昭和40年代、キャスコ黄金期


現在、電気関連業務を営む水田健次氏は、昭和42年(1967年)、19歳で(株)関西精機製作所の製造2課に入社、ゲーム機器の組み立て部門に配属される。奥さんの満子(みつこ)さんは、健次さんと満子さんとお兄さんとの縁がきっかけで昭和47年入社、ともに昭和40年代という関西精機製作所の超黄金期を体験された。

水田(満):二十歳でしたね。それまでは室町関係(京都の繊維業をこう呼ぶ)に行っていたんです。あの時代、私の友達にワコールと島津製作所にいっている子がいて、それまでは私が一番給料が低かったんだけど、入ったとたんに抜いてしまって「うわ!」とか思いました。まあ途中でだんだん下がっては来るのだけど。

寺町
当時はまだ、ゲーム業界への就職というのは珍しかったと思うんですが、抵抗なんてありませんでしたか?

水田(満):まあ・・・、なんか連れられて行ったら、行ってそこが関西精機であったって感じで(笑)。さんの奥さんがご出産ということで、一人探していたんですよね。その縁で入社したんです。


関西精機製作所は、昭和30年(1955年)、技術者である古川謙三氏によって旗揚げされた(昭和33年2月に法人に改組)。 当時、阪急百貨店の屋上コーナーのオペレータに頼まれた館内案内機、転じて処女作・ステレオトーキーからして数千台を売る大ヒット。その後もビューボックスの名前で何機種も発売、ロングヒットを続けた。


水田(健):関西精機は最初京都の千本にあったんだけど、それから西京極に移った。今ある工業会館の一角に位置していたんだけど、当時500坪はあったと聞いたね。食堂があり寮があり、2階建てのビルと2つの工場があった。1つに6〜8名の製造の人間がいたんだけれど。
社屋と社員写真

寺町:製造ではトラブルとかもいろいろ多かったと思うんですけれど。

水田(健):うーん、ケガをしたことは確かにあるけど、あくせくせずきっちりつくって出していたね。20台を一週間できっちり丁寧な仕事しかしなかった。月80台から120台しかつくらないし。だからお客さんが怪我したというトラブルも本当に聞かなかったね。残業はしないし。

寺町:余裕があったんですねえ。

水田(満):だから製造と営業がやりあわなきゃいけなかったんだわ。もっとつくってほしいとか。

水田(健):でも、営業が現場にどなりこんで作れなんて言わなかった。そんな感じだったんですよ。家庭的と言うか。営業は怒って帰るくらい。

水田(満):だからいけなかったの(笑)

水田(健):どんな忙しくても10時3時はお茶タイムだったよ。そんなこと、よその会社になんてまずなかったから。僕は関西精機が二つ目の会社だったけどびっくりしたもの。浅間山荘事件中継もずっと見てたしね。そんな会社ないでしょう。ま、いいか悪いかは別として。(笑)
岸首相か誰かがなくなったときなんかは昼から休みにしてくれた。大臣が亡くなったってんで。

寺町:高度成長期の時代にそれって珍しいですよね?

水田(健):僕が退社する頃の方になって、ちょっと言われるようになってきたけどね。管理職がかわってきた方が言うようになった。だけどそれで普通だよね。

ステレオトーキービデオゲームが市場に出まわり始めるのは昭和49年〜50年。戦後昭和40年代にかけて、デパートの屋上や遊園地のゲームコーナー、映画館の待合場所といった遊技場(ゲームコーナー)で遊ばれていたのものといえば、木馬やかんたんなノベルティ機、射的やコリントボールなどであった。ちょっと大きにはピンボールやスロットマシン、といった時代に、関西精機のゲームは登場する。それらは、技術者であった古川社長らしく、精密かつアイデアにとんだアミューズメントマシンだった。

水田(健):最初は幻灯機。ビューボックスといって絵をのぞく機械からスタートしたんだね(実際には前身のステレオトーキー)。日本昔話とかを5、6コマ。そういうものを映しているだけ。途中から音とか入れたんだけど。

水田(満):動物園ではおサルのかごやのビューボックスがあったりね。

水田(健):大丸の屋上でいうと木馬とか、トンコって言ったんだけど、そこにミニドライブ(次ページ)を置いたりね。だけどやっぱり有名なのがインディ500。いわゆる投影型ゲーム。これは国内で2,000台も発売したけれど、海外で他社がまねをして、そのゲームは10,000台ぐらい売れてあちらで賞までとったらしいよ。

寺町:へええー!それ、すごいですね!

水田(健):とにかく、古川社長は本当にすごい方でしたよ。技術者でもレベルが違ったなあ。着眼点が先をいきすぎていたというくらい。海外の製品も売ったりしていたので、会社にもジュークボックスの原型のものなど、めずらしいものがよく入っていた。8トラックカセットのカラオケセットとか。温泉旅館などに持ち込んだんだけど、早すぎて売れなかった。 それと小見山さんという営業部長さんがすごかったんだけど。
関西精機製作所がすごかったのは業界自体をひっぱりあげていたということだと思うね。

寺町:それがキャスコなくして業界は・・・という。


水田(健):うん、その辺りは営業部だったさんという方がいて、すごく詳しい方だからきいてもらったらいいと思うんだけど。






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