ーファミリー版ー
かねさはの歴史            P 10

 参考文献;集英社「図説日本の歴史」
                                                                  旺文社「図説日本の歴史」
                                           金沢区制五十周年記念事業実行委員会「図説かなざわの歴史」
                                                      〃          「金沢ところどころ・改定版」
                                                              和田大雅「武州金沢のむかし話」
                                                               杉山高蔵「金沢の今昔」 ほか

・・・H室町時代T(南北朝時代)・・・

 
鎌倉幕府滅亡により後醍醐天皇は天皇中心の政治を復活させようとしますが、足利尊氏をはじめ力をつけた武士達の反発は強く僅か2年半後には吉野に逃がれ南北二朝の争乱の時代に入ります。(関連サイト・南北朝正閏論
 両朝の抗争は60年近くも続いた末に三代将軍足利義満の時終結し南北朝は合一、ようやく室町幕府による武家政治が行われるようになります。

 
日 本  で は
か ね さ は  で は 略 年 表


建武の新政






足利氏・上杉氏の系図

(*)鎌倉将軍府は成良親王の御所のことで1332,12〜1335,7まで、鎌倉府は足利基氏以下鎌倉公方の御所のことで1349,9〜1455,6月まで、おかれました。

 
 六波羅の鎌倉軍が京都から退却し,後醍醐天皇は楠木正成,名和長年らを従えて京都に入り,幕府が立てた光厳天皇は廃されました。
 足利高氏は名を尊氏と改め鎮守府将軍に任命され,征夷大将軍には皇子の護良親王が就き,後醍醐天皇による公武二元的支配の政治が始められました。
 新政の機関として記録所(政務の中心),恩賞方(戦功の取扱い)雑訴決断所(領地に関する訴訟の取扱い)武者所(京都の警備)が設けられ,地方には国司と守護が並置され,関東に鎌倉将軍府(*),奥州に陸奥将軍府が置かれました。
 これらの役職には武家や公家が任じられましたが,その任命は公家に厚く武家に薄く恩賞を求めて戦いに加わった武士には不満をもつものが多くなります。

<武士たちの不満>
 北条氏をはじめ鎌倉幕府方の武士から取り上げた領地の配分に関しても天皇家の関係者に多く与えられ,朝廷方について戦った武士には少なく武士の失望は大きくなります。
 更に皇居の修築のために増税を行ったので,町民や農民の間にも不満がおこり,京都の二条河原に長い落書(らくしょ)が立てられました。

<護良親王と尊氏>
 
武士の不満の高まりを見て護良親王は武家政治の復活を警戒,足利尊氏を討とうとしますが失敗して鎌倉に幽閉され,最大のライバルがいなくなった尊氏は着々と勢力を固めます。

 
南北朝時代の六浦庄

 
北条氏滅亡後の六浦庄は関東を支配した足利直義の所領となり,六浦庄の中の六浦本郷は上杉重能が支配し,富岡郷は足利一門の部将仁木義長が支配,金沢郷と釜利谷郷の支配は足利氏によって保護された称名寺だったようです。
 
 六浦本郷は上杉重能が死亡、跡をついだ能憲以後,山内上杉氏が支配しますが,富岡郷は仁木義長が政争に敗れ1360(延文5)年に没落したあとは鎌倉府の直轄領となり,鎌倉府の台所料所となりました。


富岡八幡宮の浦の光景(横浜開港資料館蔵)
(かっての富岡の海は魚介類が豊富で鎌倉府の台所となりました)

 北条氏滅亡後の金沢文庫

 北条氏滅亡とともに金沢文庫は主を失い,北条氏滅亡からひと月もたたない1333(元弘3)年6月に建武政権は金沢文庫本の接収を図ったらしく称名寺に対して「内外典和漢」の書を目録を作って提出するよう命じています。
 しかし打ち続く内乱によってこの企ては成功せず,金沢文庫本はそのまま称名寺が管理していたようで貴重な書物はときおり持ち出され贈答などに利用されていたようです。
 文庫本が本格的に持ち出され散逸するのは戦国時代以降と考えられています。


 
現在の金沢文庫は幾多の変遷ののち1990(平成2)年現在の場所に装いを新たにしました

 六浦妙法(関連サイト)

 
上行寺の開基となった六浦妙法(荒井妙法)は中山法華寺や身延山に多大な寄進を行った大きな経済力を持った人でしたが,南北朝の争乱の時代に六浦の交通基盤を整備したことでも知られています。
 
 1353(文和2)年4月瀬戸橋の架け替えが行われましたが,旧橋が崩壊して困っている住人のために妙法が単独で資金を拠出して再建したものと伝えられています。
 また今も上行寺境内に残る牛馬六畜供養塔も六浦妙法かその一族によって建立された可能性が高いとされています。


牛馬六畜供養宝篋印塔
(横浜市指定文化財・上行寺所在)

 三千仏図・・・戦乱下の民衆

 称名寺の子院だった海岸尼寺の遺品として約2.5メートル四方もある三千仏図が金沢文庫に伝わっています。
 三千仏図とは中央に阿弥陀・釈迦・弥勒の過去・現在・未来を象徴する三体の仏を置き,周囲に千体の小さな仏を並べた絵で,年末に一年間に犯した罪を反省し,懺悔する仏名会(集まり)の本尊として用いられます。
 この絵は1350(貞和6)年正月に多数の人々の勧進(寄付)によって絵仏師の沢間長祐によって作られたことが知られていますが,この年は観応の擾乱が起こる前年で南朝対幕府のみならず,幕府内でも対立,武士たちも互いに争う戦乱の頃でした。
 三千仏図の仏名会の人々(結縁衆)には,菊玉・菊寿・松夜叉・松鶴など女性と思われる名前が多く,うち続く戦乱で身寄りを失った者や遊女に身を落したものもあったのではないかと想像され戦乱に苦しんだ当時の民衆の姿が浮かんで見えます。


三千仏図(県重文・称名寺蔵・金沢文庫保管)

 崎のミナト

 東京湾から野島水道を通って六浦に入る最初の地点が瀬
崎で鎌倉末期から南北朝にかけてミナト(河口や港口など入り込んだところに船の停泊する施設を設けた場所)と呼ばれていました。
 
当時の瀬崎はが外洋船が接岸できる地形であり,鎌倉末期以降は六浦津からこちらへ移動してきたものとも考えられています。

 称名寺もここに末寺を設け,鎌倉五山の一つである
円覚寺も鎌倉公方の寄進によりこの地に勝福寺を建て,港の利権を得ていたものと考えられます。
 詩僧として有名な
義堂周信らもここに集まって吟詠会を催していたようです。

中世の瀬ケ崎周辺

 吉田兼好とかねさは

 徒然草の著者として有名な吉田(卜部)兼好は鎌倉時代末から南北朝時代にかけて活躍した人ですが,金沢文庫で勉強したり連歌を詠んだりしたことはよく知られています。
 兼好の兄倉栖兼雄は金沢貞顕に仕えていましたが,その関係で学問好きの兼好も金沢文庫を訪れるようになり上行寺の裏山に庵を結んだとも云われています。
 徒然草の第三十四段に
「甲香はほら貝のようなるが、ちひさくて口のほどの細長にして、いでた貝のふたなり。武蔵国金沢という浦に有りしを所の者は”へたなり”と申し侍る」とぞ云ひし」
 と記しています。
 (甲香は中国南部でとれる貝で貝殻が腹痛の薬や香の材料として用いられることから寺院では必需品とされていました)


兼好法師行状絵巻(部分・県立金沢文庫保管)






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 南北朝時代

  (1336
1392)     

1334 建武の新政
1335 中先代の乱
1336 足利尊氏建武式目を公布,足利幕府を開く
〃楠木正成,湊川で戦死
〃後醍醐天皇吉野へ遷幸,南北二
    朝となる
     
1338 足利尊氏,征夷大将軍となる

1350 観応の擾乱(〜1352)


1352 近江・美濃・尾張に半済令実施

1368 足利義満,征夷大将軍になる

 




1375 この頃までに太平記できる
1386 幕府,五山の制度を定める 



1391明徳の乱
1392南北朝合一



武家政治の復活

<尊氏の反乱>
 1335年(建武2)年中先代の乱で北條時行を破った尊氏は鎌倉に入り,館をもとの鎌倉幕府の跡に建て天皇方の新田義貞の土地を奪って一族の者に与えたりして鎌倉に武家の政権を復活しようとしました。
 朝廷は尊氏を反逆者として新田義貞に追討を命じ,天下は再び戦乱の世になりました。

<広がる戦乱>
 尊氏討伐の命令を受けた新田義貞は尊良親王とともに鎌倉へ向い,途中で足利直義の軍を破りますが箱根竹の下の決戦で尊氏軍に敗れ西へ敗走,追う足利軍の背後からは奥羽の義良親王と北畠顕家の軍がせまり,尊氏が京都に迫ると西国の武士が各地で立ち上がり,戦いは全国に広がりました。

 1336(延元1・建武3)年初め天皇は正成,義貞らに守られて比叡山に逃れ,そのあとに足利軍が京都を占領しましたが,やがて北畠顕家の大軍が到着するとそれに力を得た朝廷軍は京都を包囲して足利軍を攻め,足利軍は一旦九州に逃れました。

 尊氏は九州へ逃れる途中光厳上皇の院宣を貰い,戦いは持明院統の光厳上皇と足利勢対大覚寺統の後醍醐天皇と反足利勢の争いとなり天皇家も二分します。

 西国の武士では足利軍につく者も多く九州では足利軍は多々良浜の戦いに菊池武敏の軍を破ってからみるみるうちに勢いを増し大軍を従えて尊氏は水陸から京都に向かいました。

<湊川の戦い>
 当時新田義貞は播磨(兵庫県)にいましたが尊氏の大軍が来たのを聞くと湊川(神戸)に陣をしき,朝廷は楠木正成に命じて義貞の救援に向かわせましたが,尊氏の大軍を防ぐのは難しく,正成は弟正秀と共に自害し,新田軍も京都へ逃げ帰りました。

<建武式目の制定>
 新田軍を追って足利軍は1336(延元1・建武3)年6月京都に再度入ります。
 後醍醐天皇は再び比叡山に逃れ京都では持明院統の光明天皇が尊氏におされて即位,京都と比叡山の間では激しい戦いが続きますが,後醍醐天皇は尊氏の要請を受け入れて京都に戻り正式に光明天皇に皇位を譲りました。
 尊氏は建武式目を発表,幕府を開きます。尊氏は武士に対する支配権・軍事指揮権を握り,政務・裁判などは弟の直義が行う二元体制となり次第に混乱を招きます。
 こうして室町幕府が開かれましたが幕府の機構が完成するのは三代将軍義満の時代です。
 



南北朝の争乱
 
<南北朝の成立> 
 1336(延元1・建武3)年京都花山院で軟禁状態にあった後醍醐天皇は吉野に脱出,朝廷を開きここに吉野の南朝と京都の北朝の南北二朝ができました。
 後醍醐天皇はここを拠点に全国各地の朝廷方の武士の力を結集して京都を取り戻そうとし以後60年近くも抗争が続きます。

後醍醐天皇を支持する勢力
 尊氏が武家政治を復活したといっても後醍醐天 皇に味方する武士達は少なくありませんでした
  陸奥の北畠顕家(義良親王に出仕)
  越前の新田義貞(恒良親王に出仕)
  和泉・河内の楠木正行
  伊勢の北畠親房       などが幕府打倒 に立ち上がります。
 このほか後醍醐天皇は九州に征西将軍として 懐良将軍を派遣します。

<東国の北畠親房>
 1338(延元3・暦応1)年には陸奥から上がってきた北畠顕家が和泉の石津で戦死,越前の新田義貞も藤島(福井市)で討死にしました。
 劣勢となった後醍醐天皇は顕家の父親房を東国に派遣,親房は常陸(茨木県)の小田治久に迎えられ小田城に入りましたが翌年後醍醐天皇は失意のうちに亡くなりました
(関連サイト・後醍醐天皇の最後
 親房も小田治久が足利側に寝返りをうったため吉野に帰りました。

<河内の楠木正行>
 1347(正平2・貞和3)年楠木正成の遺児正行は河内(大阪)で兵を挙げ,山名時氏,細川顕氏らを摂津で破りましたが,翌年高師直などの足利軍に敗れ弟正時と差し違えて死にます。
 幕府は勢いに乗じて吉野に攻め込み皇居をはじめ吉野の全山を焼き払いました。

 南朝は滅亡寸前となりましたが北朝側も将軍の尊氏が弟の直義と争い,国々では北朝の武士同士が争うなど足並みが揃わず戦乱はこのあと40年あまりも続きます。

<観応の擾乱>
 幕府内では将軍尊氏の下で弟の直義と執事(将軍の補佐役)の高師直が争い、1351(正平6・観応2)年直義は師直を殺しましたが,師直に味方した尊氏と直義が対立,直義は鎌倉へ東国の武士を集めますが尊氏は鎌倉に攻め入り直義を降伏させた上で毒殺しました。
 この乱に際して尊氏は東国の安定を図るため,子息基氏を鎌倉に派遣して鎌倉府が出来ましたが,武士たちも北朝方から南朝方へ,また北朝方へと敵味方に分かれながら領地の奪い合いを続けていました。

 1354(正平9・文和3)年には南朝の最後の柱であった北畠親房が死に,その4年後には尊氏が死に,その頃には南北朝の争乱は南朝と北朝の争いではなくて武士たちが国々で互いに勢力を争うようになります。



守護大名の抬頭

<力を強める守護>
 源頼朝によって任命された守護は国々の役人でしたが,建武の新政の時も手柄を立てた者が守護として国司と並んで国々に任命されました。
 南北朝の争乱により国じゅうで戦いが続くと,守護たちは国内の武士を従えて事ある毎に戦いに出かけ戦うごとに領地をひろげて争乱の終わるころには国々に守護の大名があらわれるようになりました。

<荘園の争奪>
 荘園では南北朝の争乱がおこってから,ますます在地の武士,農民が力を強め,もともとの領主支配の力をはねのけていきます。
 荘園や公領の領主は公家や大寺院でしたが武士たちはそれらから荘園を奪い取り幕府も「
半済」の制度でこれを認め,鎌倉時代の地頭請と同じような守護請という制度も盛んになり,古代からの荘園制度は崩壊し守護は領地を広げ,武士たちを家臣に従えて大名になっていきました。

<守護領国>
 大名として守護が支配する国を守護領国と言いますが南北朝の争乱の間に守護は足利将軍方について戦いながら国内の武士たちを従えて大名になり,守護領国をつくりあげ,これによって将軍が上に立ち守護が大名になって家臣を従えるという封建社会の仕組みも進みましたが,守護の力が強くなり過ぎるとやがて幕府もこれを警戒するようになります。


南北朝の合一
 
 南北朝の争乱は義満が将軍に就いた1367(正平22・貞治6)年頃から京都付近はおさまりかけていましたが地方ではまだ続いていました。

<九州の戦い>
 
後醍醐天皇が南朝の勢力を広げるために征西将軍として送った懐良将軍は肥後(熊本県)の菊池氏や阿蘇氏を従えて勢力を伸ばしていました。
 幕府は足利一族のなかでも有力な今川貞世(了俊)を九州探題として送り,10年あまりの戦いののち懐良将軍を破りました。

<明徳の乱>
 
伯耆(鳥取県)の守護だった山名氏は南北朝の争乱中その働きはめざましく,山陽から近畿にまで進出し一族で十一国の守護を兼ね六分の一衆(日本全国六十六国の六分の一を持つ)と呼ばれるようになりますが,足利義満はこれを警戒して一族を挑発したため山名一族の頭の氏清が1391(明徳2・元中8)挙兵しますが幕府軍によって滅ぼされました。
 この事件は大守護であっても幕府にそむくことは出来ないことを天下に示し,幕府の権威は高まりました。

<争乱の終結>
 
1392年(明徳3元中)義満は絶対的な権勢を背景に南朝と和議を結び56年ぶりに南北朝の争乱も鎮まり朝廷も一つになりました。