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主要登場人物

※1 (1)事件当時の関係者と(2)研究者等に分け、それぞれ"あいうえお順"に記載している。

※2 人物名の行をクリックすると内容が表示される。

(1) 事件当時の関係者

アリソン(John Moore Allison) [1905年4月7日~1978年10月28日]

  • アメリカの外交官。1927年、訪日して英語教師として教鞭をとり、1930年国務省に入省。南京事件当時は南京領事として日本軍の非行を本国に報告した。アメリカの施設を調査しようとして日本兵に殴られるという"アリソン事件"の被害者となった。1953年駐日大使、1957年駐インドネシア大使、1958年駐チェコスロバキア大使などを歴任。(Wikipedia)

石射猪太郎(いしい いたろう) [1887~1954年]

  • 福島県生まれ。上海の東亜同文書院卒業。外交官試験に合格し、広東領事館をはじめにワシントン、メキシコ、ロンドン等の大使館に勤務。続いて吉林、上海総領事、東亜局長となり、日中戦争中の困難な局面に立たされる。その後、オランダ公使、続いてブラジル大使に就任、ビルマ大使として終戦を迎えた。戦後は幣原喜重郎の伝記の編纂にあたった。(石射猪太郎:「外交官の一生」,カバー)

石原莞爾(いしはら かんじ) [1889年1月18日(戸籍上は17日)~1949年8月15日]

  • 山形県鶴岡市出身。最終階級は陸軍中将。「世界最終戦争論」など軍事思想家としても知られる。"帝国陸軍の異端児"の渾名が付くほど組織内では変わり者だった。関東軍作戦参謀として、板垣征四郎らとともに柳条湖事件を起し満州事変を成功させた首謀者であるが、のちに東條英機との対立から予備役に追いやられた。病気のため戦犯指定を免れ、1949年病死。(Wikipedia)

ウィルソン(Robert O. Wilson) [1907年(?)~ ?]

  • 金陵大学付属病院(鼓楼病院)医師。日本軍の南京占領時、唯一の外科医師として鼓楼病院で医療活動に従事する。妻マージョリーとは1年前に結婚し、長女のエリザベスはこの年の6月に生まれたばかり。最愛の妻子をアメリカに帰国させての南京残留であった。自殺直前のミニー・ヴォートリンをアメリカの病院に見舞っている。(「南京難民区の百日」)

汪兆銘(おうちょうめい)(王精衛) [1883年5月4日~1944年11月10日]

  • 中国の政治家。広東省生。孫文とともに国民政府を立ち上げ、当初は共産党シンパで蒋介石とは対立していたが、次第に反共に変わり、1932年蒋介石とともに南京国民政府を立ち上げて行政院長に就任した。日中戦争勃発後、抗戦をとなえる蒋介石に対して日本との和平を主張し、蒋介石とたもとをわかち日本の支援で新しい政府を立ち上げたが、民衆の支持は得られず傀儡政権となった。1935年と1940年には刺客に襲われ、35年に受けた銃弾がもとで1944年死去。(Wikipedia)

クレーガー(Christian Kroeger) [ 不明 ]

  • ドイツ人、カルロヴィッツ社の南京駐在員。南京国際赤十字委員会の会計。(「ミニー・ヴォートリンの日記」)

近衛文麿(このえ ふみまろ) [1891年10月12日~1945年12月16日]

  • 五摂家の近衞家の第30代当主。東京市出身。1937年6月4日、第一次近衛内閣を組織し首相に就任(1939年1月5日まで)。その後、1940年7月~1941年10月にも首相となった。1945年12月、A級戦犯として裁かれることが決定した後、服毒自殺した。(Wikipedia)

蒋介石(しょうかいせき Chiang Kai-shek(チアン・カイシェック)) [1887年10月31日~1975年4月5日]

  • 中華民国の政治家、軍人。浙江省生、中国国民党総統、日本陸軍士官学校出身。孫文の後継者として北伐を完遂し、中華民国の統一を果たして同国の最高指導者となる。しかし、国共内戦で毛沢東率いる中国共産党に敗れて1949年より台湾に移り、その後大陸支配を回復することなく没した。(Wikipedia)

重光葵(しげみつ まもる) [1887年7月29日~1957年1月26日]

  • 日本の外交官、政治家。大分県出身。東京帝国大学法学部卒業後、外務省へ。駐華公使時代の1932年、上海天長節爆弾事件で右脚を失う。その後、外務次官、駐ソ公使、駐英大使を歴任し、1943年東條内閣で外相、44年小磯内閣で外相兼大東亜相を努める。戦後、東久邇内閣外相として降伏文書に調印。A級戦犯として禁固7年の刑を受けるも後に減刑。52年、改進党総裁、衆議院議員。第一次鳩山内閣の副総理、外相を兼務。(重光葵:「昭和の動乱」カバー、生/没年月日はWikipedia)

スマイス(Lewis S.C.Smythe) [1901年~ ? ]

  • 金陵大学社会学教授、博士。ラーベ委員長のもとに南京日本大使館への抗議文書を作成した。社会学者として南京国際救済委員会を代表して、『南京地区における戦争被害--1937年12月1938年3月-- 都市および農村調査』をまとめた。(「南京難民区の百日」)

谷寿夫(たに ひさお) [1882年12月23日~1947年4月26日]

  • 岡山県出身。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍。南京攻略戦には第6師団長として参加。戦後の南京軍事法廷で、南京事件の責任者および関与者とされて銃殺刑に処せられた。(Wikipedia)

張学良(ちょう がくりょう Chang Hsüeh-liang(ジャン・シュエリャン)) [1901年6月3日~2001年10月15日]

  • 当時満州地方(現地名:遼寧省台安県)の馬賊であった張作霖の長男として出生。張作霖が関東軍により爆殺される(1928年6月)と、父の満州における全権力と巨額の財産を継承し、蒋介石に服属した。1936年に西安事件を起こし、蒋介石を拘束して抗日戦線で共産党と連携することを認めさせたが、事件後、反逆罪で逮捕され軟禁状態におかれた。1991年にハワイに移住し、2001年にホノルルで死去。(Wikipedia)

唐生智(とうせいち T'ang Sheng-chih(タン・ションジー)) [1889年~1970年4月6日]

  • 中華民国及び中華人民共和国の軍人。湖南軍閥から蒋介石の国民革命軍に参加。日本軍の南京攻略時は南京防衛軍の総司令官となったが、陥落直前に撤退。その後は湖南に閑居し、仏教学を研究していたといわれる。中華人民共和国建国後は、湖南省人民政府副主席、国防委員会委員などを担当。(Wikipedia)

中島今朝吾(なかじま けさご) [1881年6月15日~1945年10月28日]

  • 大分県宇佐市出身。最終階級は陸軍中将。陸軍士官学校を卒業後、日露戦争に従軍。1918年から1923年までフランスに駐在。南京事件当時の第16師団長。1945年10月に病死。(Wikipedia)

広田(廣田)弘毅(ひろた こうき) [1878年2月14日~1948年12月23日]

  • 福岡県出身。東京帝国大学法学部卒業。第32代内閣総理大臣(1936年3月9日~1937年2月2日)、南京事件当時は第一次近衛内閣の外務大臣で、陥落後にトラウトマン調停の中止を決定した。東京裁判では、「対アジア侵略の共同謀議」や「非人道的な行動を黙認した罪」等に問われてA級戦犯として起訴され、絞首刑となった。南京事件に関しては、当時、外務省が陸軍に改善を申し入れていたが、残虐行為が8週間も継続したこと、そして広田が閣議にこの問題を提議しなかったことで、広田が事件を黙認したものと認定された。(Wikipedia)

ベイツ (Miner Searle Bates) [1897年5月28日~1978年10月]

  • アメリカ・オハイオ州出身の歴史学者。金陵大学教授。安全区国際委員会の中心メンバーで財政実務や南京日本大使館への抗議交渉を担当。知日派で、日本社会を分析した論考も多い。1937年の夏に家族で避暑のため野尻湖を訪れていたが日中戦争の開始を知って単身南京に戻る。1938年の8月に妻子の待つ日本を訪問している。(「南京難民区の百日」、生没年月日等はWikipedia)

フィッチ(George A.Fitch) [1883年~1979年]

  • 中国蘇州市生まれのアメリカ人宣教師。YMCA国際委員会の書記。中国語が堪能。安全区国際委員会のマネージャー役を担当、妻と二人の息子はアメリカに避難していた。1938年2月末に南京を出てアメリカに出国、年末まで全米で南京事件の報告と難民救済のキャンペーンを展開する。(「南京難民区の百日」、生没年はWikipedia)

福田篤泰(ふくだ とくやす) [1906年10月13日~1993年8月7日]

  • 南京事件当時は南京日本大使館領事館補として、安全区国際委員会など外国人との窓口役を担当。1930年東京帝国大学を卒業後、外務省に入省。情報局秘書課長などを経て吉田茂首相秘書官となる。1949年衆議院選挙に立候補し当選、1959年第二次岸内閣で総理府総務長官、1976年三木内閣で郵政大臣などを務めた。1979年政界引退。(Wikipediaなど)

マギー(John Gillespie Magee) [1884年~1956年]

  • アメリカのピッツバーグ出身。イェール大学で学んだ後、1912年から1940年まで中華民国で宣教師として活動し、南京国際赤十字委員会委員長・南京安全区国際委員会委員を務め、医療活動も行った。日本軍による南京事件について記録・証言をする一方で、日本人将兵の良心的な行動も評価して記録している。南京で暴行を受けた人や死体を撮影した「マギー・フィルム」は、同じ国際委員会のメンバーだったフィッチらが持ち出し、全米各地で映写会を開いた。
    東京裁判では検察側証人として、民間人への暴行を証言したが、弁護人から「強姦の現行犯をご覧になったことがありますか」と問われて「私が見ましたのは一人です」と答え、これが否定派の研究者らから「証言は伝聞に基づいたもので信頼できない」との主張になっている。(Wikipedia)

松井石根(まつい いわね) [1878年7月27日~1948年12月23日]

  • 名古屋市牧野村出身。陸軍大将。孫文や蒋介石と親交があり、日中友好論者だった。1933年大亜細亜協会を設立し、日本と中国が連携して欧米列強に対抗すべきだと主張したが、反日の姿勢を打ち出した国民政府に対して不信感を募らせ、中国一撃論に傾いていった。
    第二次上海事変、南京攻略戦を中支那方面軍の司令官として指揮、戦後、極東国際軍事裁判(東京裁判)で南京での不法行為について、その防止や阻止・関係者の処罰を怠ったとして死刑の判決を受けた。(Wikipedia)

松岡洋右(まつおか ようすけ) [1880年3月4日~1946年6月27日]

  • 日本の外交官、政治家。山口県出身。1893年~1902年アメリカに留学しオレゴン大学法学部を卒業する。1904年に外交官試験に合格し中国総領事などを努めるが1921年退官し満鉄に入社。1930年衆議院議員に当選。1932年の国際連盟総会に日本首席全権として派遣され、日本の国際連盟脱退を宣言した。1933年に議員を辞職、1935年満鉄総裁、1940年近衛内閣の外相に就任し、日独伊三国同盟の締結を推進した。1941年3月~4月にはドイツやソ連を訪問し、日ソ中立条約を締結した。しかし、その独断専行の行動が孤立化を招き、1941年7月、外相を事実上解任された。敗戦後、A級戦犯容疑者として逮捕されたが、持病の結核が悪化し、判決を待たずに死去した。(Wikipedia)

松本重治(まつもと しげはる) [1899年~1989年1月]

  • 大坂生まれ。1923年東京帝国大学法学部卒業(専攻・アメリカ政治史)。24~27年、エール、ウィスコンシン、ジュネーブ、ウィーンの各大学に留学。33~39年、日本新聞聯合社(聯合通信、後の同盟通信社)上海支局長、40~45年同盟通信社編集局長、同常務理事を務める。52~70年、アメリカ学会会長、52~89年国際文化会館専務理事、同理事長。(松本重治:「上海時代」,カバー)

マッカラム(James H.McCallum) [1893年(?)~ ? ]

  • 連合キリスト教伝道団宣教師。金陵大学の付属施設で日曜学校や女性のための半日学校を開校。鼓楼病院のマネージャー、救急車の運転手として活躍、16年前に教会の合唱隊指導者のエヴァと結婚、息子3人。日本軍の南京占領時、妻子は漢口を経由して香港に避難した。(「南京難民区の百日」)

ミニー・ヴォートリン(Wilhelmina(Minnie) Vautrin) [1886年9月27日~1941年5月14日]

  • アメリカ人宣教師。1919年より南京の金陵女子文理学院の教授を務めた。日本軍の南京占領時、金陵女子文理学院に婦女子だけの難民キャンプを開設、その責任者となる。1940年5月アメリカに帰国、翌年5月ガス自殺。(「南京難民区の百日」,生没年月日は「ミニーヴォートリンの日記」)  
  • 筆者註;「中国での伝道は不成功に終わった」という遺書が残されていたという。うつ病と診断されていたようだが、今でいうPTSD(心的外傷後ストレス傷害)ではなかろうか。

武藤章(むとう あきら) [1892年12月15日~1948年12月23日]

  • 熊本県出身。最終階級は陸軍中将。盧溝橋事件に際しては、参謀本部作戦課長として、不拡大方針をたてた上司の作戦部長石原莞爾とは反対に拡大方針を主張し、12月には中支那方面軍参謀副長として現地に赴く。極東国際軍事裁判(東京裁判)で、フィリピンなどでの捕虜虐待を理由に絞首刑判決を受けた。(Wikipedia)

ラーベ(John Heinrich Detlef Rabe) [1882年11月23日~1950年1月5日]

  • ハンブルク生まれ。1911年ドイツの世界的コンツェルン、ジーメンス社に入社。ナチ党員。日中戦争が深刻化し、首都南京が陥落したときは当地の支社長だった。日本軍占領下の南京で、国際安全区委員会の代表となって中国人を救おうと奔走する。その時の状況を詳細な日記にも記していた。1950年、ベルリンにて死去。(「南京の真実」,カバー)

ローゼン(Georg Rosen) [ 不明 ]

  • 南京ドイツ大使館書記官。ベルリンのドイツ外務省に、南京事件についての膨大な記録報告を送付、現在ドイツ連邦公文書館に所蔵されている。(「ミニー・ヴォートリンの日記」)

(2) 研究者等

板倉由明(いたくら よしあき) [1932年~1999年2月4日]

  • 昭和7年、横浜市南区に生まれる。横浜国立大学工学部卒業、板倉製作所経営。昭和56年以降、事業のかたわら、主に南京事件・従軍慰安婦関係の現代史研究に志す。偕行社『南京戦史』編集委員。(板倉由明:「本当はこうだった南京事件」,奥付)
    現代史家の秦郁彦とは論戦をしながらも親しい間柄であった。また、彼が改竄を指摘したこともある田中正明とも親交があった。(Wikipedia)

大杉一雄(おおすぎ かずお) [1925年~  ]

  • 1925年、北海道生まれ。1952年東京大学経済学部経済学科卒業、日本開発銀行(現日本政策投資銀行)に勤務し(この間アジア経済研究所に出向)、現在、現代史研究に従事。(大杉一雄:「日米開戦への道」,奥付)

偕行社(かいこうしゃ) [公益財団法人]

  • 前身は、戦前に帝国陸軍の将校准士官の親睦・互助・学術研究組織として設立され、戦後は旧陸軍の士官候補生などと、陸上自衛隊の元幹部自衛官といったOB・OGの親睦・互助・学術研究組織として運用されている。会名の「偕行」とは詩経の秦風「無衣」に由来し、「共に行こう・共に軍に加わろう」の意。機関紙『偕行』や、戦史資料集、詔勅集など幾つかの書籍を発行している。(Wikipedia)

笠原十九司 (かさはら とくし) [1944年~   ]

  • 1944年群馬県生まれ。東京教育大学修士課程中退。都留文科大学名誉教授、専門は中国近現代史、東アジア近現代史。(中略)歌人でもあり、「笠原十九司歌集 同時代」(本阿弥書店)がある。(笠原十九司:「南京事件論争史」,奥付)
    本来は中国近代経済史が専門だったが、1980年代半ばから南京事件の研究を開始し、歴史認識論争に巻き込まれたことで戦史研究が主となった。(Wikipedia)

北村稔(きたむら みのる) [1948年~   ]

  • 1948年京都府に生まれる。京都大学文学部史学科(現代史専攻)を卒業、同大大学院博士課程中途退学。立命館大学文学部専任教員(注.現在は名誉教授)。法学博士。専攻は中国近現代史。(北村稔:「南京事件の探求」,奥付)
    南京および中国各地において日本軍が暴虐を行っていると告発した在中国ジャーナリスト"ハロルド・J・ティンパリー"は、日中戦争開始直後から中国国民党中央宣伝部の対外宣伝に従事、資金提供を受けて編著「戦争とは何か」(What War Means)を出版したと主張している。(Wikipedia)

鈴木明(すずき あきら) [1925年10月28日~2003年7月22日]

  • 1929年東京生まれ。1955年より民間放送局に勤務。1973年に「南京大虐殺のまぼろし」で大宅壮一賞を受賞。(同書奥付)
  • 本名は今井明夫。立教大学文学部を卒業。「週刊タイムズ」記者を経て東京放送に勤務。のちに退社してフリーの作家となる。(Wikipedia)

田中正明(たなか まさあき) [1911年2月11日~2006年1月8日]

  • 1911年(明治44年)長野県出身。旧制飯田中学卒、興亜塾に学ぶ。大亜細亜協会、興亜同盟にて亜細亜解放運動に従事。松井石根大将の秘書を務め、蒋介石ら要人と会談する。昭和17年応召、中国無錫にて終戦を迎える。戦後「南信時事新聞」編集長を経て世界連邦建設同盟事務局長、国際平和協会専務理事等を歴任。2006年逝去。(「南京事件の総括」,カバー)
    1985年に出版された「松井石根大将の陣中日記」は、田中によって改竄されたことを板倉由明氏が指摘したが、本人は改竄を認めていない。また、1966年に蒋介石と面談した際、蒋介石が「南京に虐殺などなかった」と発言した、としているが、蒋介石の日記には南京虐殺の存在を認める記述がある。(Wikipedia)

冨澤繁信(とみさわしげのぶ) [1926年2月3日~  ]

  • 横浜市出身。昭和17年(1942年)神奈川県立第一中学校卒業、第一高等学校文科入学。卒業後、東京大学文学部独逸文学科に入学。卒業後、東京大学経済学部経済学科に入学。昭和26年(1951年)、住友信託銀行入社。審査部長、経理部長、神戸支店長を経て取締役、常務取締役就任。退任後、住商リース副社長就任、昭和63年(1988年)退任。新しい歴史教科書を作る会に設立以来ボランティア奉仕し、組織委員長となる。(「安全地帯の記録」,奥付)

秦郁彦(はた いくひこ) [1932年12月12日~  ]

  • 1932年(昭和7年)、山口県生まれ、現代史家。東京大学法学部卒業。ハーバード大、コロンビア大留学、ブリンストン大客員教授、拓殖大教授、千葉大教授、日大教授を歴任、法学博士。1993年菊池寛賞受賞。(秦郁彦:「陰謀史観」,奥付)
    1956年大蔵省入省、1965年に防衛庁防衛局に出向し防衛大学講師を務めた。1976年大蔵省を退官後、大学教授を歴任。慰安婦問題では、強制連行に対して否定的見解を示している。南京事件では犠牲者数を4万人とする中間派に属する。(Wikipedia)

東中野修道(ひがしなかの しゅうどう) [1947年10月19日~  ]

  • 昭和22年、鹿児島県生まれ。鹿児島大学法文学部、大阪大学大学院博士課程修了。西ワシントン大学客員教授、ハンブルク大学客員研究員を経て、亜細亜大学法学部教授(政治思想史、日本思想史)。文学博士。日本「南京」学会会長。(「再現 南京戦」,奥付)
    吉田松陰をはじめとする幕末政治思想の研究など、専門は日本思想史・東ドイツ史だが、元日本「南京」学会会長であり、「南京大虐殺」問題の研究者でもある。(Wikipedia)

洞富雄 (ほら とみお) [1906年11月14日~2000年3月15日]

  • 1906年長野県に生まれる。早稲田大学文学部卒業、元早稲田大学文学部教授。(洞:「南京大虐殺の証明」,奥付)
    日本の歴史学者として最初に南京事件の研究をすすめ、その数を20万人以上とする立場をとる。専攻は日本史。文学博士。(Wikipedia)