<シスター牧野を支援する会メンバー> 



海外生活カウンセラー 
ロングステイ財団理事
海外邦人安全協会理事  福永 佳津子


2000年秋、世界最貧国の一つ、マダガスカルの産院で助産婦のシスター牧野に出会う。
底抜けに朗らかでタフな人だ。「赤ちゃんを取り上げるゴム手袋が一つしかなくて,毎回洗って使っている」とケラケラ笑う。その貧しさは言葉にならない。「クリスマスに日本からの古着を分けているけど、もう在庫がない」とも。
主婦仲間五人の旅だった。
「ならば私たちが」となって十一月末、我が庭先で古着の荷造りとなった。
「荷物の一番上にはアメ玉入れてね。税金をふっかけられた時、アメ玉が助けになるの」と知恵ももらった。医療手袋も入れた船便二十箱の送料は十五万円。
「送料をマダガスカル通貨に換算したら・・・・」とだれかが言いかけたが、見える援助を確かな人を通じて。仲間の強い気持ちはそこにあった。
「マダガスカルはこの一週間、すごい雨で大変です。何でも役立つところですから、感謝感謝でございます」荷物の無事到着を知らせる絵葉書が昨日舞い込んだ。
アメ玉が効いたようだ。良かった。

           海外生活カウンセラー  福永 佳津子
           2001年 読売新聞千葉版コラム 「つれづれ」から一部抜粋

著書

ある日海外赴任 海外暮らしの不安を解消するために  ジャパンタイムス1990年
  (著者自らの経験を通して赴任前の荷物整理のコツから
                   帰国後の学校対策まで実践的にアドバイスするハウツ- 本)

帰国ママのチャレンジ生活  ジャパンタイムス 1993年
アジアで暮らす時困らない本 ジャパンタイムス 1998年 

城西エクステンション講座
 「やっぱりハワイ」(ロングステイ)2015/1/24(土)

楽園の島のそこかしこでたくさんの日本人に出会いました。シニア世代のロングステイヤーはもとより、ベビーカーを押す若いファミリーが気楽に行き交う様を見て、「もはやここは日本か」の思いを強くしました。

オアフ島の東部にあるカイルア、ラニカイ・ビーチは米国で最も美しい海と言われる名所で、数年前までは知る人ぞ知る秘密の場所でしたが、今や日本人が必ず訪れるツアーコースなっています。ハワイ大好き日本人が、ワイキキビーチを散策するに留まらず、滞在のあり様をどんどん進化させてきている証拠です。

さて、私は、オアフ滞在なら必携のバス定期を初日にゲットし、どこに行くにも得意げにそのパスをかざして、乗り放題を満喫しました。今回は孫連れという付録付で、地元の幼稚園通いに加え、幼児のための工作教室や、CHILDRENS  DISCOVERY

CENTER、水族館、動物園などに付き合うはめになり、一味違う地元の魅力に触れた滞在でもありました。もちろ んパンケーキの店を回り尽くし、激安婦人服店に通い詰めることも忘れていなかったのですが…。

宿にしていたコンドミニアムで知り合った日本人シニア夫妻や同じバスに乗り合わせた「ハワイステイ経験20年」のベテランたちが堂々と思い思いの滞在を楽しんでいる様は痛快でした。ハワイは心をゆっくり解いてくれる妙薬のような地です。そこに流れる時間に身を任せる演出を人生の中に取り込まない手はありません。

ロングステイをするならやっぱりハワイ。たくさんのご参加、お待ちしています。

日時   2016124日(土) 14:0016:30

講師       福永佳津子

ゲスト講師   岡田 誠 さん( ロングステイ財団ロングステイアドバイザー。ハワイ州観光局認定スペシャリスト。ハワイステイサポート・インク代表)   

               

問合先  城西大学エクステンションプログラム事務局 

       〒102-0094 千代田区紀尾井町3-26

       TEL 03-6238-1400  FAX 03-6238-1399  

       E-mail kioiclub@jiu.ac.jp

エッセイの部屋
「マダガスカルや〜い」

「宛先はアベマリア産院」

「小包は作ったけれど・・・

「リユース(再利用)が叶わない」  

「シスターとご対面」  2005年12月

☆「クリスマスパーティーで」  2006年1月 

「シスター、行ってらっしゃい」2006年3月  

康大の「マダガスカル旅行報告会」 2006年6月

「2007年9月の荷造り」

「2007年12月の荷造り」

「2008年6月の荷造り」

「100箱突破しました!」2009年1月

「シスター、一時帰京 2009年」

「小沼さん、皆さん ありがとう!」 小沼さんからの報告 2011年11月28日更新

「マダガスカルへの荷造り 2010年〜2013年」     2013年10月更新

「メリークリスマス」「シスター遠藤のご冥福をお祈り致します」2013年12月更新

☆「2014年シスターの一時帰国」2013年8月更新

「2014年の荷造り」2014年12月更新
 


  
   



   「マダガスカルや〜い」           

私とマダガスカルの結びつきはまったくのひょんなことからだった。

ご近所のMさんがマダガスカルに転勤となって、妻のN子さんが行ったり来たりを繰り返していたあるチャンスに、主婦仲間4人が「私たちもマダガスカルに行ってみたい」とぶらさがってついて行ってしまっただけなのだ。そんなことでもなければ全く無縁の地だった。

 マダガスカルと言えば、あのあまりにも有名な「バオバブの木」をすぐにも思いつくだろう。少なくとも私の予備知識はそんなものだった。それでもN子さんにしがみついて行けば何とかなる、と安心を決め込んで、女学生の修学旅行かのように大賑わいの旅が始まったのは、2000年の秋のことだった。
(思い出写真へ)

 成田からまずシンガポールに飛び、そこで1泊。翌朝10時間ものフライトを経てマダガスカルに到着。それから日本の4倍はあろう島国マダガスカルの見所を、国内飛行機を乗り継いで数日間を掛けて堪能した。あのバオバブ街道にもすっかり心奪われて・・。

しかし、物溢れるあまりにも豊かで贅沢な美しき楽園、シンガポールを経由してからのマダガスカルは、想像を絶する貧国で、天と地ほどの格差に誰もがしばらく言葉がなかった。

 M家は首都タナからアップダウンとカーブを繰り返す山道を車で3時間走ったアンチラベにあった。残念なことにM家訪問を前に2人が仕事の都合で帰国の止むを得ず。私とお向かいのT子さんだけM家にお世話になった。
 アンチラベにはもうひとり、日本人が住んでいた。その日本人こそが、アベマリア産院で助産師をされているシスター牧野だった。


               

翌朝、M夫妻に連れられて産院に出掛け、私たちは会うべくしてシスターにお会いした。

実は出発直前に友人が、「エーッ?マダガスカルに行くの?確かうちの子を取り上げてくれたシスター牧野がいらっしゃるはず」と懐かしそうに声を弾ませ、連絡先まで預かっていたのに、広い国で会えるはずもなしと、私はすっかり忘れていた。人の巡り合わせはなんと不可思議なことか。シスターは我が友人の出産のことをよくよく覚えておられた。

 その日は、ちょうど日本からの医学生が研修に来ていて、2人で終わったばかりの難産の話を話題にしていたが、シスターが話されると、大変なことが大変でなく聞こえるのは、強靭な精神力、お年を聞いてもまさかと耳を疑うタフな仕事振り、そして生来のあっけらかんとした天真爛漫さのなせる業だった。

産院はこ綺麗ではあったが、粗末で立派な医療器具とは無縁だった。
薄暗い部屋のベットに妊婦が数人。建物の後ろ側には出産を控える妻や母のためにそれぞれの家族が夕飯の支度にかかっていた。

患者のための給食制度などあろうはずがなかった。シスターはケラケラと元気な声で「ないない尽くし」の貧国のお産事情を話された。「フィルムケースは薬を小分けして渡すのに便利」と聞いて、私たちはありったけのケースを残した。

 「栄養失調で母乳が出ない母親ばかり。赤ちゃんのために日本の粉ミルクがあったらねえ。生まれた乳児に着せる服もないの・・・」。それなら私たちが何とかします。そう答えるのに熟慮も迷いも無用だった。

 シスターは産院の庭先に野菜畑を作っていた。自給自足を目標に奮戦されていたかのようだったが、多分畑のお世話係はMさんだったに違いなかった。シスターのこぼれんばかりの笑顔と、人懐っこいマダガスカルの人たちの笑顔が重なって、私たちの心の中でマダガスカルは特別な国になっていった。



   「宛先はアベマリア産院」
 マダガスカルから戻り、旅の余韻を楽しみつつも、私たちは何だか落ち着かなかった。

時々の午後のお茶のタイムは、自然と「シスター牧野のために何がしてあげられるか」の話が中心になっていた。アンチラベの市場にはそれなりに物が並べられていたが、商品と呼ぶには余りに薄汚れた安物ばかりだった。市場では旧式の手回しミシンを抱えて女性たちが座り込んでいたが、縫い物をしていたのだろうか。

 私たちは取り敢えずは古着を中心に送ることにした。大人用、子供用、乳児用もう何でも構わず手当たり次第集め始めた。友人や隣人たち、私の講座の受講生たちに「マダガスカル」や「シスター牧野」のキーワードを手短に説明して、品物の提供を願い出た。人に頼らずとも実は自分たちの押入れに眠る衣類の束だけでも相当な量ではあった。

「ヨッシャ、集め始めるよ」となってから荷物の集積場たる我が家の玄関・廊下が塞がるまでに時間はかからなかった。「と、通れない。玄関のドアも開かない」状態に家族が悲鳴。我が家の窮状を救うべく、早速荷造り作業の決行となった。冬の入り口に入ったばかりの11月末。マダガスカルから戻って2ケ月が立っていた。

 「こんなの着るかな?」「ちょっと古すぎる?」と1枚1枚広げてワイワイガヤガヤ。それを上手に仕分けるのが私たちから遅れて帰国したN子さん。「どんなものでも喜ばれる」が結論だった。「マダガスカルに送らないで私がもらいたい」。「あら、じゃ着てみたら?」などと盛り上がっては笑い、乳幼児のあまりに小さく可愛い服をたたみながら、「私たちの子もこんなだったんだよね」と涙さえ出そうになって・・・。こんな具合に作業はとにかく楽しかった。
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 「小包は作ったけれど・・・」

 頃合の段ボールに「こっちはベビー用品」「あっちにはぬいぐるみとオモチャ」「この箱は大人用衣類」などと中身を振り分けて詰め込み、どれも限りなく20キロに近くなるよう工夫した。送料が10キロで6,250円。20キロなら9,750円だからだ。ならば30キロならもっと安い?と思いきや、国際郵便小包の重量制限は20キロと決められていた。(*現在は30kgまでになっています)

家にあった体重計に仲間のひとりが乗り、体重を量る。次に彼女が段ボールを抱えて乗った合計体重?から彼女の体重を引いて、荷物の重量を測る「大笑いの方法」を採用。誤差がほとんどなかったと後で知ってまた受けた。

それにしても20キロ近い箱をひょいと担いで乗ってしまうパワーの持ち主がいたなんて。

「ちょっと足りない」「こっちはオーバーしてる」となれば、中身を右や左に移動だ。
「重量OK]となれば別の仲間が素早く梱包作業にかかる。段ボール作りからヒモ掛け作業のうまいこと。もうプロ級だ。出来た端から段ボールの2面に宛名書きをさっさと始める人。荷札にはしっかりGift( Used Toys ,Clothes for Children) と明記し、通し番号も忘れない。どうしてこうも気が回り、テキパキとことが進むのか。この仲間が集まったら、何でも出来そうな気がした。

 ちなみにマダガスカルまでの荷物20キロを航空便で送ると43,800円。SAL(エコノミー航空小包)なら27,050円。船便小包なら9,750円というわけだ。仲間は6人。仮に6箱作れば送料6万円。「じゃみんな、ひとり1万円ずつね」となるには半端な額ではない。古着はうれしいほどに集まる。しかし送り切るだけの送料をどう調達するか。 出来上がった段ボールを庭先に積み上げ終わって、郵便局の集荷室に電話。すぐに取りに来てもらった。

 郵便局員はバネ式の計りを持参。あらためてひとつひとつを計った。送料の合計が出た時、局員に「ねえ。この荷物はマダガスカルの貧しい子供たちへの応援品なの。送料負けてくれない?」と言い、「あなたも、送料の一部、個人的に応援してくれないかしら?」などと半分本気で持ち掛けたが、局員は、「いやー」と答えるのが精一杯だった。当たり前のことだが・・・。

 「じゃ、帰ったら局長に一応打診してね」と付け加えもし、局員を交えて郵便局のトラックを背に記念写真を撮った。ニコニコ顔の私たちと困惑し、うつむき加減?な局員の顔・・・。

 こうして「マダガスカル宛の小包一便」は元気一杯、我が家から出て行った。
 取り敢えずは送ったが、送料は頭の痛い問題だった。一回ぽっきりで後は知らない、となるならいい。しかし継続するなら送料をどう工面するかは大きな課題だ。もっとも仲間の誰ひとり送料負担を「大変」と言わないことには驚いた。「パートの稼ぎがあるもの、大丈夫」と言う人あらば、「こういうことにお金を出すのは構わないのよ」という人も。仲間6人のうち、シスターを知るのは3人。シスターに会わずじまいで帰国したのが2人。残りの1人はマダガスカルにさえ行っていないのにだ。

     
             



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      「リユース(再利用)が叶わない」

 それにしても資源ゴミの日に出される古着の山が恨めしい。マダガスカルの市場に並ぶ薄汚い衣類よりよっぽど上等だからだ。時に新品同様の物もある。「もう要らない」とさっさと捨てる国の人たちあらば、喉から手が出るほど欲しい国の人たちがいる。何とか地球規模のリユースが叶わないものかと心底思う。「あ〜もったいない」と単純に思い、市役所に電話してみた。

 「あれは捨てられたゴミと解釈し、マダガスカル行きにもらっていいですか?」と聞けば、「いやいや。あれは市が特定した委託業者が集めて東南アジアに売ってるから駄目」とのこと。そこですかさず「東南アジアは常夏ですよね。冬物古着はどうしているんですか?」「冬物は焼却している。結構お金がかかってね」。ならば業者に交渉し、冬物古着だけなら少し分けてもらえるのか。マダガスカルには冬があるもの。と振れば、「では、トン単位で引き取って下さいよ」と出来るはずもないことを担当者が切り出した。まさか。1トン=1000キロ。これを全部送ったら、500万円。もう誰が頼むもんか。

 ある時シスター牧野から「布地を送って」との手紙が。理由はこうだ。「物資は施されるもの、との考えが習性になってはならない。彼ら自身が技術を身につけ自立し、経済活動を行わなければ。洋裁を教えるために布地を是非・・・」

 以来、布地はもちろん、針も糸もボタンも・・・荷物に入るだけ押し込んだことは言うまでもない。マダガスカルの土産物屋にはどこでも、小奇麗な刺繍などの手作り製品が所狭しと積み上げられていた。

かつてマダガスカルに工場を持っていた法人企業の関係者が、女性たちの手の器用さに注目。「自立を手伝いたい」と日本から数十人の女性を送り込み、刺繍や麦わら帽子、サイザルで編んだバックなどの製品作りの指導に当てたと聞いたが、本当だとしたら実にいい話だ。
 こうして私たちが送る品にも変化が出てきたのだった。

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