日本の歴史認識南京事件第4章 南京事件のあらまし / 4.1 東部・北部における掃討戦 / 4.1.4 城内掃蕩

4.1.4 城内掃蕩

図表4.1(再掲) 陥落直後の東部・北部における事件

東部・北部における事件

注)赤丸に白抜きの数字は、上表左端の①~⑦の各事件の発生場所を示す。

※ 各派評価 それぞれの事件が不法な事件かどうかについての各派の評価
史: 史実派(笠原氏) 中: 中間派(秦、板倉、偕行社) 否: 否定派(東中野氏)
〇:不法又はそれに準じる
△:研究者により異なる
-:合法又は調査対象外

(1) 城内掃蕩

13日未明に中山門を占領した第19旅団(歩9,歩20)は、引続き城内東部の掃蕩を行なったが、目立った戦果はなかったようである。

{ 12月13日、19旅団の主力は中山門から城内に入り、城内東側の掃蕩を行ったが敵はほとんどおらず銃弾を使うことなく掃蕩は終った。14日は城内および城外の紫金山南部の掃蕩を実施したが、この地域にいた敵は少なく、目立った戦果はなかった。16日,17日にも紫金山南麓を掃蕩したが、敗残兵は見当らなかった。}(「南京戦史」,P166-P169<要約>)

(2) 司法部の敗残兵(図表4.1⑦)

12月14日、歩20連隊第4中隊は城内の掃蕩を行ったが、その陣中日誌には、敗残兵328名を銃殺し埋葬す、とある。これは、中山路にある司法部と思われる建物から便衣に着がえた敗残兵を摘出し殺害したもので、その敗残兵の摘出と銃殺に携わった増田六助上等兵の手記を要約引用する。

{ 明れば14日、難民区に掃蕩に行く。… 大きな建物に入ると、数百名の敗残兵が便衣に着がえつつあるところを見つけた。傍らには小銃、拳銃、青竜刀等が山ほど積んである。 … 片端から引っ張り出して裸にして持物の検査をし、電線でジュズつなぎにする。木の枝や電線で力まかせにしばき付けながら「きさま達のために俺たちはこんな苦労をしているんだエイッ」ピシャン「貴様らのためにどんなに多くの戦友が犠牲になっているかも知れんのじゃエイ」ピシリ。 … しばく、たたく、思い思いの気晴らしをやった。少なくとも300人くらいはいる。多すぎて始末に困った。
委員会の腕章をつけた支那人に「你支那兵有没有」と聞くと、向こうの建物を指差して「多々的有」と言うので、入ってみると一杯の避難民だ。そのなかから怪しそうな1千人ばかりを1室に入れ、さらに300人を選り出した。夕闇せまるころ、600人近くの敗残兵を引き立て玄武門に至り、その近くで銃殺した。}(「南京難民区の百日」,P221-P222)

(3) 司法部の敗残兵 … 続き(図表4.4①)

2日後の16日、再び日本軍の掃蕩があり、「司法部にいた警察官や民間人を含めた総計2千余人を捕え、漢中門外で殺害した」註414-1とこの事件の生き残りである伍長徳氏は証言している。
16日の安全区掃蕩は第9師団の歩7連隊が担当していたので、16師団ではなく9師団の可能性がある。このとき、日本軍将校はその場にいた安全区国際委員会のアメリカ人に暴行を働き、抗議を受けている。安全区国際委員会から日本大使館にあてた抗議文書を以下に引用する。

{ 12月16日の朝、1将校のもとの日本兵の一隊が司法部に来て、そこの人々の大部分を銃殺すべく連行するといった。少なくとも銃殺するとは将校が言った言葉である。…
12月14日、一人の日本将校が司法部にやって来て、その人員の半数を調べた。その中から約2百ないし3百名を中国兵だと主張して連行し、330名を民間人と認めて残した。この半数の人員の最初の調査は大変注意深く行われた。この日将校が調査しなかった残りの半数は建物の別の区画に入れられ、将校は翌日即ち12月15日に戻って来て彼らを取り調べ、その中に中国兵を発見すれば、それは余所へ移すと予告した。ところが翌15日には選り分けする将校は一人も来なかった。しかし16日になってある将校がやって来て、14日の最初の調査で全ての兵を連行し終わったと言い、16日にこのグループ(それには未だ調査し終わっていない例の半数が入っていたが)の中に中国兵が入っているのを発見したのは警察と我々委員会とが最初の調査の後にその建物の中に兵士を入れたのだ、と将校は主張した。このグループに我々が加えた人は日本兵により住居から追い立てられた多数の民間人だけであり、彼らは大学病院のマッカラム氏と国際委員会のM.S.ベイツ博士により司法部に連れてこられたのである。日本側が16日にグループの中に中国兵を発見したのは、委員会がグループのなかに中国兵を入れたためではなく、日本兵が15日に計画通りグループの半数を調査しなかったためである。
12月16日朝の事件の全体は大学病院のマッカラム氏と国際委員会所属でかつ住宅委員であるリッグス氏によって目撃されていた。この過程で将校は刀で3度リッグス氏を脅し、最後に拳で彼の胸を2度激しく叩いた。 … }(「安全地帯の記録」,P169-P170 <国際委員会第11号文書「司法部における事件に関する覚書」>)

(4) 各派の見解

史実派と中間派はともに不法行為と認定している。

否定派の東中野氏は、{ 敵弾が西方より飛んでくる中で中国兵と遭遇し、そのまま追撃して328名を捕え、銃殺したものと思われる。}(「再現 南京戦」,P228) として、この事件は合法と主張している。しかし、建物の中にいた兵士らしきものを選別してから銃殺、という静的な状況で殺害していることは明白であり、敵弾がビュンビュン飛んでくるような緊迫した状況ではない。詳細は註414-2を参照。

(5) 第16師団入城式

12月15日、全軍の入城式に先だち16師団は入城式を行った。中島師団長は日記に次のように記している。

{ 既に一部掃蕩隊が入城しありたるも此日新たに入城式の形式を以て南京占領の一段落をつくることとせり。各隊は事後処理の任務遂行に差支なき範囲に於て代表部隊を堵列せり師団司令部各部隊長陪従の上大元帥陛下の万歳を三唱し、今日こそ真に樽酒に口つけ飲まんということにして祝盃を挙げたり。}(「南京戦史資料集」,P328)


4.1.4項の註釈

註414-1 伍長徳氏の証言

{ 1937年12月15日、日本軍は司法院難民収容所において、制服着用の警察官百余人と軍服を脱ぎ換えていた者3百余人、ほかに軍民千余人、総計2千余人を捜索のうえ捕え、全員を室外に追い立て、4列縦隊に並ぶよう命令し、漢中門外まで押送してのち、機関銃で掃射し、さらにたきぎとガソリンで焼却した。}(中国/南京市文史資料研究会編:「証言・南京大虐殺」,P22)
※15日は16日の誤り

註414-2 司法部事件に関する東中野氏の見解

東中野氏は歩20第4中隊の戦闘詳報「 … 敗残兵328名を銃殺し埋葬す」を引用した後、増田六助日記や国際委員会の文書には触れずに、{ たまたま【歩20の】掃蕩区域において中国兵と遭遇し、そのまま追撃して【他の部隊の】掃蕩区域に入ったのであろう。そしてそこで328名を捕え、銃殺したものと思われる。 … これはすでに見たように … 「敵弾は西方より来る中を」の状況と同じ状況のことであったようだ。}(「再現 南京事件」,P228) と述べている。

中山路の安全区側にある司法部は歩20の担当区域外で、それを説明するのを兼ねてこのような論理を展開したようだが、南京戦史では{ 第4中隊の掃蕩区域は一部安全区内を含んでいた。}(「南京戦史」,P328) としており、担当区域外かどうかは無関係である。

また、増田日記や国際委員会文書を見ればとても「追撃して銃殺」といった状況でないことは明白である。