約束の地〜Jabal Nebo
 
約束の地
〜 Jabal Nebo
 

   マダバの郊外にはもうひとつ、イスラムの海に浮かぶ異界がある。その名を知っている人々の絶対数では比較にならないほど、むしろこちらの方が有名だ。
 丈の低い潅木に囲まれた駐車場に車を停め、なだらかな坂道を登っていく。頭上に拡がるのは360°の青い空。正午間近の直射日光を遮るものは何もない。強烈な光線が白い砂地に反射して、眩しさに一層拍車をかける。
 モーセ終焉の地、ネボ山。旧約聖書きってのヒーローが、その人生のクライマックスを演じた舞台とされている場所だ。
 行く手に石造りの無骨な建物が現れた。聖書ゆかりの地にちなみ、キリスト教会が建てられているのだ。見た感じは比較的新しい。手前にはモーセの事跡を彫った2m大の石のモニュメントが据えられており、こちらは「ミレニアム記念」として2000年にヨーロッパの信者から寄進されたとのこと。してみると、教会自体も最近改築されたものなのかもしれない。
「こちらへどうぞ。眺めがいいですよ」
 促されるままに回り込んだ先が展望台になっていた。一瞬、自分が宙に浮いてしまったのかと錯覚した。空が視界の大半を占めていたからだ。彼方に茶色く霞んでいるのは、今はイスラエル領となっているヨルダン川西岸台地。眼下に穴のように横たわっているのは死海だ。天気が良ければエルサレムの街並も望めるという。
「モーセが最後に見た景色がここだと言われています。約束の地を目指す長い旅の挙句、彼自身はとうとうパレスチナに入れなかったんですね」
 旧約聖書のハイライト、出エジプト。王家の奴隷であったモーセが、似たような境遇にあったユダヤの同胞たちを率いて「約束の地」カナンを目指す物語は、ユダヤ教やキリスト教の信者でなくとも知らない人は少ないだろう。旅の最中、シナイ山で神の啓示を受け十戒を授かった彼は、その後40年もの長きに渡り、行く先々で土地の王たちと戦いながら荒野を放浪する。そして、まさにカナンを目前にしたここネボ山で、とうとう力尽き倒れるのだ。享年120歳。現代的な感覚からすれば天命を全うしたと言える年齢だが、人生のすべてをかけた夢を掌中にしながら、すんでのところで掴めなかった無念さはいかばかりだったろう。
 「約束の地」は美しかった。岩砂漠そのままの不毛の大地は、それでも凛として美しかった。樹木のかけらも見当たらない厳しい環境にありながら、まるでこの世のすべてを受け入れるかのように悠然と対岸に聳えていた。
「あれはなんですか?」
 展望台の端に、なにやら意味ありげなオブジェがある。十字架だろうか。それにしてはかなりアーティスティックな造形だ。
「あれはモーセのモニュメントです。旅の途中、悪魔の化身である蛇を、モーセが雷鳴を呼ぶ杖で打ち負かしたという故事をモチーフとしています」
 モダンアートの美術館に展示されたアイアンクラフトと言われても違和感がない。T字に近い十字形の胴体に骨格だけの金属筒が、曲がりくねったジェットコースターのレールのように絡み付いている。拡げた両翼はルーブル美術館に飾られた「勝利の女神」さえ連想させる。
 何より真紅であることが斬新だった。青く抜け渡った空に赤く輝く、鉄の硬い質感。
「血の色だ」と咄嗟に感じた。積年の民族の悲願を、モーセは自らの血を以って贖ったのだ。根拠も何もなく、それでいながら確信にも似た気持ちで僕はそう理解した。
 空気が澄んできた。蜃気楼のように霞んでいた「約束の地」が、少しずつその輪郭をあらわにし始める。3000年以上も前、モーセの瞳に焼き付いた最後の景色が今、目の前に現れる。
 

   
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茫漠のヨルダン
 

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