幌市交通局A830形)
名鉄における実例
キハ15 八百津線 兼山口-明智

モ751 谷汲線 谷汲-長瀬

モ875+876 美濃町線 白金-上芥見
特徴  鉄道車両の原形とも言える形式です。構造が単純であることが最大の利点ですが、大型化には不向きなことや、振動が伝わりやすく、高速走行に向かない欠点があります。
 写真のキハ10は輸送量が大幅に減っていた線区の合理化を目的に1984年に登場した「レールバス」です。
 車体が長くなると単車ではカーブを曲がりきれなくなります。そこで、水平方向に自由に回転できるように2組の4輪台車を履かせたボギー車が登場しました。台車は走行時の衝撃を吸収したり、蛇行を防ぐことができるため、乗り心地の改善ができるほか、より高速で走ることができます。  2車体で台車を兼用させることによってボギー車よりも急カーブをスムーズに曲がれるようにしたのが連接車です。小田急の特急には11車体の本格的な連接車があります。中間の台車部分の機構が複雑になり、ボギー車のように1両ごとに自由に切り離しができないため、輸送力の増減、検査時の不便があり、小田急でも近年の特急車はボギー車となっています。
機構 単純 普通 複雑
急カーブ
車体の長さが同じならばボギー車よりも不利
高速走行 ×不適
保守性 
切り離しには車体を持ち上げる必要がある。
増解結
輸送単位の小さな列車に使うことが基本。
×

上表の性能比較は一般的な傾向を示すもので、どんなものにも当てはまるわけではありません。

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■3・3・SUNフリーきっぷ    08.05.5 更新

長らく放置してしまいましたが、3・3・SUNフリーきっぷは既に廃止となっています。こんなものであったという主旨で解説を残します。


関西、中部圏以外の方にはなじみの少ないきっぷであろうと思います。名鉄、近鉄、南海の3社がタイアップして連続した3日間の乗り降りが自由となるきっぷです。期間限定の発売で、JRグループの青春18きっぷの私鉄版ともいえますが、

  1. 特急券を買えば特急も利用できる。
  2. きっぷ利用者には博物館、遊園地、宿泊施設などの割引の特典がある。

などの違いがあります。
通常版(大人5000円)のほかに関連会社まで利用範囲を広げたワイド版(同大人6000円)もあります。ワイド版では各社系列のバス(一部除外あり注意)、阪堺電軌、豊橋鉄道のほか、伊勢湾フェリーや南海フェリー(和歌山港-徳島港)も加わり、プラス1000円で利用価値はぐんと広がります。


私にとっては近鉄で大阪−名古屋を往復するだけで運賃のモトがほとんど取れてしまい、名鉄はタダ同然で乗り放題というたいへん利用価値が高いきっぷでしたが、名古屋と大阪の移動に近鉄を利用し、相手先の私鉄(南海または名鉄)をそこそこ利用しないとメリットが出ないためか、せいぜい2箇所行っておしまいというような利用客には受けなかったのでしょう。

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■更新工事(特別整備)   04.5.1 NEW

鉄道車両の寿命を一般論で語るのは難しいのですが、適正寿命とでも表現すれば25年前後となるのでしょうか。その理由は製造後20〜25年くらい経った車両をさらに使おうとする場合は「更新工事」が行われることが多いからです。
 更新工事とは最近よく耳にする言葉で言えばリニューアルのことです。「特別整備」などの名で呼んでいる会社もあります。鉄道車両は一般的に20年くらい経つと車体だけでなく、走行装置などあらゆるところに傷みが目立ってきます。このまま使い続ければ乗客に対するサービス低下となるばかりでなく、保守費用の増大、故障のおそれの増大を招くことになります。そこで、通常の定期検査よりも大々的に主要な部品、配線類などの交換、仕上げ材の張り替えなどを行います。
イメージが大きく変わったJR西日本の103系  更新工事の目的は車両の延命を図ることによって車両の新製への投資を削減することや、次世代車両の開発が完成するまでのつなぎとすることなどがあります。その深度(レベル)は目的によって様々ですが、車体の内外に及ぶまで大がかりな工事を受け、「これがあの**系か?」と思うほどに変身するものもあります。
 名鉄は車両を長く使う傾向があり、今も現役で活躍する5500(2005.2全廃)、7000、7500の各形式は概ね20年前後で更新工事を受けています。その一方では車体が重く、保守に手間がかかり、消費電力も大きい古い車両を使い続けることは経済的にも環境保全にも好ましくないとする考え方があります。この考え方に基づいて更新工事を原則的に行わない方針の会社もあります。しかし、新製にしても更新にしてもこれができる会社は恵まれており、昨今の厳しい経営環境の中、適正寿命をとっくに過ぎた車両をむち打って走らせている会社が多いのも実状です。

 JRグループでも西日本と貨物は更新を積極的に実施しています。できれば新車に置き換えたいが、予算の都合もあって短期間での実施が困難なため、既存の車両を延命することによって新車が投入されるまで活躍してもらおうというものです。
 JR西日本では国鉄からの引継ぎ車である103系、113系、115系、キハ40系などの更新が進められています。新鋭の223系や207系と比較されると見劣りする113系や103系を新車に近づけるため、窓サッシの交換、内装材の貼り替え、座席や網棚の交換などのグレードアップを行ったものがあります。これらは「体質改善工事」と呼ばれ、配線や機器類のようなハードウエアの更新によって延命を図る「延命工事」とは区別されています。103系や113系の体質改善工事施工車は雨樋の構造変更、サッシの交換によって外観上たいへんすっきりした仕上がりになっています。この工事は「体質改善工事40N」(参考文献、ページにはさまざまな言い回しが混在し、正式名称はわかりません。)と呼ばれ、目標寿命は40年とされました。
 しかし、2003年に入ると新車投入のペースを早めることによって延命幅を小さくするように方針転換。(経費節減が主目的のようにも見えますが・・・。)最近では「体質改善30N」という仕様に変更されています。これから40N車が増えてすっきりした編成が増えていくことが期待されましたが103系や113系などに関しては、30N車は工事範囲が狭くなって改修前との外観上の変化が少なくなり、40N車と連結すると車体形状が不ぞろいなのは残念です。

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■混合列車    01.9.9 NEW

機関車が牽引する列車には旅客列車、貨物列車(他に試運転、工事、配給などの事業用列車)があります。通常は客車ならば客車だけ、貨車ならば貨車だけで組成されますが、かつては客車と貨車が混結される列車が運転されていました。このような列車のことを混合列車と呼びます。
 混合列車が運転される理由は、輸送量が少なく、別々の列車として運転すると経費が掛って不合理であることが主ですが、列車交換駅が限られていて貨物列車のダイヤを割り込ませることが困難であったケースもありました。
 2本の列車を1本にするため合理的なようですが、

1.最高速度を貨車に合わせなくてはならないためスピードが出ない。
2.途中駅で貨車を入換えする場合はその間乗客を待たせることがある。(国鉄日中線で見られた。)
3.貨車が間に入ると暖房の蒸気や電源を引き通せず、客車側でエネルギー源を持たなくてはならない。

説明、拡大画像は画像をクリックといった問題がありました。今とは違っておおらかでのどかな時代であったからこそ成り立った列車形態であったとも言えます。
 しかし、運転区間がほぼ地方に限られていたことや、単行が主体の路線では日に1〜2本だけ見ることるバラエティーあふれる編成は私たちにとっては貴重な被写体でした。
 静岡県の清水港線(清水-三保)は1984.3.31限りで廃止となりましたが、時刻表では1日たった1往復しか旅客列車が運転されない路線でした。1983年の年末、いよいよ廃線になるとの報が入り、帰省時に立ち寄りました。その1往復は暖房装置のないDD13が牽く貨物列車に4両の客車が連結されるスタイルの混合列車でしたが、バスよりも定期代が安いこともあってか、多数の高校生が利用していました。(余談ですが、客車の一部は大井川鉄道に引き取られ、今もSL列車で活躍しています。)


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■ジョイフルトレイン

お座敷列車、欧風列車など主に団体用として製造(または改造)され、一般用車両とは異なる設備を持つ車両を指す言葉です。お座敷、コンパートメント(個室)、ラウンジ、展望室、自由に回転できる座席、カラオケセットなどの設備を持ち、工夫を凝らしたカラーリングで、「楽しさいっぱい」という意味で命名されたものと思われます。

●1970年代

1970年代の団体用の特殊車両としてはスロ、スロフ62形を改造したお座敷列車(スロ81系)が各地に配置されていました。塗色はほぼ国鉄の塗装規定どおりで、編成ごとの名前もありませんでした。

●1980年代初期

1980年代に入ると同車の老朽化に伴って12系を改造した新お座敷客車への置き換えが始まり、「いこい」など編成ごとに名前が付けられたり、名古屋局の編成には展望デッキが設けられたりと、徐々に設備の向上が進みました。しかし、外装は一部が一般の12系とは異なる太い帯を入れていた以外は依然として塗装規定に縛られている印象は否めませんでした。

●この2本が火付け役

しかし、1983年、東京と大阪にお目見えした初めての欧風客車は国鉄形客車のイメージを一新する塗装、本格的な展望室を持ち、当時としてはかなり大胆なデザインでした。14系客車を改造した「サロンエクスプレス東京」(東京南鉄道管理局)と「サロンカーなにわ」(大阪鉄道管理局)のデビュー当初は運転計画がびっしり埋まるほどの好評を博し、その後各地に増備された団体用車両に多大なる影響を与えました。

●発展期

これらの車両の運転計画が鉄道趣味誌に掲載されるようになり、いつしか誌上で「ジョイフルトレイン」と呼ばれるようになりました。分割民営化の頃をピークに、バブルの追い風もあってJR各社各支社で競い合うように多数のジョイフルトレインが登場しました。初期の頃は大半が12系、14系を種車とした客車でしたが、輸送単位の縮小に合わせて気動車や電車の編成も数多くが登場しました。
 編成によっては専用塗装の機関車が用意され、路線、客車、路線ならではの機関車との組み合わせや他種の専用機の充当など、豊富な話題は私たちファンを大いに楽しませてくれました。

●かげりが見え始めた1990年代前半

ジョイフルトレインの増備には特に熱心であったJR九州では1992年頃から整理縮小の動きが出始め、1994年6月には団体専用の全編成が営業を終了することになり、ジョイトレファンに衝撃が走りました。
 九州各地に787系などのハイグレードな新型特急列車の整備が行き届き、国鉄からの引継車を改造したジョイトレたちの価値が相対的に低下したことや、旧形ゆえに今後運行ダイヤ上の足かせとなり得ること、維持管理費が嵩むことが引退の理由とされました。それ以外にも団体行動に縛られない少人数のグループ旅行が好まれるようになり、大口団体の需要自体が低下するという時代背景も影響しているものと思われます。
 この傾向は九州にとどまらず、全国のJR各社に共通しており、特に客車の編成についてはJR西日本の「サロンカーなにわ」のみとなっています。同車は天皇皇后両陛下が乗車される臨時列車(必ずしもお召列車ではない)に充当するため、宮内庁から整備費用の補助があったとも言われており、単純な「老朽化による」という理由だけでは廃車にできない事情がありそうです。

●ジョイフルトレインの今後

衰退一途かと思われたジョイフルトレインですが、そうとも言えない状況になっています。時刻表に掲載される列車に使用されるため、これまで述べてきたようなジョイフルトレインに該当するか否かは議論がありますが、展望席を有し、供食サービスを行う「観光列車」はむしろ増加傾向にあります。列車を単なる移動手段ではなく、乗車すること自体に楽しみを持たせた功績には大きいものがあります。ある日ジョイフルトレインを撮影しに行った時のこと、展望室からにこやかに手を振る団体さんに手を振り返したとき、こんな楽しい列車がいつまでも走っていてほしいと願いました。(2019.12修正)

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■プッシュプル

1980年代後半以降、客車の両端に機関車を連結する運転形態が目立つようになりました。貨物駅の廃止、集約化が進み、操車係が常駐する駅が少なくなったため、折り返し駅で機関車を付け替える手間を省いた方が得策だと考えられたためと思われます。
 このような運転形態を私たち鉄道ファンは「プッシュプル」と呼んでいます。後ろの機関車が押し(push)前の機関車が牽く(pull)形態になるためですが、もともとはそうではなかったようです。

 本来のプッシュプルは機関車と反対側の客車の端部に運転台を取り付け、機関車の付け替えを行わなくても折り返し運転ができるようにした列車編成を指します。機関車が前のときはプル、後ろのときはプッシュですから、確かにプッシュプルです。むしろ、最近言われているプッシュプルは後ろの機関車はパンタグラフを上げていてもほとんど無動力で、(連結器の過負荷を回避する目的で発車時のみ僅かに力を出すことはある。)プッシュしているとは言い難いのが実情です。しかし、近年では機関車が客車や貨車を挟んだ編成をプッシュプルと呼ぶことがあまりにも普及してしまいました。

 本来のプッシュプルはヨーロッパでは多数の事例が見られますが、我が国では一部の特殊な事例を除けば、大井川鉄道井川線で本格的に採用されたのが先駆けと言っても過言ではありません。その後JR西日本やJR北海道で客車に運転台を取り付け、DE10、15が1方向に固定して連結された列車が登場しています。

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■共通運用、限定運用    02.05.08 NEW

鉄道ではダイヤごとに使用される車両が決まっているのが通常です。これは定員や扉位置、車両性能等が異なる車両を区別なく用いれば運行に支障が出るからです。しかし、車両の形式が異なっていても差し支えない場合は共通で使用されることがあります。これを共通運用と呼びます。例えば名鉄では2ドア転換クロスシート4両編成(除くパノラマカー)には5300系、5500系、5700系があり(→全て過去の車両になっています)、これらは区別なく使われるため、5500系を狙って行っても他の形式が来ることの方が多くなっていました。
 一方、特定の形式以外は使用しない場合を限定運用と言います。国鉄時代、20系客車は空気溜めを持ってブレーキを増強した機関車でしか高速走行ができないため、直流電化区間ではEF65形でもP形(後にPF形)の限定が掛かっていました。その他、お召し列車はあらかじめ準備された機関車の限定運用となり、また、運用に絡めて工場に検査入場する場合などでは機関車の番号まで指定されることがあります。

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■突放    02.05.23 NEW

陸上交通において鉄道は摩擦損失が極めて小さい特長があります。「突放(とっぽう)」はその性質を利用して車両を効率よく入れ換えする作業方法です。最近は限られた場所でしか見られなくなりましたが、1970年代までは全国の至る所で行われていました。では、その手順を簡単に説明しましょう。

突放1


これから左から1両目を1番線に、2両目を2番線に格納するとします。1両目と2両目の間の連結器とブレーキホースを外して機関車が推進します。1両目のステップには係員が乗車しています。

突放2


十分加速したら機関車がブレーキを掛けます。連結器が離れ、1両目は惰性で進んでいきます。

突放3


1両目が1番線に完全に入ったことを確認してポイントが切り換えられます。2両目の貨車と機関車がゆっくり進んできます。

突放4


1両目の貨車は係員がブレーキペダルを踏んで停止させます。機関車は1回の走行で2両の貨車を2本の線路に振り分けることができます。

突放をしなければ2両の貨車を推進して1番線に入り、1両目を切り離した後引き上げ、今度は2番線に入る手順になります。その点突放ならば1度で2両を振り分けられるため、作業時間の短縮と長い目で見れば動力費の削減も可能です。しかし、危険を伴う他、人手がかかる欠点があり、また、近年では駅ごとに組成を変えて走る貨物列車が激減してしまったため、突放が見られるところは著しく減ってしまいました。
 私が育った愛知県の刈谷でも突放が行われていました。(*)当時は貨車の種類もバラエティーに富んでいて、次はどこで切り離すのかと予想しながら往来を見ていればいつまでも飽きることはありませんでした。

(*)刈谷駅には東側の三河線のオーバークロスを過ぎたあたりまでハンプと呼ばれる勾配線がありました。ディーゼル機関車が貨車を引き上げ、切り離された貨車は坂を下って勢いをつけていました。

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■スプリングポイント    02.07.18 NEW

豊田市の朝倉昭二さんから甍ヶ淵駅向けにご投稿いただいた内容ですが、本解説に利用させていただきました。

スプリングポイントでは駅に進入する列車が自動的にその開通側に進入します。背向からの列車は車輪でトングレール(可動レール)を押し広げて出て行き、車両が通過するとばねで元に戻ります。スプリングポイントは路面電車の線路には昔からよく使われていました。路面電車用のものはトングレールが戻るのが早くて、車輪が一つ通るたびにパチャンパチャンといっていましたが、鉄道用のものは押し広げられた状態をしばらく保持していて車両通過後おもむろに戻ります。戻り側に効く片効きダンパーが使用してあるのでしょう。

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■アメリカントレインとオリエント急行    02.09.07 NEW

●アメリカントレイン

 1988年には記録すべきスペシャルトレインが2種類運行されました。
 まずは日米友好親善のアトラクションとして、1988.7.4から約1年間、全国を巡業した「アメリカントレイン」です。牽引機にはJR東日本高崎運転所でお座敷列車「やすらぎ」色になっていたEF6019が抜擢され、6月中旬に専用塗装に塗り替えられました。
 一方の客車には余剰になっていた50系客車12両が活用され、既に運転を終えていた荷物車「オニ50」を名乗りました。荷物車扱いながら、夏場の展示を考慮して未搭載であった冷房装置が取り付けられました。内部の座席は撤去され、恵比寿駅の側線で内装の準備が行われていたため、しばらくは通勤途中に見ることができました。
 車内ではアメリカについてとアメリカ製品などが展示され、全国の主要駅を巡りました。中でも線路のない沖縄へもフェリーで運ばれたことは特筆に価します。
 展示は週末が中心となるため、移動はどうしても平日が中心となり、社会人ファン泣かせの運行計画でした。多くは他の機関車に牽引されて走りましたが、EF60が本来の現役当時にも走ったことのない路線を自力走行する機会もあり、特に瀬戸大橋を渡って四国を走ったことは驚きでした。航送ながらも沖縄へ渡るなど、EF6019は他の電気機関車にはない足跡を残した1両です。
 運行終了後、EF6019は「やすらぎ」色に戻され、(当解説を記した)2002年現在、「やすらぎ」が廃車(一部わたらせ渓谷鉄道に譲渡)となった今も健在です。しかし、50系の方はごく1部が秋田県の五能線で走っていた「ノスタルジックビュートレイン」増結用になったもののすぐに持て余され、他の車両もせっかく冷房を取り付けたのに活路を見いだすことなく処分されてしまったのは、50系客車の悲哀が漂っているようで、残念でなりません。

●オリエント急行

フジテレビの開局30周年を記念して、パリ-東京間の直通列車と、2ヶ月弱の国内運行が企画されました。軌間も車両のサイズも規格が異なる海外の現役車両がJR線を運行するとは前代未聞でしたが、世界的にも著名な列車の国内運行は大いに注目を集めました。テレビの特番でも放映されていましたが、国内では走行を予定している全区間の建築限界測定を実施し、支障する標識類の付け替えから、大規模なものではプラットホームの切削まで、準備にもたいへんな労力が注がれました。
 1988年10月に山口県の日立製作所笠戸工場に航路搬入されたオリエント急行は、早速国内運行のための準備を始めました。台車は廃車になった旧形客車のTR47系台車を履き、連結器の違いから前後にはマニ50とナハネフ23を改造した控車が連結されていました。私も展示会を見に行きましたが、ナハネフ23改造のオニ23の前で記念撮影をしている親子に「おいおい、それは日本製の車両ですよ。」と言いたくなったものです。
 注目された国内の牽引機でしたが、混乱を避ける目的からか、特にJR東日本では特別な機関車の登板予定はなく、ちょっぴり残念でした。しかし、フジテレビの番組内で当時のJR東日本山之内副社長が「SLに牽かせる。」と宣言。営業運行最後の1往復となる12.23発の列車を時刻変更の上、D51に牽かせることになりました。陽の短い時期の夕方、上野-大宮の短区間という厳しい条件でしたが、その頃静態保存から動態復元工事が鋭意進められていたD51498がEF5861を伴っての牽引が実現、華々しいデビューとなりました。副社長が無責任な発言をしたとは考えられず、きっと実現に向けて綿密な計画が立てられていたのでしょう。
 当日は職場で「今どのあたりを走っているかな・・・」と想像するに留まりましたが、事故もなく運行されたのはなによりで、12.25、EF5861に牽かれて上野駅へ到着した9702列車を以て国内営業運転を無事終えました。多くの関係者の尽力によって運行された「オリエント急行」は今も多くの方々の思い出に刻まれていることでしょう。

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■電気信号検測試験車、軌道試験車    03.08.01 NEW

JRには国鉄時代から旅客、貨物の営業用車両の他に施設の検査を行うための試験車両が存在しています。ここでは比較的目にする機会が多い電気信号検測試験車、軌道試験車について紹介します。

●電気信号検測試験車

架線や信号回路に異常がないかを測定する車両で、運転頻度に応じて年に数回の測定が行われています。かつては架線の測定のみを行う「架線試験車」でしたが、1974年に登場したキヤ191系からは踏切やATS(列車自動停止装置)の信号回路を測定する機能が加わって2両セットになりました。動力には電車と気動車があり、当然ながら電車の編成は電化区間しか走行できません。架線を測定するため気動車であってもパンタグラフが付いているのが面白いところです。
 電車で碧電エリアの検測を担当していた形式にはクモヤ191系(「こだま型」151系→181系を改造)、クモヤ495系があります。クモヤ495系は長らく金沢運転所の配属で、国鉄時代には金沢鉄道管理局からたびたび貸し出しを受けていましたが、分割民営化時には大垣電車区へ転属し、JR東海の所属になりました。しかし、JR東海の在来線には交流電化区間がないため直流専用に改造され、クモヤ193系50番代に編入されました。同車もキヤ95系の登場によってお役御免となり、惜しくも解体されてしまいました。

●軌道試験車

レールのゆがみや摩耗の状況を測定する試験車で、国鉄時代に製作されたマヤ34が各地に配属されていました。車体長が短く、通常のボギー車の中間に測定用の第3台車を持っているのが特徴です。マヤ34形は分類上は客車ですが、電車や気動車の中間(または最後部)に連結して走行することができます。分割民営化によって各社に引き継がれましたが、今も使われているのは九州だけです。

1996年に登場したキヤ95系からは電気・信号と、軌道が1編成にまとめられた総合試験車となりました。2002年からはJR東日本でも「イーストアイ」と通称される総合試験車クモヤE491系やキヤE193系が登場し、本格的な活躍を開始しています。

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■工事列車    03.08.30 NEW

鉄道では営業用列車の他に事業用の列車が走っています。その中で、レールの下に敷く砂利(バラスト)やレールを貨車に積み込んで工事場所まで運転される列車を工事列車と言います。材料の積み込み場所から基地となる駅までの列車も工事列車ですが、実際にその地点で長時間停車してバラストの散布を行ったり、レールの荷下ろしをする列車もあります。
 JRでは線路を保有している旅客会社が運転しますので、各社とも工事用の貨車を保有しています。近年では客車列車が減少して旅客会社の機関車は激減していますが、工事列車にはなくてはならない存在です。時にはジョイフルトレイン用の特別塗装の機関車が牽くこともあり、黒い貨車との組み合わせは一般に派手な色彩と決してマッチしているとは言えませんが、ファンの目を引く存在になっていました。

 工事列車をダイヤ上も正式な列車として運転している会社はそれほど多くはありません。名鉄は特異な存在で、JR東海から購入した砕石ホッパー車やレールの積み卸し用にレッカーを装備したチキ10形をデキ400やデキ600(犬山線ではデキ300も使用)が背中合わせで牽引する姿を時折見ることができました。しかし、近年では機関車が新型のEL120形に置き換えられたほか、トラックに移行して運転頻度が大幅に下がっています。

 工事列車を運転しない会社は工事用のモーターカーなどの「工事用機械」を運転します。これらは法的に必要な安全、保安装置や構造基準を満たしていないものがあり、法律上正式な車両ではないため、本線上を「列車」として運転することはできません。そこで、線路閉鎖という手続きを行って「列車」の運転を禁止し、閉鎖区間内をモーターカーが走ることになります。一般に工事が実施されるのは深夜であり、貨物列車や夜行列車が走らない鉄道ならば、線路閉鎖を行っても実質上の弊害はないものと思われます。

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■重連、3重連、(”ブツ6”)    04.3.8 NEW

貨物や客車を牽く機関車は通常1両で牽引しますが、勾配区間や増結によって荷が重くなると機関車の許容牽引重量(牽引定数=換算何両で表示されることがよくあります。換算1両は10トンです。)を超え、牽引力不足となることがあります。そこで、牽引力を増強するために機関車が2両になることがあり、それでもなお不足する場合は3両になることがあります。また、牽引力不足の場合のみではなく、運用の都合上、機関車を列車に連結して回送する目的で機関車が2台以上となることもあります。
 2両の場合を重連(通常2重連とは言わない)、3両の場合を3重連と言います。本来の機関車を本務機、補助する機関車を補助機関車または短縮して補機と呼びます。一般的には本務機の前に補機が連結されます。(補機は必要がなくなれば外されるため、前のほうが好都合です。)

通常は機関車が連続してつながりますが、軌道や鉄橋の強度が不足する路線では重量の分散を目的として補助機関車を後ろに連結して後押しする場合があります 。機関車が前後に付く場合は最近はプッシュプルという呼び方が普及してしまったこともあってか、変則重連と呼ぶことはあまりないようですが、機関車3台が前後に分散される場合は今も変則3重連という言葉が使われています。
例を挙げれば、
   <補機+<本務機+客+客+客+客+客+客+補機>や、
   <本務機+貨+貨+貨+貨+貨+貨+貨+貨+<補機+<補機
などの編成が考えられます。機関車の向きや連結順序はその列車単体ではなく、その後の運用も考えて決められます。
 蒸気機関車全盛の頃は各地の勾配区間でこれらの編成が見られました。比較的後年まで残って有名であった路線には田川線や花輪線が挙げられます。その他特殊な事例ですが、補助機関車の連結方向が決まっていたため、横川−軽井沢間の下り客車、貨物列車やEF59時代の山陽本線瀬野−八本松間で変則3重連の形になっていました。しかし、必要があって変則三重連が編成される列車は国内では見られなくなっており、何かのイベントでもない限り、目にする機会がなくなっています。

●電車に重連はない?

最近大ベテランクラスの著名なファンの方が電車に対して重連という言葉が平気で使われているのは嘆かわしいと訴えられている文章を読みました。実際、鉄道会社の運転現場では電車に重連という用語は使われていないでしょう。重連、3重連とは元々機関車を対象とした言葉であり、そのお気持ちはよくわかります。しかし、本解説では「公式なものではないが、同一構成の固定編成電車(気動車)がN本連なる場合をN重連(N=2の時は省略)と呼ぶことがある。」としておきたいと思います。つまり、私は電車の重連がどうしてもだめということはないという意見です。

 近年では編成を構成する車両の組替えが行われない固定編成が増え、編成が1つの単位、すなわち機関車で言えば1両と同様に扱われるようになっています。基本的にはファンの間での話しですが、それらが2本連なった場合を重連、3本ならば3重連と呼ばれることは少なくありません。

 案内上鉄道会社が用いた事例もあります。近鉄10100系ビスタカーUの廃車が進んだ1978年、ファンの要望に応じて3編成併結の特別運転が実施され、会社の広報も「ビスタカー3重連」となっていました。

 固定編成の電車が2本ならば重連なのかと言えばそうではありません。例えば「○系と△系の重連が見られた。」という表現は無節操に過ぎると思います。ただし、例えば名鉄では転換クロスシート2扉車を意味するSR車と呼ばれるグループがありますが、○系、△系が共にSR車の2両編成(SR2)であれば、「SR2の重連」とすれば違和感はなくなります。少々補足すれば、ある視点に着目したとき同一構成の固定編成で、バラで使われるのが基本であるものが対象と考えればよいでしょう。

 ここで1つ例外を挙げれば、同じく名鉄の「パト電」(愛知県警のラッピング電車:解除済み)は4連1本、2連1本がありましたが、これが連なったものを重連と呼ぶ人がいます。これは両数には関係なく、2編成しかない「パト電」がつながったことを称してそう呼んでいると考えられ、パト電2連+赤い3500系4連は同じ6連でもさすがに重連と呼ぶ人はいないでしょう。

 もし重連がだめだというのであれば何と呼べば正しいのかということになりますが、公式なものはないと言ってよいでしょう。強いて言えば、「2本つなぎ」や「3編成併結」、あるいは「2連×(かける)3」のように言うことができますが、どれも歯切れの悪い表現で、「3重連」の方がすっきりしてインパクトも大きいことが広く普及した要因でしょう。

●ブツ6

 なお、ファンの間の慣用表現として2連×3を「ブツ6」と呼ぶことがあります。2連という小さな単位を3本併結した6両編成の意味です。中間に先頭車がないすっきりした貫通編成と比べ、先頭車ばかりで構成されて「ぶつ切れ」という印象から来た表現であると思われます。2本だけの併結であれば「ぶつ切れ」という印象が弱まるため、「ブツ4」は一般的ではありませんが、単行が基本の車両の4両ならばあるいは「ブツ4」が受け入れられることがあるかも知れません。この場合も4両貫通の編成との対比の意味で使われるため、単行×4があたりまえの路線で呼ばれることは少ないでしょう。あくまでも見た目の印象から生まれた言葉が慣用的に使われているものですので、明確な定義もありません。

最後に余談ですが、石頭の私が「電車の重連」を認めるとは意外に思われるかも知れません。これは鉄道会社での使用実績や、ただ普及しているということが理由ではなく、1つのものと理解できる固定編成が増えている時代背景や、他に適切な表現がなく、普及に必然性があると考えられるからです。ただし、本来は機関車を対象にした用語であることを知り、無節操な使い方は避けるべきだと思います。


■出発合図、出発指示合図    04.3.8 NEW

 列車が発車するとき、誰がそれを指示するのでしょうか。最近増えているワンマン運転の列車では運転士が自ら発車時刻と安全の確認を行って自分で判断するしかありませんが、本来は駅係員が車掌に合図(出発指示合図)を出し、それを受けた車掌が運転士に合図(出発合図)を出すという流れになります。

 最近、出発指示合図は見られなくなってしまいましたが、かつて運転管理を行っている駅では発車時刻が近づくと運転助役が事務室から出てきて、旗や懐中電灯を使って「発車オーライ」の合図を出していました。(*1)また、停止位置が事務室から遠く、ホームもないような駅では助役がブザーを鳴らして発車の合図を出していました。
 発車するときは、「了解」の意味と周囲に注意を促す汽笛が鳴らされ、私には「ブ−」、「ポー」はペアの音として記憶に刻まれています。しかし、音に対してあまりにも過敏になってしまった現在では原則として発車の汽笛吹鳴は省略というより禁止に近い状態になってしまっていて、何とも物足りない発車シーンになっています。

JRの電車では車掌が扉を閉めると運転台の知らせ灯が点灯し、それが出発合図となります。また、気動車ではブザーを鳴らして知らせます。JR以外の民営鉄道ではベルを鳴らし、その回数によって合図に意味を持たせているところもあるようです。

 しかし、機関車が牽く客車列車では客車と機関車の組み合わせが常に変わるほか、貨物用の機関車が牽くこともあり得ますので、ブザーなどで知らせるという方法は取られておらず、機関士と車掌が無線で交信を行い、車掌から出発合図が出されます。

 国鉄時代の実例としてくろがね街道駅「1984年、雪の磐越西線と日中線」で交信の模様を記載していますが、ここに再掲します。

(車掌)上り2246列車の機関士さん、こちら上り2246列車、車掌です。上り2246列車の機関士さんどーぞ。
(無線から応答が返って来る。)
(機関士)こちら上り2246列車、機関士です。どーぞ。
(車掌)上り2246列車発車。
「ピーーーッ。」(機関士が汽笛を鳴らす。)

 扉が閉まってから実際に発車するまで20秒くらいはすぐ経ってしまい、電車や気動車と比べたら煩雑です。客車列車が全国的に衰退した理由として効率の悪さが挙げられていますが、加速の悪さに加えて、出発時の手続きに時間がかかり、たとえ10〜20秒であっても、それが各駅で蓄積されれば、スピードアップの足かせになったことも敬遠されるようになった理由ではないかと思われます。

 北九州の50系があと僅かになった頃、門司駅で発車シーンを見送ったことがありますが、最初が「2630列車の運転士さんどうぞ。」で終るなど、だいぶ簡素化されていました。なお、お気づきの方もいらっしゃるかと思いますが、民営化後のJR旅客会社では「機関士」の呼称は使われず、「運転士」に改められています。

(*1)郷里の東海道本線東刈谷駅は開業時から運転管理の扱いがありません。国鉄時代、臨時お座敷列車が停車したとき、隣の刈谷駅長が停止位置表示を行うように指示が出されていたことがあったと記憶しています。稀にしか客車列車が停まらない駅で、窓口係員がホームへ出るわけにはいかないため、刈谷駅から係員が派遣されたものと思われます。旗で停止位置を表示したものと思われますが、発車合図は車掌から無線で機関士に出されたはずです。

監修:「気のいい車掌」さん


■ロイヤルエンジン    04.3.10 NEW

天皇皇后両陛下の特別列車、「お召列車」を牽引する機関車のことです。通常は同じ形式の機関車の中で調子がよいものや、検査期限が迫っていて工場へ入場させる時期が迫っているものの中から選定されますが、EF5860、61の2両は製造時からお召用の指定を受けて製造された珍しいものです。運転が決まると工場で念入りな検査を受け、装飾を施され、車体が磨かれるなどの整備を受け、運転当日を待ちます。
 61号機にも何度かの危機がありましたが、時代と共にその価値は高まり、平成になってからも国賓のお召列車を牽引した実績を有するなど、牽引回数は群を抜いており、我が国最高の栄誉を誇る機関車と言って差し支えないでしょう。


■ED500型    05.6.19 NEW

ED500と聞いてもぴんと来ない方も多かろうと思います。1992年に交直両用のD型機として試作され、試験が行われたものの、採用には至ることなく、メーカーの日立製作所へ返却され、人目に触れる機会も少なかったのでは無理からぬところです。では、同機がどんな機関車だったか、その背景について、私なりに書いてみます。

新鶴見機関区の一般公開で展示されたED500-901 1990年に新会社設立後に開発された新形式電気機関車EF200(直流)およびEF500(交直流)が登場しました。共に6000kwのハイパワーで設計されました。EF200では投入先である東海道・山陽線の旅客列車の増発によって貨物列車の増発が難しくなり、1本の列車の容量を上げるために機関車の出力を増大する必要性が考えられましたが、東北、青函線や日本海縦貫線での使用が想定されるEF500では、ED75やED79の重連をも大幅に上回る大出力が必要であるかには疑問が残りました。
 その後、EF500ではパワーを持て余すことや、コストがかかりすぎることを予想した日立製作所が独自にD型のED500型を試作しました。JR貨物からの正式な依頼ではなく、需要を見越して自主的に製作したことが大きな特徴になっています。1000kwの主電動機を使用していることはEF200と同じで、それを4台搭載しているため、出力は2/3の4000kwとなりました。しかし、売り込みを目的にしたものとはいえ、億単位の製作費を掛ける以上、事前に根回しが行われ、日立側にも勝算があったものと思われます。それとも、受注拡大を狙った大きな賭けだったのでしょうか。
 JR貨物としては購入することなく、借入機としての立場でしたが、正式な配属機と同様に扱うため、ED500-901のナンバーが与えられました。運転台側面窓下にはJRマークが取り付いているのが写真で確認できます。ただし、新鶴見機関区を拠点に試験が行われたものの、1993.4の配置表には同機の記載はありません。
 数字の上ではEF66並、いや、それを上回る出力を持ち、D型でEF66に代わる機関車が実現するかに思われましたが、さまざまな条件下において、「性能」は出力だけで一義的に評価できるものではありません。車体が軽いことによる勾配線上における起動力の不足や、モーター数が少ないため、故障したときに運転を継続することがF型の場合よりも困難になるリスク、システム上、機器が高価であることなどが問題とされたようです。
 結局、ED500型は試験に供されたのみで日立へ返却され、本来の機関車として営業運転に使用されることはありませんでした。その後登場して増備が続くEF210、EF510、EH500、EH200ではモーター1台あたりの出力を大幅に下げ、前記の問題の解決が図られました。
 現在、東海道系ではEF210型の増備が続き、安定した性能を発揮しています。しかし、粘着性能が高く、動軸数が少なくても高い牽引力を発揮すると言われるVVVFインバーター制御のメリットを十分に生かしていると言えない現状を専門家がどのような評価をしているかは興味が持たれるところです。どこの世界でもものごとが満場一致で決まるようなことは少なく、今もD型でよかったのではないかと考える技術者がいらっしゃるかも知れません。
 個人的には東海道系でもED級でEF66並の性能を有する機関車、すなわち、小さくても力持ちな新鋭機が主力になる時が来ると思い描いていただけに、もの足らなさを感じないでもありません。