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用語集

<あ~お>

安全区(Nanking Safety Zone)

南京安全区国際委員会(委員長:ジョン・ラーベ)が設置した避難民を収容する区域。南京城内にあり、東西1.6キロ、南北2.2キロ、面積3.86平方キロ。南京陥落時にはおよそ20万人がいたが、翌年の1月半ばには25万人に増加した。安全区といっても中国兵が逃げ込んだため、敗残兵の掃蕩が行われたほか、掠奪や強姦、放火なども多発したが、それでも安全区外に比べるとはるかに治安は良かったようである。
"難民区"ともいうが、本レポートでは"安全区"を使用する

<か~こ>

関東軍

大日本帝国の中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島先端)の守備、および南満州鉄道附属地警備を目的とした関東都督府の守備隊が前身。司令部は当初旅順に置かれたが、満州事変後は満州国の首都である新京に移転した。"関東軍"の名称は警備地の関東州に由来し(関東とは、万里の長城の東端とされた山海関の東側、つまり満州全体を意味する)、日本の関東地方とは関係ない。(Wikipedia)

漢中門、漢西門

漢中門は南京城西側にある門。漢西門は漢中門のすぐそばにある門で、地理的にこの2つの門はほぼ同じ場所にあったとみてよい。{ 漢中門は漢西門のごく近いところにあって、1931年に漢中路がひらかれたときに設けられたものである。} (洞富雄:「南京大虐殺の証明」,P283)

金陵(きんりょう、jinring)

南京の古称、雅称。戦国時代、楚の威王の時、金を埋め城を築き金陵と称したという。三国時代、呉の都(建業)となり発展。(広辞苑)

肯定派

本レポートでは、中間派と史実派をあわせて肯定派と呼ぶことがある。南京において少なからぬ規模で不法行為があったことを認めている人たちである。

行李

旅行の荷物や荷物入れと云う意味もあるが、軍隊では「戦闘または宿営に必要な弾薬・糧秣(りょうまつ)・器具などを運ぶ部隊」(広辞苑)を意味する。

国際委員会

「南京安全区国際委員会」のこと。

国粋主義

自国の歴史・文化・政治を貫く民族性の優秀さを主張し、民族固有の長所や美質と見なされるものの維持・顕揚をはかる思潮や運動。(広辞苑)
日本における国粋の具体的な内容は論者によって一定しないが,最初は,圧倒的な欧化主義の風潮のなかで伝統的な文化や生活様式を保存することの意義を国民の対外的独立と結びつけて主張していたが,次第に異質な外来の文化や思想に対する排外的な攻撃性や国家の対外的膨張の主張を特色としていった。(コトバンク)

国家主義/全体主義/ファシズム

広辞苑は次のように定義している。

国家主義

国家を人間社会の中で第一義的に考え、その権威と意思とに絶対の優位を認める立場。全体主義的な傾向をもち、偏狭な民族主義・国粋主義と結びつきやすい。

全体主義

個人に対する全体(国家・民族)の絶対的優位の主張のもとに諸集団を一元的に組み替え、諸個人を全体の目標に総動員する思想および体制。

ファシズム

①狭義には、イタリアのファシスト党の運動、並びに同党が権力を握っていた時期の政治的理念およびその体制。
②広義には、①と共通の本質をもつ傾向・運動・支配体制。第一次大戦後、ヨーロッパに始まり世界各地で出現(イタリア・ドイツ・日本・スペイン・南米諸国・東欧諸国など)。全体主義的あるいは権威主義的で、議会政治の否認、一党独裁、市民的・政治的自由の極度の抑圧、対外的には侵略政策をとることを特色とし、合理的な思想体系を持たず、もっぱら感情に訴えて国粋的思想を宣伝する。

これらの定義をもとに筆者なりに整理してみると以下のようになる。
国家主義の概念は、思想的なもので政治体制などは含まれないが、全体主義には含まれる。ファシズムは、全体主義の一種で議会政治の否認、一党独裁、市民の自由の抑圧、合理的な思想体系なし、などの具体的特徴を持つ。

国民政府(国府)

中華民国における中国国民党による政府のこと。略称は国府。

コミンテルン

第三インターナショナルの別称。世界各国の共産党の国際組織。1919年、レーニンらの指導下にモスクワで創立、国際共産主義運動の指導に当ったが、次第にソ連1国の利益に従属するようになり、1943年解散。

<さ~そ>

史実派(=大虐殺派)

南京事件では10数万から20万人を超す犠牲者が出た、と主張する学者、研究者のグループ。従来、"大虐殺派"と呼ばれてきたが、近ごろは自らを"史実派"と名乗るようになってきた。本レポートでも"史実派"を使用する。洞富雄氏(故人)、本多勝一氏、笠原十九司氏、藤原彰氏、吉田裕氏、らがこのグループに属する。

輜重(しちょう)

軍隊に付属する糧食・被服・武器・弾薬など軍需品の総称。また、その輸送に任ずる兵科。(広辞苑)

支那

現在の中国に対する地理的な呼称で、秦(しん)が転訛したものといわれている。英語の“China”も語源は同じ。日本では江戸中期以来、第二次大戦末まで用いられた。当初は普通の言葉として使われていたが、列強が中国を侵略した頃から、“支那”は蔑むニュアンスをこめて使われるようになった。支那には「邦を支える」「本邦の支部」という意味があり、これも相手から見ると侮蔑的な意味と理解される要因になっている。1930年に中華民国から“支那”を使わないよう申し入れがあり、公文書では当時から使わないようになっていた。戦後は日本政府から“支那”を使わないよう通達が出ている。(出典:広辞苑及びWikipediaから編集)

侵略

国際法上「国家による他の国家の主権、領土保全若しくは政治的独立に対する、又は国際連合の憲章と両立しないその他の方法による武力の行使」と定義されている。(大沼保昭:「歴史認識とは何か」,P95)

政党内閣

「立憲政体のもとで、主に首相が政党の首班で、閣僚の全部または大多数の政党員で組織し、かつ指導勢力が政党にある内閣」(広辞苑) 
日本初の本格的政党内閣は原敬内閣(1918/9/29~1921/11/13)と言われており、以降断続的に政党内閣が続くが犬養毅内閣(1931/12/13~1932/5/16)が戦前最後の政党内閣になる。明治憲法下において、首相は元老が天皇に推薦し、天皇が任命することになっていたので、政党内閣といえども元老(当時は西園寺公望)の推薦を必要とした。

清野戦術(清室空野戦術)

堅壁清野(けんぺきせいや)が正式な名称。焦土作戦の一種。中国では古来からの戦法とされ、古くは「後漢紀」巻四にも現れるが、特に日中戦争(支那事変)期に中国国民党軍によって行われたものを指すことが多い。城壁に囲まれた市街地内に人員を集中させ(堅壁)、城外は徹底して焦土化する(清野)ことで、進攻してきた敵軍は何も接収できないようにして疲弊させ、持久戦を有利に運ぶ狙いで行われる。日中戦争時に、国民党軍は日本軍・中国共産党軍の双方に対しこの作戦を取った。焦土化の対象は、軍事施設や食糧倉庫のみならず田畑や民家にまで及んだ。(Wikipedia)

全体主義

「国家主義」の項を参照。

<た~と>

大虐殺派

"史実派"の項を参照。

太平洋戦争/大東亜戦争

"太平洋戦争(The Pacific War)"は、第二次大戦で連合軍側が使用した呼称で、日本では"大東亜戦争"と呼んでいた。(名称を決める際、海軍は"太平洋戦争"を提案している) 戦後、GHQの指示により"大東亜戦争"は使用禁止となり、日本政府は公式には"今次戦争"などと呼んでいるが、外務省では"太平洋戦争"という呼称も使用しており、日本で最も一般的な呼称なので本レポートでもこれを使用する。なお、現在でも"大東亜戦争"と呼ぶ人たちもあり、呼び方により戦争の見方が異なるようである。

中間派

南京事件で不法な行為はあったが、それによる犠牲者数は数万人である、と主張する学者、研究者のグループ。史料をもとに実証的な研究をする人が多い。秦郁彦氏、板倉由明氏、偕行社などが、このグループに属する。

中共

中国共産党の略称。

徴発(ちょうはつ)

「軍需物資などを人民などから集める際に見られる行為で、行政的な執行権が伴う場合もある。供出や略奪と異なり、徴発においては対価が支払われる。対価は軍票などによることが多い。国際法(ハーグ陸戦条約)でも認められている(Wikipedia) なお、一般的には「他人から物を強制的に取り立てること」(広辞苑)

(ちん)

中国で、①北魏の頃、大軍を駐屯させた要地の称、②宋代以降、県に所属する小都市の称、③一地域を鎮安する軍隊またはその将。(広辞苑) 英語ではtownあるいはsmall cityと訳される。(Wikipedia)

帝国主義

①軍事上・経済上、他国または後進の民族を征服して大国家を建設しようとする傾向。 ②狭義には、19世紀末に始まった資本主義の独占段階。レーニンの規定によれば、独占体と金融寡頭制の形成、資本輸出、国際カルテルによる世界の分割、列強による領土分割を特徴とする。(広辞苑)

档案/檔案(とうあん)

檔案は、①中国における歴代政権の公文書、②各種組織、機関或いは個人が業務処理を行う際に発生し保管される記録、文書、資料を表す中国語。(Wikipedia)  
中国で、永久保存用の文書・記録。もと辺境との往復公文書をいい、多く木片に書き、壁にかけて保存した形が「かまち(檔・框)」に似るからいう。(広辞苑)

<な~の>

南京(地理的条件)

本レポートでは、次の用語を使用する。なお、南京城区、南京市、南京行政区は南京事件当時の行政区分であり、現在の行政区分とは異なる。

南京城

城壁で囲まれた地域。城壁の長さは34.24kmで東京の山手線の長さとほぼ同じ、面積もほぼ同じで約40平方キロ。高さは約20メートル、幅は3,4メートル~18メートル。

南京市

城区の外側にある農村地帯の"郷区"を加えた地域を南京市と呼ぶ。南京事件の犠牲者数は、通常、この地域を対象にしている。東京の世田谷区、目黒区、渋谷区を併せた面積にほぼ等しい。

南京行政区(近郊6県)

南京市のある江寧県のほか、その周辺にある六合県、江浦県、句容県、凛水県、高淳県の6県を加えた地域を南京行政区と呼ぶ。東京都、埼玉県、神奈川県を併せた面積にほぼ等しい。

南京行政区

南京安全区国際委員会(The International Committee for Nanking Safety Zone)

安全区を管理・運営する国際委員会。委員長はドイツ人のジョン・ラーベ。1937年11月22日に設立。設立時メンバーは16人(南京陥落後まで残ったのは10人)、国籍別では、アメリカ7人(6人)、ドイツ4人(3人)、イギリス4人(1人)、デンマーク1人(0)、カッコ内は陥落後まで残った人。南京自治委員会発足後1938年2月18日に南京国際救済委員会に改称。

難民区

"安全区"と同じ。本レポートでは"安全区"を使う。

<は~ほ>

ハーグ陸戦条約

1899年にオランダ・ハーグで開かれた第1回万国平和会議において採択された「陸戦の法規慣例に関する条約」ならびに同附属書「陸戦の法規慣例に関する規則」のこと。1907年第2回万国平和会議で改定され今日に至る。ハーグ陸戦協定、ハーグ陸戦法規などとも言われる。交戦者の定義や、宣戦布告、戦闘員・非戦闘員の定義、捕虜・傷病者の扱い、使用してはならない戦術、降服・休戦などが規定されているが、現在では各分野においてより細かな別の条約にその役割を譲っているものも多い。日本においては、1911年(明治44年)11月6日批准、1912年(明治45年)11月13日に「陸戰の法規慣例に關する條約」として公布された。(Wikipedia)

否定派(まぼろし派)

南京事件において国際法に触れるような不法行為はまったくなかった、又は通常の戦争でありうる範囲であった、と主張する学者、研究者のグループ。"まぼろし派"と呼ぶ人たちもいる。論争初期は犠牲者数には触れずに、「あったかどうかはわからない」とする論者が多かったが、最近は「犠牲者は限りなくゼロに近い」(東中野修道氏)などと言い切る人たちが多い。まぼろし派の名前は鈴木明氏の著書「南京大虐殺のまぼろし」からとられている。他に、田中正明氏、阿羅健一氏、などがこのグループに属する。

ファシズム

「国家主義」の項を参照。

便衣兵(べんいへい)

便衣兵は主として日中戦争で使用され、一般市民と同じ私服・民族服などを着用し民間人に偽装して、各種敵対行為をする軍人のことである。国際法違反であり、捕虜となっても裁判にかけられ処刑される。"便衣兵"と同義の非合法戦闘員・ゲリラを殺害した行為が、国際法上問題と指摘された例はベトナム戦争、イスラエル・パレスチナ紛争、コロンビア内戦など数多い。(Wikipedia)

暴支膺懲(ぼうしようちょう)

日中戦争時に大本営が利用したスローガン。暴虐な支那(中国)を懲らしめよ、の意味。"膺懲"は、「うちこらすこと。征伐してこらすこと」(広辞苑)

<ま~も>

まぼろし派

"否定派"の項を参照。

<や~よ> <ら~ろ、わ>

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