ラスト・ゴジラ〜浦東的夜景
 
ラスト・ゴジラ
〜浦東的夜景
 

   寄せては返す波が夜の岸辺を撫でてゆく。洗われる砂と砂が紡ぎ出す、衣擦れにも似た優しい響き。コンクリートの護岸に腰掛け遠く離れた対岸をただ眺める。目の前に横たわるのは黄浦江。まるで過去と未来を隔てるかのように、漆黒の水面を大小さまざまな船が行き交っている。汽笛が風に乗り、思いも寄らない方向から聞こえてくる。はるか向こうで幻想的な光を放つ租界時代の街並。激動の歴史を経て再び蘇った「夢の港町」。
 護岸は鈴なりの人で一杯だった。立ち入り禁止の案内があるが守る者はいない。申し訳程度の防護鎖をまたいで誰もが端ぎりぎりまでやって来る。足元の数メートル下は川。もっともこちら側は浜辺になっているので、落ちても大怪我はしないかもしれないが。
 記憶の断片がフラッシュバックのように浮かんでは消える。楽しかったこと、辛かったこと。これまでの人生で経験してきたことのいくつかが脈絡もなく思い出される。そして今ここにいること。妻と、まもなくこの世に生まれてくるはずの新しい命とともに、こうして一緒にいること。
「立ち去り難いね」
 おそらく周りにいるすべての人々が同じ気持ちでいるのだろう。いつまでもこうしていたい。たゆたう時間に身を任せながら、夢のような夜景に見とれていたい。
 後ろ髪を引かれる思いでようやく立ち上がると、僕たちは船着場を探しに歩き出した。帰りは渡し舟に乗るのだ。地下鉄が開通し、橋やトンネルが整備された現在でも、船は庶民の足として外灘と浦東をつなぐ重要な交通機関となっている。安価なナイトクルーズと言えなくもない。
 公園と一体になった堤防に沿って歩く。左手にはネオンきらめく近未来の高層建築群が今日も夜空にまばゆさを競い合っている。
 ここがゴジラ終焉の地になると知ったのは数日前のことだった。ホテルのエレベーターホールに置いてあった上海日報の一面に、こんな記事がイラスト入りで大きく掲載されていた。
「伝説の怪獣ゴジラ、浦東に死す」
 シリーズ50周年を飾る最終作「ゴジラ/ファイナルウォーズ」において、最後の決戦の舞台に上海が選ばれ、監督をはじめ主要な出演者による撮影が始まったという記事だった。
 日本で生まれたヒーローが海外で最期を迎える。しかも、世界の他のどの場所でもなく、ここ上海で。新聞を読んだ時、それが何か優れて象徴的なことに思えて仕方がなかった。
 ゴジラは時代の産物だ。戦後間もない頃、南太平洋で核実験の放射能を浴びて誕生して以来、世相を揺るがすその時々の風潮を文脈として背負いつつ物語が描かれてきた。この名作が終わるとき背景に見えるべき眺めは果たして何なのか。関係者は大いに頭を悩ませたことと思う。
 人類との戦いに敗れ、ついに息絶えてゆくゴジラ。すぐ横で墓標のように聳え立つ新生上海のシンボル、東方明珠塔。その景色は、まさしく子供の頃に想像した「未来」に他ならない。
 おそらく、僕たちと同世代の監督は「ゴジラの死」を「20世紀の死」として捉えたかったのではないだろうか。だとすれば、その舞台は「最も21世紀的な」場所でなければならなかった。滅びゆく過去に捧げるレクイエムとしての、未来を表象する記号。
 「渡し舟」と言うにはあまりに大きなフェリーが河岸に待っていた。外灘まで2元。コインを入れゲートを通過する。客室が見る見る人で一杯になっていく。汽笛が出発の合図を告げる。
 また来ようね。妻のお腹に向かって囁いた。この子が物心つくくらい大きくなったら再び上海を訪れよう。その時まで覚えているだろうか。パパとママと三人で「未来」を見たことを。自分がこれから誕生する世界を、一足先に体感していたことを。
 遠く離れていた対岸の光がゆっくりと近づいてきた。いや、そうじゃない。僕たちにとっては「未来」でも、この子にとってはそうじゃない。21世紀はもう「現在」なのだ。
 

   
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虹色の上海
 

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