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慰安婦の裁判

 支える会が支援した慰安婦裁判は、山西省の被害者による1次訴訟・2次訴訟と、海南島の被害者による海南島訴訟の3本でした。原告たちは勇気を奮い起こして提訴し、直接法廷で自らの体験と長年心にとめてきた思いを吐き出すように語りました。そして今までほとんど知られなかった中国人「慰安婦」の被害状況が少しずつあきらかになりました。

 

第一次訴訟 第二次訴訟 海南島訴訟
慰安婦第二次訴訟

 

原告と請求内容

郭喜翠さん、侯巧蓮さん (各2000万円)

提訴

1996年2月23日 東京地裁

東京地裁判決

2002年3月29日 敗訴

事実認定○

東京高裁判決

2005年3月18日 敗訴 判決要旨 弁護団声明

事実認定○、国家無答責○、請求権放棄×

最高裁判決

2007年4月27日 敗訴 判決文 弁護団声明

事実認定○、請求権放棄×

支援団体

中国人「慰安婦」裁判を支援する会

郭喜翠さんの被害

 郭喜翠さんは1927年、山西省西藩郷銅炉村で生まれました。郭さんの姉は最初の夫が日本兵に殺害されてしまったので、再婚し宋庄村に住んでいましたが、郭さんはここに同居し、子守や家事の手伝いをしていました。
 1942年旧暦7月のある日、日本兵と清郷隊(地元の住民により組織された日本軍に協力した武装組織)が宋庄村にやってきました。郭さんの姉の夫が八路軍に協力する活動をしていたことが日本軍に密告され、郭さんと姉夫婦、子ども3人が進圭村の日本軍拠点に連行されました。姉の夫は日本軍の情報隊長によって、棒で何度も殴られるなどの拷問をうけました。その後別の場所に移され、日本軍によって殺害されてしまいました。
 郭さんは当時15歳で、両親が決めた許嫁がいましたが、まだ結婚しておらず、性体験はなく初潮もむかえていませんでした。しかし、その夜、郭さんは清郷隊員によって、日本軍の隊長のいる建物につれていかれました。隊長は郭さんの服をはぎとると二度強姦しました。郭さんは陰部から出血し、その夜は痛みと恐怖から眠ることができませんでした。姉と子どもたちは翌日解放されましたが、郭さんは引き続き監禁され、昼間は複数の日本兵と清郷隊員に輪姦され、夜から未明にかけては隊長などに強姦されました。時には日本兵に陰部を切断されたこともあり、そこは治療を受けることもできなかったため、化膿し、発熱し、浮腫が全身に広がったりしました。連行された半月後、郭さんは動くこともできないほど衰弱してしまいました。家族が銀50元を払ってようやく解放されました。家に帰っても寝たり起きたりという状態でした。一週間後、郭さんを最初に強姦した隊長が郭さんの家にやってきました。郭さんは家族のことを思い、再び進圭村に行きました。郭さんは最初に監禁された所に再び監禁され、強姦され続けました。合計郭さんは3回進圭村に行き、監禁、強姦、輪姦されました。
 郭さんは旧暦9月ごろ解放され、宋庄村に戻りましたが、郭さんが身体的にも精神的にも極度に衰弱していたため、銅炉村に住む母方の祖母にかくまってもらい、母がつききりで看病しました。
 5年後、郭さんは許嫁と結婚し、5人の子どもをもうけましたが、今でも戦時中の監禁・強姦などに起因すると思われる心的外傷後ストレス障害(PTSD)の症状がみられます。

東京地裁での闘い

○提訴(1996/2/23)

○判決(2002/3/29)

東京高裁での闘い

○判決(2005/3/18)

3・18判決をうけて

「慰安婦」訴訟弁護団大森典子
 去る(2005年)3月18日、「慰安婦」2次訴訟の判決が東京高裁第1民事部から出されました。裁判長の江見弘武氏は、法廷でも時々感想めいた発言をするので、その内容から弁護団は、日本軍の加害事実に対する何らかの反省なり、政治的解決に向けた付言なりが付くのではないかとかすかな期待をもって臨んだのですが、結果は思いがけない論理での敗訴でした。

 判決は、戦争による被害の賠償問題は講和条約によってお互いに解決したものとすることになっているのに、本件のような請求は改めて無用の敵愾心をあおる行為だという主張を述べたうえで、本件は1952年の日華平和条約(当時すでに中国大陸には中華人民共和国が成立して実効支配をしていたのに、台湾と微小な島のみを支配していた中華民国と日本との条約)によって本件控訴人らの請求権も放棄されたとするものでした。

 このような論理は現在日中間の関係が極めて悪化しているときに、お互いの信頼関係の基本である日中共同声明を否定するものであり、時代錯誤の独善的判決といわざるを得ません。

 しかし、他方で、このような考え方は日本の国民の間に広く存在する一つの考え方であって、むしろ私たちはこうした見方をどうしたら変えていけるかを正面から問いかけられたということができます。

 私たち弁護団は2005年3月18日を再出発の日として、この困難な課題に立ち向かう決意を固めたところです。

最高裁での闘い

○判決(2007/4/27)

山西省訪問の報告

 2007年6月15日〜18日まで、大森、川上、坂口の3人は最高裁での上告棄却決定を受けて判決報告と今後の政治解決に向けての闘い方を打ち合わせするため、山西省の太原を訪問しました。太原では、中国側から康健弁護士と通訳の竇運生さんの2人が合流しました。
 16日、太原市内の招待所で、原告(被害者は訴訟上上告人ですが、ここでは原告といいます)や遺族と再会し、弁護団から大森が判決報告を行い、今後の闘い について意見交換を行いました。夕方からは太原市内の律師事務所を訪問し、「慰安婦」事件について山西省内の調査の現状をも踏まえ意見交換をしました。夜 は太原の律師有志と懇親会を行い、今後協力関係を築きあげる第一歩となりました。
 翌17日には、各原告を自宅に送りながら、ただ1人体調が悪く太原に出てこられなかった陳さんを訪問し、判決報告等を行いました。
原告は最高裁判決の連絡を受けた直後は悲しみにうちひしがれていたようですが、弁護団から判決の報告を受け、政治解決に向けて今後の戦い方を意見交換する中で、ともに一致して闘っていくことを改めて誓いあいました。
 今回の山西省の太原訪問はわずか4日間でしたが、最高裁で上告棄却され裁判手続は終了したが、政治解決に向けて新たな取り組みを始めることが確認された点で意義のあるものでした。(弁護士 坂口 禎彦)

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