1925(大正14)年3月、普通選挙法と治安維持法が相次いで成立した。治安維持法を普通選挙法の交換条件と見なす説は成立当時からあり、何らかの調整が行われた可能性はある註268-1。
図表2.16(再掲) 大正デモクラシーの時代
1921年に原敬首相が暗殺され、その後を継いだ高橋是清には元老の信頼がなく※1、翌1922年6月に退陣すると、以降は非政党内閣が3代続いた。海軍大将の加藤友三郎(1922/6~)、同じく海軍大将の山本権兵衛(1923/9~)、枢密院議長の清浦奎吾(1924/1~)である。
※1 高橋是清に元老の信頼がなかった理由は、坂野潤治氏によれば、彼の「参謀本部廃止論」(本ページ下部のコラム参照)に由来しているという。
清浦内閣を打倒して政党内閣を目指す政友会、憲政党、革新倶楽部の3党派は、1924年1月18日、第2次護憲運動を開始した。革新倶楽部は1922年11月に犬養毅、尾崎行雄などが設立した党で、憲政党とともに、普選の実現を掲げていた。その直後、1月29日に政友会は過半を占める親清浦派が脱党し、政友本党を結成して清浦内閣の与党となった。その結果1月末時点の衆議院の議席数は、政友本党149、政友会129、憲政会103、革新倶楽部43、その他37、欠員3、合計464であった。
1月31日、衆議院本会議が開かれたが、議場に暴漢が乱入したため、そのまま解散となり、総選挙は5月10日に実施することになった。この間、各地で護憲大会や三派懇親会が開かれ、民衆も動員された。
1924年5月10日に行われた選挙は、護憲三派が30議席増やして絶対多数を占め勝利した。第一党になった憲政会の加藤高明総裁に組閣命令が下り、6月11日加藤内閣が発足した。幣原喜重郎外相、若槻礼次郎内相、浜口雄幸蔵相、高橋是清農商務相、犬養毅逓信相、といった布陣であった。
こうして政党内閣が復活したが、これから犬養毅内閣(~1932年5月)までの8年間、憲政党--のちに政友本党が合流して立憲民政党となる--と政友会が交互に政権を担当する政党内閣の時代が続く。
普通選挙運動は1897(明治30)年に普通選挙期成同盟が長野県松本市で結成されて以来の長い歴史をもつ。 1911年の衆議院で初めて普通選挙法が可決されたが、貴族院では全会一致で否決された。山県有朋は、普選運動は偽装された社会主義運動であるとして、はなはだしく嫌悪・敵視していた。1919年2月11日の「憲法発布30周年記念日」には盛り上がりをみせ、各地で集会や演説会が開かれ全国的な規模での大衆運動になった。1920年2月に憲政会などが普選法案を上程すると、数千の民衆が日比谷公園に押し寄せたが、原敬首相は無視して衆議院を解散した。
普選運動はこれ以降も盛り上がりを見せ、1922年2月には10万人規模の行進が行われた。1923年2月には、大阪で「西日本普選大連合」が結成され、1924年12月には「婦人参政権獲得期成同盟会」が結成されて女性の参政権獲得の運動も始まった。
普選法案は、与党三派と内務省などにより政府原案が作成され、枢密院、貴族院などで審議された結果、1925年3月29日に成立した。法案の特徴および論争となったのは次のような点である。
普選法が成立すると、各地で祝賀会や提灯行列が催されたが、吉野作造は「私の提唱したものとは似ても似つかぬもの」と述べた。年齢制限や欠格条項のほかにも、選挙の執行には官選の知事が強い権限をもち、選挙運動の制限が強化され、選挙取締りを理由とする選挙干渉の危険がつきまとった。
治安維持法の制定は、ロシア革命後から世界的に高揚する社会運動や社会主義運動への対策が主眼になっており、内務省は1918年9月末頃から取締法の調査を開始、1922年2月には「過激社会運動取締法案」を議会に提出するが、新聞社や弁護士会、吉野作造ら知識人の猛反対にあって審議未了で流れた。1923年9月の関東大震災後に流言蜚語に基づく暴行が多発し、同年末には虎の門事件が起こると、清浦内閣は治安維持法の起草に着手し、1924年5月に第1次法案が作成された。
1925年1月に批准された日ソ基本条約により、ソ連との国交が樹立されたことが治安維持法の制定を決定づけた。治安維持法の最終案が作成され、2月18日の閣議決定を経て、議会に提出された。
治安維持法は1925年2月19日、衆議院に緊急上程された。政府は、この法案は無政府主義・共産主義を取り締まることが目的で、穏健な労働運動や社会運動を抑圧しようとするものではないと説明した。しかし、議会外では総同盟を中心とする21の労働団体を中心に、日本農民組合、社会主義団体、在日朝鮮人団体のほか、自由法曹団、新聞記者などが参加して、2月1日に政治批判大演説会が開かれた。政党も革新倶楽部は反対の意向を示し、尾崎行雄、清瀬一郎、星島二郎などが反対したが、賛成246人、反対18人の圧倒的多数で衆議院を通過し(3月7日)、貴族院でも反対したのは徳川義親のみで3月19日に可決された。
成立した法では「国体を変革し、または私有財産制度を否認することを目的として結社を組織し、または情を知りてこれに加入したる者」を10年以下の懲役としたのをはじめ(第1条)、その未遂罪、その目的の実行のための協議・煽動、これらのための金銭その他の供与についても10年ないし5年の懲役を科することとしていた。それまでの「治安警察法」は、政治活動や社会運動などの具体的な行為を制限したものであるが、治安維持法では国体変革と私有財産の否認という思想ないし信条を持った者を取締りの対象としていた。また治安警察法の秘密結社罪の最高刑は禁錮10カ月以下だったが、治安維持法はそれよりかなり重い刑になっている。
治安維持法が初めて適用された事件が、1926年1月に起きた「京都学連事件」である。
1925年12月1日、京都府警察部特高課は京都帝大、同志社大学等の寄宿舎や両大学の社会科学研究会員の自宅・下宿・合宿所などの家宅捜査を行い、軍事教練反対ビラの掲示を口実に学生33名を検挙したが、学生たちを起訴できるような証拠は出ず、全員釈放された。
しかし、警察は治安維持法および出版法違反と不敬罪を理由に京都・東京両帝大と同志社、慶応大学の社会科学運動関係の学生の検挙を4カ月にわたって行い、38名の学生(卒業生、退学生含む)が起訴された。学生や労働者・農民のあいだにマルクス・レーニン主義教育を施そうとしたことは、無産階級の権力掌握と私有財産制度の破壊をはかるもので、治安維持法に違反するとされ、京都地方裁判所は、全員に禁錮8カ月以上1年以下の刑を宣告した。
1928年3月に行われた共産党の検挙をきっかけに、治安維持法は緊急勅令で改正され、最高刑を死刑にするとともに、目的遂行罪を新設して結社組織外の者も処罰できるようになった。これにより、反体制運動に共感している、と警察から疑われるだけで検挙されることになっていく。
普通選挙の実施が間近になると、労働者や農民など資産をほとんど持たない人々の利益を代表する無産政党が登場した。1925(大正14)年12月に結成された農民労働党は発足直後に解散させられたが、翌1926年3月には労働農民党(労農党)、同年12月には社会民衆党(社民党)と日本労農党(日労党)が結成され、日本共産党も密かに再建された。
1927年6月には、憲政会と政友本党が合同して立憲民政党(総裁は浜口雄幸)が結成された。1928年1月21日に議会は解散され、2月20日に初めての普通選挙が行われることになった。定数466人のところに957人が立候補し、そのうち過半数の534人が新顔だった。各党はスローガンを掲げて、ポスター、ビラが大量にバラまかれ、大衆社会に見合った選挙戦が繰り広げられた。
選挙の結果、政友会217人、民政党216人、無産政党8人(社民党4、労農党2、日労党1、他1)が当選した。
なお、選挙後の1928年3月15日に治安維持法違反で共産党員などが検挙され、労農党、日本労働組合評議会、無産青年同盟の3団体が結社禁止にされた。
元老間での高橋の不人気はおそらく彼の「参謀本部廃止論」に由来していた。原内閣の大蔵大臣時代に印刷した「内外国策私見」(1920年9月)の中で高橋は次のような正論を吐露している。
「我が国の制度として最も軍国主義なりとの印象を外国人に与うるものは、陸軍の参謀本部なり。これ戦前(第1次大戦前)の独逸帝国の制度を模倣したるものにして、軍事上の機関が内閣と離れ、行政官たる陸軍大臣にも属せず、全然一国の政治圏外に特立して独立不羈(ふき)の地位を占め、ただに軍事上のみならず外交上に於てもややもすれば特殊の機関たらんとす。(中略)而して参謀本部について最近独逸帝国に於て示せる実例に拠れば、平素研究し施設せる軍事上の計画は、(中略)戦争長期に亘り敵国がその秘密を知るに及んでや、殆んど策の出ずる所を知らず。(中略)無残なる敗北を遂げ50年来の計画は一朝にして水泡に帰したり。然らば参謀本部の如き独立の機関を以て軍事上の計画を樹つるの必要あるなく、(中略)むしろこれを廃止して陸軍の行政を統一し、外交上の刷新を新に期するに如かず。」(「小川平吉関係文書」第2巻、140-141頁)
(参考文献: 坂野潤治「日本近代史」,P327-P328)
{ 治安維持法を普通選挙法の交換条件と見なす説は、… 当時から存在した。加藤内閣も社会運動側によって普選が争点化されることを警戒しており、枢密院との取引に応じた面もあっただろう。ただし、普通選挙法案の議会審議では、若槻や与党議員は普選を「危険思想の安全弁、予防剤」として位置付けていた。内務官僚も普選と治安維持法を直結する見解には批判的である。普選が「危険思想」を蔓延させるとの仮説は、普選に反対する政友本党や右翼の論法であり、内務省や憲政会には受け入れがたいものであった。}(中澤「治安維持法の再検討」,P8)
成田「大正デモクラシー」,P190-P193 今井「大正デモクラシー」,P468-P474 坂野「日本近代史」,P332-P334
成田「同上」,P92-P93・P194-P195 今井「同上」,P325・P395-P398 小林「桂太郎」,P250
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中澤「治安維持法の再検討」,P2-P8 成田「同上」,P197-P198
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中澤「同上」,P12-P13 今井「同上」,P541-P543 成田「同上」,P219-P220 コトバンク〔改定新版 世界大百科事典「学連事件」〕
成田「同上」,P216-P219 小林「近代日本…」,P386