塩さえ濃くなければ〜Dead Sea
 
塩さえ濃くなければ
〜 Dead Sea
 

   まるで奈落の底に転げ落ちるように、バスは急なつづら折りを疾走する。アラビア高原の西端であるネボ山から海面下の死海まで、1000m近い標高差を一気に駆け下るのだ。山麓は見事なまでの礫砂漠。斜面には文字通り一本の草木もない。そのため、数分後に通るはずの道が遥か眼下にはっきりと見える。高所恐怖症の身には下手なジェットコースターよりよほど怖い。
 坂が終わると舗装がひときわ綺麗になった。道端には緑が豊かに生い茂り、その合間を縫って瀟洒な建物が点在し始める。ヨルダンにとって死海はペトラと並ぶ観光の目玉だ。湖岸には外国人を対象としたホテルが建ち並び、落とされる外貨は貴重な国家収入となっている。
 バスが駐車場に入った。水着とタオルを手に外へ出る。デッド・シー・スパ・ホテルの外観はエーゲ海の建物のように白一色で染め上げられ、エントランスへのアプローチにはナツメヤシをはじめとするトロピカルな樹木の数々が植えられている。ギラギラと輝く太陽に紅い花が映え、まるでハワイやタヒチといった太平洋の島々にでも来たかのようだ。ただ一点を除いては。
 湿度が高いのだ。それも尋常なレベルではない。首から頬から、外気に面した部分がやたらとベトつく。暑いながらもさらりとした風が心地よかったネボ山からわずか30分あまり。高温の上に多湿とあっては気持ち悪いことこの上ない。理由はすぐにわかった。塩だ。
 世界でも有数の塩分濃度を誇る死海。当然、蒸発する水分にも多量の塩が含まれている。そもそも灼熱の太陽に一年中照らされ、蒸発量自体が他の湖と比べて格段に多い。つまり、死海周辺は湿度が高いだけでなく大気中の塩分濃度も高いのだ。海中にいるのと大差ない状態だと思えば少しはイメージが湧くだろうか。
「それにしても暑いな。いったい何度あるんだ?」
「気温はともかく、この湿気を何とかして欲しいな。次から次へと汗が出てくる」
 そう、恐るべきことにここでは汗が引かない。汗が「引く」というのは蒸発するということだ。しかし、体内と外気の塩分濃度にあまり差がないと、化学的に「飽和」や「平衡」といった状態に近くなり、出た汗は蒸発せず肌に張り付いたままとなる。放っておくとすぐにシャツがびしょ濡れになってしまう。
「まず昼食にしましょう。午後の予定は死海だけなので、みなさん、時間を気にせず、思う存分浮いていただけますよ」
 添乗員に促され、ツアーメンバー一同レストランに向かう。建物の中は充分すぎるほど冷房が効いていた。むしろ寒いくらいだ。だが、そう感じるのは設定温度だけが理由ではないだろう。内と外との湿度の差がエアコンでいう「冷房」+「ドライ」、すなわち体感的には二倍冷やされる状態を作り出すのだ。
 ホテルのビーチはデイユースの客にも開放されている。立ち寄り湯のようなシステムだ。建物の前が段差のついたテラスになっており、その先にはウォータースライダーを併設したリゾートプール、さらに向こうの階段を降りると死海だ。
 腹ごしらえを終えた僕たちは、プールサイドを通って海の家のような脱衣所へと行く。ベニヤの衝立で仕切られただけの簡素な造り。宿泊客以外はここで着替える仕組みだ。それはいいのだが、いかんせん屋外。湿度と塩分濃度の関係でシャツが張り付いてなかなか脱げない。悪戦苦闘しているうちに噴き出す汗で事態はどんどん悪化する。やっとのことで海水パンツ一丁になったが、今度は腰の辺りがべたべたする。
「これじゃ裸の方がよっぽどマシなんじゃないか。ヌーディストビーチとか、ないの?」
「でも、塩分が濃くなければ、そもそも死海に遊びになんか来ませんよ」
 ごもっとも。悔しいが医大生の言うことは全く非の打ち所のない正論なのだった。
 

   
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茫漠のヨルダン
 

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