エゾシカの  1999/11/01〜1999/11/30

最新 前月 翌月 一覧 「EZOSHIKA TOWN」トップ ※明朝体推奨

1999/11/30

鶏肉

 クリスマスが近づくにつれ、街に鶏肉が溢れ出す。どこもかしこも飲食店は鶏肉のオンパレード。恐らくクリスマス辺りに七面鳥を食べるという風習が日本に採り入れられるにあたり、「年末には鶏肉」という風習を生み出し、日本全国、いや、輸入鶏肉を含めると全世界で普段より遙かに多くの鶏類が羽を毟られ逆さ吊り状態で首を刎ねられ屠殺されて、鶏の皮から血肉や骨髄に至るまで好んで止まない人間達の胃袋に収まるのである。

 近年鶏肉はこの時期に限らず露出が高まってきているような気がする。日常の食事を購入する機会が多いコンビニエンスストア等でも鶏肉メニューがかなり豊富であり、ファミリーマートなんぞに至っては、鶏肉の入っていない弁当類を探すだけで一苦労である。また、最近ではケンタッキーフライドチキンに限らず、各ファーストフード店で鶏肉をパンで挟んだ食物が幅を利かせている。これらの現象、鶏肉を含めた肉類が基本的に苦手な私にとってはひたすら辛い。

 そのくせしてどういう訳かチキンナゲットが好物の私は、毎年この時期に実施されるファーストフード店の「チキンナゲット半額セール」を精一杯享受している。自分でも少し不思議に思える嗜好ではある。


1999/11/29

口座

 最近資産の整理を行っているのだが各種口座の多さに改めて驚いた。出来る事なら資産の多さに驚きたかったのだが。

 さてその口座、メインバンクだけでも、知人の義理で作らされた口座、その手続きの際に店頭で開設を勧められた口座、その知人の転勤で作らされた口座と3種類ある。これに加え、旅行の前に入金して全国で安心して使うための口座、パソコン通信による勝馬投票券の購入のために開設した口座と、通帳だけで結構嫌気が差す。これに加え、会社の積立預金、持株会。さらにこれから密かに株式投資用口座を開設しようと企んでおり、ただでさえ面倒くさがりの私にとっては、どこにいくらあるのか把握するのが困難な状態になってしまう。一度で良いから総額を把握するのが困難だと感じるくらいの金額になって欲しいのだが。

 これらの中で最も投資効果の高い口座が勝馬投票券購入口座。かといって、ここに資産を集中させてしまいたくはないものである。


1999/11/28

続・年賀状

 小学生時代に年賀状を書き始めて以来現在に至るまで、毎年基本的に相手の宛名書きは全て筆ペンを用いている。学生時代よりパソコンやプリンタを所有し、知人の氏名や連絡先から年賀葉書の「お年玉番号」に至るまでパソコンで管理しているにも拘わらず、そのスタイルは崩していない。

 実はこれが頗る評判が悪い。元々悪筆の上、普段慣れぬ筆ペンを用いることにより更に悪筆ぶりが倍加され、受け取った側が眉を顰めるケースがかなり多いらしい。それでもこのスタイルを崩さないのには2つ理由がある。

 一つは、普段の悪筆振りを知らない人に対して、慣れぬ筆ペンを用いることにより「いやぁ、やっぱ慣れぬペンを使うと字が汚くなりますわぁ。はっはっはっ」と、悪筆振りを筆ペンのせいにすることができるというメリットがあるからである。尤も、普段の悪筆振りを熟知している方々にとっては「んなもん筆ペンのせいやないやんけ」という突っ込みを受けてしまうことになるのだが。

 それ以上に大きな理由は、年賀状を「普段改めて言えない感謝を相手に伝えるための1年で1回の口実」と考えており、年賀状ならではの表現方法を用いるべきだと考えているからである。宛名をサインペンで書いたり印刷したりなどするのであれば、別に年賀状の形をとって葉書にしたためなくてもいいではないか。

 学生時代は毎年200枚近くの年賀状、1枚1枚相手に応じて手を変え品を変え別々のデザインで拵えていた。今でこそ裏面は写真印刷を用いているが、前述(1999/11/19)の通り、写真選定にはかなり気合いを入れている。

 さて、今年も悩みに悩んだ末、写真選定が終了した。写真を印刷に出した後は、そろそろ筆ペンの選定に移らねばならない。


1999/11/27

奥さん

 他人の妻を指すときに用いられる代名詞「奥さん」。普段どういった人がこの代名詞を用いているかを考えてみると、年配のオヤジだとか、その「奥さん」と同世代の女性が用いるケースが多いのではないか。

 最近のTVCMで、猫がインターネットに夢中になっている人妻の事を「奥さん」と指しているものがある。しかも15秒中に2回。なかなか新鮮な用い方であると感じたとともに、若干違和感を覚えた。

 もともとこの言葉には「妻は家庭の奥で慎ましくしているものであるべき」という一方的な価値観が込められたものであり、そういった代名詞を軽々しく用いることができるのは、余程普段尊大な人間か、用いられる側と同じ立場にある人間かのいずれかであろう。因みに私はできるだけ「家の方」とか言い換えて用いている。

 そう考えると、もし私が誰かの人妻でありインターネットに夢中になっている時に、自分より遙かに年下の飼い猫に「奥さん変わった!」などと言われたら、「何もあんたらが私を奥さん呼ばわりせんでもええやろうに。せめて名前で呼んでくれや」と思ってしまいそうである。


1999/11/26

日記

 長期にわたり日記を書いていたことがある。最初は中学入学時の、担任との「交換日記」的なものであった。当然自発的なものでなく強制である。また「日記」とはいえ書いたものは学校の寮の先生達に提出したうえで担任に提出するなど、かなり人目に触れるものであった。当然楽しくある筈がなく、よくこんなものが2年も続いたものである。

 そして中学3年の時からだったと思うが、初めて自主的かつ継続的に日記を書くことにした。当時深く傾倒していた筒井康隆の「腹立半分日記」という作品に相当影響を受け、「日記とはこんなに面白いものなのか」と認識を新たにし、最初はルーズリーフに、暫くしてからは専用の高級ノートを購入して日々の生活を綴っていた。高校3年になり受験で1年間中断したものの、大学入学から中退までの1年間、また復活したのだった。

 しかしその1年間というのは新たに大学受験をし直す1年であり、大学の勉強と大学入試の勉強、そこに部活や麻雀などの課外授業も加わり、高校3年生の時より忙しい1年であった。そんな訳で満足に毎日日記を書ける筈もなく、1年間、1日たりともその日の出来事をその日のうちに日記にしたためたことはなかったのだった。

 さて、言い訳の為の前振りはここまで。「日記」ではないがこの「エゾシカの嘶き」、最近は更新が1日遅れとなるケースが多々ある。世界各地で日々更新を待ちわびている方々には申し訳ないのだが、何卒ご容赦いただきたい。


1999/11/25

垢擦り体験

 先日純粋な「垢擦り」を体験した。サウナの片隅のベッドに女性が私を招く。年の頃は私より少し若い。腰にタオルを当てて女性の元に向かい、ベッドに仰向けに横たわった。タオルは局部しか覆ってもらえず、目隠しをされ、もう為されるがまま。

 女性がひたすら私の体を擦る、擦る。痛み等はなく心地よい。しかしそのうち下半身を擦られる際には股間のタオルも邪魔になっており、途中からは股間をさらけ出す羽目になった。実は物心就いてから、名も知らぬ若き女性に股間をさらけ出すのは初めての体験なのである。

 そして俯せに。もうここまできたら尻をタオルで覆うことなど許されない。生まれたままの姿で背中や腕を擦られ、遂に尻の谷間まで擦られる。言うまでもなく、これも物心就いてから、名も知らぬ女性に尻の谷間を擦られるのは初めての体験なのである。

 至福の40分。垢擦りで体全体が綺麗になったような気分になり、血行が良くなったような気分になり、そして何よりも、恥ずかしいような解放されたような不思議な気分になった。


1999/11/24

獲らぬ狸

 先日の日曜、京都競馬場で行われたG1レース、マイルチャンピオンシップ。このレース、私にとっては初めて競馬で稼がせて頂くなど比較的縁起の良いレースである。従って、本命馬にかなりの自信を抱いていた今年、少し魔が差して百万円ほど勝負してみようと思ってみた。勿論いつもの如く思うだけで結局実行はしていない。

 結果的には4800円で単勝勝負をし、見事的中させたのだが、もしここで当初予定通り百万円を賭けていたらどうなっていたか。掛け金が大きくなればなるほど配当が下がってくることになり、思ったほどの配当は期待できなかったのではないか。

 単勝馬券(1着の馬を当てる馬券)で何倍の配当が得られるかは、概算で「(全ての単勝馬券の売上高)÷(当該勝ち馬の単勝馬券の売上高)×0.75」(小数第2位を四捨五入)で算出される。今回のレースに当てはめると、(全ての単勝馬券の売上高5億7184万7700円)÷(勝ち馬エアジハードに投じられた単勝馬券の売上高2億0794万2100円)×0.75=2.06となる(実際の倍率は2.2倍)。ここで私が4800円でなく百万円を投じていたとしたら、(5億7284万2900円)÷(2億0893万7300円)×0.75=2.06。結局同じ割合の配当が得られたということになる。

 少し後悔するとともに、1回のレースに単勝馬券だけで何億も金が注ぎ込まれているという事実に愕然とした次第である。


1999/11/23

古傷

 濡れた廊下で滑り、膝を強打した。廊下を濡れたままにしておくと誰かが足を滑らせるという自然の摂理に疎い人が朝に廊下掃除をしているようで、掃除直後の時間帯にそこを通るときには恐る恐る歩いているのだが、それでも今まで何度か転んでいる。

 幸いにも痛めたのは左膝であった。「幸いにも」というのは、高校時代、部活の練習中に転んで右膝骨を割ってしまい、今でもその古傷が未だに時々痛むからである。部活の練習中というと聞こえは良いが、偶々先輩達が修学旅行か何かでいなかった時に、みんなで練習をさぼってボールを使った鬼ごっこに興じていて転んだだけの話であるのだが。

 この時は高校1年という受験を意識しなくて済む学年の夏休み前ということもあり、「この夏は思いっきりアクティヴになるぞ!」と思っていた矢先であったのだが、夏休み前半は殆ど通院に時間を充てていた。そして参加が危ぶまれた夏休み後半の部活の合宿前に、医者に「もうそろそろ治るでしょう」と言われ、いい気になって合宿に参加し、思う存分走り回って帰ってきて改めて医者の診断を受けたのだが、「思ったほど治りが良くないなぁ。これは長引きそうですよ」との事。当然といえば当然である。

 今でも古傷が痛むのがこの時に走り回った代償であるのなら、あまりに小さな快楽のためにあまりに大きな代償を払ってしまったと言えよう。


1999/11/22

ゲームセンター

 旅先で突然時間が余ったり、待ち合わせに少し早く来てしまったときなど、時間潰しにゲームセンターに足を向けることがある。よく楽しむゲームは、麻雀、将棋、オセロ、クイズ、ルーレット、競馬の類。そう、ゲームセンターで主力をなすアクションゲームの類は全くと言っていいほどやらないのである。第一に、どのボタンを押してどうなるのか、誰を倒せば勝ちなのかなど、ルールを把握するのに一苦労するのである。次に、ルールを把握したとして、実際にスピーディーな操作に慣れるまでに一苦労である。最初のうちは失敗に次ぐ失敗で、ゲームが面白くなる頃には資金的に面白くない結果に陥る。また、この失敗の連続が結構恥ずかしい。後ろにギャラリーがいるだけで緊張して余計に失敗を重ねてしまうことになることが多々ある。従って、必然的に楽しむゲームが限定されてくるのである。

 それにしても不思議なのはゲームセンターの麻雀。例外なく女性を相手に服を脱がせて楽しむものになっているのだが、何か理由でもあるのか。少なくとも私は、人間相手の麻雀で服を脱ぎ合った事などないし、そんな話を耳にしたことすらない。また、対戦相手がここまで脱ぎたがるゲームも他になかろう。ストリートファイターで戦った相手が脱いだり、カーレースゲームでエクステンディッドプレイになったらレースクイーンが登場して1枚脱いだりするものにお目にかかった事などないし、そんな話を耳にしたことすらない。「ゲームセンター」と「麻雀」とが合体した場合にのみ、女性はほぼ100%脱ぎたがるのである。個人的には寧ろ純粋に麻雀を楽しみたいのだが。


1999/11/21

ブランドとネーミング

 ブランドとネーミングとは異なるものである。端的に言えば、前者にはそのもの自体に価値があり、後者にはそれがない。商品を見るまでもなく、「○○のバッグ」「△△のコーヒー」などと聞いただけで、「高級そう」「香りが良さそう」などとある一定のイメージが想起されるのが前者、「ふーん、あの会社ってバッグも作ってるのかぁ」「何それおいしいの?」などとなってしまうのが後者である。

 □□という名称がブランドなのかネーミングなのかを見分ける簡単な方法として、私は頭の中で「有名ブランドの□□が今度新しい商品に進出!さて、その商品とは?」という大喜利に取り組む事にしている。自分のお笑い能力をひらすら信じて、知力を尽くして面白い回答を考えるのである。そこで面白い回答が出てくれば、それはブランドであり、精一杯考えてもいい回答が出てこなければ、それはネーミングであると判断するのである。

 ここで面白い回答が出てくるということは即ち、□□のイメージとギャップのある商品があるということであり、それだけ□□のブランドイメージが特定・明確な価値を持つものであると判断できるのである。逆に、いくら考えても面白い回答が出てこないということは、□□という名称がどんな商品につけても「あっ、そう」というものであり、それ自体イメージ価値を伴わないネーミングであると判断できるのである。言うまでもなく、お笑い能力が或る程度備わっていなければいくら考えても面白い回答は端から出て来ず、この判定法は使えないのだが。

 ブランドが特定のイメージを持っている以上、ブランドを商品ターゲットや商品イメージを超えて通用させることは不可能である。最近話題となっている、企業・業種を超えたブランド展開「will」プロジェクトが成功するかどうかは、そのブランドの想定するターゲット・ライフスタイルに合致した利用法がなされるかどうかにかかるのであろう。逆に言えば、それぞれの商品がバラバラのターゲット・ライフスタイルに受容されるような結果になれば、「商品の増売」という点では成功かも知れぬが「ブランド醸成・ブランド資産の効率的利用」という点では失敗ということになるのである。


1999/11/20

時季はずれ

 出す時季に気をつけねばならない広告というものが存在する。極端な話、イベントの開催を告知するポスターがイベント終了後にまだ街頭に張られていたりしていると非常にまずい。

 また、生活者の側に実害はないものの、広告を出している企業が笑い者になってしまうというケースも存在する。有名な例では、昨年の春から秋までロングランで大量に流されたIDOのTVCM、夏真っ盛りであろうが秋の寒空を感じる時期であろうが花見のシチュエーションで、桜満開の公園で通りがかりの妻の存在にも気づかず女装して歌い踊る上川隆也の健気さが哀れを誘ったものだった。

 永谷園のお茶漬けのTVCM、オンエア当初から何かと話題になっているが、最近どういう訳か夏編がオンエアされているようである。そろそろコートも必要かという時期、若者が汗をかいて上半身裸にならなくても良かろうに。それとも本来若者をターゲットにしたこのCMシリーズ、「ああっ!あのお茶漬け男がたまらないわっ!」というF2層(35〜49歳女性)あたりを獲得するため、裸体を露出することによってアピールしようとでも考えているのだろうか。


1999/11/19

年賀状

 年賀状のシーズンである。図柄を何にするかそろそろ思案せねばならない。今年は卯年に因んで「うさぎうま」の和名を持つ驢馬の顔写真であった。中にはこのような大和言葉の情趣が理解していただけなく「何故驢馬なのか」などと問うてきた方も少なからず存在した。それだけでなく「正月から白馬とは縁起がよい」「何なのだあの変な顔の動物は」などという動物自体に対する認識をさほど持っていない方々もそれに勝るとも劣らず存在した。

 それはさておき、近年では年賀状の図案にはその年のベストショットを選んでいる。前年は稚内で観た水平線に沈む夕日、その前は冬から春に移ろおうとしている大沼公園から駒ヶ岳を臨んだ写真であった。そこで今年のベストショットを選ぶ作業を行っていたのだが、かなり難航している。というのも、撮った写真は極めて豊富なのであるが大半が競走馬をはじめとする獣類なのである。特に10月の奈良・京都巡りでは、フィルム2巻を用いて1巻はオール馬、1巻はオール鹿であった。いや別に獣でも一向に構わないのだが、折角だから「正月」「辰年」「2000年」などに相応しい写真を選びたいというのが人情である。今から新しく写真を撮りに出かけるか、「今年は国際獣愛年」(さっき私が決めたばかり)「西洋では古来よりミレニアムには獣を崇め奉っております」(過去ミレニアムは1度しかない)等巧みな口実をつけて獣年賀状を作成するか。余計な悩みを抱えてしまったものだ。


1999/11/18

アルジャーノンに花束を

 昔から流行りものとは無縁の生活をしている。とりわけ、音楽や文学など、誰もが比較的簡単に手を出して流行りものに付和雷同し、したり顔でそれらについて語ることができるようなものに対しては、譬え私自身強い関心を持っていたとしても意識的に流行りものに背を向けている。従って、所謂「話題作」というものを目にするまでには数年かかる事が多い。

 そんな訳で、密かに興味を抱いていた10年近く前の「話題作」である小説「アルジャーノンに花束を」を先日やっと読んでみた。主人公にとってどの時期が本当に幸せだったのか、人間らしい生き方だったのか。自分が同じ立場であればどう振る舞っていたか。そんな事をあれこれ考えながら読んでいると、小説から離れている時にも本当の幸せとは何ぞや、人はどう生くるべきか、そんな事を思ってしまうのである。こうなると私は無性に宮沢賢治の世界に触れたくなるのだ。そのうち気がつけば「グスコーブドリの伝記」を手にしながら花巻辺りを彷徨っているかも知れぬ。


1999/11/17

鼻捻子

 サラブレッド生産の際、当然牡馬と牝馬とが目合う訳なのだが、お互いが自由に目合う相手を決めるわけではなく、全て人間が勝手に相手をセッティングして目合わせるのである。

 従って牝馬は嫌な相手に背後から迫られるケースも多々あり、場合によっては嫌な相手に処女を奪われてしまうのである。そういった時に牝馬が嫌がって暴れればただ単に目合いが行われないばかりか、相手の牡馬の生命すら奪ってしまう場合がある。その危険を避けるため、予め牝馬を押さえつけ、鼻を針金で縛り、暴れようものなら思いっきり引っ張り上げておとなしくするのである。この針金は俗に「鼻捻子」と呼ばれる。

 さてこの鼻捻子、普通に考えればとてつもなく痛そうである。人間でも鼻をぎゅっと捻られたら痛いものである。ところが、ある書物によると、これは俗説であり、鼻捻子と脳波の動きとの関係を調べてみると、鼻捻子をかけているときの馬の脳波は非常にリラックスしているとの事である。

 先日乗馬クラブで思う存分馬と触れあってきた際、彼らはなかなか顔を触らせてくれなかった。しかし、巧くいって鼻先に触れると途端におとなしくなり、目をとろんとさせて暫くなすがままに鼻を弄らせてくれるのである。矢張り馬の鼻にはリラックスするための神経が通っているのかも知れないと思った。人間に例えれば差詰め背中上部とか頭部とか項とかを撫で回されるとリラックスするようなものであろうか。

 実際のところどうなのであろうか。是非識者のご意見を伺いたい。


1999/11/16

価格査定

 或る商工ローンの試算によると、腎臓1個に300万円、目玉1個に100万円の値がそれぞれつくそうであるが、この価格査定、今ひとつ腑に落ちないものを感じる。実際の生活にあたり、腎臓1個がない場合と目玉1個がない場合では、後者の方が圧倒的に不自由するのではなかろうか。もし私が何らかの事情でこの商工ローンのお世話になることがあり、何れかを売却する必要が生じたら、迷わず腎臓を売却するような気がする。実際問題では、腎臓を売却した場合、万が一残りの1つに何らかの故障が生じた場合には間違いなく生命に影響を及ぼすため、非常に危険であるのだが。

 さて、長い前置きはさておき、世間はこの商工ローンの強引な取り立てについて問題にしているようだが、その脅迫内容(臓器売買市場の存在)について全く問題にならないのは一体どういう事なのか。そういった市場が存在しないのであれば、そもそもこういった脅迫は成立しまい。取り立てそのもの以上に問題となって然るべき脅迫内容ではないか。


1999/11/15

藤原紀香

 最近、日本航空だとかJ-PHONEだとかのTVCMを観てつくづく思うのだが、藤原紀香のCMってどうもプロモーションヴィデオ化していないだろうか。日本航空の場合、夏のCMは、彼女が海を謳歌しているもの。夏休みに飛行機を使いたいと思わせるような、航空会社の多客期お約束CMである。しかし秋のマイレージキャンペーン。彼女のどアップに音楽。何故マイレージか。どう考えても藤原紀香の宣伝に飛行機がだしに使われているようなものである。J-PHONEも然り。男を言葉でイチコロにさせることにより、言葉の持つパワーをアピールし、携帯電話の本来の機能およびメール機能を訴求していた。ところが今は彼女が携帯電話を持って街にいると大衆が彼女を追いかけようとするCM。最後にはそれまでのストーリーを全く無視してみんな揃って踊り狂う。一体何が言いたい。藤原紀香が人気者だってことなのか。携帯電話はあくまで藤原紀香を演出する小道具以上のものではない。解らぬ。

 偶々それぞれのクライアントに何か良からぬ事があったのか、それとも広告代理店に異変があったのか、若しくは藤原紀香サイドから強い要望があったのか。最もあり得そうなのは最後の考えであるのだが。


1999/11/14

飲尿

 1999/11/06で飲尿について軽く触れたところ、読者の方からお便りを頂いた。読んでみるとその方、飲尿を実践しているとの事。一体何が彼をそうさせたのか、飲尿の持つ魅力とは何か、興味津々で読み進んでみた。

 第一の魅力は「味」である。「ベースは塩味で、そこに数種の禁断の味をハーモナイズドさせたかの様な複雑な味」。確かに一度は飲んでみたくなるような味である。また味はその時の健康状態或いは精神状態に大きく左右されるようで、「おだやかな一日を過ごして夢見も良かったりすると、翌朝の尿は実にマイルドな奥深い味がして、すぐにおかわりできないのが残念なくらい」だそうである。本末転倒ではあるのかも知れないが、飲尿のために穏やかな一日を過ごしたくなってしまいそうである。

 また、新陳代謝が活発になるそうで、血色が蘇ったり、髭や毛の成育が早くなるなどの効果があるらしい。

 そして、メインイヴェントとも言える効能が、勃起力、持続力、噴出力、サイズ、精液量各々の飛躍的向上である。読者の方の、非飲尿時と飲尿時との能力比較グラフを見ると、勃起力で2倍の効果があった他、噴出力、精液量で2倍近くの効果が得られているようである。

 これだけ読むとすぐにでも飲尿を始めたくなる人も少なからずいるであろうが、少なくとも私は、新陳代謝を活発にする必要もないし、各種能力の向上を図ってもその能力を分かち合う相手がいない。「複雑な味」を口にするのもまだまだ先になりそうである。


1999/11/13

散髪

 散髪をしたところやけに頭髪が短くなったような気がする。いや、短くなるのは当たり前なのだが普段の散髪以上に短くなっているような気がするのだ。特に短くして欲しいという要求をしたわけでもないのだが。別に短いのが嫌というわけではなく、これから寒くなってきたら頭に堪えそうだなぁというのが気になるだけである。基本的には短い方が、朝寝癖がつきにくく便利だと思っている。似合う似合わないには特に関心がない。

 そういえば中学・高校時代はひたすら丸坊主であった。その反動で、大学では1年間散髪をせずに伸ばし放題、前髪は口にかかり横や後ろ髪は首を覆わんとしていた。中退時にやっと散髪をし、それ以来頭髪には何らポリシーも持たずに今に至る。無論、失恋との相関も全くない。将来頭髪が不自由になった時の事を考えると、頭髪のあるうちに何かしらポリシーを持っていた方がいいような気がする。

 それにしてもさっき観た深夜競馬番組。さとう珠緒が田中裕二を馬鹿にするコーナーで、今回の馬鹿にした一言は「馬鹿みたいに髪の毛を短くした田中さん」。よりによって私が髪の毛を短くした日にそんな事を言わなくても…。


1999/11/12

兵庫県

 先日職場の最寄り駅で兵庫県の観光展を実施していた。地形的に南北に広がっているため今ひとつ県トータルとしての影の薄い兵庫県、神戸とか城崎とか単独の観光展の方が却って成功するのではなかろうか。「『兵庫』を訴求したところで、こんなものに足を留める人間って兵庫県出身者くらいのものではなかろうか」と思いつつ、出身者の一人として足を留めてパンフレットやポスター等に目を触れてみた。

 案の定、「兵庫」として全域の観光資源を紹介せねばならない余り、比較的観光資源の多い市町の紹介がおざなりにならざるを得ず、そういった資源に乏しい市町のどうでもいい施設が所狭しと紹介されていた。

 地域ごとにパンフレットがあったため、私の出身地である東播磨地区(これでどの地区を指すのか具体的にイメージの湧く人が兵庫県人を含め一体どれ程いるのだろうか)のパンフレット「とっておき東播磨」を手にしてみた。

 そのパンフレットの中の「見どころマップ」で、私の出身の市から紹介されているものは、「日本へそ公園」「緯経度地球科学館」「岡之山美術館」「古窯陶芸館」「馬事公苑」「キツネ塚古墳の石棺」。行きたくなる人っているのか?そんな作られたスポット紹介よりも、黙って写真を見せればそそられる風景なんて、いくらでもあるではないか。


1999/11/11

寝違い

 珍しく普段より早めに床についたのが悪かったのか、寝違いを起こした。伸びもできないため、寝覚めが頗る悪い。寄る年波には勝てぬ。

 出勤までの身支度の時間を考えると、1999/09/23で採り上げた低周波治療器を使う時間もない。とりあえず手元にあったピップエレキバンを首の根っこに張ったのだが、痛みが引く気配もない。体を動かしたくてたまらないのだが、骨が筋肉にひっついたまま固まってしまったかのような感覚がひたすら続く。今自分が焼き魚になって、誰かに箸で骨と身とを分離してもらえたらどんなに楽だろうと想像してしまった。

 痛みは収まらぬ昼食に向かった。結局、自分が焼き魚の骨と身とを分離していた。この時ほど焼き魚を羨ましく思ったときはなかった。


1999/11/10

エゾシカとの遭遇

 「このCM、俺が作ったのではないか」と思えるようなCMを目にした。トヨタ「プリウス」のCM、車を運転していたら2頭のエゾシカが行く手を阻み、道を横切り去っていく。そして「主役は動物という世界を初めて知りました」というナレーション。まさに、「獣!獣!獣!」で触れた、エゾシカと私との出会いではないか!私をはじめ、北海道を車で移動していてエゾシカに出会ったことのある人間にとってはほぼ間違いなく心にぐさっと残るCMであろう。それに加えて映像、ナレーションと商品(地球に優しい車)とがマッチし、まさにターゲットに対して効果的なCMの見本であると言えよう。

 問題は、ターゲットにあんな高い車を買う能力があるかどうかであるが、その能力を惹起させるところまでCMに責任を負わせるというのは酷というものであろう。因みに私ならもっと安い車を選ぶ。


1999/11/09

チワワ

 「中高年」の定義を広辞苑で調べようとしたところ、偶々「チワワ」が目に入ったのだが、項目を読むにつれ、それはもう驚きの連続であった。

 まず「チワワ」の綴り。「Chihuahua」であると誰が想像し得よう!「わ」の「w」が含まれてないばかりか、黙字としての「h」が2つも含まれている。綴りだけ見たらどう読んでも「チフアフア」である。次に驚いたのがその意味。意味は2つあるのだが、世間で良く知られている「イヌの一品種」という意味は第一義ではないのである。そして第一義を読むと、「メキシコ北部、アメリカ合衆国に隣接するチワワ州の州都」である。チワワ州!そして州都チワワ!

 犬界の底知れぬ奥深さを改めて痛感した一時であった。


1999/11/08

馬と女・3

 日本中央競馬会(JRA)に登録されている馬は大きく2つの人種に分かれる。日本において出産されたかそれ以外の地で出産されたかで、前者は「内国産馬」、後者は「外国産馬」と呼ばれ、明確に区別される。具体的には、外国産馬は出走するレースが制限されており、日本の最高峰と位置づけられているようなレースにも出走できない。従って、真の「日本最強馬」を論じる際に様々な問題が生じてくることになる。

 週末の深夜競馬番組(関東ローカル)で爆笑問題が採り上げるような話題が何故この場で出てきたかというと、今回のJRAのCMについて論じるためである。

 1999/10/17で触れた、万馬券の喜びを表現したCMは終了し、今回は内国産馬と外国産馬とが同じ「日本の馬」であるという主張をテーマにしたCMとなっている。確かに先週まで3週続いた内国産馬だけの最高峰レースに替わり、今週末からは年末まで内国産馬と外国産馬とが入り交じった最高峰レースが続くことになる。ということは、今回のCMは年末まで7週間続くということなのだろうか。ちょっと飽きそうである。

 いずれにせよ、1999/05/28で指摘したように、CMクリエイターが「歌詞に『エリザベス女王杯』をどうやって取り込もうか」と苦労するような光景は想像せずに済んだようである。


1999/11/07

YMO REMIXES

 十数年前のアーティストのリミックスアルバムに最近はまっている。当時私が狂っていたサウンドが、時を経て現在のテクノの第一人者達のアレンジで蘇っている。

 どういう訳か、リミックス版を聴く方が、当時のオリジナルサウンドを聴いている時よりも、当時を思い出して胸に来るものが強い。考えてみるに、久方ぶりの知人と会った際に「おお、お前も変わったよなぁ!」という気持ちを抱くか、「おお、お前、あの時と全然変わってないよなぁ!」という気持ちを抱くかの違いではなかろうか。前者の場合は、その変わり様が時の流れを強調するあまり、当時の想い出が実際以上に遠いところにあるように感じさせるような気がするのだ。とはいえ、その知人が、当時を思い起こすことを妨げるくらい大きく変化している場合は、現在と当時とを結びつける時空間自体が断絶しているため、懐かしさすら感じられない。

 そう考えると、今回耳にしているリミックス版は、オリジナルサウンドを生かした部分と時の流れで大きく変わった部分とのバランスが良い具合にミックスされたものであると解釈できよう。


1999/11/06

利尿

 バスに乗っていて尿意を催した。そう言えば乗車前にコーヒーやコーラ等のカフェイン飲料を口にしていたことを思い出した。カフェインの利尿効果が現れたのであろう。

 と思考しているうち、「利尿」という言葉が妙に頭に残った。「尿を利かす」即ち、尿を膀胱から尿道を通じて外部にスムーズに排出させる、という意味であるのだが、ここで「利」の意味を取り違えたらどうなるのか、少し考えてみた。

 「利用」の「利」とすれば「尿を利用する」。最近では尿素を含んだ化粧品なども発売されており、従来も尿素化合物が可塑素材に用いられたりもしていた。一時期老若男女を問わず健康法として巷間で大流行した「飲尿療法」も広い意味では「尿を利用する」ということになろう。

 また、「利」には「利き酒」という用法もあるではないか。とすると「利き尿」。テーブルの上に、なみなみと尿が注がれたグラスが数個並んでいる。審査員が真剣な表情で一つ一つグラスを手に取り、濃さや色を目で確認した後、徐に匂いを嗅ぎ、それを一口ずつ口に含んでいく。そして液体を歯と歯の間をくぐらせるようにして少しずつ味わいながら、舌全体で味を感じ取った後、鼻から吸った空気を口の中に採り入れ、芳醇さを評価。そして嚥下。喉越し、切れ、コクを味わう一瞬。最後に判定。「これはミスとやまの河北恵美さんの尿ですな」。

 考えていたら、自然に尿意が収まってしまった。


1999/11/05

番組提供

 久しぶりに「タモリ倶楽部」を観て驚いた。番組内容ではなく、番組スポンサーにである。アコム、アイフル、武富士と、全て消費者金融会社ではないか。競合問題など全く無視した番組提供である。

 確かに、テレヴィ局によっては独自の広告基準があり、「この業種のCMはこの時間帯しか流さない」などというものがある。消費者金融もその一つであるため、一定の時間帯にCMが殺到することになる。しかしそれにしても、提供会社全てが消費者金融とは恐れ入る。「タモリ倶楽部」の視聴者と消費者金融利用意向者との間には余程強い相関関係があるのであろうか。

 余り関係ないが、テレビ朝日のヴァラエティ番組って、何故斯くも詰まらないものが多いのであろうか。


1999/11/04

気候の変わり目

 最近気候の変わり目に体調を崩すのが恒例行事となってしまった。寄る年波には勝てぬ。

 2日前、帰宅して下着姿になったまま、気がつけば布団も掛けずに眠りに落ちていたのが原因であろう。あまりの寒さに思わず目が覚め、はっきりと頭痛に悪寒を感じた。翌朝、密かに乗馬クラブも延期しようと思っていたのだが、昼頃になると回復の気配を感じたため、予定通り馬学を体得してきた。しかしその翌朝つまり今朝、目覚めてみれば私もすっかり風邪ひきさんとなり、早晩松嶋某や遠藤某や香取某のお世話にならねばならない立場になってしまった。

 しかし寒くなる度にこれだと、北国で生きていくことはできまい。1999/10/20で私に最も適した移住先となった盛岡、この点では非常に住みづらい土地ではないか。


1999/11/03

続・馬学

 1999/10/14で触れた乗馬クラブに本日足を運んだ。天候が心配されたが、自らの雨男ぶり以上に「晴れの特異日」効果に期待した結果、幸いレッスンの間は雨に遭わずに済んだ。

 さて、私が今回のレッスンで最も期待した「馬学」である。内容は馬の種類、性格、特徴を学んだ後、馬との接し方(近づき方、触れ方、心構え)を学び、後は馬術的なものであり、予期していたとおりのものであった。

 それ以上に私が感心したのが、このクラブの姿勢である。「馬学」をレクチャーするという時点でそのクラブの並々ならぬ意思を感じたのも先述のとおりであるが、このクラブ、自由時間には馬房に自由に近づき、自由に馬に話しかけたり触れたりできるのである。しかもそういった自由時間が異常に長い。200頭以上の馬の大半の馬房を拝見させていただいた。

 しかし、ここの馬は大半がサラブレッドである。即ち癇性が比較的きつい。実際接してみても、大半は耳を後ろに倒し(警戒の表情)、暫くして慣れてもなかなか触れさせてもらえない。そういう馬達を「気をつけて触れてください」ではなく「自由に触れてください」とは一体どういうことなのだろうか。

 これ即ち、「触れるのは自由だが、馬がその気になるかどうかは貴方が馬学をマスターしたかどうかにかかってるんだぞ」というクラブの挑戦的姿勢ではなかろうか。馬学のマスター度を、実際に馬に触ることによって測定させようとしているのである。ここでもクラブの馬学に賭ける並々ならぬ意思を感じ、こちらも真剣にその意思を汲み取ることができた。レッスンはあと1日とわずかな期間ではあるが、できる限りの馬学をマスターするようにしたい。


1999/11/02

将来の心配

 いきなり将来のことを心配してみる。大病や事故で無収入となった場合どうなってしまうのか。現在、養うべき家族は無い。こう書くとメリットなのだが、これは即ち養ってくれる家族が無いというデメリットでもある。生命保険の類にも加入しておらず、現在の持ち金を崩して生活していくことになる。

 だからといって、今から家族を作ろうと思って作れるものでもなかろう。だいたい私は子供を設ける気はないため、養ってもらおうとすればその負担は配偶者一人に大きくのしかかる。また、生命保険の類はどうも自分の健康で博打をやっているような気がして、加入しようと言う気になれない。「博打性」が嫌いなのではなく、「博打ならもっと楽しい物がいくらでもあるやんけ」ということなのだが。

 結局そうなったらなったで「運が悪い」と自らの不遇を託って終わってしまうのであろう。将来を心配するだけ無駄な人間のようである、私は。


1999/11/01

書きかけのテーマ

 様々なテーマが浮かび、執筆に取りかかるのだが、数行書いて考えがまとまらなかったり気に入らなかったりして、何一つものにならない。どうしたことか。

 書きかけた文章のテーマは以下の通り。

 1.過去のメールを読んで…久々の知人の事について
 2.旅をする心境…楽しいわけではない心境で旅に出ること
 3.痴呆と「永久の別れ」…2年前に祖母の死で感じたこと

 1は、書いていて何が言いたい文章なのかわからなくなりかけたのでやめた。2は書き終える直前で、結論があまりに月並みなものになりそうだったので削除した。3は書いているうちにとても一晩では書ききれないことに気づいて諦めた。


最新 前月 翌月 一覧 「EZOSHIKA TOWN」トップ