揺れる万国建築展覧〜外灘的夜景
 
揺れる万国建築展覧
〜外灘的夜景
 

   周壮を出る頃から雨が降り出した。朝の天気予報が芳しくなかっただけに、とうとう来たかという感じだ。とはいうものの、さほど強い降りではない。道の両側に拡がる無数の湖の暗がりに、しとしとと音もなく吸い込まれていく。いかにも春の宵といった、たおやかな趣き。詩のひとつでも詠みたくなってくる。静けさが眠気を誘う。
 小一時間あまりウトウトして気がつくと、いつの間にか車は夜の摩天楼を走っていた。ライトアップされた高層ビルが右に左に入れ替わり立ち代り現れる。雨に濡れ、一段と幻想的な光彩を放ちながら、近未来的なフォルムを競い合っている。高架道路は七、八階の高さを行く。まるで空を飛んでいるような気分だ。
 ほどなく車は高架を降り、ウエスティンのアプローチへと滑り込んだ。ガイドとドライバーに礼を言って別れる。なかなか面白い小旅行だった。もう一組のカップルは同じ面子で明日は杭州に行くという。西湖を抱えるこれも風光明媚の地。機会があれば次回は足を伸ばしてみたい。
 部屋に戻るとまだ八時だった。夕食は済んでいるが寝るには早い。
「外灘の夜景を見に行こう」
 新聞の週間予報によれば、この先何日かはぐずつく見通しだ。今なら雨足も弱い。行けるうちに行っておいた方がよいのではないか。昨日と同じ道で黄浦公園へと向かう。階段を上がると、昼間とは一変した景色がそこに待ち受けていた。
 淡いオレンジの白熱灯を受け夜空にボウと浮かび上がる万国建築展覧。点された聖火のようにひっそりと、しかし威厳を持って佇んでいる。計算され尽くしたライトアップが石壁に冴える。雨がそれを一層鮮やかに磨き上げる。
「きれーい。夢みたーい」
 そう呟いたきり、妻も次の言葉が出てこない。昔の香港上海銀行が、ジャーディン&マセソン商会が、建築史に名を馳せる古典主義の名作が、かつての栄華にも勝る輝きをまとって君臨している。どこかほっとさせる温かみを携えながら沿道に並んでいる。
 昼の外灘も素敵だった。だが、見るなら絶対に夜をお奨めする。さらに言うなら雨の夜。水面のごとき中山東路に光が映える雨の夜。街の埃が洗い流され、澄んだ大気に幻想的な輝きがゆらゆらと、かくもきらびやかに反射する。ディズニーランドのナイトパレードよりもマンハッタンの夜景よりも、僕にとっては心に響く。
 振り返ると、対岸にはさらなる夢の世界があった。漆黒の黄浦江を挟んで拡がる彼方に怪しく輝くふたつの球体。照射された光を受けて、惑星のように夜空に浮かぶ。それらをつなぐ支柱の間を埋めるように縦一列に散りばめられた小球は、それぞれ赤、黄、緑、青、紫にライトアップされ、宝石箱のようなきらめきを放つ。東方明珠塔が文字通り「七色に輝く」ものだったということを、僕はそのとき初めて知った。
 実際のところ、それは「銀河鉄道999」にでも出てきそうな光景だった。東方明珠塔を取り巻く高層ビルの数々は、どれもみな上に向かって光を放っている。大地の裂け目から高圧ガスが噴き出すように、上空に向け一直線にビームを放射している。ビルを載せた地面がそのまま円盤となって飛び立つという空想さえ、現実に起こりそうな気がしてくる。
 しばらく佇んでいるうちに、風景の輪郭が少しずつ曖昧になってきた。雨に煙ってきたのだ。僕たちは和平飯店の方に向かって歩き出した。昨日と異なり、すれ違う人影はまばらだ。
 公園のタイルにも外灘の夜景が映っている。濡れて、滲んで、揺れている。涙で潤んだ視界のように、焦点が合わないまま揺れている。子供の頃に聴いた「ブルーライトヨコハマ」の記憶が甦ってきた。ロマンティックでありながら一抹のいかがわしさを感じさせるメロディーと歌詞。しなだれかかるような、いしだあゆみの唄。この雰囲気にぴったりだと思った。
 

   
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虹色の上海
 

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