■□■万博の歴史■□■

今から154年前の1851年、ロンドンのハイドパークで第一回国際博覧会が開催されました。
その後大小様々な国際博覧会が開催され、愛知県で開催された「愛・地球博」は、ロンドンの
第一回から数えて約90回目になります。

英語で"International Exhibitions"、日本語では正式に「国際博覧会」と訳しますが、
私たちが一般的に使っている「万国博覧会(万博)」と最初に訳したのは、 1862年徳川幕府
が派遣した遣欧使節団に随行していた有名な日本人です(答えはレポートの中)。
日本政府として本格的に出展したのは、1873年ウイーン博でした。この時に有名な名古屋嬢、
ではなくて名古屋城の金鯱(金のシャチホコ)を持っていきました。

万博にまつわる様々な話・歴史を【特別企画】としてビップル事務局が下にまとめました。
学校の自由研究や課題に頭を悩ませている方がいらっしゃれば、是非参考に読んでください。
(生徒さんの引用は自由ですが、評論家様等プロの方は、著作権の問題がありますので
無断転用はご遠慮ください)
レポート目次(読みたいところをクリックしてください)

1.国際博覧会の歩み
 ----------------   1) 1851年のロンドン万博がはじまり
                                                2) 世界に広がる産業と芸術の祭典
2.条約制定と博覧会の仕組み --------- 1) 国際条約の制定
                                                  2) 条約による国際博覧会の仕組み
3.現代における国際博覧会の課題 ----- 1) 時代の変化と開催の意義
                                                   2) 参加者の「費用対効果」に対する疑問
4.2005年愛・地球博概要 ------------- 1) 計画のはじまり
                                                     2) 愛知万博基本データ 
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レポート本文
1.国際博覧会の歩み

1)1851年のロンドン万博がはじまり

  「国際博覧会※」は日本では万国博覧会(万博)とも云われ、1851年(嘉永4年)にロンドンのハイドパークで開催されたロンドン万博がはじまり。
※「国際博覧会」は、英語では一般に「International Exhibitions」、米国では「World Fairs」と呼ばれる。
当時の英国は、ビクトリア王朝の下に産業革命の先駆者として近代鉱工業を興し、広大な領土、植民地をもって世界を君臨した大英帝国の最盛期にあった。

<ロンドン万博>
 「全ての産業の成果を集めた大博覧会(The Great Exhibition of the Works of Industry of All Nations)」と銘打って、7.7ヘクタールの会場をハイドパークに設けて1851年5月1日から10月11日まで141日間開催。会場には、「水晶宮(Crystal Palace)」と呼ばれた鉄とガラスによるパビリオンが登場し、その中に合計25ヶ国と15の植民地、領土から集まった出品物が展示された。この水晶宮はサー・ジョセフ・パクストンの設計で、残念ながら現存しないが、当時描かれた絵をみるとガラス張りの建物の中に巨木が生えている。一見すると植物園の様であるが、このデザインは当初の計画には無かった。最初に計画が発表されたときは、ハイドパークに生い茂るニレの巨木2本を伐採して水晶宮を建設することになっていた。ところが、当時のロンドン市長が木の伐採を許可しなかったので、仕方なく木を取り込むように水晶宮が建設された。世界初のロンドン万博は、自然・環境保護を目指した愛知万博のお手本でもあったのだ。参考までに、愛知万博終了後は、会場から一時避難させている木々を戻して、元の森林に復元される予定だ。さて、ハイドパークに作られた水晶宮は万博終了後ロンドンの南にあるシデナムに2年かけて移築された。しかし、1936年火災で焼失した。

 展示出品物は、蒸気機関車から各種工作機械、船舶用エンジン、農業機械、ミシン、水洗トイレや労働者向きのモデル住宅、家具調度用品、コルト拳銃、人工の入れ歯、羊毛製品、絹織物など、当時の機械文明の所産である先端製品をはじめ、金属ガラス、陶磁器、彫刻、その他美術品など、英国、アメリカ、その他欧州諸国、中国、トルコ、ロシアなどから集められたもので、その数にして約10万点に上る。来場者数は約604万人。

 ロンドン万博はビクトリア女王の夫アルバート公が提唱。既にフランスで開催された内国産業博覧会も参考にした。ロンドン万博の開催動機には、国威発揚、産業振興と労働者の技能向上、人心刷新という政治的な意図が秘められていた。

 世界に先駆けて実施されたこのロンドン万博が一大国家事業であったことを示すエピソードとして、1992年の5月、セビリア万博の英国デーの式典スピーチで、チャールズ皇太子は、ユーモアを込めて次のように述べたことが挙げられる。

 「このアンダルシアの強い太陽の下で、博覧会場で皆さんが繰り返し色々なスピーチを聞かされることになった原因を作り出した責任は、私のファミリーが一手に聞き受けなければなりません。
 それは、そもそも私の曾、曾祖父でありますアルバート公が1851年の大博覧会を開催すると言い出したからです。
 当時は、時代を先駆けたアイデイアでしたが、英国王室の招待を受けたプロシャの皇帝が、鉄とガラスのパビリオンであることを聞き、この時期にロンドンを訪ね、会場を見学することが安全かどうかについて書簡を送ってきました。これに対して、アルバート公は、
 『数学者は、強い風が一吹きすればクリスタル・パレスは崩れ落ちると計算し、技術者は、展示場が崩れて雑踏で災害が起きるというし、政治経済学者は、大量の人が押し寄せることからロンドンの食糧は欠乏し、医者は、十字軍時代のペストの再来を招くという。さらに、道徳学者は、英国は文明、非文明社会の天罰を受け、神学者は、このバベルの塔の再来は、神の逆鱗に触れることになる…』
と予言されていることから、私は貴閣下のロンドンご訪問の安全を保証できそうにありません、と返信を送っています。
 しかし、数々のこうした予言があったにもかかわらず、開幕後、プロシャの皇太子も多数の外国からの来場者の1人として、この博覧会を見にロンドンにやってきたことを皆さんに報告したいと思います。」

<ロンドン万博の遺産>
 第1回のロンドン万博は、英国の王室、産業界の多額な寄付のほか、一般庶民の少額寄付も集められて開催されたが、最終的に当時の金で約19万ポンドの純益が出た。アルバート公は、この純益をもって新たな教育施設を設けるためにサウス・ケンジントンに用地を買収し、後に科学博物館や自然歴史博物館が建てられた。

  参考だが、この科学博物館には豊田佐吉翁が1924年に発明したG型自動織機「TYPE−G」の実物が展示されており、毎日決められた時間に実際に動かして布を織っている。有名な話だが、佐吉翁の長男豊田喜一郎はG型自動織機の特許を英国の織機会社プラット社に売却し巨額の資金を得た。この資金を元手に創業した会社がトヨタ自動車である。英国のプラット社が特許を買わなかったら、現在のトヨタ自動車は存在してないかも知れない。なお、G型自動織機は名古屋市にある産業技術記念館にも展示してある。
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2)世界に広がる産業と芸術の祭典

ロンドン万博の成功に触発されて、後年、建国記念や革命記念、パナマ運河開通記念やコロンブスの米大陸発見記念といった大義名分の下に、パリ、ニューヨーク、ウイーン、フィラデルフィア、サンフランシスコ、シカゴなど、世界各地に万博が広がった。

<パリ万博>
 当時、英国と対抗していたフランスでは、1800年代に入って産業振興のための内国展覧会が数々開催されていた。万国博覧会の開催について英国に先を越されたフランスは、1855年(安政2年)を皮切りに、19世紀末までに1867年、1878年、1889年、1900年と、凡そ10年間隔でパリ万博を開催した。フランス革命100周年記念の1889年パリ万博で建てられたエッフェル塔など、その遺産は、今日でも市内随所にみられる。

 万博の黎明期であったこの当時の西欧は、分類学が進み、百科事典が世に登場した時代だった。特にル・プレーの分類はその後の博覧会の企画構想にも大きな影響を与えた。1867年のパリ万博は、ナポレオン三世下のフランスが1862年の第2回ロンドン万博に対抗して計画されたもので、これは、単に規模を誇る見せ物ではなく、人類の全ての活動を体系的に分類し、「ユニバーサルでインターナショナルな博覧会」を意図した。これは、ナポレオン三世のブレーンであったミシェル・シュヴァリエやフレデリク・ル・プレーらが考えた構想によるもの。
 また、当時の博覧会にみられたさまざまな発想は、小売業では百貨店の発想に繋がり、文化的な遺産としては、各種の博物館や美術館が各地に設けられる契機になったことが見逃せない。

<日本の参加>
◇第2回ロンドン万博:
 日本人がはじめて万博を視察したのは、1862年(文久2年)の第2回ロンドン万博。徳川幕府が派遣した遣欧使節団で、随行した福沢諭吉の「西洋事情※」で伝えられている。
※日本語の「万国博覧会」は、当時見聞した欧州の博覧会をはじめて日本語に翻訳した語。
 ロンドン万博には、駐日英国外交官らがコレクションとして持ち帰った僅かなものが日本の出品物として登場した。
◇パリ万博:
正式に招待状を受けて日本が登場した博覧会は1867年(慶応3年)のパリ万博が最初。ナポレオン三世から公式に招待状を受けた徳川幕府と、別個に参加した薩摩、鍋島の両藩がそれぞれ「ニッポン」と称して出品した。会場の片隅に日本の版画や工芸品などが若干陳列されただけとは云え、浮世絵などは当時のフランスの画壇に大きな影響を与えた。
◇ウイーン万博:
その後、日本政府として本格的に海外の博覧会に参加した始まりは、明治政府による1873年(明治6年)のウイーン万博。太政官直属の事業として参議大隈重信を臨時準備事務局の総裁におき、当時の金で59万円を超える巨費を投じて参加が進められた。
 日本から大工、工芸職人などを派遣して、日本館、日本庭園を建築し、名古屋城の金の鯱、三十三間堂の火炎太鼓、その他日本の優美さを誇る国宝級の美術工芸品や絹織物など、大小さまざまな日本固有の珍品を陳列した。日本館と日本庭園、並びに数々の出品物や工芸細工の実演は、その後、西欧の美術界に「ジャポニズム」を興させる契機となり、欧州で東洋の美術品を体系的に集めた美術館の設立を促す契機になった。

<技術と芸術の融合>
 西欧の博覧会は、産業博覧会として出発し、やがて1870年代に入ると芸術と産業を結びつける装飾美術が盛んになり、家具、室内調度品のほか、建築、造形美術の分野の活動が活発になった。

◇イタリア:
 20世紀に入って、造形美術、建築に特化した「第1回現代装飾美術国際展」が1902年にトリノで開催され、1928年(昭和3年)には、3年毎に開催されるトリエンナーレ展がミラノで開催されるようになった。
◇フランス:
 第一次大戦前後から装飾美術や造形美術、ファッションまでを包含した広範で総合的な芸術運動が盛んになり、芸術と産業技術の相互関係を結びつけて、その間の融合を図ろうとする博覧会の発想が登場した。1925年(大正14年)国際装飾美術・現代産業博覧会をパリで開催した。ここに登場したル・コルビジェの「エスプリ・ヌーボー」のパビリオンや、メルニコフの設計によるロシア・パビリオンは、新興モダニズム運動の兆候を暗示し、アールヌーボーの影響を受けた「アールデコ」はその後の建築、室内装飾の世界に新風を吹き込み、一種の流行語となった。

<万博の乱立>
 博覧会を開催しようとする都市が次々に増え、相互の利害得失が対立する乱立の時代を迎えた。
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2.国際博覧会条約の制定と博覧会の仕組み

1)国際条約の制定

◇多国間協定の必要性認識:
 1870年代末から博覧会の計画が各地で乱立し、フランス、ベルギー、オランダ、イタリア、ドイツ、英国などでは、これを調整するために博覧会常設委員会が設立されたが、政府ベースによる多国間協定がなければ歯止めがきかないことを知り、1912年(大正元年)にドイツ政府の提唱で、英、仏その他欧州14カ国及び日本の代表がベルリンに集まり、国際博覧会に関する協定の基礎作りについて協議を実施するも、第一次大戦で中止される。
◇最初の条約:
 1928年(昭和3年)にフランス政府が再び提唱して、パリで31ヶ国の代表が協議した結果、同年11月22日に今日の博覧会条約の基礎となる1928年条約が調印される。
これは国際博覧会に関する条約(Convention relating to International Exhibitions)と呼ばれ、世界の博覧会共通のルールが制定された。国際法による政府間の条約でルールが決められた行事は国際博覧会以外にはない。
◇BIE設立:
1928年条約の発効とともに、これを管理、運営する国際機関としてパリに博覧会国際事務局(BIE)が設立され、各国で計画される博覧会を「一般博覧会」と小規模な「特別博覧会」の二種類のカテゴリーに分類して開催頻度を規制する登録制度を採用することになった。
◇国際博覧会の定義:
 「公の又は公に認められた国際博覧会とは、名称の如何を問わず、展示のための催しであって、諸外国が外交上の経路を通じて招請され、一般に非周期的性質を有し、その主たる目的が一又は二以上の生産部門における諸国の進歩を示すことにあり、かつ会場への入場について、購買を目的とする者とその他の入場者との間に原則として如何なる差別も設けないものをいう」
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2)条約による国際博覧会の仕組み

 1928年条約によって、国際博覧会は会期を最長6ヶ月とすることになった。BIEが開催希望国から提出される計画を審査し、その国の政府の開催保証が確認された上で、これを登録承認する仕組みがとられることになった。各国の出品者は、それぞれの国の政府の出展区域の傘下で出品する制度が採用された。また、第二次大戦後、1958年に再開されたブリュッセル万博までは、国際博覧会において大賞、名誉賞、金賞、銀賞、銅賞の5つのカテゴリーで出品物に賞を与える制度がとられていた。

<テーマの登場>
 1928年条約が制定された頃から、博覧会それぞれが開催の基本構想と出展の分野を示すテーマをもつことになった。
◇シカゴ博:
テーマを最初に設定した国際博覧会は、1933年、34年の両年に開催されたシカゴ博。
テーマは「進歩の一世紀」。大衆向けの娯楽的なアトラクションを満載して開催された。
同時に、GM、フォード、スタンダード石油、シアズ・ローバック、その他米国の大企業が、博覧会は急速に成長する国内消費市場における絶好な宣伝媒体と認識した。この博覧会では、それまでの「静的」な出品物の展示に、映像、ジオラマのような「ダイナミックな展示手法」が登場。ウオールト・デイズニーはシカゴ博を見てから、デイズニーランドのようなテーマパークを発想するようになった。
◇ニューヨーク博:
 1939年、40年に「明日の世界」をテーマに大規模に開催されたニューヨーク万博が第二次大戦直前最後の万博。

 こうした大規模に開催された万国博覧会は、総じて、「劇的な舞台装置」の中で発明精神を高揚し、西欧型の合理主義と技術革新による「進歩の成果」を大々的に大衆にデモンストレートする各国間の「平和な競争の祭典」だった。
 20世紀前半までの博覧会は、主として宗主国と植民地、文明社会と非文明社会が対比される構図の中で、西欧先進国が機械文明、物質文明の恩恵を礼賛してきた時代の博覧会だった。一方、欧米諸国では世界貿易が盛んになり、商取引のための国際見本市も登場するようになり、これまでの産業博覧会のあり方は見直しが求められる時代に入っていった。
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3.現代における国際博覧会の課題

1)時代の変化と開催の意義

 第二次大戦を境とする20世紀後半から21世紀初頭の今日にかけて博覧会の流れで大きく変わってきた点は、人類社会に対する問題意識と博覧会の「テーマ」に対する視点の変化。

<テーマの変化>
 各博覧会の開催理念を象徴するテーマの変化は、一般博覧会として第二次大戦後再開された1958年のブリュッセル万博から。
 テーマは「より人間的な世界へのバランスシート※(Bilan d’un Monde pour un Monde plus Humain)」。これは、第二次大戦における大量破壊と大量殺戮による社会の荒廃を経験した西欧自身が、これまで礼賛してきた西欧の合理主義と科学文明の「負」の面を認識し、イデオロギーの対立による冷戦時代の到来と、核の脅威の中で、人類社会における技術革新と人間的要素の関係に着目し始めた最初のテーマだった。以降、人類社会のあり方を考えるテーマが博覧会に登場するようになる。
※日本では、このテーマを「科学文明とヒューマニズム」と訳している。

 ブリュッセル万博の後、カナダ最初の一般博覧会として1967年に開催されたモントリオール万博はテーマを「人間とその世界」とし、またアジアで初めて開催された1970年の日本万博はテーマを「人類の進歩と調和」とした。その間の時代の変化としては、 脱植民地時代を迎えて、国際博覧会は宗主国と植民地の構図の中での「先進国だけの祭典」ではなく、新たな開発途上の独立国を登場させる祭典と考えられるようになった。
さらに、1967年のモントリオール万博以降、1992年にセビリア万博が開催されるまで、国際博覧会の舞台は、北米、日本、オーストラリアの環太平洋諸国に移った。
 極東の日本では、アジアではじめての万国博覧会が1970年に大阪で開催され、1975年に沖縄の本土復帰を記念した沖縄国際海洋博覧会が、また1985年にはつくば市で国際科学技術博覧会が開催された。また1990年に大阪で国際花と緑の博覧会が開催された。

<冷戦時代の博覧会>
 テーマの取り組み方に加えて、第二次大戦後から1980年代の博覧会にみられる特色は、
冷戦時代に米ソ両陣営が「プロパガンダの舞台」として積極的に登場(活用)したこと。
 また、1970年の日本万博が終わった頃から、「情報化が進む現代社会に旧態依然の産業博覧会が今後も必要なのか」という疑問が広く識者の中で語られるようになった。

<条約の改正>
 1928年の博覧会条約は、1948年と1966年に一部改正されたが、1970年の日本万博の前後
から、変貌する国際社会に対応できる仕組みとして、抜本的な改正議論がBIEではじまった。
 1972年にその改正議定書が採択され、国際博覧会を次のように定義され、これが今日の国際博覧会条約の基礎になった。

 「博覧会とは、名称の如何を問わず、公衆の教育を主たる目的とする催しであって、文明の必要とするものに応ずるために人類が利用することのできる手段又は人類の活動の一若しくは二以上の部門において達成された進歩若しくはそれらの部門における将来の展望を示すものをいう。」

 この改正は、科学、芸術、産業の各分野で得られた成果を通じて、望ましい人類の未来を展望しようとする教育目的に主眼をおいた「国際的な文化行事」と位置付けられた。また、民族、言語、宗教、文化が異なる世界の人々がそれぞれの国を通じて一堂に会し、相互理解と交流の促進に寄与すべき「国際博覧会運動の基本理念」を改めて確認した。

<博覧会の問題>
 1928年の博覧会条約制定以来、英国、その他のBIE加盟国が腐心してきた基本的な問題は、次の点にあった。
博覧会の乱立(proliferation)
博覧会本来の課題

巨額な投資を必要とする国際博覧会やオリンピック大会の開催立候補国が今日においてもあとを絶たないのは、開催地における雇用誘発効果や地域経済の活性化、公共インフラ整備の投資促進、国際社会における開催国と開催都市のイメージ改善といった政治的、経済的なメリットが根底にみられるからである。
しかし、乱立によって本来あるべき国際博覧会の姿に疑念が持たれるものが散見されるようになったのも事実であった。

<BIEでの見直し>
 このため、BIEを取り巻く主要加盟国の間では、1980年代に入って、博覧会の分類と開催頻度をさらに規制する条約の改正が議論され、@「登録博覧会」とA「認定博覧会」の2つのカテゴリー※に仕分けて「5年周期開催」の制度を採用する改正案が1988年5月のBIE総会で採択された。
※@「登録博覧会」とは、従来の会期6ヶ月の国際博覧会で2000年以降5年毎に開催するもの。
A「認定博覧会」とは、会期3ヶ月、会場面積25ヘクタール以内の小規模な国際博覧会。
「認定博覧会」の場合は、開催者が外国参加国のパビリオン建物の躯体を建設し、最高1000u以内のスペースを無償で貸与することが義務づけられ、開催間隔は5年毎の登録博覧会の間に1回に限られる。

博覧会のあり方に対する見直し議論は、1992年のセビリア万博後、1993年から1996年にかけてBIEで行われた。その目的は、BIEが管理すべき博覧会に見られるさまざまな運営問題のほか、今後の博覧会について新たな指針を示すことだった。
この改正案が加盟国の批准加入を経て1996年7月に発効する迄の間に、新たな開催登録申請の動きが見られたために、これを凍結するモラトリアム期間が設けられ、その間に国際博覧会のあり方について根本的な見直しが行われることになった。

<BIE総会の決議>
 この議論の結論として1994年6月の第115回総会で6つの決議が採択された(詳細は添付資料ご参照)。これは、博覧会本来の課題として、今後計画される国際博覧会の中身の充実を求め、その基本要件をBIEの加盟国が確認したもの。
20世紀最後の大規模な一般博覧会として開催された2000年(平成12年)のハノーバー万博は、その構想に一つの特色がみられた。

<2000年ハノーバー万博>
 この博覧会は、ドイツ初の一般博覧会で、第三ミレニアムの到来を祝い、東西再統合10周年を記念する2000年のドイツ最大の行事として計画された。
 この構想は、「人間・自然・技術」の基本テーマの下に、1992年のリオデジャネイロにおける国連環境開発会議で採択された「アジェンダ21」にいう「持続可能な開発」への一つのアクション・プログラムとして、ドイツ連邦政府の関係省の強力な支援の下に、次の「4つの柱」を軸に具体化された。

外国及び国際機関の公式出展
サブテーマ別のテーマ・パークの出展
世界のモデル開発プロジェクトの発掘紹介
多彩な国際的文化行事

 この博覧会には、155カ国からの参加があり、中身としては、これまでの国際博覧会にない非常に意欲的な計画が開催国側で実行されたが、ドイツの開催者側の準備、運営上、さまざまな問題を誘発した。
このため、今日、参加国の中には、参加に投じた費用負担に対して、その効果に疑問を呈する国が見られるが、一方、実際にこの博覧会を見聞した多くの観客には、見ごたえのある国際行事であったといえる。
ハノーバー万博については、翌年の2001年5月にドイツ経済技術大臣の報告書※が発表されたが、この報告書では、さまざまな問題の長短を冷静な観点で報告している。
※この報告は、2001年5月に独連邦経済技術省が、英語のタイトルで「Report by the Federal Minister of Economics and Technology on the World Exposition EXPO 2000 in Hannover 」と題する報告書。独、英、仏の3カ国版がある。
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2)参加者の「費用対効果」に対する疑問

<参加者の費用対効果>
国際博覧会の主役となる各国政府の参加は、海外広報政策の一環として、外交的、政治的な判断で決められる。しかし、特に冷戦崩壊後、これまで主役を演じてきた国の中には、博覧会の参加費用の財政措置に関連して費用対効果が厳しく問われるようになった国が見られるようになった。

この典型的な例は米国。米国連邦議会では、1980年代に双子の赤字を抱え、冷戦時代の終焉とともに、巨額な予算を投じたそれまでの全世界に向けた対外広報活動を厳しく見直すようになり、1994年には国際博覧会の参加に連邦予算の投入を規制する法案を可決するなど、博覧会離れ現象が見られるようになった。

<英国外務省の国際博覧会参加に対する見方>
1) 1970年の日本万博から22年ぶりに大規模な一般博覧会としてスペイン、セビリアで開催された1992年のセビリア万博の参加については、経済政策的な見地から見て、スペインがさほど大きな期待がもてる国ではない、との判断があり、不参加による国際的なデメリットも考慮して、英国外務省は当初不参加の立場をとった。
この間には、ワシントンの当時の米国海外広報庁(USIA)※と同博の参加効果について協議、分析を行い、議会関係筋の不参加内諾を得ていた。
※USIAは、第二次大戦後の冷戦時代に対外広報活動を専管するためにホワイトハウスの下に設置された官庁で、海外の博覧会参加を所管してきた官庁。2000年に組織が解体される。
最終的に参加に踏み切った決定的な要因は、当時のサッチャー首相のスペイン訪問時にゴンサレス首相から強い要請を受けて、帰国後、首相自らの指示があったことによるが、外務省は、首相からの指示とはいえ、それまでの予備検討の結果と政策的なプライオリテイからみて、期待される責任が負えないとして、所管官庁を貿易産業省(DTI)に移管すべきと考えた※。
  ※外務省からDTIに担当を移管された経緯は、サッチャー首相自ら「サッチャー回顧録」でも述ている。
2) 冷戦崩壊後の今日、国際博覧会への参加については、国の威信という名誉を維持するコストと長期的な経済効果を念頭に入れた投資コストのいずれを選択するか、といった「振り子の動作」のような議論が行われることになる。
3) この場合の経済効果は、商品貿易がどれだけ伸びたか、を論じるよりも、国際社会における英国のプレゼンスを考え、博覧会の不参加に想定されるさまざまなジャーナリズムや国内世論の批判を警戒することが必要と考える。
4) 博覧会参加評価視点は一般的に次の9点に優先度がおかれる。
@ 政治的、外交的なインパクト
A 英国への観光促進
B 英国への外国企業の投資誘致
C 金融、航空業など非商品貿易の分野における英国企業の海外進出
D 在外英国市民の立場を考慮した英国のプレゼンス
E 国際言語として英国語の普及
F 学生、その他若い世代の市民交流
G 英国がリードする芸術、文化面でのイメージの高揚
H 商品貿易の促進
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4.2005年愛・地球博概要

 2005年3月から、「自然の叡智(Nature’s Wisdom)」のテーマの下に、2005年日本国際博覧会が開催。(愛・地球博=通称愛知万博)
 愛知万博は、愛知県瀬戸市、長久手町、豊田市にまたがる丘陵地に主会場がおかれ、「宇宙、生命と情報(Nature’s Matrix)」、「人生の“わざ”と智恵(Art of Life)」、「循環型社会(Development for Eco-community)」の3つのサブテーマの下に地球社会の環境を重視し、世界の交流促進を目的とする会期6ヶ月(3月25日〜9月25日)の国際博覧会。

1)計画のはじまり

 この計画は、1988年の10月に愛知県と地方自治体、並びに中部経済界の間でこれを推進することが決定されたもので、日本政府からBIEに対して行う登録申請に先立ち、1995年12月の閣議で本博覧会の開催方針が了解されたわが国の公式な国際行事。

2005年博覧会の開催については、カナダのカルガリーも立候補したが、1997年6月12日のモナコにおけるBIE総会での表決の結果※、愛知に指名された。わが国では、先に説明した近年の国際博覧会に対する問題意識と1994年のBIE総会で採択された決議の指針を踏まえて、基本構想が練られてきた。         ※総会での表決は52票対27票で愛知に決定。

 開催地が愛知に決定後、1997年10月23日に、経済産業省の認可法人として財団法人2005年日本国際博覧会協会が設立され、開催計画は、2000年12月15日の第128回BIE総会で最終的に登録承認された。
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2)愛知万博基本データ

(名 称)
   正式名称: 2005年日本国際博覧会(The 2005 World Exposition, Aichi, Japan)
   略  称: 愛知万博(EXPO 2005 Aichi, Japan)
   愛  称: 愛・地球博
 (テーマ)
        「自然の叡智」(Nature’s Wisdom)
 (サブテーマ)
        「宇宙、生命と情報」(Nature’s Matrix)
        「人生の“わざ”と知恵」(Art of Life)
        「循環型社会」(Development for Eco-Communities)
 (開催期間)
        2005年3月25日〜9月25日(185日間)
 (開催場所)
        愛知県瀬戸市、長久手町及び豊田市の約173ヘクタールの地域
 (開催機関)
        財団法人2005年日本国際博覧会協会(会長:豊田章一郎)
 (入場者数)
        2,205万人

<官民の支援体制>
この計画は、日本国政府及び愛知県、並びにわが国の産業界、その他市民団体等の強い支援を受けて、実現した。政界では、自民党の博覧会推進議員連盟と地元の超党派の推進議員連盟が結成され、博覧会協会では、政府関係省庁、愛知県等、地元の自治体のほか、多くの民間企業や関係団体から出向職員を得て業務が進められた。

 会場は、名古屋市の東部、瀬戸市、豊田市、長久手町にまたがる凡そ173ヘクタールの地域に指定され、海上(かいしょ)地区と主会場になる愛知県の青少年公園の二つの地区で構成される。

<参加者>
 博覧会の出展参加は、日本政府が公式に参加を招請する国及び国際機関からなる「公式参加者」と博覧会協会が募集する「一般参加者」、その他博覧会協会の企画事業として計画するテーマ・ゾーンに参加協賛する参加者等で構成される。単独パビリオンで出展した民間企業・団体は、次の9社。

   ・電気事業連合会
   ・日立グループ
   ・トヨタグループ
   ・三井グループ
   ・東海旅客鉄道
   ・社団法人日本自動車工業会
   ・社団法人日本ガス協会
   ・ 中日新聞社
   ・三菱グループ

 外国の公式参加については、2001年3月から日本政府より国交をもつ世界各国と国連等の国際機関に外交経路で公式参加招請状が送られ、最終的に日本を含めた121カ国と4つの国際機関が参加するに至った。


執筆・著作:
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