●古川謙三氏に聞く(前編)


●生い立ちから創業まで

 古川謙三氏の祖父は関西電気の母体となる京都電気鉄道の関係者で、父も淀川製紙という会社を営み、比較的めぐまれた少年時代をすごしたという。やがては父の後を継ぎ自分も製紙業を営むものとして、青年の頃からそれらの準備していたのだが、空襲で工場は焼失、独自の道を歩むことを余儀なくされる。
 同志社大学では経済学を専攻していたが、子供の頃から機械に興味を持っていたことが大きく、島津製作所勤務の頃、設計など機械の基礎を本格的に習得するべく勉学に励む。その後、村田機械を経て独立。最初に造ったのは、本田技研の製品化に先駆ける自転車用モーターだった。

Engine


 そんな折、大阪の阪急百貨店向けに”何階に何がある?”といった紹介を自動的に行う、テレビサイズの広告機械を試作。屋上でオペレータ(遊戯施設の経営)を行う友人の坂本氏がこれを見て「屋上の方で機械にならないか?子供に見せるような?」と提案する。これがステレオトーキーの1号機だった。

「その時はゲームをずっとやろうとかいう考えもなかったんですけれどね、それ一種類つくったら、阪急以外からもかなり依頼がありまして、つくって売りました。 それでこの事業をはじめたんですけれど。」古川氏、43歳の時である。

 関西精機製作所という古川氏の個人会社がその3年後法人化されるのは1章の通り。製品パンフレットのデザインなどは劇団で脚本なども書かれたという学友の島村典夫氏、営業方面は小見山崇氏という創立メンバーが行うことになる。テープレコーダーが一般化していない時代のステレオトーキーの音源はレコードで、最初の仕事はそのカッティングを古川氏宅で行うことだった。ちなみに、トーキーの看板は奥さんが筆で着色していたという。


●生粋の技術屋社長

カラオケ 以降、ビューボックス、ミニ・ドライブ、ボールを使ったさまざまなゲーム機、接点式射撃ゲームをリリース。古川氏のアイデアはとどまるところを知らず、ゲーム機以外にもあんま機や、カラオケ(右)を世界で初めて商品化。自動キップ販売機、ロッテのガムの販売機と、枚挙に暇がない。社員も技術者も増えていったが、基本的にこれらほとんどすべての製品を、古川氏自らが図面をひき設計した。
そして当時としては画期的だったレーシングシミュレーションゲーム、インディ500を開発・発売。技術的にも突出しており、今まで無かった本格的なゲームマシンとして特に若い世代の喝采をあび、ボーリングブームなどとの相乗効果もあって、一気にシーンの主役に踊り出た。会社もまた飛躍をみせる。


 しかし、古川氏自身がゲームが好きだったといえば実はそうでもなかった。子供向けのゲームが多かったが、それはデパート屋上というロケーションや機械式という特性がそれにぴったりはまったからだ。
「子供が好きだってことでもない(笑) 。機械が好き
(笑) 」(睦子氏:談)
会社の経営は小見山氏など、もっぱら別の人にまかせて、古川氏はひたすらゲーム機、もといメカを創リ出すことに熱中する日々を過ごした。その没頭振りは、先の水田さんのエピソード(1章)に、「浅間山荘事件の時は、テレビ中継をずっと見ていた」という話に対し、「こっちは社長室でずーーっと機械を考えているからわからない(笑)」(
奥様)というコメントからもうかがい知れる。古川氏ご自身もそれには「へえー、管理が悪かったんだねえ(笑)ってなものだ。


 「社長なのに社長業はせず、もっぱら機械をつくる技術屋」とは奥様の評だが、そういう志向だったから、事業をどんどん拡大するといったことにはさして興味が無く、むしろ自分達の技術や製品を堅実に造り磨く、ということの方が重要だった(あんま機などは突飛なように思えるが、これは相手側からのリクエストに応じてつくられたものだ)。
故にさらなる工場や投資を必要とするビデオゲームに進出する考えもなかったし、
もともと、金儲けというもの自体にさして興味が無いというのも、これまた古川氏の気質だった。
あなた、よく言われていたよ。中村(雅哉)さんはハングリー精神があるから大きくしようーという気があるけど、僕はその気はないって。」(奥様)

 そういった古川氏の考え方にあわない社員が会社を離れるのはむしろ当然の流れであったし、お互いがそれぞれの分野で発展していけば万事よかったわけだ。
 惜しむらくは、例えばそうして独立されていった小見山氏が志半ばでご病気により逝去された、そして関西精機製作所もまた同じような理由で解散を余儀なくされた、ということであろう。






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