無国籍ストリートに暮らす〜衡山路
 
無国籍ストリートに暮らす
〜衡山路
 

   車内の喧騒が嘘のように駅は閑散としていた。僕たちの他に客はいない。コンコースに靴音が響く。本当にここでいいのか不安に駆られながらも、案内板を辿って地上に出る。
 上海の青山と呼ばれる衡山路。昔ながらの建物に現代的な内装を施したカフェバーが道沿いに並ぶという評判のデートストリート。しかし、どうやらこの通りが本来の姿を現すのは夜の帳が下りてかららしい。歩道を行き交う人影はまばらで、車もあまり走っていない。
 魯迅公園から多倫路、明珠線から地下鉄と、朝からずいぶん歩いてきて、お腹もペコペコだ。衡山路なら洒落たレストランも多いだろうと期待して来たのだが、少し当てが外れている。それでも目の前に一軒、木製の扉の真ん中に「茶」の一文字が大きく彫られた店があった。中国伝統茶館、つまり喫茶店だ。租界時代のスタイルを踏襲しているのだろうか。あまりにわかりやすい。
 店内に入ると椅子席の奥に案内された。板敷きの小上がりが衝立でいくつかの区画に仕切られている。なるほどカップル向きだ。今日のお勧めの「香草鱈魚飯」と、僕は針状の、妻は蕾状の中国茶をオーダーする。
 傾きかけた春の陽が窓越しに射し込んでくる。まったりとした昼下がり。ほどよい足の疲れと相俟ってウトウトと眠くなる。斜向かいの一角はゲームに興じる若い男女、斜め後ろのふたりは読書にいそしんでいる。こんなふうに時間を消費するライフスタイルは、おそらく物質欲がある程度満たされた後でなければ実現しない。上海市民の経済水準は、あるいは一部の階層だけかもしれないが、確実に東京の高額所得者層と肩を並べているのだ。
 遅めの昼食を済ませ、午後の散歩へ。
 フランス租界の面影を色濃く残す衡山路は、プラタナスの並木道になっている。広めの歩道にはオープンカフェが並び、歩いているだけで気持ちが良い。国際礼拝堂の三角屋根やアフリカを思わせるラスタな色合いの建物が道沿いにあったりして、「外国」というより「無国籍」といった印象を受ける。
 行く手に総ガラス張りのビルが現れた。壁一面にデコレーションされた派手なネオンサイン。上海きっての有名なディスコ「真愛」だ。名前といい建物といい、まるで新宿歌舞伎町の風俗店を思わせる。まだ灯が点っていないにもかかわらず、漂わせる雰囲気がいかにもいかがわしい。初めての人はとても怖くて入れないだろう。
 衡山路は復興中路と交差するあたりで緩やかに左にカーブし、やがて宝慶路を経て常熟路へと名前を変える。この界隈には今も煉瓦貼りの古いアパルトマンが残っていて、租界時代から続く落ち着いた住宅街となっている。塀に囲まれてテニスコートがあり、ボールを打つ音が遠くから聞こえてくる。
 道の向こうからリヤカーを引いた老夫婦がやってきた。山車いっぱいに廃材を積み、えっちらおっちらと歩いてくる。額や頬に刻まれたしわが、彼らが過ごしてきた長い年月を物語っている。中国らしからぬ景色の中に突然現れた、いかにも中国といった労働者。絵になる、と閃いた僕は急いでカメラを構えた。彼らは1m先の足元に視線を落としたまま、ゆっくりと視界を横切っていく。自分たちが風景の一部として切り取られることなど気づきもせず。
 このあたりも暮らすには良いかもしれない。そう、衡山路は「住む」のではなく「暮らす」のが似合っている。時間に追われるのではなく、時間を楽しむ毎日。陽だまりのカフェでブランチをとり、気が向けば夜はナイトクラビングに出かける。何ものにも拘束されない気ままな生活。ファッション雑誌から抜け出したような素敵な日常。
 もっとも、どんな職業に就けばそんな暮らしができるのか、残念ながら庶民には想像もつかないのだけれど。
 

   
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虹色の上海
 

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