宗教改革はルネサンスとならんでヨーロッパ
の近代精神の根源をかたちづくった運動です。
-ルターの宗教改革-
16世紀のヨーロッパでは王の権力が強まり、大
きな権力を持っていたローマ教皇も十字軍の失
敗などで次第にその権威が衰えていきました。
しかしドイツでは各地の諸侯の力が強く、皇帝
の力が弱かったことや、住民の信仰があつかっ
たこともあってローマ教皇は支配力は依然とし
て強く、ドイツから得られる金銭は教皇の大き
な財源となっていました。
メディチ出身のレオ10世が教皇になると聖ピ
エトロ大聖堂改築のために大々的に免罪符を発
行しましたが、多くの人々は疑問の声をあげ、ド
イツの僧侶で大学教授のルターが1517年教会へ
の批判を95か条の論題(意見書)としてまとめ、
免罪符の購入が人々の救済のなんら意味のない
こと、人々は信仰によってのみ救われることを
主張しました。
これ以後ルターは聖書だけを信仰のよりどこ
ろとする宗教改革を進めていきました。 ルター訳聖書(京都外国語大学付属図書館蔵)
免罪符
贖宥状(しょくゆうじょう)とも言います。
カトリック教会が善行をつんだ信者のためにその犯
した罪の処罰を免除するために発行した証書で、本来
は信者が自発的に金銭や品物を贈って善行をつみ、免
罪符をもらっていましたが、次第に形式化して教会は
僅かな金銭を寄進するだけでもすべての罪が消える
として大々的に販売し、収入は教会の重要な財源とな
りました。
1514年以降8年の期限でドイツで売り出された免罪
符はマインツの大司教に販売が委任されましたが、そ
の売上の半分は大司教に金を貸していた商人フッガ
ー家の収入となりました。 |
-ドイツの宗教改革運動-
ルターの改革運動は諸侯、騎士、市民、農民をま
きこんだドイツの社会に大きな影響を与えまし
た。
騎士たちの反乱に続いて1524年ドイツ西南地
方で大農民戦争がおこり、僧侶のミュンツァー
らの指導のもとに農民たちは農奴制の廃止など
を訴えました。
ルターは最初この反乱を支持しましたが、次第
に過激化するとこれを非難し、反乱は諸侯の武
力によって鎮圧されました。
-カルヴァンの改革-
北フランスで生まれたカルヴァンは聖書を中
心とする福音主義を説いてパリで宗教改革を行
いましたが、弾圧を受けてスイスに亡命し、ジュ
ネーブ市の最高僧侶兼説教師として改革を指導
して1541年からは信徒とともにジュネーブ市政
を行いました。
ジュネーブはプロテスタントの総本山になり、
カルヴァンの改革は各地に広まりカルヴァン派
はフランスではユグノー、オランダではゴイセ
ン、イングランドではピューリタン(清教徒)、ス
コットランドではプレスビテリアンなどと呼ば
れ社会的に大きな勢力となりました。
-アウグスブルグの宗教和議-
宗教改革をはじめたルターはローマ教皇や神
聖ローマ帝国皇帝からは弾圧されましたが、ド
イツ諸侯の中には支持者も沢山おり1529年皇帝
がルター派が再弾圧するとルター派の諸侯と十
一の都市は翌年中部ドイツのシュマルカルデン
で同盟を結び、ルター派への弾圧に抗議して戦
さとなりました。
戦いは皇帝側がかろうじて勝ちましたがルタ
ー派の抵抗は根強く皇帝は1555年アウグスブル
グで「アウグスブルグの宗教和議」を結びました。
この和議は「支配者の宗教がその支配地で行な
われる」という原則の下に、諸侯など各地の支配
者にカトリックとルター派新教のどちらかを選
ぶ権利を与えました。
|
|
しかし和議では宗教を選ぶ権利は諸侯や都市
の支配者に与えられ領民はそれに従わねばなら
ず、またカルヴァン派は認められませんでした。
-イギリス国教会の成立-
ドイツでルターの宗教改革が進んでいた頃、イ
ギリスではテューダー朝の下で王の権威が高ま
っていましたが、国王ヘンリ八世が王妃キャサリ
ンとの離婚をローマ教皇に願い出たところ認め
られなかったため、「首長法」を発布して国王をイ
ギリス国教会の唯一の最高の首長とし、ローマか
ら分離したイギリス国教会を成立させました。
ヘンリ八世はこれに反対した「ユートピア」の作
者として名高いトマス・モア等を処刑し、王の首
長権を拒否した多数の修道院に圧迫を加え、その
財産を没収し解散させました。 チューダー朝の国王 最上方にヘンリ7世(左)とその妻
エリザベス、中段にヘンリ8世(左)と3番目の妻ジェーン
・シーモア(右)、下段中央にいるのがエドワード6世
-フランスのユグノー戦争-
フランスはカトリックの国でしたが次第にユグ
ノーと呼ばれるカルヴァン派の新教徒の勢力が
広がっていきました。
ユグノーはブルボン家のナヴァル王アンリなど
有力貴族が、一方のカトリックの指導者には大貴
族のギーズ公がいて両者は対立していました。
フランス王シャルル9世の母親で摂政のカトリー
ヌ・ド・メディシス(イタリア、フィレンツェのメ
ディチ家出身)はユグノーとカトリックの勢力を
均衡させて王の権力を安定させようとしました
が、両教徒の争いは激しくなり、1562年にはギー
ズ公の兵士がユグノーを殺害したことからユグ
ノー戦争が始まりました。
カトリック派はローマ教皇、スペインなどと結
び、ユグノー派はイギリス、スイス、ドイツの新教
諸侯の支持をえて各国も参戦する大戦争となり
ました。
1572年にはサン・バルテルミの大虐殺が行なわ
れ、1589年にはカトリック内部の争いから国王ア
ンリ三世が暗殺されるなど混乱が続きました。
1589年ユグノーの指導者ブルボン家のナヴァル
王アンリがアンリ四世として即位、カトリックに
改宗し、国民の多数派である旧教派の反感を和ら
げ、1598年にはナントの勅令によって新教徒には
信仰の自由を保障し、旧教徒と同様の市民権を認
め30年に亘った宗教内乱は終わり、以後フランス
はブルボン王朝の下で栄えました。
 アンリ四世(フィレンツェ・ピッティ美術館蔵)
トップページへ
|