迷子になる〜Peshawar
 
迷子になる
〜 Peshawar
 

   建物も空も人々の服装も、あらゆるものがくすんでいるバザールの界隈で、モハーバット・ハーン・モスクはひときわ映える。低く垂れ込めた雲に壁面を飾る白大理石が美しい。光り輝くわけではないが、聖空間らしい高貴な雰囲気を醸し出している。
 ちょうど昨日とは反対の方角からアプローチしていた。入口の門で男が手招きしている。中に入っていけというのだ。我々は異教徒だから礼拝の邪魔をしては申し訳ないと辞退するが、構わない、見ていけと勧める。そこまで言ってくれるのならと誘いに甘えることにした。
 あくまで個人的な印象だが、イスラム世界は異教徒に寛容だ。歴史的に見ても、中世ヨーロッパのキリスト教国家は「改宗か死か」と迫ったが、イスラム帝国では人頭税さえ払えば非ムスリムであっても居住できた。その伝統が今に続いているのかもしれない。
 入口で靴を脱ぎ、階段を上ると中庭に出た。都会の小学校の校庭くらいの広さだろうか。これも大理石なのだろう、一面にタイルが敷き詰めてある。
 驚いたのはその静けさだ。建物を囲んでいるバザールの喧噪がまるで聞こえない。彼我の空間を仕切るのは塀一枚。屋根もない。それなのに完全に別世界だ。
 モスクの内部はさらに落ち着いた空間だった。イスラム特有の幾何学文様のアラベスクが壁一面に描かれている。少し離れたところで現地の人がお祈りをしていた。正座をし、ときおり全身を折り畳むように床にひれ伏す。見ているうちに厳かな気分になってきた。信者でなくても心洗われるものだ。見よう見まねでこっそりと同じことをしてみる。
 モスクを辞し再び路地へ。スパイス、毛皮、チキンスープ、生活雑貨、羊肉、さとうきびジュース。本当にいろいろなものが売っている。
「ずいぶん奥まで来ましたね。時間もいい頃だし、そろそろ戻りましょうか」
 先頭を歩いていたメンバーが提案した。ホテル出発の時間から逆算すると確かに切り上げ時だ。当然、ここまでどこを歩いてきたのか、ずっとわかっているつもりだった。ところが、角を曲がるとその先の道が地図の通りになっていない。
「おかしいな。この道をこう来たはずなんだけど」
 現在位置がわからなくなってしまった。来た道を戻ろうにも、どこに何があったか、今となっては覚えていない。改めてガイドブックを確認する。全員で覗き込んでいると、辺りを歩いていたパキスタン人が集まってきた。一人や二人ではない。次から次へとやってきて、気がつくとすっかり取り囲まれてしまった。
 一緒になって地図を眺めているうちに彼らの間で議論が始まった。あっちへ行け、いや、こっちに行くべきだ、と百家争鳴でかまびすしい。ただ、みんな我が事のように心配そうな顔をしている。迷っているのは僕たちなのに親切な人々だ。客人を大切にするパシュトゥンの伝統を垣間見た思いがした。もっとも、彼ら自身が現在位置を把握しているのかどうかはかなり怪しかったけれど。
 結局、試行錯誤を繰り返しているうちにいつの間にか大通りに出た。ここまでくればもう大丈夫だ。
 彼らの意見が参考になったかどうか、ガイドブックの持ち主に訊いてみた。すると、苦笑しながら答えて曰く。
「見ての通り役には全然立たなかったけど、少なくとも、彼らは彼らなりに一生懸命だったよ。それだけは聞いててよくわかった」
 

   
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岐路のパキスタン
 

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