エゾシカの  2000/11/01〜2000/11/30

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2000/11/30

英文書籍の猥褻性

 先日実家に帰省した際(2000/11/24参照)、学生時代の蔵書が書棚に所狭しと並べられているのに気付いた。大学卒業時に必要最小限の書物を除き段ボール詰めにして実家に置いた儘になっていたのだが、実家改装を契機に梱包が解かれたとの事である。其の書棚の中に、再読したくてうずうずしていた書物を見つけ、再読したい箇所を即座に開き学生時代の感動を再び味わう事となったのだ。

 「刑法判例百選2・各論」なる此の書物、刑法に纏わる過去の事件及び判例について一件毎に判決に至る背景及び法解釈の妥当性を刑法学者が述べるというものであり、刑法を学ぶ者にとっては必読書と言っても過言では無い書物であった。学生時代に此の書物を目にして通読した際に私が最も衝撃を受けた箇所が、所謂「チャタレー裁判」の解説であった。多数の論点の中の一つとして、英文のエロ小説が、従来「猥褻」の概念とされていた「通常人の性欲をいたずらに興奮または刺激させるに足りる」のかどうかが争われた裁判なのだが、此の判例についての刑法学者の解説が強烈なものであったのだ。

 「英文で書かれた文章に『性器』や『性描写』が『スラング』を用いて具体的に書かれていたとして、日本人読者がその文字や文章を読んで『性的』に刺戟されるとなると、少なくとも外国人と同じ程度に理解し、反応し、言語的にも感覚的にも敏感な人間でなければならないだろう」。先ず此の中の「反応」という語が私のツボを刺激した。此の後に続く文章が亦秀逸。「若し、辞書を片手に、単語を引きながら『興奮』するような人がいたとしたら、これこそ、平均人をはるかに上回る『センシティブ』な人間ということになるだろう」。思わず頭の中で実際に、机上に置かれた英文エロ小説を辞書を左手に陰茎を右手に愉しみ興奮する光景を想像し、笑いが止まらなくなってしまったのだ。

 筆者の豊かな想像力はまだ続く。「おそらく判断者も英文の仮訳を読んで、その日本語の表現によって『興奮』したことをもって、『平均人の感覚』を類推するということではなかったか」。判決にあたった最高裁判所第三小法廷の裁判官が、和訳されたエロ小説を一生懸命読んで興奮している様が思わず脳裏に浮かび、笑いは更に増幅されることとなった。そして極めつけは以下の文章。「正直いって、私には、ドイツ語で書かれたわいせつ文書を見ても『正常』に反応しうる自信はない。まして、英文の書籍の場合は、なおさらである」。「正直いって」などと勿体ぶらずとも、誰も筆者の下半身の反応具合など問うていないでは無いか。私にとどめを刺すかの如く笑いのツボを破壊する程のパワー溢れる文章であった。

 余程此の文章が途轍も無い反響を呼び起こしたのであろう、此の書物は私の学生時代を含め今に至る迄何度か改訂されているのだが、件の解説文は別の執筆者に差し替えられてしまったのだ。其の為唐突に此の文章を再読したいと思っても全く目にする事が能わず、今回が久し振りの「再会」となった次第。


2000/11/29

ラヴホテル

 初めてラヴホテルに足を踏み入れたのは、恐らく日本人の平均ラヴホテルデビュー年齢を若干下回る程度の年頃だったと思う。

 小学校時代、クラスの知人が私を含む数人に声を掛け、週末の遊びの誘いを行っていた。元々どちらかといえば周囲から余り好かれる方では無かった彼が、自ら人を休日に自宅に誘うなど非常に珍しい、否、初めての事であったと思う。何時もとは異なる遊び相手を見つけて遊べるという事で、当日数kmの道程を、自転車を只管飛ばして目印を辿って彼の家に到着した。

 家に案内されるや否や彼は「面白いもん見せたるで。誰にも言うなよ」と宣い、我々を従えて家から渡り廊下の様な処を通って数階建てのビルの様な建物に入っていった。薄暗い建物の中を歩いていく内に、或る部屋への入り口があり、彼に続いて其の部屋に入るや否や、我々は只管驚いたのだ。ピンクの内装、四方八方に張られた鏡、何処を枕にして寝れば良いのか解らぬ真ん丸いベッド。初めて見た特異な部屋に我々は異常に興奮し、只管抱腹絶倒狂喜乱舞せざるを得なかった。程なく彼は其の部屋を後にする旨我々に伝え、我々は名残惜しくも其処から去ることになったのであった。

 数日後の事。学校で我々は突然担任に呼び付けられる事となった。彼と遊んだ休日の件で、「二度と彼の家には行くな」という厳命が下ったのだ。どうやら彼が我々を誘って遊んだ事を彼の親が知って激怒したらしい。彼自身に尋ねても厳しい口調で「もううちには来るな」と答えが返って来るばかりで、折角新しい休日の遊び相手を見つけて実際に楽しい思いをしたのにと、内心忸怩たる思いで一杯になったのだ。

 其の建物が彼の親が経営するラヴホテルだと判ったのは、私が其の街を離れて生活を始め、彼とも接点が無くなってからの事である。


2000/11/28

あながち

 「強ち」と漢字で書けば問題無いのだが、「あながち」と書くと誰しも「穴勝」という漢字を連想するものと思われる。

 一般的には、女性が「蚯蚓千匹」だの「鯑天井」だのの技を繰り出して男性を一瞬の内に昇天させただとか、強姦の際に女性が激しく抵抗して男性の陰茎の没入を妨げただとか等といった猥想が容易に想起されよう。

 因みに私は真っ先に「競馬に於いて、人気薄の馬が勝つこと、若しくは其の馬に関係する馬券を的中させること」なる解説を想起してしまった。どうやら私の中に於いては性欲より馬欲の方が優先されているようである。


2000/11/27

おおむね

 恐らく誰しも一度は同じ悩みを抱いた経験が在ると思われるのだが敢えて此処に記すことにする。

 国語の試験に於いて「○○という語を用いて短文を作りなさい」なる設問が屡々見られるのだが、例えば中学校の国語の試験に「『おおむね』という語を用いて短文を作りなさい」という問が出題されたとする。此処で解答として、「彼の予想はおおむね当たっていた」「その講義はおおむね理解できた」などという中に「私はおおむねフェチである」「おおむねとデブとは異なるものである」「おおむねは歳取ったら萎んだり垂れたりするから格好悪い」「昨日電車の中で、背中におおむねが当たって興奮した」「おれ、おおむねでパイずりされたら3分も保たんで」という類の解答が紛れていた場合、此等を正解とすべきか不正解とすべきか。

 此等の解答が出題者の意図とは大きく異なる事は論を待たぬ。とはいえ出題者側が「おおむねとは副詞であり決して巨乳を指す名詞では無い」などという断りを行っている訳でも無い。ましてや採点者が巨乳フェチであった場合などには「おお、同志を得たり」と正解扱いするばかりか加点すら行い兼ねぬ。

 因みに別段巨乳に関心が在る訳でも無い私が採点者で在れば、解答を見て散々笑い転げた挙げ句平然と不正解にしそうな気がする。


2000/11/26

ネタと作品

 「エゾシカの嘶き」執筆当初と比べて1回あたりの文章量が徐々に増大してきた事に気付いて若干文章量を控え目にしようと宣言したのは2000/09/01の事。結局気がつけば、9月全体の文章量は過去最長だった8月と殆ど変わらなかったのであった。而も一月あたりの日数を勘案すると、1回あたりの文章量では9月が過去最高であった可能性が高い。自己矛盾も甚だしい。

 此の事実に気付いたのが、9月一月分の文章を纏めた10月中旬の事。其れ以降徐々に比較的文章量の少ない作品を取り込んできた結果、10月トータルの文章量が8月及び9月を下回ったことが、10月一月分の文章を纏めた今日判明した。尤も「下回った」と言っても8月、9月に次ぎ3番目に多い文章量だったのだが。

 さて、別に作品の質が文章量に比例するものとも思えぬという考えから、私の中に萌芽しつつあった短文に対する抵抗感を払拭すべく取り組んできた文章量減少キャンペーンだが、今一つ己の中で納得の行かぬ文章が生じつつある傾向は否めぬ。文章量のピークの2000年8月の半分強しか文章量が無かった昨年4月の作品群と比べてみると、ネタの善し悪しに於いて劣っている事が明白なのである。

 比較的長い作品で在れば着想の善し悪しはさほど目立たぬのだが、短文となると文章其の物よりは寧ろ着想の善し悪しが作品の善し悪しを決定する場合が多い。優良なネタが文章化出来ぬ中で徒に文章量を短くしてしまうとなると此正に自殺行為ではあるまいか。特に最近では更新が滞りがちという事で、新鮮なネタでも文章化するのが数日後となってしまい、記憶が徐々に風化したり当初の感情が薄れたりという機会が屡々存在する。

 先ずは更新ペースを上げて何とか「リアルタイムの作品造り」を目指す事、其れが不可能で在ればネタを其の都度メモ等の形でストックしておく事が肝要であろう。よく考えれば斯様なネタと作品との関係、「ネタが新鮮なうちに調理する」「其の場で調理出来なければ即冷凍保存」などという、素材と料理との関係と同じではないか。


2000/11/25

素肌攻め

 先日(2000/11/23参照)の作品執筆の為に広辞苑で「簀の子」を調べていた最中、「素肌攻め」なる見出し語が出てきて仰天した。一体何なのだ此の言葉は。

 通常に考えれば「相手方の衣服を剥ぎ取って裸体を晒し、肌を直接責め上げるプレイの一」などという解説の下、相手の素肌を刷毛で擽り回して相手が身悶えする様を眺めて愉しんだり、相手の肌にバターを塗りたくり牡犬にペロペロレロレロと嘗め回させる様を眺めて興奮したりする行為に想像が及ぶ事となろう。

 しかし其れにしても広辞苑が何という見出し語を採用しているのだ。其処で解説をじっくり読んでみた処、「甲冑をつけずに敵に攻めかかること」との事。私の思索は無駄に終わった。


2000/11/24

帰省の意義

 翌週の研修で必要となる衣服を捜すという目的のみで実家に帰省する羽目になってしまった。

 少なくとも社会人になって以来、縁故に病や不幸が無い限り縦令盆暮れであろうが基本的に実家に帰省することは無い。其の為たかだか捜し物の為に帰省するという行為自体、稀有も亦稀有な事象なのである。

 愛知県から兵庫県への移動とはいえ片道で北海道往復に匹敵する時間を掛ける事になるのだが、不幸なことに世間では飛び石連休の初日ということで一般的な社会人が休暇を取得して4連休としていたものと思われ、新幹線車内に於いて混雑の中立ちっ放しで移動することとなった。途中バスに乗り換え高速道路を只管揺られて実家に到着し、捜し物を終えて食事をするや否や、落ち着く間も無く滞在時間2時間足らずで同じ行程を引き返す事となった。

 寓居に戻った後、其の衣服を久し振りに着用しようとしてみたのだが此処暫くの体型の変化の所為か寸法が合わず役に立たぬ。結局何の為に貴重な休日を潰して疲労感に満ち溢れた帰省を行ったというのだ。


2000/11/23

 風呂場や兎小屋等で用いられている簀の子の「簀」という文字を眺めて想う。竹を編んだ筵を指す此の漢字、何故竹冠に「責」なのか。通常で在れば「簀」の意味から帰納法的に語源を類推する事により「竹」及び「責」に纏わる意味を探し求めるのであろうが、此処では逆に演繹法に拠り、「竹」と「責」からどういった事象が想起されうるのかを列挙し、其の中から「簀」に纏わる意味を求めていく事にする。

 竹で責める。容易に想起されるのが、竹定規や竹刀等の竹製品をSMの性具として活用する行為であろう。裸体を竹定規等で打擲する事により相手方は適度な痛みを感じると共に肌にはうっすらと仄かな痕が残り、それでいて出血の心配も無い事は世間で遍く試され知られている。

 次に誰しもが想起するのが、竹を鞭代わりに用いてSMの性具として活用する行為であろう。竹という植物、筒状では非常に剛毅な性質を有するのだが、繊維に沿って細く割いてみると非常にしなやかなものになり、鞭としての必要十分条件を満たす事になる。竹の繊維の強さとしなやかさとを示す逸話として、エジソンの大発明である電球の事例が挙げられよう。彼が電球を開発する際、電球内の電導物質に様々な素材を試してみたところ何れも電流を通すと焼けたり折れたりしたのだが、京都の竹を導線状に細くしたものを用いて見事成功したのだ。

 更には、竹筒や竹刀を直接女陰なり肛門なりに挿入する事によりSMを愉しむ向きも存在しよう。棒状の物体と穴とが存在すれば、前者を後者に突っ込みたくなるのは、SM愛好者のみならず凡そ人間の性である事は論を待たぬ。

 視点を変えてみれば、竹の堅さを利用し、竹を地面に置いた上に相手を正座させ、膝の上から重しを乗せて向こう脛を圧迫してじわじわと激痛を与えるという拷問的手法も好まれるのでは無かろうか。性的興奮に今一つ直結し辛い点が、SMとしては如何なものかと思われるのだが。

 さて、読者の方々の誤解に基づく猥想を断ち切るべく敢えて述べるが、此処で論じたいのはSMとしてどれが優れているかでは無く飽くまで「簀」という文字の成り立ちである。此まで挙げてきた中で、最後の事象が最も現在の「簀」という意味に近いという事が判明した。此を反対の面から捉えれば、「簀の子」とは元来、竹を敷き詰めた上に正座して向こう脛に痛みを与える拷問器具であった事が容易に理解出来よう。

 帰納と演繹とを効果的に組み合わせる事により思いもよらぬ発見が産まれる典型的な例と言えよう。


2000/11/22

拳銃と弾丸

 幼少の頃から気になって仕方が無い妙な日本語。発砲事件が起こる度にニュース等で用いられる「犯人は拳銃○発を発砲し(若しくは「撃って」)逃走中」などという言い回しなのだが、発砲されるもの及び○発と数えられるべきものはあくまで銃ではなく銃弾の筈である。「拳銃で銃弾(若しくは「弾」「弾丸」)○発を発砲」では何か不都合があるとでも言うのであろうか。

 更に言えば此の手の言い回しは他の銃器には余り用いられぬ。「ライフル銃一発」「散弾銃一発」などは銃器自体の利用頻度が低い所為もあろうが殆ど記憶に無いのだ。

 何か理由でもあるのかと思い、広辞苑で「銃」を繙く。次に「獣」という文字が見えた為に先に此方の解説文を精読した処、其の中に私が頻繁に用いる「獣欲」なる用法が存在するでは無いか!思わず「獣欲」を繙いてみれば「動物的な欲望。肉欲」とあり、「動物に対する欲望」なる意味は掲載されておらず、少し残念な気持ちになったのであった。

 因みに「獣欲」の次には「柔能く剛を制す」が掲載されていた。此が若し「獣欲剛を制す」だったら非常に愉快なのではないかと、少し幸せな気持ちになったのであった。


2000/11/21

続・乗馬ライセンス

 3連休に旅行もせずに受験した乗馬ライセンス5級認定(2000/10/08参照)に合格したとの事で認定証が手許に届いた。此を所持していたからといって履歴書の記載が増えたり乗馬倶楽部に顔パスで入れたりましてや馬との肉体関係が公認されたりといったベネフィットが付与される訳ではなく飽くまで己の乗馬技術及び馬心がまあこんなもんであるという事を世間に公言し自ら再認識しする以外の役割を負うものでは無い。

 処で此のライセンス認定証が嘗て手にした証明書の類の中では最もセンスが良いのではないかと思われるデザインである。片面は日本語、もう片面は英語で、顔写真や生年月日は此の英語欄に記載されている。そしてさり気なくあしらわれた馬のシルエット。正に此の認定証の中に於いて私と馬とが一つになっている事を象徴しているかの様なデザインとなっている。亀頭を象ったマークが表面の三分の一を占めているという極めて悪趣味な「性愛学指導員之証」(2000/09/29参照)とは雲泥の差を感じずにはおれない。

 とはいえ一点だけ非常にセンスの悪い点を感じている。此の顔写真、幾ら写真の持ち合わせが無かったからとは言え、スーツ姿とは凡そ乗馬に似つかわぬ。


2000/11/20

新硬貨

 発行以来数ヶ月を経てもなかなか己の懐に入ることの無かった新500円玉。世間での悪評は悪評として、私個人としては何となく時代に取り残されたような気分になり、「一遍位おれのとこに回ってきてもええやないか」という感情が日に日に強くなってきていたのだが、遂に先日新500円玉を手にすることになったのだ。

 其の日、夜遅く迄職場に居た時の事。職場から寓居に至る迄の間の飲食店や売店は悉く閉店しており、コンヴィニも通勤経路から大きく外れている為、とても自炊する元気など無い夜の飲食には非常に不自由する事になるのだが、ふと職場内にパンだのラーメンだのの自動販売機がある事を想い出した。わざわざ自動販売機のあるフロアに立ち寄り、真っ暗の自動販売機コーナーを訪れ物品を物色しつつ財布を取り出し小銭を手に取ったのだが、斯様な時に限って小銭入れの中には彼程待ち望んだ新500円玉位しか入っていなかったのである。元々紙幣すら用いる事の出来ぬ自動販売機、当然新500円玉への対応など為されていない。結局怒りに打ち震えつつ、帰宅後深夜に自転車を飛ばしてコンヴィニに夕食を買い出しに向かったのだ。

 新500円玉を手にした事に加え、新500円玉への不平不満や怒りを強く感じた事により、やっと世間の仲間入りが出来たような気がした次第。


2000/11/19

資格試験

 以前或る資格試験を受験した際の事。其の数日前に持ち掛けられた離別話に心を千々に乱された儘受験を迎える事になってしまった。只でさえ頭の中では、今後予想される最悪の結末と勝手な思い込みによる理想的な結末との間を何度も思考や想像が右往左往しており、直前勉強どころではない状態に置かれていた。

 そんな精神状態を何とか抑圧して試験当日会場に赴き、試験開始と同時に問題用紙を開いた時の事である。いきなり目に飛び込んできたのはよりによって、其の相手方が生活している都市が舞台となった問題文であったのだ。

 全ての抑圧が堰を切ったように解き放たれた結果、パニックで頭の中が真っ白になってしまったのであろう、確か10分程其の場で何も出来ずに放心状態になっていたと思う。そして漸く落ち着き問題文を読んでは「はぁ…価額協定保険特約…」「あっそう、店舗併用住宅建物…」「へぇ、地震保険も付けるの…」などと頭の中で力無く空虚なリフレインを行っていたのであった。当然時間も足りないし思考も回らぬ。当時の問題用紙を読み返してみると彼方此方に「後回し」だの「?」だののマークが入っているばかりか、○×問題ですら手付かずの箇所がある。

 しかし不可解な事に、此でも結果は合格であった。一体どういう基準で合否を決めているのかと訝ると同時に、「あんなとんでもない精神状態で勉強もおぼつかぬ上試験会場でパニックになっても何とかなるものだ」という、資格試験に対するとんでもない楽観を抱くようになったのである。

 今日或る資格試験を受験した結果、そろそろ斯様な楽観も好い加減捨て去らねばならぬと思いつつある。


2000/11/18

ハンドル名

 元々「エゾシカ」なるハンドル名を用いようと決めていた訳ではない。確かサイトを立ち上げた時には己の本名をサブタイトルに組み込んでいた。自己満足で楽しむ分には其れで良いのかも知れぬが他のサイトの掲示板に御挨拶に行ったり見知らぬ方から戴いたメールに返事を差し上げたりする際に本名では気が引ける上に気恥ずかしい。其処で、当時使用していたメールアドレスの「エゾシカ」をハンドル名として其の儘用いた次第。

 最初は然して違和感を感じなかったのだが、ネット上での挨拶等で「私はエゾシカです」などと宣ってみると此が案外恥ずかしいものだという事に気付いた。其の原因の一つは、「エゾシカ」が極々一般的な普通名詞である為、単に「エゾシカです」と言った場合、「私は人間です」と言うのと同様、どうも自分が「エゾシカ」なる種族に属している生物である様に捉えられ兼ねぬ点が気になったからである。とはいえ固有名詞となると、一般人には馴染みが薄いばかりか略称化、愛称化も困難である私の名前をハンドル名にする事は不可能である。全く別人の名前を用いたりなぞは其の行為自体自己のアイデンティティを否定するものであり、はなから考えていなかった。

 もう一つ、私のキャラクターがエゾシカと合致しているのかという点が非常に気になったのである。確かに私はエゾシカとの運命的な出会い(「獣!獣!獣!」参照)を含め、其のキュートで直向きな瞳、美しい鼻筋、一生懸命な仕草、長くも無く短くもない被毛、親しみ易い体型等、非常に惹かれるものを感じていたのであるが、其れを私自身と同一化させて良いものであろうか。此ではまるで、いい歳をこいたオッサンが、「おれは吉永小百合に惹かれるからハンドル名を『小百合』にする」というのと変わらぬ様な気がするのだ。まあ幸か不幸か、一般人はエゾシカのキャラクターや魅力なぞ知る由も無く、従って私とのイメージのギャップだとかも感じる事はそうそう無いようなのだが。此が若し、メールアドレスを決定する際に候補として挙がった「海豹」や「啼兎」のように、世間一般から可愛いと評価されている獣だと、「お前全然キャラクターとハンドル名とがちゃうやんけ!」などと厳しいツッコミを各所から受けていた事であろう。

 さて、ハンドル名をネット以外の場所で用いるとなると、此等の懸念に途轍もない恥ずかしさが加わる事になる。オフ会等に出席したり電話連絡をとったりする際、私自身の口から自らを「エゾシカです」と名乗る事により、自分が生身の人間に対して恥ずかしい事を口走っているかの如き感覚になり、非常に気恥ずかしいのである。而も相手方が人間に対する呼称として極通常なハンドル名を使用している場合、恰も素面の人間の前に酔っ払って登場するかの如き感覚になり、此の気恥ずかしさは激増するのだ。

 因みにハンドル名に纏わり最も恥ずかしい思いをしたのは、或る競馬関係のオフ会に出席した際、満員の競馬場で立錐の余地もない人混みの中、雑踏に声が掻き消されぬよう携帯電話口で何度も「エゾシカです!」と絶叫した時の事である。流石に此の時ばかりは「おれが極一般的な名前で在れば…」と久方振りに(1999/05/06参照)感じ入る事となった次第。


2000/11/17

近親相姦

 父と娘、兄と妹、母と娘等々、数ある近親相姦のヴァリエーションの中に於いても、母と息子との性交が他の組み合わせには見られない特殊性を有している事に気付いた。嘗て此の世に生を受けた瞬間に通過した場所に今度は入っていくという、字面だけ見れば極めて象徴的な意味を持ちそうな行為が、唯一此の組み合わせに於いてのみ可能となるのだ。

 挿入の際に自らの出生時に思いを馳せ、行為の最中に其の深遠さを噛み締める。果たして此の近親相姦を他の近親相姦と同列に論じることが正しいのか甚だ疑問に感じずには居れぬ。

 「同列に論じる」といえば、フランス書院文庫の出版物に頻繁に見られる「義母と少年」だのといった組み合わせを近親相姦と称するのは左様な象徴的意味合いを全く糊塗するものであり、通常の近親相姦とは別個に考えるべきだと常々思っているのだが。


2000/11/16

旅欲の遣り場

 休日の諸予定と相談してみた処、昨日(2000/11/15参照)のような逡巡の必要が無い事に気付いた。旅行に宛う時間が存在しないのだ。

 今後暫く休日毎に、資格試験、帰省、会社の研修準備、「獣医師広報板」サイトのオフ会等が存在し、更に日時が確定していない予定として通院(私の場合此が一日掛かりとなるのだ)だの業務関係作業だの年賀状作成だのが入ってくる為、とてもじゃないが土日を旅行に充てる事が出来そうに無いのだ。此の内年賀状作成位は旅先で出来なくも無い。実際に1998年末は大分の宿で年賀状書きの為に夜鍋をしていた。通院にしても旅行の方面次第では序でに足を向けられぬ事も無い。しかし業務の類だけは旅先に持ち込んで巧くいった試しが無い。更に言えば持参した資料類を開いた経験すら思い浮かばぬ。

 こうなれば仕方在るまい、旅行の際の悪天候率が此以上変化しないのを良いことに「2000年の旅行は悪天候率が極めて低く、質の面で充実したものであった」という事で己を誤魔化し喜ばせるほか、遣り場のない旅欲を昇華させる手立ては無さそうである。

 しかしこう考えてみると、幾ら遣り場が無くとも昇華が然して困難ではない性欲なんぞ、旅欲に比べれば扱い易いものである。


2000/11/15

続・雨男

 先週土曜日(11/11)に日本全国に於いて降水量が如何程あったのか私は知らぬ。只言える事は、各種報道番組の天気コーナーはほぼ例外無く「本日は全国的に好天に恵まれ」という枕詞で始まっていた事、そして此の日の日中に兵庫県山間部の或る街で私が所用を済ませていた際、よもやの降雨に見舞われた事である。

 最近は旅行の機会も例年の半分程度とめっきり減ってしまい、其れ故己の雨男振り(1999/08/21参照)を意識する機会も暫く無かったのだが、冒頭の一件で再び己の雨男振りに驚き呆れる結果となってしまったのだ。

 其処で1999/08/21の分析のトレースの意味も込めて、今年の旅行に於ける雨男振りを思い起こしてみたのだが、意外な事に、99年夏迄の3年間で悪天候率6割を誇っていた私が、今年は僅か2割という好成績なのである。而も広島旅行、和歌山旅行なんぞは目も覚める好天という、過去を思い起こしても滅多に思い当たらぬ位の好条件が続いていたのだ。とはいえ今年唯一大雨に見舞われた旅行が、今年のメインイヴェントである9月の北海道旅行であったという勝負弱さが気になるところなのだが。

 さて、今年は悪天候率を此以上上げる事無く旅行を慎むべきか、悪天候率が上がろうが旅行を行うべきか、休日の諸予定と相談した上で方針を決めねばならぬ。


2000/11/14

広告と木村拓哉

 CMタレントの起用に於いて、今を時めく有名タレントに高い契約金を支払い長期契約を結ぶ際には、「長期間に亘り消費者の新鮮感及び期待感を持続させるべき」という広告論と「折角高い金を払うのだから、只単に出てきて喋るだけでなく演技もして欲しい」という企業側の事情とが相俟って、連続ドラマ仕立てでストーリーが展開されていくケースが存在する。

 という事で実例を思い起こしてみた処、或る事実を発見した。大物タレントを長期契約で起用し、ストーリー性に富み次作以降が期待される仕上がりのCMがオンエアされたにも拘わらず、気がつけばCMのストーリーも何もあったものでは無く新鮮感や期待感なんぞどこぞに吹っ飛んでしまったという例が次々と浮かんできた。而も其れ等のCMに起用されたタレントは全て同一人物なのである。

 1998年の日本中央競馬会。競馬とは一見縁もゆかりも無さそうな若手大物タレントを起用し、「或る競馬カメラマン」という設定でTVCMがスタートした。処が気がつけば彼は意味も無く走り回ったり街でかき氷を頬張ったりしたかと思えば、ラジオCMでは只管喘ぎ声を聞かせてみたり、もう最初の設定など何処へやらといった感じで1年間も突っ走ってしまった。流石に翌年は一応ストーリー性を保ったようなのだが、巷の評判及び広告主の業績は極めて厳しいものであった。

 或るエステに於いては、ホームヴィデオの生撮り風シチュエーションで、其のタレントと女性とが旅行先で戯れるシーンを次々と展開していた。処が此が知らぬ間にぱたっと止み、気がつけば其のタレントは小汚い油絵風CGとなって登場し、何のメッセージ性も持たずに去っていった。そうこうしているうちに最近再び別の女性と旅行先で戯れるというシリーズが展開されているようなのだが。

 最近では携帯食品のCMに於いて、TVショウの素人登場人物を演じ、パソコンのCMでは格闘技を演じたCM数種を同時放映して消費者からのインターネット投票を募ったりもしていた。しかし両者とも何時しか全く別のCMが展開されている。

 此等が全て、僅か此処2年程度の間に同一のタレントにより引き起こされたものなのである。真偽の程は定かでは無いが、どうやら此のタレントの起用方法について、企業でも広告代理店でも無い所から随時事細やかな「指導」が為され、当初のコンセプトが在らぬ処に「修正」されてしまうなどという噂を耳にした事がある。しかし其の一方で、此のタレントを用いようとする企業が続々登場し、広告展開やコンセプトが幾らねじ曲げられようが商品によっては成功すら収めている。「んなもん広告なんて理屈やない。金積んでカリスマタレント使えば何とかなるんじゃ」などという声が主流となってしまうと、個人的には非常に悲しいのだが。


2000/11/13

万葉仮名

 万葉仮名が一部の血気盛んな若者達に好んで用いられるようになって久しい。「宜しく」を「夜露死苦」と書いたり「I love you」を「愛羅武勇」と書いたり「レッサーパンダ」を「烈裂犯堕」と書いたり「インターネット」を「淫太根筒」と書いたりしているのを其処彼処で目にするのだが、斯様な趣深い文化を一部の若者共に独占させておくのは非常に勿体無い。そこで我々も万葉仮名を実生活に採り入れてみるべく検討を深めることにする。

 先ずは何はともあれ判りやすい漢字を用いねばならぬ。更に言えばラヴリーでセクシーな漢字を用いる事により使用者の抵抗感を和らげる必要がある。此の条件を満たすには動物に纏わる漢字が適切であろうと思い、漢和辞典を駆使しつつ以下に挙げてみる次第。

 あ蛙 い猪 う鵜 え餌 お雄
 か鹿 き亀 く駒 け鶏 こ狐
 さ産 し雌 す巣 せ背 そ鼠
 た胎 ち乳 つ  て蹄 と兎
 な  に  ぬ  ね  の
 は爬 ひ狒 ふ鮒 へ  ほ捕
 ま馬 み巳 む鵡 め鳴 も毛
 や     ゆ熊    よ羊
 ら裸 り狸 る  れ蠣 ろ狼
 わ羽 を  ん

 「エゾシカ」なんぞは「餌鼠雌鹿」などと容易に表記出来ようが、日常生活に用いる為にはナ行の奮起を切に期待するものである。


2000/11/12

年賀状・4

 年賀状ソフトについて思索を巡らす(2000/11/07参照)内に、今が正に年賀状シーズンである事に気付いた。通常は「年賀状シーズンだから年賀状ソフトの商品名に思索が回る」のでは無いかとも思ったのだが、季節感溢れる商品から季節を感じる事など日常茶飯事であり、此は此で強ち奇異な行動パターンという訳でも無いであろう。

 処で昨年を振り返るに、年賀状の題材に苦吟した挙げ句(1999/11/19参照)写真を決定したのが霜月末頃(1999/11/28参照)、更に記憶を辿れば実際に葉書への印刷を発注したのが師走の半ばという為体であった。只でさえ忙しい年末、あれこれ考えずに賀状をしたためている内に、気がつけば取締役相手に鹿顔のどアップ年賀状(2000/01/07参照)を送付していたのであった。今年は二度と同じ轍を踏むまい。

 とすればそろそろ年賀状の題材の選定を行わねばならぬ。処が今年は旅行回数が例年同期に比べ異常に少ない事から選定対象となる写真の絶対数が極めて少ない。而も今年の傾向として、1回の撮影に於いて24〜36枚単位でフィルムを消費せねばならぬ銀塩写真から、必要最小限と思われる光景でしか撮影しないデジタル写真へと撮影傾向が大きくシフトする事(2000/10/09参照)により、一層写真枚数の少なさに輪を掛けているのである。

 更に、此が最も大きな悩みなのだが、今年撮影した写真については特に気に入ったものを惜しげも無くトップページ上で次々と公開していたのだ。21世紀の幕開けという記念すべき元旦に、既に使い古され新鮮味に欠ける年賀状を送付するにも忍び無い。

 しかしよくよく考えれば、ネット上での関係者に葉書を送付するケースというのは比較的稀では無かろうか。確かに名前や住所を知っており面識も存分にある方が実は「EZOSHIKA TOWN」の狂信的マニアであるというケースも存在するのだが、基本的に「EZOSHIKA TOWN」愛好者については、「面識はあるが名前や住所は知らぬ」「源氏名は知っているが本名等は知らぬ」、そして最も多い「EZOSHIKA TOWN」愛好者のパターンが、書き手側で数の正確な把握すら不可能な一般来訪者なのである。そう考えると、まあ別にトップページの写真を年賀状に用いても構わぬのではないかという気がしないでもない。只一つ心配なのは、意表を突いた人物から「今年の年賀状はトップページに掲載していた3匹のマーラの写真やったな」などというツッコミを受けたらどうしようかという点なのだが。


2000/11/11

関西の餓鬼

 今日通院の為兵庫に行き、其の帰りに大阪に寄った時の事。或るエレヴェータに乗った際、既に先客として小学校低学年辺りの男児が数人居た。

 暫くして其の内の一人が小声で言った。「今誰か屁こいたやろ。音が聞こえたぞ」其の一言を契機に「嘘や、そんなん聞こえてないぞ」「いや俺は聞こえた」「誰やこいたのは」等と吶喊が始まったり、彼等は途中の階で降りるや否や、エレヴェータを出た処で私にも明瞭に聞こえる声で叫んでいた。「あのおっちゃんや!あのおっちゃんがこいたんや!」

 見も知らぬ餓鬼共におっちゃん呼ばわりされるのも初めての経験ながら、見も知らぬ餓鬼共に放屁魔の濡れ衣を着せられたのも初めての経験である。通常であれば其の場で餓鬼共を追い掛け足蹴にせんばかりに怒り心頭に発してしまう処、私の頭の中は「此奴等関西の餓鬼らしいのう」という一言で此の事件を片付けてしまっていたのであった。どうも私の中には「関西の餓鬼」というだけで如何なる無礼や悪態を行っても不思議ではないという強い先入観があるようである。元を辿れば「関西の餓鬼」として平気で同種の行為を行ってきた自分自身の姿をだぶらせた上での先入観なのだが。


2000/11/10

全裸と着衣

 飽くまで世間一般の話なのだが、全裸よりも中途半端な着衣により強いエロティシズムを感じる習性が人間には存在する。全裸で靴下だけを着用している光景なんぞは非常に判りやすい例では無かろうか。其の他にも、全裸の上からエプロンを着用した状態で調理場に立っている光景や、強姦の為に着衣を剥ぎ取られて襤褸切れと化した下着のみの状態になっている光景なんぞに堪らぬエロティシズムを感じる向きも存在しよう。個人的には、上半身は通常の着衣であるにも拘わらずどういう訳か下半身は全裸という光景が、見ている此方が恥ずかしくなる位のエロティシズムを感じたりするのだが。(尚、此処で言う「エロティシズム」と「性的興奮」とは、相互に関係するものであるが必ずしも同一の概念ではない。此については改めて述べることにする)

 其処でふと思ったのだが、此の習性を別の方向に活かすことが出来るのでは無かろうか。即ち、普段全裸の状態で居る獣達に衣類を中途半端に着用させる事(勿論獣達の着衣についての同意が必要不可欠である)により、人間は意外なエロティシズムを感じる事が出来そうな気がするのだ。言う迄も無く私自身は試す積もりは毛頭無いのだが。


2000/11/09

ペログリ

 最近巷間に於いて流行しており、今年度「流行語・新語大賞」の有力候補となっている語の一つに「ペログリ」なるものがある。元々或る作家が月刊誌に連載している「東京ペログリ日記」で用いられた語であり、「ペロ」は口唇愛撫、「グリ」は挿入行為の擬音語、双方を併せた「ペログリ」で性行為を指す。先日彼が長野県知事選に出馬した際、対立候補陣営から其の連載記事が「知事としての品性に欠ける」「フリーセックスを助長するかの如き内容に倫理観が欠如している」など攻撃材料として喧伝される事により、俄然世間の注目を浴び、彼方此方で「ペログリ」なる語が日常生活に於いても頻繁に口にされるに至ったものである。

 昔から彼の作品は生理的に好きになれなかった。小説にせよ評論にせよ「一体貴方は此の作品から何を主張しようとしているのか」「左様な感性に基づく批判が許されるのか」「抑も此の文章は自己の単なる自慢にしかなっていないのではないか」などと、恐らく作品のレヴェルが低いという訳では無く価値観や感性に於いて私と徹底的に相反するものである点が其の原因であったものと思われる。学生時代購読していた週刊誌での彼の連載記事も、何時しか目を通すことすら行わなくなってしまった。

 にも拘わらず、彼が世に上梓した「ペログリ」なる語については其の素晴らしさを認めざるを得ないのである。通常言い換え語というのは其の語の持つ本質を矮小化・希薄化させる事により世間で用い易くする為に用いられるものなのだが、此の語は逆に「元の語の持つ本質のエッセンスを直截かつ明白に際立たせるのみならず世間でも受け容れ易い」という点で通常の言い換え語とは一線を画しているのである。単なる「性交」「セックス」という文字面では直接味わうのが困難な行為中のエロティシズムを、端的に集約させて密度を濃いものに昇華させている。

 願わくば一生の内に一度位は斯様な語を世に問いたいなどという壮大な夢を抱かせる程の衝撃を受けたにも拘わらず、当の作家本人は件の連載記事文中に於いては「ペログリ」なる語を「PG」なる無機質な単語に言い換えて用いて居るとの事。何という勿体無い事を。


2000/11/08

未だ解決せざる疑問

 昨日(2000/11/07)の文章を書いていて少年時代より強く抱いていた疑問で悩んでしまった。性行為時の快感を深める為に陰茎の皮膚内に真珠を埋め込む人達が少なからず存在するようなのだが、相手の女性が快感を得るのは容易に想像がつく一方で、当の男性自身は一体何が気持ち良いのだろうか。寧ろ真珠が陰茎を圧迫して痛みすら感じるのでは無かろうか。

 そして序でに想い出した別の疑問。所謂アナルセックスに於いて、挿入側からは「入口が狭いんで締まりがええねん」「あれはあれで通常の挿入行為とは別の快感があるんや」などという説明が為される場合が多いが、被挿入側には一体どの様な快感があるというのか。只単に痛いだけであり、下手をすれば外傷すら負いかねないのではないのか。

 両方の疑問についても、未だ嘗て実体験者(というよりは実体験を公表し得る人物)に遭遇した事が無いばかりか、自分自身が体験してみるには何かと余りにリスクが大きすぎる為、彼此中学時代辺りから今に至る迄答えの見つからぬ袋小路で悩み続ける次第。


2000/11/07

年賀状作成ソフト

 「筆」なる語が一般的に「陰茎」を趣深く表現する語である事は論を待たぬ。一例を挙げてみても「筆下ろし」(童貞喪失の意か)、「肉筆」(肉棒の意か)、「遅筆」(遅漏の意か)、「毛筆」(陰毛の意か)、「筆舌」(フェラチオの意か)、等々数多存在する。而るに年賀状作成ソフトの商品名に於いては此等の用法を踏まえた上で、大衆の猥想を掻き立てるかの如く命名されているのだ。

 此の業界に於けるトップシェアを占める「筆まめ」。己の陰茎をまめに用いている男性が容易に想起されよう。若しくは、陰茎を過度に使用して生じた肉刺とも解釈されよう。又、此の逆に「筆無精」なる商品も存在する。妻に「貴方、もう2週間も御無沙汰なのよ。今晩は頑張ってよ〜」とせがまれても「忙しくて疲れてるんだ。もう寝る」などと宣う夫などが此に該当しよう。

 「筆王」。真珠の王冠を戴いた見事な陰茎を保有し周囲の女性達を屈服させ威圧感すら与えている様な男性に与えられる称号に相応しい。そして左様な男性は常日頃から、とりわけ性行為直前などには「どうだ、俺様の逸物は」性行為終了後には「どうだ、参ったか」などと「筆自慢」を行うのであろう。

 女性の視点から見てみると「筆ぐるめ」なる商品が存在する。「私は20cm以上の陰茎しか相手にしないわ」「昨日は高校生の陰茎を摘み食いしちゃった」「右反りの陰茎は膣壁の通常刺激されない部分に当たってくるのが堪らないの」などと女性達が舌鼓(此処では「下鼓」の方が実態に合致しているかも知れぬ)を打った陰茎を品評する光景が即座に脳裏に浮かんで来よう。

 異色な商品名としては「筆円陣」なるものが存在する。干支に登場する獣達が仲良く手を取り円陣を組んでいるという爽やかなパッケージとは裏腹に、一部の体育会系集団等に於いて実施されているという、新人を全裸で円陣に座らせて誰が最も早く射精するかを競うという凄惨な競技を連想させるではないか。

 因みに私の年賀状作成ソフトは「筆休め」。所有者の事情を如実に表現した商品名と言えよう。


2000/11/06

日本経済新聞・6

 三連休明けの日にいきなり深夜まで会社に居る事となり疲れた儘帰宅して何時もの如く日本経済新聞夕刊を目にしていた、否、目にしていた積もりであった。

 何かがおかしい。「性交渉」だの「排尿」だのといった種の、何処ぞのサイトで最近頻繁に目にした単語がいきなり記事の冒頭に登場する。此処で私は己の疲れ具合の酷さを感じてしまった。「おれは日本経済新聞を読んでいる積もりで、実は『エゾシカの嘶き』を読んでいるのではないか」

 しかし目の前にあるのは間違いなく2000年11月6日付日本経済新聞夕刊であった。訝りながらも記事を読み進めた処、「亀頭」「包茎」「勃起」「恥垢」など、一層過激な単語が頻発しているではないか。此処で私は再び己の疲れ具合の酷さを感じてしまったのだ。「おれは普通の新聞記事を目にしながら、目から入力された情報が神経系の何処かで猥語変換を行い大脳に情報を送っているのではないか」

 しかし幾ら冷静になって確認しても、目の前にあるのは間違いなく2000年11月6日付日本経済新聞夕刊であった。最後まで読み通して、泌尿器科医師による包茎から引き起こされる亀頭包皮炎の症状及び対処法について述べた文章だということが判った。通常で在れば「ほほう、包茎恐るべし」などと言いながら記事を読み進めれば良いものの、疲れ切った肉体や精神の下では自らの身体能力を一から疑う作業を何度も行わねばならぬ。まるで私の状況を洞察し切っているかの如く、此の日に狙って斯様な記事、而も最近の「エゾシカの嘶き」で採り上げた単語をいきなり冒頭で紹介した記事を掲載した日本経済新聞、最早単なるライヴァルに留まらぬ。


2000/11/05

体で払う

 日常行われる債務履行の手段の一つとして、俗に「体で払う」という方法が存在する。此処では一部で一般的に行われている、人体の臓器や器官による代物弁済とは異なり、自らの肉体を債権者の性欲を満たすべく性具として提供するという意味である。偶々他のサイトで此の言葉を目にして、学生時代に読んだ麻雀漫画を想い出した。

 賭麻雀で多額の債務を抱えた美女が腕利きの美男雀士の許を訪れ、債権者達から負け分を取り戻す様依頼する。美男雀士は前払報酬を彼女の体で払う様要求し、彼女は其れを受諾するのであった。しかし結局彼は債権者達との戦いに於いて惨敗し、更に債務を膨らませてしまう。彼女は其れを聞き激怒し、報酬の返還を彼の体で払う様要求し、彼女は己の借金の事も忘れて彼との性行為三昧に浸るという結末であった。

 しかしよくよく考えてみればお互いがお互いの肉体に対して性具としての価値を見出している状況下に於いては、双方の間では報酬の遣り取りなんぞ関係無しに、お互いの欲望の儘に勝手に好き放題性行為に耽っておけば済む話では無いか。まあ斯様な事を一々気にしておれば、意味も無く債権債務関係に関わってきたりする異性同士の性行為が本筋の麻雀との脈絡も無く生き生きと描かれる(時として左様な行為が麻雀シーンよりも深く激しく精緻に描かれる場合すら存在する、というかしょっちゅうである)のが定番である麻雀漫画なんぞとても楽しめたものでは無いのだが。


2000/11/04

続・オフ会

 「世の人間は二種類に分類される。グラスに半分の酒が入っている光景を前にして、『酒が半分も入っている』と考えるのが楽観主義者、『酒が半分しかない』と考えるのが悲観主義者である」確か有名な西洋小咄の一つにあったような記憶がある。同じ物を目にしても視点を少し変えれば全く別の人種が別の物を見ているかのようになってしまうという事であろう。此の際酒が飲めぬ私のような「『酒が半分も入っている』と考える悲観主義者」の存在は無視されているのが残念なのだがそんな事は此の際どうでも良い。今日は此の小咄を彷彿とされる事件に遭遇してしまったのだ。

 2000/09/02で触れたオフ会参加者を中心に、今日オフ会が開催された。今回も非常に盛り上がり、楽しい時間を出席者の方々と分かち合えたのだが、其の席上事件は発生した。

 偶々其の場にあった牛の人形、人間が牛の着包みを纏っているかの姿で台に腰を下ろして釣り糸を垂れている。しかし其の釣り竿の根元が見事に股間から伸びており、端目にはどう見ても、さながら牡牛が股間から細長い陰茎を極大に勃起させている様が容易に想起されるものであり、其の場に居た者は皆挙って大笑いしていた。

 事件は此処からである。出席者の一人が其の様子を目の当たりにして悩んでいた。「私には解せぬ」何を今更蒲魚ぶるのかと思いつつよくよく問うてみた処、返答は「此の牛は牡なのか牝なのか」。即ち、牡牛が細長い陰茎を極大に勃起させて淫らな笑みを浮かべていたのか、其れとも牝牛が自ら有り余る性欲を発散させる為、陰茎を形取った張り型を自らの女陰に抜き差しさせて悦楽の境地に浸っていたのかで悩んでいたのだ。数多の出席者の内誰一人想起し得なかった後者の発想の新鮮さ及びより深い淫猥さに皆は笑い驚き腰を抜かし、場の雰囲気が瞬く間に変化してしまったのであった。

 全く同じ物を目にしていながら、勃起による性欲の発露という視点しか持ち合わせていなかった多数の人間と、此の視点に併せて器具による自慰行為という視点を有していた個人。どちらの方が人生に於いて楽しいかといえば百人が百人共後者と答えるであろう。通常の視点に加え、少し其れをずらしてみるだけで、本人にとっても周囲にとっても、人生の楽しみが一挙に増加する事を身を以て体験した次第。


2000/11/03

検索エンジン・5

 気がつけば月も替わっていたため、2000/10/06に続き、10月トータルのアクセス分析を行うことにする。

 従来は平日の始業時間及び昼休みのアクセスが中心だったのが、10月については休日及び深夜のアクセス数が相対的に増加していたようである。此を2000/09/12の分析と照らし合わせて考えると、ビジネスマンが混沌とした現代を生き抜くには、出社してから「エゾシカの嘶き」を精読するのではとてもじゃないが間に合わない為に、皆挙って前夜に家庭からアクセスしているものと容易に推測されよう。世間のビジネスシーンに於いて益々激化しつつある一刻一秒を争う情報戦争に「エゾシカの嘶き」が関与しているかと思うと、或る種の責任感のようなものをひしひしと感じてしまうのである。

 そんな事よりも重要なのが、検索エンジンから「エゾシカの嘶き」を訪れた人が如何なる検索語を用いたのかである。前回1着同着であった「肛門写真」「女体盛り」は下位に低迷し、トップの座を奪ったのは「陰茎写真」に「金津園」であった。金津園は今回初登場でいきなり首位とは恐れ入る。其れにしても先月は肛門で今月は陰茎かよ。そして3位にあの注目のキーワードが入ってきた。「sn kt12a」。言わずと知れた、2000/09/26で触れた日本経済新聞ウェブサイトに於けるクイズの問題では無いか。皆が挙って解答しようとして商品名を検索した処、「エゾシカの嘶き」に辿り着いて正解を導いたという事であろう。解答を公開してしまい、日本経済新聞には申し訳ないことをしてしまったと反省。

 其れにしても今回は猥語を押し退け、地域生活に密着したマニアックな検索語が多く目立ったようである。一部を採り上げただけでも「北海道 観光 食べ物 蟹」「宮城県 松島海岸 観光スポット」「群馬県 ゲイバー」「クリーニング屋 浦和」「中京競馬場 2000年5月20日」「ラブホテル 愛知県」「関西自殺の名所」「熊本 鹿 食べ物」「黒川温泉 風俗」…とまあ、北海道から九州までの地域情報検索に役立っている模様である。因みに此等の検索の目的に合致している文章は「エゾシカの嘶き」上にどれ一つ存在しないのだが。

 さて、今回一つだけ個人的に嬉しかった事がある。6月半ば辺りから今回の統計を取り始めて4ヶ月余り、初めて「エゾシカの嘶き」なるキーワードで此のページに辿り着いた方が1名いらっしゃったという事である。


2000/11/02

芳香族化合物

 幼少の頃から芳香族化合物系の匂いに弱い。此処で言う「弱い」とは、「逃げ出したくなる位苦手」という意味では無く寧ろ其の逆で「メロメロになる位惹かれる」という意味である。

 最初に堪らなく惹かれたのはコールタールの匂いであった。当時の家の近所にあった駅に、線路の枕木用としてコールタールの塗られた木材が積み上げられており、臭いようで何度でも嗅ぎたくなる様な甘い香りに惹かれ、其処を通る際には精一杯鼻腔を膨らませて息を吸い込み、嗅覚を総動員させていたのだ。

 小学校の頃には、懐炉に用いられていたベンジン、模型用に用いていた接着剤、図工用に用いていたスティック糊、汚れ除去に用いられていたシンナー等々、日常生活に於いて芳香族化合物に接する機会が増え、其の度に堪らない気分に浸っていた。流石に、当時若者の間でブレイクしていた「シンナー遊び」(シンナーを吸引する事で酩酊及び幻覚をもたらす。結果として脳、内臓、神経等に多大な障害を与える可能性が高い)なんぞに手を染める様な真似はしなかったものの、此等の香りに接する機会があれば匂いを堪能していたものであった。

 最近どうも脳細胞の働きが頗る良くなく感じられるのは、只単に年齢の所為だけではなく、幼少の頃からの斯様な行動が其の一端ではないかと真剣に思えてしまうのだ。


2000/11/01

パパ

 昼休みに大書店の幼児コーナーに足を運び、幼児や其の母親の集団と共に絵本を物色していた。別に私に絵本関係の趣味がある訳ではなく、2000/10/25で触れた「三びきのくま」の原典を確認しようとしたのである。「エゾシカの嘶き」が混沌とした現代を生き抜くビジネスマンの必須アイテムであると認められている(2000/09/12参照)以上、好い加減な事実を公開することにより企業活動や経済動向に良からぬ影響が出ては非常に拙い為、自己の知識を再確認する意味でも曖昧な記述を堅固なものにしておく必要があったのだ。

 幼児の喧噪や若奥様のお色気がムンムンしている空間に於いて、スーツ姿の青年が一心不乱に特定の絵本を探し求めて本棚を隈無く物色する様を客観的に想像して非常に恥ずかしかったのだが、其の恥ずかしさを糊塗すべく、私は「新婚数年の一児のマイホームパパ」という役柄を自らに与え、会社の休憩時間を惜しんで一生懸命可愛い子供の為に絵本を探してあげているというふりをしていたのだ。

 其の一方で、先日乗馬倶楽部に於いて共に講習を受けていた青年に「ええっ!?まだ独身なんですか!?てっきりパパさんだと思ってましたよ!」と言われた際に「何処の世界に斯様な心身共に落ち着きの無いパパさんがおるかいっ」と思いつつも酷くショックを受け当惑し心に傷を負ったばかりではないか。詰まらぬ処で都合良く出来ている性格に自ら呆れ返った次第。


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