日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.5 市民への暴行 / 4.5.2 激震期(12/13~12/16)

4.5.2 激震期(12/13~12/16)

図表4.5(再掲) 市民への暴行

市民への暴行

※ このグラフは、安全区国際委員会の報告書「南京安全区档案」に記載の事件を集計したもので、被害者数には強姦・掠奪被害者も含む。
報告書に記載された事件は氷山の一角に過ぎず、市民の犠牲者総数は数千から数万に及ぶと見られている。

(1) 陥落直後の安全区

ミニー・ヴォートリンは陥落直後の安全区の様子を次のように日記に記している。掠奪は13日から、強姦は14日の夜から始まったようだ。

12月13日(月) 激しい砲撃が夜通し城門に加えられていた。… 5時を少し回った頃に起き上がって正門の所へ行ってみた。あたり一帯は静かだったが、門衛が言うには、退却する兵士たちがいくつもの大集団をなして通過していき、なかには民間人の平服をせがむ兵士もいたそうだ。…
午後4時、キャンパス西方の丘に何人かの日本兵がいるとの報告があった。… 家禽実験所に入ってきた兵士が鶏や鵞鳥を欲しがっている、と告げた。すぐに降りて行き、ここの鶏は売り物ではないことを身振り手振りで懸命に伝えると、兵士はすぐに立ち去った。たまたま礼儀をわきまえた兵士だった。…
午後7時30分 … 校門の向かいの家屋に日本兵が入り込んでいるとの報告があった。… その兵士たちの責任者と交渉しようとしたが、どうにも埒があかなかった。…
今夜、南京では、電気・水道・電話・電信・市の広報・無線通信すべてが止まっている。…

12月14日(火) 午前7時30分。昨夜、戸外は平穏だったが、人々の心の中には未知の危険にたいする恐怖があった。…
【夕方】金陵女子文理学院に戻ってみると、学院の前の空地は日本兵で溢れ、校門のすぐ前にも兵士が8人ぐらいいた。… 昨夜の荒くれ兵士に比べると、この兵士たちはまったくおとなしい。

12月15日(水) … 朝8時30分から夕方6時まで、続々と避難民が入ってくる間ずっと校門に立っていた。多くの女性は怯えた表情をしていた。城内では昨夜は恐ろしい一夜で、大勢の若い女性が日本兵に連れ去られた。…  (「ミニー・ヴォートリンの日記」,P49-P56)

(2) 市民を巻き込んだ敗残兵掃蕩

12月13日から日本軍は南京城内・城外で敗残兵の掃蕩を行ったが、中国軍兵士だけでなく市民もその巻き添えで犠牲になった。フィッチが入城した日本軍に遭遇したときの様子を「戦争とは何か」に次のように記している。

{ 13日の午前11時、安全地区にはじめて日本軍の侵入が知らされました。私は委員会のメンバー2人と一緒に車で彼らに会いにゆきましたが、それは安全地区の南側の入口にいる小さな分遣隊でした。彼らは何の敵意も示しませんでしたが、その直後には、日本軍部隊の出現に驚き、逃げようとする難民20人を殺したのです。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P29-P30 <戦争とは何か>)

安全区の掃蕩を担当した歩兵第6旅団の城内掃蕩要領には、逃げる敵や青壮年は敗残兵とみなして逮捕監禁せよ、とある。(「掃蕩要領」は 註441-1<ページ外> 参照)
「逮捕監禁せよ」は、前線の兵士たちには銃殺せよと同じように理解されていたようだ註452-1

ベイツは、「戦争とは何か」に次のように書いている。

{ 日本軍の入城によって戦争の緊張状態と当面の爆撃の危険が終結したかと見えたとき、安心した気持ちを示した住民も多かったのです。少なくとも住民たちは無秩序な中国軍を恐れることはなくりました … しかし、2日すると、たび重なる殺人、掠奪、婦女暴行 … などによって事態の見通しはすっかり暗くなってしまいました。
市内を見回った外国人はこのとき、通りには市民の死体が多数ころがっていたと報告しています。… 死亡した市民の大部分は、13日午後と夜、つまり日本軍が侵入してきたときに射殺されたり、銃剣で突き殺されたりしたものでした。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P24 <戦争とは何か>)

(3) 夏淑琴さん事件(新路口事件)

12月13日の朝、城内南部の中華門近く新路口に住んでいた2家族13人が、侵入してきた日本軍の集団に襲われて11人が殺され、うち3人の女性は強姦された。当時8歳だった夏淑琴さんは銃剣で刺されたものの、無傷だった4歳の妹とともに生き延び、近所のおばさんに見つけられた。

この事件について、東中野氏が著書「南京虐殺の徹底検証」などで「夏淑琴の証言は偽りである」と主張したことに対して、2000年に夏淑琴さんは中国の裁判所に名誉棄損の訴訟を起こした。東中野氏は日本の裁判所に反訴したが、2007年東京地裁は「被告東中野の原資料の解釈はおよそ妥当なものとは言い難く、学問研究の成果というに値しないと言って過言ではない」(Wikipedia:「夏淑琴」) として東中野氏と出版社に400万円の賠償を命じる判決を言い渡した。東京高裁の判決も同様で、2009年最高裁は東中野氏らの上告を棄却し、判決が確定した。

(4) 安全区の敗残兵摘出

陥落時の敗残兵掃蕩とともに多くの市民が殺害されたのは、14日から本格的に始まった安全区に潜んだ敗残兵の摘出によるものだった。外国人が目撃したものには司法部事件(4.1.4項(2))があるが、フィッチは「15日夜、本部近くの収容所で1300人の難民が連行された」註452-2と証言している。また、ミニー・ヴォートリンは1938年1月21日の日記に次のように記している。

{ ここ数日間、悲しみで狂乱状態の女性たちが報告してきたところでは、12月13日以来、夫や息子が行方不明になっている件数は568件(?)にのぼる。彼女たちは、夫は日本軍のための労務要員として連行されたのだと、いまもそう信じている。しかし、わたしたちの多くは、彼らは黒焦げになった死体に混じって、古林寺からそう遠くない池に放り込まれているか、埋葬されることなく定准門外に堆く積まれた半焦げ死体に紛れ込んでいるのではないかと思っている。12月16日の一日だけで422人が連行されたが、この数は主としてここのキャンパスにいる女性の報告によるものだ。16歳か17歳の若者多数が連行された。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P128)

※ミニー・ヴォートリンは、行方不明になっている夫や息子などがどのくらいいるか、収容所の難民に調査している。2月3日の日記にはそれらは全部で658人、と記している。

(5) 強姦

12月14日頃からは強姦や掠奪など兵士が個人又は小グループ単位で行う暴行が増えていく。「南京安全区档案」にある不法行為の事例で最も多かったのが強姦であった。

以下は、「南京安全区档案」の事例第58件で、外国人が強姦現場を目撃した数少ない事例のひとつである。冨澤氏の訳文は直訳風で読みにくいが、そのまま引用する。

{ 12月17日 … ラーベ氏はドイツ国民で、自分の家には4本の鉤十字旗を掲げていた。それにも拘わらず2名の日本兵が6時頃ラーベ氏が家に戻った時、入ってきた。彼は、兵士の一人が一人の少女を強姦するため服を一部脱いでいるところを見つけた。この2名の兵士は出て行けと命令されて、来た時と同じく塀を越えて姿を消した。}(「安全地帯の記録」,P183-P184)

ミニー・ヴォートリンがいた金陵女子文理学院は女性専用の収容所だったが、14日から日本兵が押し寄せるようになり、15日から1週間くらい、以下のような日々が続いた。

{ 12月17日 7時30分 … 疲れ果て怯えた目をした女性が続々と校門から入ってきた。彼女たちの話では、昨夜は恐ろしい一夜だったようで、日本兵が何度となく家に押し入ってきたそうだ … 午前中は校門に詰めているか、そうでなければ、日本兵グループがいるという報告がありしだい、南山から寄宿舎へ、はたまた正門へと駆けまわることで時間が過ぎた。 … ここ数日は食事中に、「ヴォートリン先生、日本兵が3人いま理科棟にいます … 」などと使用人が言ってこない日はない。…
4時から6時までの間に大勢の婦女子の2グループを引率して行った。何と悲痛な光景だろう。怯えている少女たち、疲れきった女性たちが子どもを連れ、寝具や小さな包みにくるんだ衣類を背負ってとぼとぼと歩いて行く。彼女たちについていってよかったと思う。というのも、日本兵の集団があらゆる種類の掠奪品を抱えて家から家へと移動していくところに出くわしたからだ。… }(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P61)

笠原氏は、{ 強姦は軍法規で厳禁されていたので、憲兵その他に知られまいとして、犯した後に殺害してしまうことも多かった。}(「南京難民区の百日」,P489) と述べている。

(6) 軍医が調査した強姦の生理

上海第一兵站病院に勤務していた早尾逓雄陸軍軍医中尉は、上海戦、南京戦で頻発した兵士の犯罪について調査した結果を報告書にまとめている。その一部を笠原氏の著作から再引用する。

{ … 人間は恐怖、疲労困憊のもとには性欲発揮することなし。これは睾丸の組織検査にも表れたり。戦闘休止し精神に余裕を生じ休養の効果表れるとともに睾丸の組織は常態に復旧す。ここにさらに精神の緊張失わるるをもって、性欲勃然として起こるは当然なり。餓鬼とならざるを得ず、これ強姦の流行せし所以なり。これをあえてせざるはその人の修養のあつきを物語るものとす(「軍医官の戦場報告書意見集」44頁)。}(「南京難民区の百日」,P48-49)

(7) 掠奪その他

「南京安全区档案」にある不法行為の事例で強姦の次に多かったのが掠奪(強盗及び窃盗)であった。( 図表4.7参照 )
入城当初、掠奪の主たる対象は食糧だったが、しだいにあらゆるものが対象となった。掠奪品を取引する闇マーケットがあり(6.7.3項(4))、そこで換金することができたようである。以下は、「南京安全区档案」に掲載された事例第6件であるが、敗残兵掃蕩の際にも掠奪が行われている。

{ 12月14日、はっきりした統率者なしの日本兵約30名が大学病院と看護寮を捜索した。病院の職員は徹底的に掠奪された。取られたのは万年筆6本、金180ドル、時計4、病院包帯2、懐中電灯2、手袋2組、セーター1であった。}(「安全地帯の記録」,P152)

日本軍は外国人の家などには近づかないよう命令を出していたが、多くの外国人の家が掠奪にあった。掠奪されたのは中国人や外国人だけでない。16師団の師団長中島今朝吾中将は12月19日の日記に次のように記している。

{ … 師団司令部と表札を掲げあるに係らず中に入りて見れば政府主席の室から何からすっかり引かきまわして目星のつくものは陳列古物だろうと何だろうと皆持って往く。}(「南京戦史資料集」,P332)

第13師団歩兵第103旅団長の山田栴二少将も12月24日の日記に次のように記す。

{ 徴発の不仕鱈は、結局与ふべきものを与へざりし悪習慣なり 徴発に依りて、自前なる故、或る所は大いに御馳走にありつき、或る所は食ふに食なしの状を呈す … 兵の機敏なる、皆泥棒の寄集りとも評すべきか 旅団司令部にてもぼやぼやして居れば何でも無くなる、持って行かる、馬まで獲られたり }(「南京戦史資料集2」,P335-P336)

殺人、傷害、放火、脅迫なども強姦・掠奪が関係する場合が多い。

(8) 国際委員会の活動

この時期の国際委員会の活動は、多発する強姦や掠奪、殺人、傷害などへの抗議と治安維持に向けた要望に終始する。

12月14日; 第1号~第3号文書で国際委員会の役割やメンバーなどの紹介を行い、国際委員会が武装解除した敗残兵の寛大な処置を依頼。

12月15日; 日本軍特務機関長と面談。特務機関長が一方的に次のようなことを言明した。

{ ①市内の中国兵を捜索しなければならない、②安全区の入口各所に衛兵をたてる、③住民はできるだけ速やかに帰宅すべきである、④武装解除された中国兵の取扱いについては、日本軍の人道的態度を信用されよ。… }(「安全地帯の記録」,P147<第6号文書>(要約))

12月16~18日; 長文の抗議と治安回復のための提案を行っている。提案には、憲兵隊の組織、中国人警官の活用、消防部の再編、都市行政の専門家による市民生活管理、日本兵の夜間徘徊対策、難民収容所への歩哨設置、日本語の布告文掲出、など多岐にわたっている。

12月19~26日; この期間は不法行為の事例報告が主になる。放火や不法行為の中止のほか、乏しくなりつつあった食糧と燃料の補給の要望が初めて出てくる。そして、26日の第24号文書では「事件が減りつつあり、状況は随分よくなったと報告できることを嬉しく思う」と述べている。

(9) 日本軍の対応

日本軍もこうした不法行為が存在することを認識して、対策をとっている。

慰安所の設置

上海派遣軍飯沼参謀長の日記によれば、12月19日、慰安所設置準備のため長勇参謀を上海に派遣している。長勇参謀は12月25日に南京に戻り、飯沼参謀長は日記に「年末には開業できる段取りとなった」註452-3、と記している。

歩哨や憲兵の配置

ミニー・ヴォートリンは、12月18日の日記に{ 日本大使館の田中氏が憲兵2名に夜間の警備をさせる、と言ってくれた。}註452-4とあるが、その後も強姦は続き、12月20日に{ 夕食のすぐあと、今夜の警備要員として憲兵25名がキャンパスに派遣されてきた。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P70)、12月22日に{ … 昨夜は何事もなく平穏だった。}(同上,P75) となって、やっと少し落ち着いてきたようだ。

フィッチも12月19日の日記に{ 最近、憲兵が17名到着したので、彼らは秩序を回復するのを助けるだろう … 5万余りもの軍隊にたいしてたったの17人!}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P35<戦争とは何か>) と書いている。フィッチが書いている通り、憲兵の数は非常に少なく、取締りはほとんどできなかったであろう。

憲兵が増員されるのは1月初めになってからで定員約400名の中支那方面軍憲兵隊が編成され、監視網も強化された(秦:「南京事件」,P178)

兵団長会議(12月24日)

上海派遣軍の兵団長会議では、多くの師団、旅団から軍紀の問題に関する発言があった。12月24日の飯沼日記にその様子が記述されているが、秦氏の要約を引用する。

第3師団: ご訓示の任務に努むると共に訓練、将兵の精神教育をなす。

第13師団: 軍紀風紀、皇軍精神より見て工合悪き略奪行はる。特務兵(注.短期教育の輜重兵)特に多し、断乎として振作を図らんとす。江北に独立作戦後、放火が殆どなく気分やや之に向ひつつあり。

第16師団: 軍紀風紀は概して良好なるも一般に粗放なるもの少なからず、更に一段の緊縮を期せんとす。

天谷支隊: 軍紀風紀十分ならざるも放火は無くなれり。

兵団長クラスの上長への報告は、一種の勤務評定の場でもあるから、不名誉な話は出さず、当たり障りのない内容になるのが通例なのに、この報告内容は逆である。軍紀・風紀の乱れが日常化していて、百年河清を待つ気分だったととれる。あるいは、少しでも改善の方向に向かっている、と司令部を安心させる発言だったのかもしれない。}(秦:「南京事件」,P163)

松井総司令官の認識

松井総司令官も不法行為の報告は受けたようだが、この時点では「やむなきもの」、と認識している。

{ 尚、聞く所、城内残留内外人は一時不少恐怖の情なりしか、我軍の漸次落付くと共に漸く安堵し来れり、一時我将兵により少数の奪掠行為(主として家具等なり)強姦等もありし如く、多少は已むなき実情なり。}(「南京戦史資料集」,P22 <12月20日の松井日記>)


4.5.2項の註釈

註452-1 逃げる者は射殺

{ 11月28日; … 残敵の掃討に行く。… 自分たちが前進するにつれ支那人の若い者が先を競って逃げて行く、何のために逃げるのかわからないが、逃げる者は怪しいと見て射殺する。}(牧原信雄日記 笠原:「南京事件」,P88<京都師団関係資料集より>)

註452-2 フィッチによる敗残兵連行目撃談

{ 15日の夜、職員の会議中に本部の近くにある収容所で1300人の難民を兵士たちが連れ出して銃殺しようとしている、という知らせがあった。我々はその中に多数の元兵士がいることを知っていたが、この日の午後、ラーベに対してある将校が彼らの生命は助けてやる、と約束したばかりでした。男たちは100人ぐらいずつ数珠つなぎにされ、刑場へ行進して行くのを見た。}(「大残虐事件資料集Ⅱ」,P32 <戦争とは何か>(要約) )

註452-3 慰安所の開設 ・・・ 飯沼日記>

{12月19日 … 迅速に女郎屋を設ける件に就き長中佐に依頼す}

{12月25日 … 長中佐上海より帰る。青幇(チンパン)の大親分黄金栄に面会上海市政府建設等の打合せを為し先方も大乗気、又女郎の処置も内地人、支那人共に招致募集の手筈整ひ年末には開業せしめ得る段取りとなれり。}(「南京戦史資料集」,P220,P226)

註452-4 ミニー・ヴォートリン 12月18日の日記

{ 田中氏は物わかりのよい人で、心を痛めていただけに、自らも出向いて、憲兵2名に夜間の警備をさせるつもりだ、と言ってくれた。}(「ミニー・ヴォートリンの日記」,P66)