姉を想う

佐藤文子

姉は,平成14年7月に58才で亡くなりました。
実家の父から電話で 報せを受けた時「アア!姉ちゃんは やっと楽になったんだ!」と、ほっとしたのも嘘ではなかったような気もします。が、もっともっと生きてほしかったと想ったのも本心だったような気もします。

私が 姉に対面したのは,通夜の最中(午後8時頃)でした。
交通の便が良くなったとは言うもののやはり九州は遠い処です!。
 私を見ると義兄が手を取り,姉の顔を触らせてくれました。私は,言葉も出ず 只 涙が流れ続けるだけでした。
 姉は,長い闘病生活をおくってきたとは思えない程、顔はふっくらし 髪の毛はふんわりとカールをしてありました。私は,義兄に「ワアー!綺麗!」と、思わず口走っていました。義兄は「うん 綺麗じゃぞ」と、泣いていました。

姉の病気が発病したのは、今から13年程前のことでした。勤務中に呼吸困難を起こし、倒れたのが始まりでした。
病院に運ばれ検査の結果の診断が下されました。私も病名は聞きました。が、今はすっかり忘れてしまいました。
 只 百万人に一人と言う難病で、二年の寿命だと宣告されたのだけは、今でも身内の受けた大きな衝撃として忘れることはできません!。

でも、姉は頑張りました。13年もの長期間を難病と闘い続けました!。
一年の内約3分の2を病院で過ごしました。しかし、元来勝ち気な姉は、周りの人を暗くすることもなく笑顔を絶やさない人でした。

私が 姉に最後に会ったのは、父の88歳の米寿のお祝いの為に実家(大分)に帰省したときでした。今から思えば亡くなる1年半程前でした。
その頃には内蔵の全てがボロボロになっていました。元々の難病の病気は肺臓でした。が、薬の副作用でしょうか?腎臓・肝臓も悪いのが一目で分かったようです。
顔色はどす黒く!全身はがパンパンにムクんでいたようです!。どこにに行っても先頭になって立ち働く人でしたが、流石にあの時は動くことができませんでした。
 それでも、明るさだけは失っていませんでした。私も悲しいことに声だけしか分かりません。姉も又、一言の弱音を周囲の人に漏らす人でもありませんでした。そんな姉でしたから誰からも、好かれ頼りにもされていました。
 でも、私は思います。人になんか好かれなくても良い!周囲の人に我がままを言い!病気を恨み 悔しがり! 泣き叫ぶことをどうしてしなかったのか?!そんな姉であったなら私も一緒に泣いて上げることぐらいはできたのに!何もして上げられなかったのが悔しく!残念で堪りません!!

あれから、8ヶ月経ちました。実家に電話をすると90歳の父と85歳の母は淋しそうに「姉ちゃんが今にも来るような気がしてたまらん!!」。
平成15年3月記


私の実家は大分県玖珠郡九重町です。四方見渡すと九重連山の一つ九住山等々の山々に囲まれ 自然に恵まれた美しい田舎町です。
 九重山ってご存知でしょうか?今日は、その九重山をご紹介致します。

1. 九重山は大分県中部の火山群で、九州島の最高峰九住山(1791メートル)をはじめ大船山、三俣山など1500メートル以上の山々の連なり。高山植物群落やキャンプ場・温泉郷で有名な観光地で、阿蘇九重(くじゅう)国立公園に属し、やまなみハイウェイが通じる。

2. 三俣山は均整のとれた堂々とした山容をみせる美しい山で、3つのピークから成り立っているので、この名がつけられた。硫黄山との間に、すがもり峠がある。

3. 九重山は阿蘇山に隣接する火山地帯で、その豊富な地熱を利用して温泉や地熱発電所があります。中央に白い噴煙を上げている火山が硫黄山で最近では、1995年に噴火しました。

4. 湯布院と阿蘇を結ぶ、やまなみハイウェイは、日本離れした雄大な風景を楽しめる、快適なドライブウェイです。特に長者原付近は、噴煙を上げる九重の山並みの眺めが、素晴らしいところ。日本道路公団が建設し、1964年に開通した。初めは有料道路であったが、数年前から無料となった。