足の向くまま気の向くままのぶらり旅
生田泰忠4月7日、両手に花の一日旅
SLで全国的にも名前の知られている、静岡県の大井川鉄道に乗って、「家山(いえやま)」までお花見に行って来ました。
この大井川鉄道は蒸気機関車(SL)をはじめ、いろいろな鉄道で活躍してきた多くの車輛(客車・電車)が動態保存されている事でもよく知られており、まだまだ立派に活躍しています。
注、動態保在とは、いつでも動かせる状態で保存すること。
朝7時半、名古屋駅中央改札口前に集まり、7時55分発の快速豊橋行に乗車、豊橋と浜藤駅で乗り継ぎ金谷駅(かなや・10時14分)へ。
私達は「新金谷(しんかなや)」駅10時28分発の普通電車に乗車。
大井川を車窓左に約40分ゆっくりと家山へ。
またこの普通電車がユニークな車で、車内の窓際には、大井川周辺を散策する親子連れを描いた絵だとか風景画が掲げられていました。
車窓の外には、淡い緑色の映える茶畑や、ゆったりと流れる大井川をぬって「家山」へ。
ここの茶畑には、かなりの風車が、これは霜除けのためにつけられているの事、これが一服の絵となっています。
有名な桜のトンネル(満開)トンネルを通り抜け家山川の鉄橋を渡ると列車は「家山駅」に到着。
家山駅に降りたつと、なんとまあ懐かしい赤いベレー帽をかぶったポストが立っていたのです。
またお花見シーズンとあって駅売店にも駅前のお店にも色とりどりのお弁当が売られていたのですが、肝心のビール・酒類は見当りませんでした笑い。つつめここは、「家山川」と「大井川」の合流点でもあり、河川敷も広くダーベキューを楽しんでいるグループもあるとのこと。
また天王山と言う小さな山(?)があり、その展望台まで約1キロ、自然に生えている、菫やタンポホ・蓮華草等に触れながら展望台へ、鶯の歌を聞きながら、おいしい空気と自然の風景の中でのお弁当。
Wさんの心のこもった手作りのお弁当本当においしかった。
昼食をすませ、満開の桜のトンネルを通り抜けることにしました。
折角のお花見、やはりビールがなくてはお話にならないからと街の中をあちこち、「あった・あった自動販売器が、なにしろ飲める三人早速買い求め展望台近くの池のところまで戻り、先ずは乾杯、「よかった・よかった」笑い。
なんとかビールにもありつけたし折角桜を見に来たのだからと言うことで有名な桜のトンネルを通り抜けることになりました。
ここは列車の他、車も人も一緒に通り抜けることができるんです。
人が通り抜れる様になっており桜のトンネルを通り抜ける列車と一緒にカメラに、おさまる事もできるんですが、私達はタイミングが悪くできませんでした。
梅に鶯ジャナクテ、桜に鶯って、いいですね。
名産の「山根茶」をお土産に買い求め、午後3時家山発の急行で新金谷へ。
ここでも静岡の名物「あべかわ餅」を買い求め車中の人となる。
浜松・豊橋で乗り替え名古屋へと。
ここでも、わずかな乗り替え時間をぬってビールを買い求め、車中で、コツン「お疲れ様でした」。新快速・大垣行きは、快調に名古屋へと向う。
5月9日。久々の参加
風さわやかな季節、久々の歩こう会に参加。
8時半金山駅で岡田さんのお迎えをうける。8時28分発の碧南行き急行に乗車、約1時間、人形の里と言われている「吉浜駅)に到着。
改札口を出て約15分ちょっと小高い山の上のお寺へ、ここが「細工人形の里」と言われているお寺「流池院」。
この寺は、約800年前熱田神宮の大宮司の奥様が眼病にかかって、治療はかばかしくなく、そこで大日如来に願(がん)をかけたところ、満願の日に眼病が治った。
おおいに喜んで、この吉浜にお堂を建て、大日如来を拝し「光明寺」と名づけた。
その後信長の兵火によって焼けたが、如来像は無事、ささやかな祠に祭られていた。
その後以来300年前、徳川家の家臣で(大平左エ門丞なる者重い眼病にかかりこの地に来て大日如来にお祈りしたところたちまち眼病が治り、嬉しのあまりに髪を切り、お堂を再建した。
また里人たちも大変喜んで、手作りの人形を境内に飾り、ひとつを大日如来に、ひとつは参詣人の目を楽しませることにした、これが「細工人形」はじめとなると伝えられている。
江戸時代に入って光明寺は廃寺となっていたが、明治25年岡崎市の1300年余りの由緒ある流池院にまつられていた阿弥陀如来とともにここにまつられるようになり、今では流池院(りゅうちいん)と呼ばれている。
丁度お祭とあって境内には(たこやき・おでん・手作りの人形を売る露店が軒を連らねており、大勢な人々で賑わいをみせていた。
またこの周ひ辺には神社やお寺院がかたまってあり、あるお寺では甘茶を振るまっていただきました。
11時過ぎ出発、高浜へ。
大山公園、ここはかなり広く小高い丘と言うか小さな山が、そこで昼食、手作りのおにぎりを頬張る、お腹もへっていたのでおいしかった。
食事をすましその周辺を散策、小高い山の頂上までいき、なぜかそこには大きな狸゛、立っている。
高さは約7メートルぐらいあり、手に提げている大福帳が長さが約1.2メートル、幅70センチぐらいあり大きなお腹、それになんとなんと大きいのが笑い。
またその周辺には句碑とともに大・小の狸だ立てられていた。
その句碑のひとつにおんな詩ガ彫られていた。
我が店は 九官鳥へ登校の 子等 声かけている
この句は、この土地の人が宮中の詩かいはじめに選らばれたことを記念してと言うか、後生に伝えるために建てたとか。
つづいて、森前の渡し跡。
この辺りはもと森前と呼ばれていて、衣浦大橋がは開通するまでは、対岸の亀崎へ船で往来した。
その渡船場跡、森前の渡しの起源については明らかではないが、江戸時代刈谷藩がこの渡船場を重視し村役を庄屋に命じて船の出入りを取りしまり年貢500石を免じていたと言われる。
以来高浜と知多とを結ぶ交通のにね要路として重要な役割りを果してきたが大橋の開通とともに廃止となった。
高浜駅前で開散、清清しい5月の一日だった。
5月15日、紫の麦と藤川宿
皆さんご存知ですか?紫色の麦って。
お米(古代米)には赤いお米とか黒いお米があると言うことはよく知られるようになりましたが、麦にもあったんです、紫色の麦が、それもこの愛知県の岡崎市に。
私が知ったのは昨年のこと知った時はもう時期が終っていたので、今回まで待ってたんです。
藤の花が終ったあと今度は紫の麦って言うところ。
ここは昔から東海道五三次・35番目の宿場町に当り、宿場町と言うより問屋場として栄えたとのこと、そこでこの紫色の麦は(皮)が堅く食すには適さなかったようで馬の飼料として栽培されていたようです。
今では加工技術も進し「食せる」ようになったとか?。
当時は生憎の雨になってしまいましたが、朝10時17分発の豊橋行急行に、11時本宿(もとじゅく)下車。桑谷(くわがや)山荘(国民宿舎)の送迎バスに迎えられ山荘へと。霧雨の中深緑の山道、つづら折りの道をゆっくりぬうように山荘へと。
山荘の前からは三河湾が一望のもとに広がりを見せてくれる。
私は昼食を待つ間、大好きな温泉へ、ゆっくり手足を伸ばし、リラックス。
温泉で温まったところへ、冷たいビール、それにおいしい山菜料理に舌鼓をうつ、甘露甘露。そして待望の「紫麦のトロロ飯」をいただく。
ゆっくりくつろいだ後、送迎バスで本宿駅まで送っていただく。
やみ間のない小雨の中藤川駅へ、ここは小さな無人駅改札口らしきところを通り抜けるともうそこに紫色の麦と街の説明をしている立て札が。
だいぶ雨も降ってきたようだ。
この雨が嬉しいのか蛙たちが盛んに鳴いている。私は何年ぶりにこの声を聞いたことか?
小雨の中蛙の声をきき、紫色の麦に触れ、しばし待つうち今日、ご案内してくださるボランティアさんがおみえになる。
紫の麦の説明のなか、従来の麦に比べると、茎も細く・柔らかくそのため麦の穂は下に垂れ下がることになるんだそうです。
その昔、芭蕉もこの地を訪ずれ次のような句碑が残こされていました。
「ここも三河 紫麦の 杜若」
2時半過ぎ本格的な雨になってしまったが、折角だからと言うことで、古い街並を散策、旅篭(はたご)と呼ばれた宿屋の建物、昔懐かしい広い軒下で、雨やどりをしながら説明も聞く。
その後資料館に寄りいろいろお話を聞く。
この資料館は、昔の脇本陣だったとか、門は昔のおもかげを残こしている、と言うのはここを町役場として使っていたからだとのこと。
本陣の方は残念ながら跡形も無く空き地になっているようです。
脇本陣と本陣の違いを説明をしてくださる。
脇本陣には門が本陣には玄関があり式台と言うのがあったとか。この本陣には殿様が宿まられるところで座敷には一段と高い上段の間と言うのがあったとおこと。
いろいろな説明をお聞きした後、雨降る中、藤川駅まで見送っていただき藤川宿を後にしたのは、午後3時50分でした。