日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.5 市民への暴行 / 4.5.3 余震期(12/27~1/23)

4.5.3 余震期(12/27~1/23)

クリスマスを過ぎると、陥落直後に比べれば安全区とその周辺での市民への暴行は減少したものの、兵民分離で市民が殺害され、強姦や掠奪などの事件があい変らず続いた。その中で日本軍は南京市民による「自治委員会」を設置し、安全区国際委員会の業務を引き継がせようとした。

図表4.5(再掲) 市民への暴行

市民への暴行

※ このグラフは、安全区国際委員会の報告書「南京安全区档案」に記載の事件を集計したもので、被害者数には強姦・掠奪被害者も含む。
報告書に記載された事件は氷山の一角に過ぎず、市民の犠牲者総数は数千から数万に及ぶと見られている。

(1) 難民登録(兵民分離)

12月22日の国際委員会第23号文書には、「良民登録」に関する日本軍の布告が掲載されている。

{ 12月24日から良民証を発給するので、日本軍の発給事務所へ出頭すること。この調査後、良民証を持たないものの城内居住は許されない。}(「安全地帯の記録」,P208-P209<要約>)

これは4.4.4項に記した兵民分離であるが、12月26日、金陵大学のテニスコートで日本軍将校に「自首するなら助けてやる」と言われて自首した男たちが漢中門などで処刑された様子が第50号文書に詳細に書かれている。(4.4.4項(4)に引用) この文書の報告者ベイツは生き残った数人の被害者から証言を聞いており、ベイツの思いが詰まっている最後の部分を要約引用する。

{ この事件は2週間にわたって行われた難民登録の一つにすぎず、これより多くの人を巻き込んだ事件もある。ここで捕虜の殺害に関する議論をするつもりはないし、日本軍が主張する「復讐」について議論するつもりもない。私が関心を抱くのは、ひとつは話合いの条件が大きく裏切られ多くの人々が殺されたことであり、もうひとつは我々の資産や職員、難民が密接に関係していることである註453-1。…
この事件の殺害方法、場所、時刻等の証拠のすべてが他の事件より豊富で、大学から連行された男たちの大多数はその夜殺され、一部は他の場所からのグループと一緒にされてから殺されたのであった。}(「安全地帯の記録」,P275-P276)

(2) 自治委員会発足

1938年1月1日、日本軍は中国人による南京自治委員会を発足させ、国際委員会が行っていた難民への食糧供給などのサービスを自治委員会に移管しようとした。国際委員会も公式には移管に賛同したものの、保有していた資金や物資を譲ることは拒否した。ラーベは日記に次のように書いている。

{ 1月6日 … 午後5時、福田氏来訪。軍当局の決議によれば、我々の委員会を解散して、食糧などの蓄えや資産を自治委員会に引き渡してもらいたいとのこと。… 「仕事を譲ることに関しては異存ありませんが、これだけはいっておきます。治安がよくならないかぎり、難民は元の住まいには戻れませんよ」。… 日本から助言を得てはいるが、自治委員会はまるで無策だという気がする。どうやら狙いは我々の金だけらしい。}(「南京の真実」,P192)

国際委員会は1月7日の第34号文書では、自治委員会に対して正常状態に復帰させるための4つの課題を提示している。それは、①安全地帯外の治安確保、②住民の帰還を地区単位で順次行う場合の方法、③経済生活(商店、銀行、郵便・電話などの生活インフラ)の回復、④火災の停止、である。

(3) 食糧問題

陥落直前に国際委員会が確保した米や燃料などが底をつきはじめたため、食糧確保のための依頼文書が多数発行された。1月13日には上海から食糧を調達するてはずを整え、日本大使館に輸送の許可を求めたが、日本側から明確な回答がないまま時間が過ぎていく。国際委員会は1月10日頃に南京に戻ってきたアメリカ、イギリス、ドイツの大使館関係者に手紙を送って支援を依頼しているが、結局、この要望は却下された。

(4) 棲霞山難民キャンプ

南京城の東北東約20キロにある棲霞山(せいかざん)にも難民キャンプがあった。そこにいる中国人から国際委員会にあてた手紙が第60号文書として残されている。その一部を引用する。

{ 南京陥落後より、毎日何百人の避難民が本院に避難所と援護を求めてやってきました。本状を書いている現在(1月25日)、既に約2万4千人もの人々を我々はこの寺の屋根の下に抱えており、そのほとんどが婦人と子どもであります。男は撃たれたか日本軍への重労働のために捕われているのです。}(「安全地帯の記録」,P313)

(筆者註)このあと、1月4日から20日頃までの強姦や掠奪の事例が記載されているが、15日の分だけ引用する。

{ 1月15日 多数の日本兵がやってきて若い娘を全部狩り出し10人を選び出し、寺院の一室で強姦した。同日その後、一人の泥酔した日本兵がやって来て、或る部屋に入り込み酒と女を要求した。酒は提供されたが、娘は与えられなかった。怒り狂った兵士は銃を乱射しはじめ、少年二人を殺して立ち去った。彼は持ち場に帰る途中1軒の家に入り込み、70歳の老農婦を殺し、驢馬を盗み、家に放火した。… 我々住民を助けてくれるよう切に貴下にお願いするものです。}(同上,P314-P315)

(5) 外務省石射東亜局長の回想

南京での日本軍の非行は南京大使館員を通じて日本の外務省にも早い時期に伝わっていた。外務省東亜局長だった石射猪太郎氏は回想録で次のように述べている。

{ 南京は暮れの13日に陥落した。わが軍のあとを追って南京に帰復した福井(淳)領事からの電信報告、続いて上海総領事からの書面報告がわれわれを慨嘆(ガイタン)させた。南京入城の日本軍の中国人に対する掠奪、強姦、虐殺の情報である。憲兵はいても少数で、取り締りの用をなさない。制止を試みたがために、福井領事の身辺が危ないとさえ報ぜられた。…
私は三省事務局長会議で度々陸軍側に警告し、広田大臣からも陸軍大臣に軍紀の粛正を要望した。軍中央部は無論現地軍を戒めたに相違なかったが、あまりに大量な暴行なので、手のつけようもなかったのであろう、暴行者が、処分されたという話を耳にしなかった。当時南京在留の外国人達の組織した、国際安全委員会なるものから、日本側に提出された報告書には、昭和13年1月末、数日間のできごととして、70余件の暴虐行為が詳細に記録されていた。最も多いのは強姦、60余歳の老婆が犯され、臨月の女も容赦されなかったという記述は、殆んど読むに耐えないものであった。}(石射猪太郎:「外交官の一生」,P298)

(6) 軍紀紊乱に対する日本軍の対応

参謀総長戒告

陸軍中央は南京での非行を止めないとこれ以上の作戦展開は無理と判断し、12月28日、参謀総長名と陸軍大臣名で松井総司令官に「国際関係に関する件」と題した要望電を送った。続いて1月4日には大本営陸軍部幕僚長名の「軍紀風紀に関する件」という文書を送付している。秦氏はこれを「戒告に相当するもの」註453-2と述べている。

軍紀引締めの通達

「参謀総長戒告」を受けて上海派遣軍は12月30日に軍紀引締めに関する指示を出している。

{ 12月30日 … 午後1・30より、南京及附近宿営部隊副官等を集め軍紀風紀殊に外国公館に対する非違に就き厳に注意をなす }(「南京戦史資料集」,P229<飯沼日記>)

この指示は兵士たちにも伝えられた。

{ 歩9連隊の一兵士は、12月31日の日記に次のように書きとめている。「本日左の如く命令が会報に出た。良民を殺さぬようにすること、良民たちの家屋内に無断で立ち入ることを禁ず、良民たちの物品又は其他の品々を領収することを禁ず」(外賀関次日記)(秦:「南京事件」,P174-P175)

陸軍省人事局長の視察

陸軍省人事局長の阿南惟幾少将は、勲功調査と軍紀風紀の状況調査のため、1月2日南京を訪問し、関係者と面談した。中島師団長との面談の様子を秦氏は次のように記している。

{ 阿南人事局長一行が中島師団長をなじると、「捕虜を殺すぐらい何だ」(稲田正純氏談)と反論されているし、4日にやってきた青木企画院次長一行に、やはり中島が平然と、「略奪、強姦は軍の常だよ」と語るので、文官の手前、恥ずかしくなった、と案内役の岡田芳政大尉は回想している。}(秦:「南京事件」,P174)

警備体制変更

1月21日をもって、南京警備は16師団から11師団の天谷支隊に交代することになった。中島師団長は22日南京をたって上海に向い、23日には松井大将と面談しているが、この二人の関係はすでに冷えきっており、二人の日記には埋めようがない溝があることが窺える。

中島日記;{ 1月23日 松井大将に面会して隷下を離るるの申告をした … 話中かっぱらいの話あり、… この男案外つまらぬ杓子定規のことを気にする人物と見えたり 次に国民政府の中のかっぱらいの主人は方面軍の幕僚なりと突っ込みたるに、是はさすがにしらばくれて居りたり 家具の問題も何だかけちけちしたことをぐずぐず言いおりたれば、国を取り人命を取るものに家具位を師団が持ちかえる位が何かあらん … }(「南京戦史資料集」,P352-P353)

松井日記;{ 1月24日 第16師団長北支に転進の為め着滬す。言動例に依り面白からす、殊に奪掠等の事に関し甚た平気の言あるは、遺憾とする所、由て厳に命して転送荷物を再検査せしめ鹵獲、奪掠品の輸送を禁する事に取計ふ }(「南京戦史資料集」,P33)


4.5.3項の註釈

註453-1 ベイツの関心事 補足説明

「南京安全区档案」の第50号文書に記されている主旨は以下のようなものである。 (「安全地帯の記録」,P275-P276)

①話合いの条件が裏切られたこと; 日本軍は「兵士だったことを名乗りでれば殺さない」と言っておきながら、殺してしまったことをベイツは「裏切られた」と言っている。

②我々の資産や職員、難民が密接に関係; 敗残兵の選別はアメリカが設立に関係した金陵大学で行われ、職員や難民も事件に巻き込まれたことを指すものと思われる。

註453-2 軍紀・風紀に関する件

以下は、秦氏が「参謀総長戒告」と呼ぶ文書の全文である。原文はカタカナ混じりだが、ひらがなに置き換えてある。

{ 軍紀風紀に関する件 昭和13年1月9日  中支方面軍参謀長 塚田攻 両軍参謀長 直轄部隊長 宛
首題の件に関しては各級団隊長の適切なる統率指導の下に之が振粛に邁往せられあるを信するも今回参謀総長宮殿下より別紙写の如き要望を賜りたるに就ては此際軍紀風紀の維持振作に関し最大の努力を払はれ度尚軍紀風紀並国際問題に関しては今後陸軍報告規定に準し其緩急に従ひ電話・電信又は文書を以て迅速に其概要を報告し更に詳細なる報告を呈出せられ度

(別紙)
顧みれは皇軍の奮闘は半歳に邇し其行く所常に必す赫々たる戦果を収め我将兵の忠誠勇武は中外斉しく之を絶賛して止ます 皇軍の真価愈々加るを知る然れ共一度深く軍内部の実相に及へは未た瑕瑾の尠からさるものあるを認む 
就中軍紀風紀に於て忌々しき事態の発生近時漸く繁を見之を信せさらんと欲するも尚疑はさるへからさるものあり
惟ふに一人の失態も全隊の真価を左右し一隊の過誤も遂に全軍の聖業を傷つくるに至らん
須く各級指揮官は統率の本義に透徹し率先垂範信賞必罰以て軍紀を厳正にし戦友相戒めて克く越軌粗暴を防ぎ各人自ら矯て全隊放銃を戒むへし特に向後戦局の推移と共に敵火を遠さかりて警備駐留等の任に著くの団隊漸増するの情勢に処しては愈々心境の緊張と自省克己とを欠き易き人情を抑制し以て上下一貫左右密実聊も皇軍の真価を害せさらんことを期すへし
斯くの如きは啻に皇軍の名誉と品位を保続するに止まらすして実に敵軍及第三国を感服すると共に敵地民衆の信望敬仰を繄持して以て出師の真目的を貫徹し聖明に対へ奉る所以なり
遡て一般の情特に迅速なる作戦の推移或は部隊の実情等に考へ及ふ時は森厳なる軍紀節制ある風紀の維持等を困難ならしむる幾多の素因を認め得へし従て露見する主要の犯則不軌等を挙けて直ちに之を外征部隊の責に帰一すへからさるを克く此を知る
然れ共実際の不利不便愈々大なるに従ひて益々以て之か克服の努力を望まさるを得す或は沍寒に苦しみ或は櫛風沐雨の天苦を嘗めて日夜健闘しある外征将士の心労を深く偲ひつつも断して事変の完美なる成果を期せんか為玆に改めて軍紀風紀の振作に関し説に要望す
本職の真意を諒せよ
 昭和13年1月4日 大本営陸軍部幕僚長 戴仁親王  中支那方面軍司令官宛 }(「南京戦史資料集」,P564-P565)

{ 要望の内容は、国際関係もあり、軍紀風紀の乱れを正すよう望んだものだが、天皇から親補された出征軍の最高指揮官が、天皇の幕僚長からこの種の要望を受けたのは異例で、事実上の「戒告」に相当すると言ってよいだろう。}(秦:「南京事件」,P173)