ーファミリー版ーよこはまの歴史8 ーファミリー版ー よこはまの歴史 P8
参考文献;横浜市「図説・横浜の歴史」 横浜市市民局「横浜市史」 横浜市教育委員会「平成十六年版・横浜の歴史」 学習研究社「図説・世界の歴史」 山川出版社「世界史研究」 あかね書房「世界の歴史」 ほか 関連サイト;かねさはの歴史(室町時代)
…(Z)室町時代…
鎌倉幕府の滅亡により戦乱の世になりますが、横浜の地は足利氏や後北条氏の支配下で江戸湾に面した 神奈川湊や六浦湊が流通の拠点として発展しました。 アジアではオスマン帝国が最盛期を迎え、中国では元に代わって明が全国を統一、ヨーロッパではルネサ ンスの開花により大きく近代国家へと歩みはじめます。
世 界 で は(世界史略年表へ) |
よ こ は ま で は |
略年表 |
[ア ジ ア] <ティムール朝> 中央アジアでは14世紀の中頃以降チャガタイ ・ハン家が東西に分裂、抗争が続きました。 西チャガタイ・ハン国の武将でモンゴル系の貴 族出身のティムールは1369年ティムール朝を建 国しました。 ティムールは1380年までに中央ア ジア全域の支配権を握り、以後イラン・西アジア ・インド・中国へと絶え間ない戦争を行い、1402 年にはアンカラの戦いでオスマン朝軍を破り、 西はアナトリアから東は中国の辺境まで、北は 南ロシア草原から南はインドに至る大帝国をつ くりました。 ティムールは更に明への遠征を行ないますが、 途中で病死、その後ティムール朝は分裂し、16世 紀初めにウズベグ族のシャイバーン朝によって 滅ばされました。 <イランでサファビー朝成立> イランではティムール朝を倒したシャイバー ン朝が滅びたあと1501年、イラン人の民族国家 サファビー朝が建設されました。 サファビー朝の支配者はペルシャ風にシャー (王)を名乗りイスラム教のシーア派を国教とし てスンナ派のオスマン・トルコやインドのムガ ル帝国と対立しました。 1587年に即位したアッパース一世は軍制を改 革して新式の砲兵隊をつくり、オスマン・トルコ との戦いを有利に進め、サファビー朝の最盛期 を築きました。首都イスファハンは人口50万人 を超える大都市となり「世界の半分」といわれる ほど繁盛しましたが、1736年アフガニスタン人 によって攻め滅ばされました。 <オスマン帝国の拡大> 1299年オスマン一世により建てられたオスマ ン帝国は、その後バルカンを支配して1453年に はビザンツ帝国を滅ぼし、16世紀に入るとスレ イマン一世がアジア、アフリカ、ヨーロッパの三 大陸にまたがる広大な領土とそこに住む20以上 の民族を支配しオスマン帝国をヨーロッパに隣 接する大帝国にしました。 内政面では軍隊を強化し法典の集大成を行い、 スレイマン一世はトルコ人からは「立法者」、ヨ ーロッパ人からは「壮麗王」と呼ばれました。 (オスマン帝国の最盛期) <インドのムガル帝国> インドでは7世紀の後半から多くの王朝が分立 、抗争していましたが、12世紀に入るとアフガニ スタン方面から北西インドを通ってイスラム教 徒の諸勢力が次々とインドを侵略し始めました 中央アジアのフェルガナの領主の家に生まれ たバーブル(獅子という意味)は父方からティム ールの血を、母方からチンギス・ハンの血を引く とも言われティムール帝国の再興を目指してい ましたが、1526年インドのパーニーパットの戦 いでインド軍を破り、ムガル帝国を建てました (ムガルとはモンゴルが訛ったもの)。 バーブルの死後ムガル帝国は混乱が続きまし たが1556年アクバルが即位、国内の混乱をしず め、北インドを統一しました。 アクバル帝は人口の大部分を占めるヒンドゥ ー教との融和を図りムガル帝国をデカン高原の 一部を含む大帝国に発展させました。 <元の滅亡と明の建国> 強大な力で中国を支配していた元朝も、繰り返 し皇位継承をめぐる争いがおこり、またラマ教 (チベット仏教)に莫大な金額を費やしたことか ら財政は悪化して経済は混乱、各地に農民の暴 動がおこりました。 1351年紅巾の乱により元は江南デルタの穀倉 地帯を奪われ、1368年江南に明を建国した朱元 璋が北伐軍を派遣するとモンゴル高原に退き、 元朝は滅びました。朱元璋は元号を洪武と定め 洪武帝として皇帝独裁を目指し、様々な改革を 行いました。 明国第三代皇帝の永楽帝は明の威勢を海外に 示すため、鄭和に命じて大規模な船団を率いて 南海に大遠征を行ないました。 遠征の結果、南海の30数カ国の使節が明に貢 物を献上するようになりましたが、永楽帝は他 にもたびたび北方のモンゴル高原に遠征を行 なったりベトナムを攻めて直轄領にするなど、 積極的な対外政策をとり、また首都北京と経済 の中心地江南を結びつけるため大運河を修復 するなど国力の増強や学問、文化の興隆を図り 明は最盛期を迎えました。(永楽帝の明と鄭和の船団 の航海路) <高麗滅亡と李氏朝鮮> 高麗はモンゴル軍の侵入を受け1259年に降伏 して元の属国となり、14世紀に入ると倭寇に沿 岸を荒らされ、次第に衰えていきました。 倭寇撃退などで名声を高めた李成桂は政権を 握ることに成功、1392年王位につき国号を朝鮮 と改め、以後李氏朝鮮と呼ばれるようになりま した。 李氏朝鮮では第四代の王、世宗の時にハングル 文字が作られ民族文化の発展に大きな役割を果 たし、銅活字による印刷術も発達しましたが、そ の後官僚の争いや豊臣秀吉の侵入などで衰え、 17世紀には中国(清)の属国になりました。 <レパントの海戦> 領土の拡大を続けるオスマン帝国は、その後イ ラン・イラクへ遠征して1550年にはアルジェリ アを、70年にはキプロスを占領したので、スペイ ン、ヴェネツィア、ローマ教皇などのキリスト教 国が連合艦隊を組織して71年にレパント沖でオ スマン軍を破りました。 オスマン軍はこの戦いに敗れてもなお東地中 海を支配しましたが、やがてその力は衰えてい きました。 [ヨーロッパ] <百年戦争> フランスでは1328年シャルル四世が亡くなり、 カペー朝が絶え、ヴァロワ家のフィリップ六世 が即位してヴァロワ朝が成立しましたがイギリ スのエドワード三世がフランスの王位継承権を 主張し、1339年イギリスとフランスの間に百年 戦争が始まりました。 戦いは常にイギリス側が優勢のうちに進めら れ、フランスではペストの大流行やジャクリー の乱などの農民一揆などがおこりフランス国内 は混乱に陥り、戦いは敗れそうになりますが、少 女ジャンヌ=ダルクの活躍でフランス軍は攻勢 に転じイギリス軍を追い払い、1453年イギリス はフランスにあった殆どの領地を失い戦争は終 わりました。(コラム・ジャンヌ=ダルク) <神聖ローマ帝国(ドイツ)の金印勅書> 神聖ローマ帝国では初代皇帝オットー1世以 来、皇帝はイタリアの支配を目指して、盛んに遠 征を行ないました。その一方で国内の支配をお ろそかにしたため、やがて諸侯が強い力を持ち、 皇帝の権力は衰えていき国内は分裂する傾向が 強まり、混乱が続きました。 1256年、神聖ローマ帝国皇帝が亡くなり、後継 ぎをめぐる争いがおこり、その後もしばしば皇 帝の位を争うこととなり1356年カール四世は 「金印勅書」を発布して、皇帝選挙の手続きを明 確にしましたが、皇帝の権力は弱まり、諸侯が力 を強め、神聖ローマ帝国は多くの諸侯領に分裂 していきました。 <東ローマ(ビザンツ)帝国の滅亡> 395年ローマ帝国の分割によって出来た東ロー マ(ビザンツ)帝国はゲルマン人の侵入が比較的 少なく、繁栄を続けましたが、1054年ローマ教会 と絶縁して以降は内紛が多く、セルジューク朝 の進出や十字軍の侵入、オスマン・トルコの圧迫 によって衰え1453年オスマン帝国のメフメト二 世に首都コンスタンティノープルを占領され10 00年の歴史を持つ帝国は滅亡しました。 <イギリスのばら戦争> イギリスでは100年戦争が終わって僅か2年後 に国内で「ばら戦争」がおこりました。 1455年エドワード三世のひ孫リチャードはラ ンカスター家に対してヨーク家の王位継承権を 主張、百年戦争のために多くの家臣団を抱えて 不満をもつ有力貴族たちはそれぞれランカスタ ー家かヨーク家について、30年にわたる内乱が 続きました。1485年戦いは終わり、ランカスター 家のヘンリ七世が即位してテューダー朝を開き 、翌年ヨーク家の王女エリザベスと結婚し両派 の和解が成立しました。 テューダー朝の下で王の権力は強まり、イギリ スは繁栄へと向かいました。 |
<鎌倉幕府の滅亡と足利氏> 1333(元弘3)年鎌倉幕府が滅びた後、横浜市 域は足利氏が治めることになり、足利氏は家 臣の武士たちに土地を支配させました。 1334(建武元)年3月、上杉重能は足利氏の意 向を受けて、かって金沢北条氏が支配してい た六浦荘富岡郷を足利氏の家来、 仁木義長に 治めさせています。 足利氏は北条時行(中先代の乱)や新田義貞 、北畠顕家らとの戦いを経て京都、九州へと転 戦し不安定な状態が続きましたが、1336年室 町幕府を開き政権の安定化を図ろうとします 横浜でも同年7月には称名寺にたいして、北 条氏の滅亡とともに没収されていた土地の支 配の回復を認め(所領安堵)ました。。足利直義住持安堵状(金沢文庫文書) 1334年11月足利直義が称名寺の釼阿の住持職を認証し た文書。これによって称名寺の存続が保証されました。 <江戸港・湊の繁栄> 鎌倉時代以降横浜の海上交通で有名なとこ ろは神奈川湊と六浦湊ですが、戦乱が続く室 町時代にあっても神奈川湊は東京湾内の流通 の拠点の一つであり、品川、千葉の富津、木更 津などとともに江戸湾内の流通に大きく貢献 したと考えられます。 また六浦湊は鎌倉の外港として発展、中国と の貿易の一つとなり、六浦湊からは金銀や刀 などが輸出され、中国からは大量の宋銭、仏典 や書物、陶磁器が輸入されました。六浦湊はは じめ上行寺、瀬戸神社あたりが中心でしたが 室町時代には中心地が瀬ヶ崎に移りました。 これらは金銭が生み落される場所であり、権 力のある領主の支配地となりましたが、六浦 湊も室町時代には関東管領上杉氏の領地とな りました。 ![]() ![]() ![]() ![]() 本丸跡は整地されて広場となっています ![]() 間宮若狭守綱信が中興、墓地の一隅には綱信のも のとされる墓も見られます ![]() (平成十六年版・横浜の歴史より) ![]() 1581(天正9)年7月28日、大曽根飛騨の守に与えられた 「北条家着到定書」の写をもとに復元、着到定書とは戦場 に引き連れて行く侍や足軽の員数や武器、軍装を書き上 げたものです。寺家鴨志田に27貫200文の領地をもつ大 曽根飛騨守は、3人の足軽を引率するよう義務付けられ ていました。 ![]() (図説・横浜の歴史より) 次 へ トップページへ |
1333 鎌倉幕府 滅亡 1338 足利尊氏、 征夷大将軍 となる 1416 上杉禅秀の 乱により瀬 谷原で禅秀 と足利持氏 が戦う 1442 比留間範数 らが宝金剛 院に横浜村 の薬師堂免 田畑を寄進 1478 長尾景春の 乱により太 田道灌が小 机城に来攻、 4月11日落 城 1512 北条早雲・ 氏綱、本牧 4ヶ村に制 札を掲げる 1542 横浜市域が 後北条氏の 検地を受け る 1550 後北条氏が 戸部郷の魚 介類納入を 命じる 1590 7月 後北 条氏、豊臣 秀吉に攻め られ滅亡 8月 徳川 家康江戸入 り、横浜市 域は徳川氏 の領地とな り、翌年か ら領内の検 地が始まる |