[北・東アジア]
<モンゴルの統一>
中国が北部に金、南に南宋と分かれていた頃、
北方のモンゴル高原ではテムジンがモンゴル諸
部族を統一してチンギス=ハン(太祖)の称号を
受けて、モンゴル帝国が誕生しました。
チンギス=ハンは「千戸制」により中央集権的な
支配を固め、モンゴル軍を率いて1221年にイス
ラムのホラズム朝を、1227年には西夏を滅ぼし
強力な遊牧国家を作りました。
チンギス=ハンが死んだあと第3子のオゴタイ
=ハンがクリルタイ(族長会議)で推されて即位
、太宗を名のり、南宋と共同して金を滅ぼしまし
た。
チンギス=ハンの長子ジュチの子バトゥはヨー
ロッパ遠征に出発、ロシアに侵入し主要都市を
次々と攻略したほか、その一隊はポーランド・ハ
ンガリーに侵入して1241年ポーランドのワール
シュタットでドイツ・ポーランド連合軍を破り、
ヨーロッパ世界に脅威を与えました。
やがてオゴタイ=ハンの死によりモンゴル軍は
帰国を始めましたが、バトゥは対立しているグ
ユク(オゴタ=ハンの長子)が即位しようとして
いる事を知り、そのままロシアに留まってキプ
チャク=ハン国を建て、その後ロシアは長くモン
ゴルの支配下に置かれました。
グユクが死んだのち即位したモンケ=ハン(憲
宗)の弟、フラグは西アジアに遠征してアッパー
ス朝を滅ぼして、イランを中心にイル=ハン国を
建国しました。
1259年には約30年にわたって抵抗してきた高
麗も屈服して、モンゴル帝国は東は中国北部か
ら西は西アジア・ロシアにわたる大帝国になり
ました。(モンゴル帝国の最大領域)
<モンゴル帝国の分裂>
チンギス=ハンの死後、皇位をめぐる争いが激
しくなり、4代目のモンケ=ハンが急死した後、フ
ビライ=ハン(世祖)が遠征先で正式の族長会議
にかけずに即位すると末弟のアリクブカとの間
に戦いがはじまり、更にオゴタイ=ハンの孫のハ
イドゥも挙兵して、フビライに抵抗、これによっ
てオゴタイ、チャガタイ、キプチャク、イルの四
ハン国はそれ迄の属国的立場から脱して分離独
立、モンゴル帝国はフビライ=ハンの宗家(本家)
と四ハン国に分裂しました。
<フビライの元建国>
ハイドゥを中心とするオゴタイ、チャガタイ、
キプチャクの三ハン国に対抗するためにフビラ
イは中国全土の支配を目指し、1271年に都を大
都(現在の北京)に移して国号を中国風に元と改
めました。
フビライはその間も南宋への侵略を続け1279
年これを滅ぼして元による中国全土の支配が完
成しました。
元の領土はフビライのとき最大となり、日本へ
の遠征(コラム・フビライの日本遠征)も試みましたが
鎌倉武士の奮闘と暴風雨のため失敗しました。
フビライは少人数のモンゴル人で多くの中国
人を支配するためモンゴル人第一主義をとり、
中央政府の要職や地方行政機関の長をモンゴル
人が独占しましたが、圧倒的多数を占める中国
人を支配するために色目人を利用しました。
都は大変賑わい、道路も整えられ駅伝制がつく
られイタリア商人の子として生まれたマルコ=
ポーロは元の上都(現在の内モンゴル自治区)を
訪れ、フビライに仕え、帰国後「東方見聞録」を口
述しました。 (コラム・マルコ=ポーロと東方見聞録)
[西アジア]
<オスマン帝国>
1194年セルジューク朝が滅びたのち、1258年チ
ンギス=ハンの孫フラグの率いるモンゴル軍が
バクダードを攻め落とし、これまで形の上だけ
でも続いていたアッパース朝も滅び、フラグが
現在のイラン、イラクを中心とした地方にイル=
ハン国をつくりました。
トルコ族の一派のオスマン家はオスマン一世
の祖父のときに、モンゴル軍に追われて小アジ
アのアナトリアに移住して1299年に族長オスマ
ン一世の下にオスマン帝国をおこしました。
帝国はやがてヨーロッパとアジアにまたがる
大帝国になります。
トルコ系諸族
トルコ語と同系の諸言語(チュルク諸語)を話す諸
部族のことで原住地は定説がありませんが、紀元前
3世紀末にはモンゴル高原北部を中心に遊牧民とし
て活躍していたことが知られています。
6世紀半ば頃、アルタイ山麓から起った突厥が中央
アジアをおおう大帝国となり、その後同じトルコ系
のウィグル族、キルギス族がこれに代わったのち、
モンゴルの圧迫を受けトルコ系諸族は10世紀以後
は西アジア方面での活動が盛んになりました。
トルコ系諸族の一派だったオグズ族が西方へ移動
し、11世紀に入るとイラン領内に侵入してセルジュ
ーク朝を開き、13世紀にはアナトリアまで移動して
きたオグズ族の別の一派がオスマン帝国の基礎を
築きました。
10世紀末には中央アジアのトルコ系諸族の一部が
イスラム教に帰依し、その後トルコ系諸族の大部分
はイスラム化し、イスラム社会の形成に大きな影響
を与えました。 |
[ヨーロッパ世界]
<イギリスのマグナ=カルタ>
-マグナ=カルタの制定-
イギリスではヘンリ二世のあとリチャード一
世についで、ジョン王が即位しましたがフラン
ス王との戦いに敗れ、ノルマンディをはじめフ
ランス本土にあったイギリス領の殆どを失い、
国内の貴族たちの反乱を招くことになり、ジョ
ン王は譲歩して1215年貴族たちの要求するマグ
ナ=カルタ(大憲章)に調印しました。
-模範議会の開催-
ジョン王のあとをついだヘンリ三世は大憲章
を無視した政治を行なったため1265年イギリス
の貴族たちは騎士や市民の代表を含めて議会を
開きました。これが模範議会といわれるもので、
イギリス議会の起源となりました。
その後イギリス議会は高位聖職者と大貴族、騎
士と市民がそれぞれ合同して会議を持つように
なり、上院(貴族院)と下院(庶民院)の二院制議
会として成長することになります。
<フランスの三部会>
-カペー朝-
フランスの地ではフランク王国が分裂して出
来た西フランク王国がフランスの原形となりま
した。
987年ユーグ=カペーがカペー朝を開きました
が諸侯の勢力が強く、王領も北部を中心とする
狭い地域に限られておりカペー家のフランス統
一は妨げられていました。
-三部会-
1180年フィリップ二世が即位しイギリス王ジ
ョンとの戦いなどを通じて王領地を拡大しまし
たが、1285年即位したフィリップ四世は更に王
権を強めようとして、戦費調達のため聖職者へ
の課税を強行したことからローマ教皇と衝突し
たためフランス支配層の支持を得ようとして、1
302年パリに聖職者・貴族・市民の代表を集めて
三部会を開き、その支持を得て翌年ローマ教皇
のポニファティス八世をローマ郊外のアナーニ
に監禁しました(アナーニ事件)。
<教会勢力の衰え>
王権の伸張とローマ教会の堕落により教会の
力は衰えはじめます。
-教皇のバビロン捕囚-
アナーニ事件ののちフィリップ四世はフラン
スのボルドー出身の教皇クレメンス五世を南フ
ランスのアヴィニョンに移しました。以後7代69
年に亘って教皇はアヴィニョンにとどまり、事
実上フランス国王の監視下に置かれました。こ
れを古代ユダヤ人が新バビロニアに連れて行か
れた「バビロンの捕囚」にちなんで「教皇のバビ
ロン捕囚」といいます。
(参考・バビロンの捕囚とユダヤ人)
-教会の大分裂(大シスマ)-
1377年ローマ教皇グレゴリウス十一世はアヴ
ィニョンからローマに帰りました。翌年教皇が
亡くなったためイタリア人のウルバヌス六世が
教皇に選ばれるとフランスは対立する教皇クレ
メンス七世をアヴィニョンにたてました。
以後1417年まで教皇がローマとアヴィニョン
の二ヶ所に並び立つことになり、教会の力は一
層衰えました。
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<鎌倉幕府の御家人>
壇ノ浦(山口県)で平氏を滅ぼした源頼朝は
1192(建久3)年鎌倉に幕府を開き、武士による
政権が始めて東国に生まれました。
頼朝は土地を仲立ちとして武士たちと「ご恩
と奉公」の主従関係を結びました。
この関係を結んだ武士を御家人といいます
が、横浜あたりの御家人には鴨志田氏、馬場氏
、石川氏、都筑氏、荏田氏、長田氏などを名乗る
武士がいましたが、現在でも横浜の地名にそ
の名をとどめています。
横浜の源氏御家人
<畠山重忠>
有力な御家人であった畠山重忠は源頼朝か
ら非常に信頼されていた東国武士で、現在の
埼玉県を本拠地としていました。
畠山氏は平安時代以来、武蔵の国衙に対して
も影響力を持った秩父一族を代表する豪族で
したが、1205(元久2)年子息重保と北条時政の
娘婿の平賀朝雅との対立を背景として、武蔵
国への進出を目指す時政の策略によって武蔵
国の二俣川で殺されました。
この事件の後、時政の子義時は武蔵国に勢力
を伸ばし執権政治を強力に進めるようになり
ました。
畠山重忠の首塚(旭区・鶴ヶ峰本町、重忠の首が
愛甲三郎によって斬られ祀られたところと伝えら
れています)
<鎌倉幕府と横浜の開発>
鎌倉幕府にとっては合戦があった場合、戦に
参加した武士に対して恩賞として与える土地
を確保する必要がありました。
畠山氏滅亡の1年半後の1207(承元1)年北条
時房は武蔵守(長官)となり、地頭たちに武蔵
の開発を命じましたが、本格的に開発が行な
われたのは、のちの延応・仁治年間(1239〜42)
で、それまでにはなお諸豪族と戦わなければ
なりませんでした。
横浜市内では1239(延応元)年小机郷鳥山等
の荒野が北条氏の手によって開発されまし
た。1241(仁治2)年には近隣の武蔵野が開発さ
れ多摩川から用水が引かれましたが、大変大
規模な工事だったと伝えられています。
<東漸寺と鎌倉幕府>
磯子区にある東漸寺は名越北条氏の北条定
長によって建立され、桃渓徳悟(宏覚禅師、建
長寺開山の蘭渓道隆の高弟)によって開かれ
ましたが、周辺は景勝地であったため鎌倉五
山の禅僧たちが好んでこの地に来遊し、詩を
作ったり学問を論じました。
この中には無学祖元、一山一寧、東明慧日、東
里徳恵といった高僧もおり鎌倉での政治、宗
教、文化活動の疲れを癒すため、鎌倉に近い風
光明媚なこの土地を訪れたのです。
釈迦堂にある梵鐘は称名寺鐘や相模国分寺
鐘や円覚寺鐘などの名鐘を残した物部国光の
作といわれ、国の重要文化財となっています。

東漸寺釈迦堂(横浜市磯子区)
<北の守りー証菩提寺ー>
栄区の証菩提寺は石橋山の合戦(1180=治承
4年)で、大庭景親に攻められた源頼朝の命を
救い戦死した佐奈田義忠を追悼するために建
立されましたが、金沢から円海山にぬけて続
く金沢道の脇にあり、鎌倉の東北すなわち鬼
門にあたるため鎌倉の守りとしたものと考え
られています。
洗練された阿弥陀三尊像があることでも知
られていますが、源氏滅亡後は北条氏が直接
管理し、その後は足利氏の祈祷寺となりまし
た。
阿弥陀三尊像(証菩提寺蔵)
<鎌倉道>
鎌倉に幕府が開かれ武家政権が誕生すると
東国の政治、経済、文化の中心となる鎌倉に向
う道が新たに整備されました。
この道は鎌倉道と呼ばれ鎌倉を目指す武士
だけでなく庶民、文化人、宗教者など様々な人
が往来する道として、また中世の都市鎌倉を
支える物資輸送の道として大きな役割を果た
していきます。
鎌倉に隣接する横浜には「上の道」「中の道」
「下の道」と呼ばれる主要道が通り、道の要所
には宿駅が設けられ、道の両側には多くの家
が軒を並べて賑わいましたが、室町時代には
鎌倉幕府の滅亡とともに衰えました。
また海の玄関口として六浦湊が開かれ鎌倉
を支える主要な港となりました。( 関連サイト)
横浜周辺の鎌倉道
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1192
源頼朝、征
夷大将軍と
なり鎌倉に
幕府を開く
1205
畠山重忠が
北条時政の
陰謀により
二俣川で殺
される
1233
鎌倉将軍家
が平子経久
に平子郷内
石河村を安
堵する
1239
小机郷鳥山
などが開発
される
1241
朝夷奈切通
しが開かれ
る
1260
この頃称名
寺がつくら
れる
1275
この頃金沢
文庫ができ
る
1333
鎌倉幕府滅
亡
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