殿平への登りから北に鞍吾山を望む

殿平から鞍吾山

11月中旬、日差しの回る初狩駅に降り立ったハイカーは少なくなかった。駅前を滝子山へと案内する標識に従って進み、ふと振り返ると後ろには誰もいない。みな高川山に行くらしい。だが自分も滝子山に行くわけではない。しばらく前、降雪直後に歩いた殿平なる山を再訪し、そのとき達せられなかった鞍吾山まで足をのばす予定だ。


国道20号を渡って坂を上がり中央道をくぐり抜けるころには藤原の集落に入っている。その中に鎮座する藤原子神社が登山道の入り口だ。鳥居の脇には赤く染まったカエデが枝を広げ、境内には山梨県下第二位の大木という杉の木がかわらず幹の太さを誇示している。
藤沢子神社
紅葉のカエデが出迎える藤沢子神社
谷間に広がる杉の林の中を抜けると色づく雑木林が目に入るようになる。わずかに開けた合間から本日の最終目的である鞍吾山が窺える。『甲斐の山山』に"同じような高さのコブを三つ並べている"とある通り、横幅のある山頂部を持つ山だ。南面に広げた山腹が日差しを浴びて秋色に輝いている。これは滝子山東稜の末端にあたり、視線を左へ送れば無骨な滝子山の山頂部がさらなる高みからこちらを見下ろしている。
殿平の名は稜線が広いことからと聞くとおり、ルート左右の平面が広がってきた。奥多摩にある丹波天平などに比べれば狭いが、大月周辺の山にあっては個性的といってよい山稜だろう。その稜線が細くなり、一度下って登り返すと殿平最高点に着く。このあたりの稜線は広くなく、山名にふさわしいのは最高点前段だろう。藤原子神社から一時間と手軽なのに誰もいないのは、そもそも地味な山なうえに、まだ落葉しきっていない木々が周囲の眺めを遮っているからかもしれない。
今日は風が強い。西にそびえる大菩薩主稜を越え、殿平の小さな稜線を乗り越えようとする大気が木々を揺らし轟音を立てる。心落ち着かない稜線の一方、初狩の谷間を隔ててわだかまる高川山は逆光に黒く染まって揺るぎなく、安泰な風情だ。これを正面に眺めつつ、風を避けるべく斜面を少々下って腰を下ろし、湯を沸かした。
その名にし負う殿平
その名にし負う殿平
殿平山頂より梢越しに滝子山を見上げる
殿平山頂より梢越しに滝子山を見上げる
殿平からはよく踏まれた道のりを北へと辿る。あいかわらず木々に遮られて広闊な眺めはないものの、枝越しに左手には徐々に頭が丸くなっていく滝子山、右手には尖塔状にそびえる百蔵山を前面に北都留三山が垣間見える。よく踏まれた山道は稜線から離れ山腹沿いに下りだしてしまう。これはかつて沢沿いにあったキャンプ場に向かうもので、鞍吾山へは稜線沿いに細い踏み跡を追う。山間にあって誰にも出会っていないが、ここに及んで本日は独り占めの山だろうなと思えるようになる。見上げれば目指す山がだいぶ近くなってきている。
殿平から歩くこと40分くらいで達する岩じみた表面の急傾斜はルートが不分明だ。歩きやすいところを選んで登っていく。ここはまだましなほうで、主稜直下に至るともはやコースがよくわからない。なにせ滑りやすい土の表面の斜面なので、捕まるものがないと登っていてさえ滑り落ちそうになる。そして捕まるべき木々の間隔が開いている。なかばクライミングのような気分で三点確保を念頭に高度を稼いでいく。振り返ると踏んできたコースは見下ろすほどで、斜度は気分的に60度だ(実際には45度くらいか)。勢いの衰えない風が頭上で脅かすような音を立て続けている。腕力登りをしながら、本コースが経験者向きに分類されているのに何度も納得した。着雪した状態の前回訪問時に鞍吾山を諦めたのは正しかった。
頂稜直下の急登途中で高川山(奥)と殿平を振り返る
頂稜直下の急登途中で高川山(奥)と殿平を振り返る
ようやく斜度が緩んでたどり着いたのは、木々に囲まれてこれまた眺めのない場所だった。鞍吾山最高点とされるところで、立木に黄色いテープが巻かれていて「クラゴ山->」と書かれている。その記載の通り、左右に伸びる稜線を右にたどれば現地点より10メートルほど低いものの山頂とされる場所で、その先に下山するルートが続く。最高点は三つあるピークの一つで、残り二つは稜線を左に、西へと辿る。山を下る前に寄ってみたところ、真ん中にあるピークがやや眺めがよく、浮かれ立つような秋色の山々の上に白さを増した富士山が霞む。杓子山、御正体山今倉山が前衛に並んで空の大きさを引き立てる。『甲斐の山山』に、もっとも眺望がよいとある西峰は、松の木が育ってしまって視界がだいぶ遮られ、杓子山くらいしか望めず、期待はずれだった。
鞍吾山山頂とされる場所は、古びた標識が木の幹から下がるだけでけばけばしさがなくて好ましい。やはり眺望はないものの、三つのピークよりは開けた空間があって圧迫感はない。這いずるように登ってきた南斜面の東側を区切るように見える尾根が下っていて、本来ここを登ってくるべきだったかと訝しんだが、改めてガイドを見直してみるとやはり最高点に出るように書いてあったので、辿ってきたルートは大筋では間違いないようだ。本日辿ったのが唯一のである限り、殿平から鞍吾山に辿るルートがいつまでもガイドマップに載らなくても、驚くことではなささそうだ。
鞍吾山最高点(東峰)
鞍吾山最高点(東峰)
鞍吾山中央峰より三ツ峠山(中央奥)、鶴ヶ鳥屋山(その手前)、本社ヶ丸(右)
鞍吾山中央峰より三ツ峠山(中央奥)、鶴ヶ鳥屋山(その手前)、本社ヶ丸(右)
下山路はおそらくこっちだろう、と思える踏み跡を追ったが、すぐに分からなくなった。山頂からは北と北東に顕著ではない尾根が落ちているが、北のはすぐにただの斜面になる。下山路は北東のものを辿る。この日は間違えて北のに入ってしまい、尾根の形をなくしたのにもかかわらず斜面を下ろうとしてしまった。足下遙かでは傍らを林道が併走している恵能野川の水音が響いている。そこまで行けばよいのだが、悪くすると沢際に出てしまって渡渉、などということになる。
人間の足音に驚いて走り去る鹿を見送る。下り斜面でときおり見かけた足跡は鹿のもので、先行者のではなかった。北東の尾根こそ下山路と気づいたときは、だいぶ下ってしまっていた。こちらは北側だけあって日の光は通らず薄暗い。やや影濃い左右の斜面を見通せば、下っている山腹にはさほどの起伏がなく、沢もない。本来の登山道に戻ろうと、ぐずぐずの崩れやすい斜面を延々とトラバースすることにした。単独行だからできたことで、複数メンバーで出かけていたら表層の土砂崩れを起こしかねなかっただろう。ようやく地面の固まった尾根に出た。先ほどまでは正面にあった黒岳や雁ヶ腹摺山を左手前方に眺めつつ、今度こそ迷うことなく下っていった。
鞍吾山山頂から北東稜を急降下
鞍吾山山頂から北東稜を急降下
斜度が急になった斜面を下ると、あっけなく林道に出た。未舗装で、予想と違って車は通れなさそうな路面だった。もはや谷底で、そこここに立つ灌木の周囲には、昨日の雨がまだ乾いていないような陰鬱さが漂っている。せせらぎの音を耳にしつつ、かつて人家があったと思しき林間の平坦地を横目に過ぎ、川を渡ると、大きめの民家脇に出た。ここから簡易舗装となり、徐々に谷間も広がり、目に入る屋根も増えて集落の体裁を見せ始めた。農家の敷地に立つカエデやイチョウは半分ほど色づいている。取り入れが終わったのか、枝から下がる柿の実はわずかだった。


林道を40分歩いて16時に着いたバス停留所では、土曜休日でなければあと30分でよいところが、日曜の本日は1時間20分待たなければならない。駅まで歩いても同じくらいだろうと歩くことにし、予想を少々上回るくらいの所要時間で日没迫る大月駅に着いた。あと2分で新宿直行の快速が入線するとのことなので、だいぶ新しくなった駅前の散策は後日とした。
2012/11/18

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