1947年の悲劇〜Karachi
 
1947年の悲劇
〜 Karachi
 

   カラチの国立博物館にもインダス文明の遺品が収蔵されている。目玉はモヘンジョダロで出土した神官像だ。世界史の教科書にも写真が載っていた。独特の髭面とハゲ頭が今も記憶に新しい。その本物がショーケースに入れられて、すぐ目の前で見ることができるのだ。
 写真では人の背丈ほどもありそうなイメージだったが、実物は小さい。せいぜい10cmくらいだろうか。余裕で片手に収まる。まるでこけしみたいだ。
 他にも、お約束のヘンテコな動物土偶や水牛の印章といった、これぞインダスという数々のアイテム、さらには仏像をはじめとするガンダーラ美術の逸品も数多く取り揃えている。さすがに国を代表する博物館だけあって、先史時代から現在に至るまでのパキスタンの歴史を年代順にわかりやすく展示している。
 その中で僕が一番印象に残ったのは、独立前後の状況を説明したパネルだ。
 第二次世界大戦後、世界的に高まった民族自決主義の一翼として独立を果たしたことまでは知っていたが、なぜインドとの分離がなされたのかは知らなかった。バングラディシュがかつて東パキスタンであった理由も知らなかった。
 原因は宗教だ。植民地支配から手を引くにあたり、イギリスはヒンドゥー教徒とイスラム教徒にそれぞれ多数が居住する地域を分け与えた。すなわち西パンジャブとシンド、そして東ベンガルが「バキスタン」となった。ちなみにカシミールもイスラム教徒が優勢だったが、藩王がヒンドゥー教徒だったため、無理矢理インドに組み入れられた。
 さて、問題はここからだ。新生国家パキスタンは住民の大多数がイスラム教徒とはいえ、当然ヒンドゥー教徒も住んでいる。逆に、新しく「インド」とされた地域にも先祖代々その土地で暮らしてきたイスラム教徒が大勢いる。これまではイギリス領インドという枠組みの中である意味どちらも平等な立場だったが、これからは少数派として取り残された方がハンディを背負わされるだろうことは火を見るより明らかだった。
 この矛盾を解決するために、新しく出来たインド、パキスタン両政府は思い切った政策を実行に移す。住民交換だ。イスラム教徒をパキスタンへ、ヒンドゥー教徒はインドへ。半ば強制的にお互いを移住させたのだ。
 当時のインド亜大陸の主産業は農業だった。移住せよということは、土地を捨てろ、すなわち失業しろというのと同義だ。さらにひどいことに移動手段は自己責任だった。家財道具一式をリヤカーに乗せ、幼い子供から年寄りまでが何百キロ、場合によっては千キロを優に超える行程を余儀なくされたのだ。その過酷さは想像するに余りある。
 当然、この政策は両国に夥しい犠牲者を生んだ。衰弱して倒れる者、些細な諍いから殺害される者、辿り着いた土地になじめず自ら命を絶つ者。そして何よりも、これを契機としてインド亜大陸全土で発生した、異なる宗教の信者同士による無数の武力衝突。
 世界史の教科書には載っていない。詳しく書いた本も、少なくとも僕の知る限りは一冊もない。しかし、これが歴史の真実なのだ。
 国立博物館に続いて、建国の父ムハンマド・アリ・ジンナーが眠るカーイデ・アーザム廟を訪れた。ドーム状をした建物の真ん中に銀の柵に囲まれた柩が置かれている。四方を飾るアーチ窓から射し込む光。幾何学模様の格子に切り取られた影が例えようもなく美しい。
 この悲劇の独立を指揮したジンナーの胸中は、当時いかばかりだったろうか。彼自身はと言えば、最後まで統一インドとしての独立を望んでいたというのに。
 

   
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岐路のパキスタン
 

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