インド ネパール 旅行記

Menu

» バラナシ 1

死の街『バラナシ』

一体何がどうなっているのであるか、インド列車。ようやくのことでバラナシに着いたのは良いけれども、現在の時刻は午後11時。「昼」到着といっていたはずなのに、12時間近くも遅れるとは良い根性している。
こんな時間では宿探しなんて出来るはずもない。ってことは野宿か……畜生。
困ったことに駅のホームは停電を起こしており、文字通りの闇一色である。半ば手探り足探りで進むものの、あちらこちらに人が倒れていて容易には進めない。
何度か人間を踏んでしまったが、うめき声一つ聞こえなかった。みんな実は死体なんじゃないのか。
ようやく人一人眠れる場所を見つけたので、横になることにした。いくら何でもこんな状態で寝るのは無理である。あくまで横になるだけだ。目を瞑って疲れを癒すだけだからな。寝るなよ。寝たら襲われるぞ、おれ。
気がついたら朝になっていた。寝たのか、おれ。


雨季直前につき曇り空の日が次第に多くなり始めた
生と死。聖と俗。何もかもごちゃ混ぜ状態のバラナシ

『バラナシ』と、インドの人々はこの地を指して呼ぶ。ここは聖なる川・ガンジスことガンガー流域で発達してきた聖地だ。バラナシの別名、ベナレスとはイギリス人の名づけたBenaresを日本語読みしたものである。
バラナシを訪れる巡礼者の数は年間に百万人と言われてる。その内の二万人は生命の終焉を迎えるために、つまり死ぬためにここにやってくる。毎年、一万単位の死体が川岸の火葬場(ガート)で焼かれ、生焼けの死体がガンガーをたゆたう。
バラナシはあらゆる死を受託してくれる街だ。

街の香りもまた独特である。
ちょっと奥まで入り込めば、狭く入り組んだ路地が迷路のように交錯している。その隘路にはサリー屋、屋台、土産物屋などがぶち撒かれた様に雑然と立ち並び、何の統一感もない。道々には野良犬ならぬ野良牛がうろうろとさまよい、糞尿とカレースパイスの香りが漫然と漂う。通路の暗がりには人間が倒れ伏す。
足元には生気を失った痩せ犬が死んだように眠っており、その傍らには原型すら判別出来ない腐った肉塊が饐えた匂いを放っている。ふと上を見上げれば、建物の軒のわずかな隙間から青い空を覗けた。

二人組の少年に出会ったのは、ゴードゥリヤーと呼ばれる街の中心部にさしかかったばかりのことだった。
明らかに下層カーストの出と思われる粗末な格好をした二人の少年が、私と目が合うや否や小走りに駆け寄ってくる。
「ハロー。ジャパニ」
「やぁ」
「カンコー? 案内するよ」
少年の一人は英語を淀みなく話す。かたやもう一人の少年は無口で大人しい。年の項は、七、八歳といったところか。
観光は結構だ、と断ると
「じゃあ、グッドな宿紹介するよ。日本人は好きなんだ」
「リベート稼ぎが目的だろ?」
僕がからかうと、少年の一人が憮然として答えた。 「ギブアンドテイク」
いちいち言うことがしっかりしている。
「分かった。とりあえず連れてってくれ。見てから決めよう」
「OK! サー。ガンガーも眺望できる宿だから、きっと気に入るよ」
 

バラナシマフィアがおそってきた!

少年たちが教えてくれた宿は成る程言うだけのことあった。彼らの言うとおり、窓からはガンジス川の流れを一望できるし、宿代も一人部屋しか空いていなかったがそこそこに満足のいく値段だ。私はその場で即決し、少年たちに礼を言った。別途、案内料を請求してくるのではないかと思ったが、それは杞憂に終わった。騙してでも金をせしめる大人たちとは違う所だ。えらい。

雨季直前につき曇り空の日が次第に多くなり始めた
雨季直前につき曇り空の日が次第に多くなり始めた

シャワーを浴びて宿の外に出ると、まだ少年たちはいた。
「なんだ、まだいたのか」
「うん、とりあえず今日は稼げたからね、休んでた。ジャパニ、家に来ない?」
「え?」
それは面白い。インド人の一般家庭を垣間見れるなんてそうそうない機会だ。私はその提案を受け入れることし、少年の家を訪れることにした。
よく喋る方の少年が先だって案内してくれたということは、彼の家なのだろう。土を塗り固めたブロックで構成されるその家は、四畳半の部屋が二つぶん、といったところか。階段も見えるので、二階もあるようだ。
剥き出しの地面の上に腰を下ろすと、早速チャイが出てきた。対面には少年の兄だと名乗る青年が座っている。弟と比べると、無愛想で終始ムスリとした表情のままだ。あまり歓迎されていないのかもしれない。
仕方ないので少年と談笑していると、兄が無造作に何かを差し出してきた。見ればチャラス(大麻樹脂。ハシシと同意)である。宗教との深い関わりもあるため、公には禁止されているが実質は容認されているようなものだ。聖地だからそれも尚更だろう。
せっかくの兄ちゃんの好意を無駄には出来ず、僕は吸う真似だけをした。若干の警戒心があったせいもある。
このままじゃ「飛ばされ」そうだったので、別の話題を振ることにした。ガンジス川はすぐ傍にあるのか、と聞くと、すぐそこだから案内してくれると言う。私は少年たちとガンジス川へ向かった。

しまった、と思ったがもう遅かった。
ガンジス川の拓けたほとりについた時、ふと気がつけば建物の影からはわらわらと人相の悪い男たちが現われ、じりじりと私に近寄ってくる。おぉ、映画のワンシーンみたいだ、と一瞬呑気なことを考えたりしたが、どうにもこいつは不味い状況だ。子供だと思って安心していたのだが、完全にハメられた。後々知ったところによると、ここらはマフィアの巣窟なのであった。
あっという間に私はその一団に囲まれてた。よもや、殺される、ということはないだろうが、極めて危険な状態であることには変わりない。全部で六、七人はいるだろうか。いや、後ろでニヤニヤしている男たちもこの仲間なのかもしれない。もはやこうなっては、虚勢混じりの平静を装おうことだけで精一杯だ。
「おまえ、学生か」
恐らくはボス格であろう、一際威圧感のある男が話し掛けてくる。ブロークンな英語だけれども、いかにも"慣れた"口調だ。
「そうだよ」
咄嗟に嘘をついた。
「おまえ、さっきチャラス吸ったろ。あれは山奥でしか採取出来ない高価な代物なんだよ」
そういうことか。クソ、自分の迂闊さにも程がある。
「200ドルだ。200ドル出したら開放してやる」
「そ、そんな金が出せるか。第一、俺は口をつけただけだろうが」
「知ったことかよ。とにかく金を出せ。そこの火葬場は見えるよな」
ボスが指差した先には、黒煙が立ち上った巨大な炎があった。先ほどから鼻をつく饐えたような臭いがするのは、死体を焼く臭いだったのか。
「払わなければ殺す。死体は焼いて川に流す。これでナッシングだ。何も残らない」
毎時のべつまくなしに死体が焼かれているこの場で、吐かれる科白は妙な現実感がある。殺すってのはお決まりの脅し文句なのだろうが、そうでなくともこんなヤツらにあっさり金を取られてたまるものか。ごねよう。ごねまくってやる。
私は金を払うことを拒否しつづけ、ボスは脅し文句をとうとうと吐き続ける。その不毛な会話は延々と続く。こうなったら根競べである。命も惜しいが、金も惜しい。どこまで続くか、やってやろうじゃないか。本当に命の危険を感じたら、その時に金を払えばいい。
と、
「仕方ねぇ。お前は学生だろ。150ドルにしてやる」
ボスがついにおれた。強盗にも学生割引が通用するとは驚きだ。なんだ、この程度で譲歩するとは意外と大したことのないチンピラなのかもしれない。段々安心するとともに、余裕も生まれてくる。
「分かった。150ドルは払おう。でも」私は一旦間をおいて言う。「そこのクソガキの兄貴には先ほどタバコをやった。あれは日本でも珍しい高価なタバコでゴールデンシガーという。一本100ドルするから、差し引いて50ドルだな」
と言うと、ボスは烈火の如く怒った。マイルドセブン一本で100ドルとはよく言ったものだが、ちっぽけなチャラスで200ドルという価格を考えれば、それなりの適応価格であろう。
「ジャップ、死にたいか!」
いきなりボスは手にしていた棍棒を振り上げた。これもどうせ脅しだ。腹をくくってからは、自分でも驚くくらいに落ちついていた。周りのチンピラたちも襲ってくる様子はない。これならばいける。三人ほどぶん殴って逃げれば上手くいくだろう。武器を振り上げた時点で、ボスがケンカ慣れしていないことはよく分かった。こうなったらやってやろうじゃないか。
すると、ボスが棍棒の軌跡はあらぬ方向を描いて落ちた。これは一体何のつもりだと困惑していたら、ボスが得意そうに言う。
「お前もこんな風になるぞ」
言われて目線を下ろせば、そこには粉微塵になった石がある。石とはいっても、もろい地層石だ。どうやらこれで脅したつもりらしい。思わず噴出しそうになった。こんなんじゃ中学生のケンカ以下じゃないか。
そこで私も足元の石を取ると、それを素手で割った。それをみたチンピラ団は明らかに慌てふためき、距離をおく。アホだ、真性のアホである。
私は段々嬉しくなってきて、足元の石を割りつづける。ボスはどんどん無口になる。そこで、一言。
「殺される前に言っておくけど、オレは空手マスターでブラックベルトしめてるからね」
 
釈放。
ガンジーの非暴力主義はインドの強盗にも浸透していたようだ。