インド ネパール 旅行記

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» デリー 2

意気阻喪の“かなしずむ”

慌てて腕時計を見た。
随分と長い間まどろんだような気がしたが、まだ二時間しか経っていなかった。現状を考えると、そう悠長に寝ていられる状況でもない。
とりあえずは情報収集をしなければならないし、この宿に代わる他の安宿も探さねばならない。列車の発着時刻も調べておきたい。そして何より気になるのは界隈の治安だ。
パキスタンとの政治情勢は一層の緊迫化状態に入り、今や日本の外務省からは『退避勧告』が発令されている。『退避勧告』とは外務省が発表する海外危険情報の一つだ。海外危険情報は危険な国を五段階の危険度に区分したもので、中でも『退避勧告』は危険度五にあたる。つまり、現在のインドでは最高クラスの発令が敷かれているわけだ。

写真提供:http://www.euzim.net/
オートではないタダのリキシャ。日本語の人力車に由来する

宿の外に出ようとすると主人に呼びとめられた。今、外に出るのは危険だから止めておけという。
バカ言うな、こんなクソ高い宿泊料を取る宿の中でじっと過ごすわけには行かないのである。執拗に食いとめる主人の忠言は無視して、僕は外に飛び出した。
屋外に出た途端、むっとした土の温もりが肌を伝わってくる。砂埃が彼方此方で舞い、ヒンドゥー語混じりの喧騒が空気を満たし、オートリクシャの安っぽいエンジン音が耳を抜けていく。
辺りを恐る恐るぶらついていると、一人のインド人が血相を変えて、こちらに走ってきた。
「ヘイ、ジャパニ。危険だから外に出るな、と言っただろ」
誰かと思えば、先ほどのマリファナ運ちゃんか。「ずっと宿に閉じこもっていても詰まらないじゃないか」僕が言うと、彼はヤレヤレと言わんばかりに肩を竦めた。
「マイフレンド。一人じゃ危ない。だからオレが観光案内をしてやると言ったんだ。今日は暇だからフリーで付き合ってやるって」
「いや、せっかくだけど結構だ。自分の足で回りたいんだよ」
「そんなこと言わないでくれ、フレンド。金は要らないと言ってるだろ」
「気持ちは有り難いが、ノーサンキューだ」

彼にひねもす付きまとわれていては、何の情報も稼げない。最初はそのつもりだったのだけど、次第に彼には胡散臭さを感じるようになってきた。今までの彼の言動を聞いていると、"僕と一緒にいたい"のではなく、"僕を一人にさせたくない"のは明らかで、それも僕の身を案じての考えではないことは明確だ。
僕は彼の誘いを固辞し続けるのだが、それでも彼は執拗に誘ってくる。そこで彼を無視して立ち去ろうとしたところ、唐突に彼の表情が一変した。
「ヘイ、ちょっと待て。それじゃ朝型に宿まで送った乗車料、それからお前を待っていた分の待ち時間代をよこせ」
案の定だ。やはりコイツは食わせ物だった。宿からリベートを貰うから、乗車料金は要らないと要ったのは何処のドイツだ。
こんな野郎の脅しに屈するのは馬鹿げている。「そんな金はない」と僕が言うと、運ちゃんはさらに激昂し、
「二百ドルだ。全部で二百ドルよこせ。でなければ、殺すぞ」
と、表情が一変した。
知ったことか。僕は十ルピー(一ルピー=2.5円)だけ財布から取り出すと、それを運転手に叩きつけ、その場を後にした。後ろから追いかけられ、ナイフでも刺されようモノならどうしようかと心配したが、幸い追って来る気配はない。やはりあれはタダの脅し文句だったのだろう。

「駅まで行ってくれないか」
僕は慌てて捕まえたオートリキシャの運ちゃんに告げ、いざ連れてこられてみると、そこは全く違う場所だった。畜生、コイツもオレを騙すのか。
「違う。マスター。駅は危ない。パキスタンのテロリストが侵入した。それで列車のチケット販売場所は変わったんだ」
「うそつけ、この野郎!!」
今まで積もり積もった苛立ちが僕の中で唐突に爆ぜた。乗車代なんか払うかクソドライバーめ。僕は荷台から飛び降り、運転手に詰め寄る。
「金は一切払わねぇぞ」
「マスター、金はちゃんと払ってくれ」
まだ言いやがるか。揉めていたところで一人のインド人が仲介に入ってきた。
「どうした、ジャパニ」
「いや、コイツが伝えた通りの場所に連れていってくれなかったんだよ」
「分かった分かった。とりあえず落ちつけ。俺が話しをつけてやる」
彼はそう言うなり、運ちゃんに向かって恫喝した。何と言ったのかはわからないものの、僕に味方してくれているのは確かだ。怒られた運ちゃんは何も言わずに大人しく退散していった。
僕が礼を告げると、彼は
「なぁに、気にするな。困ってることがあったら助けてやろうか」
と、言った。
渡りに船だ。ようやくマトモなインド人に出会えた気がする。

「列車のチケットを取りたいんだよ。駅のツーリストオフィスが閉鎖されたってのは本当か?」
「本当だ。でも、近くにチケットを取り扱っている会社を知ってるよ。そこを紹介してやろう」
「………」
皆、同じことを言う。やはりオフィスが閉鎖されているというのは、本当の話しなのだろうか。彼の言葉をそのまま信用する訳にもいかないが、これ以上この街のインド人とやり取りするのはウンザリだった。fuck、bitch、dumb……、インドに入ってからはこれらの単語ばかり使っているような気がする。こんな旅は初めてだ。会う人間全てがウソをつき、金を騙し取ろうとする。こんな状況でいったい誰を信じればいいのか。
もう、どうでもいいか。僕は半ば自暴自棄な気持ちになっていた。
「分かった。どこでもいいから、そこまで連れていってくれ」
いいや、こんな街はさっさと出ていこう。デリーもパキスタンもクソッタレだ。
一日でも早くこの街を脱出しよう。そして、もっとマトモな人間がいるところに行くのだ。

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また騙されたな。
長いため息をつきながら、宿のベッドに倒れこんだ。
僕は何時の間にかアーグラ行きの単独ツアーに参加することになっていた。運転手1名とボロの乗用車付き、バラナシ行きの列車のチケットを含めた総額は170ドル。かなり値切ったとはいえ、インドの物価からすればかなり高い料金のような気がする。
でも、もうどうでもよかった。
その後、デリーを一通り見て分かったことは、やはり全てがウソだった、ということだ。つまり安宿街が閉鎖されているのもウソだし、駅のツーリストオフィスが閉まっているのもウソ。ついては、安宿街で下手な猿芝居をうって運ちゃんを殴ったインド人も、彼に殴られた運ちゃんも、その運ちゃんとグルになっていた宿の主人も一連の繋がりがあった訳で、さらにはパキスタンテロが云々とほざいた運ちゃんも、ケンカの仲裁をしてくれたインド人も皆全て僕を騙していたということだ。
なんてクソったれじみた国なんだろう。
「帰国するか……」
ふとそんな考えが頭をもたげる。しかし、帰国便は日時の確定されたフィックスチケットで、嫌でも45日間は帰国できない。仕方ない、今持っているチケットを破棄して、新たに買い直そうか。
と、何時の間にか帰国することを真剣に考えている自分、に気がつき驚いた。今までどんな国に行こうが、どんなに長期滞在しようが「ホームシック」というヤツにかかったことは一度たりともなかったのだ。それがどうしたことか。このザマは何だ。
そうこう考えているうちに涙がこぼれてきた。何の涙なのかは分からない。人を信用できない辛さや、自分へ対する不甲斐なさ、孤独感、閉塞感、不信感、ありとあらゆるマイナス要因がわずか一日の間に積もり積もって、それが一度に押し寄せてきたのかもしれない。
畜生、と呟き、ベッドマットをぶん殴るとギイッと間抜な音がした。


午前7時。チェックアウトしようとしたところ、
「じゃあ、3500ルピーを貰おうか」
と、宿の主人は表情を変えずに告げた。昨日聞いた宿泊料は1500ルピーのはずだったが、倍額以上に膨れ上がっている。内訳を聞けば、税金、サービス料、二日分の宿泊代の総額だという。
「ちょっと待てよ。一日しか泊まってないだろ」
僕が文句を言うと、
「いや、正確には26時間泊まっている。だから、二日分だな」
「昨日、聞いた時には、この宿は24時間の料金制を取ってない、とお前言ったじゃないか」
「そんなことは知らないね」
「……警察署はどこだ?」
「構わんよ。電話を貸してやるぜ」
「………」
「俺は警察とは仲良しでね。それと今から友達のゴロツキ連中が遊びに来るんだが、良かったら一緒に遊ぶか」
このような国では警官と悪党が結託しているのはよくある話だ。結局、僕は素直に全額を支払った。
 
宿の外では、昨日旅行社で雇った運転手が煙草を吹かして待っていた。名前はムジャというらしい。見かけは人の良さそうなオッサンだけども、油断はできない。
「どうした、随分時間がかかったな」
宿でのやり取りのせいで、随分と待たせてしまったようだ。僕はそのことについて詫びた。ムジャの運転する車に乗り込むと、車はバックミラーがついていなかった。冷房も当然ないのだろう。インドの神様『シヴァ神』の人形がダッシュボードの上で呑気に揺れていた。
ムジャはアクセルを必要以上に踏みこむと、僕に尋ねてきた。
「何かあったのか」
「宿でボラれたんだよ」
「そりゃ災難だ」
「まァこんなこったろうと予想はしてたんだけど。ほら」

僕はバックパックからベッドシーツ、枕カバー、灰皿を取り出して、ムジャに見せびらかした。