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六華寮(回顧)
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レトロな柏崎・新潟 

 六花寮回顧(西大畑最後の人)    
       
   西大畑町にあった「理学部キャンパスと六花寮」
懐かしい場所ではあるが、卒業した1964(昭和39年)の数年後には移転している。西大畑の六花寮の経験者、70才を超えている。全くの少数派になった。
六花寮の思いをと考えるが文才もなし。ある方の想いを紹介。
   
   六華寮(正式には昭和27年に改称し六花寮)に入る
   昭和40年4月早々、大学生活を送るために晴れて新潟に出かけた。盛岡→仙台→福島→郡山→会津若松市→新津→新潟。東北本線、磐越西線、信越本線のルートである。
 当時は200-300円で乗れる準急列車というのがあり、仙台まで3時間、仙台で乗り換え郡山から磐越西線に入り、山間部を延々と約6時間揺られて新潟にヘトヘトになって着いた。列車はうるさくかつ油煙を出し、油のにおいが立ちこめるディーゼル車で、この長丁場を6年間にわたって往復したがホントに嫌であった。途中、心を和ませてくれたのは山の緑と阿賀野川の緑の水流であった。
   入寮申し込みをしていた六華寮はどんなところかと心配していたが、市内西大畑の一角にある、ボロボロの今にでも崩れそうな木造の建物。正面玄関の様子からも中の様子が推察されたが、実際に入ってみると予想以上にひどい建物であった。廊下の天井の梁は垂れ下がり、各部屋の間の壁には大きな穴が開けられ、隣室とは出入り自由、欠損した窓ガラスは代わりにベニヤ板が貼ってあるなど、聞きしに勝る代物であった。夜は20Wの裸電球が要所要所にあるだけ、農家でいえば馬小屋並か。ここに200人ほどが暮らしていた。最初は驚きもしたが、貧乏くさい一方、何となくワイルドな感じがして全く新しい環境に興奮を覚えた。割り当てられた部屋は4人部屋で新入生は2人。着いていた荷物をほどき土間の一角に机をしつらえて一応自分のコーナーを確保した。
 結局、すっかりなじんでしまって、寮を出ようとしたことはなく6年間寮生活を送ることになった。
  寮生活 食事
   翌日からは通常の寮生活を送ることになるが、私の従来の生活に比較して大きな変化の第一は寮の食事であった。寮の食堂に於ける食事の時間は、朝食7:00-8:30、昼食12:00-13:00、夕食18:00-19:00。大学の教養部は寮から100mほどしか離れていなかったため昼食も寮に戻って摂った。食費は朝30円、昼50円、夕食50円、しめて130円/日。予約制で食事が確保出来る仕組みになっていた。授業とかの変更などがある場合、前日までならキャンセルも可能で実に合理的に運営されていた。・・・・・・
食器は黄色いアルミの小ボールに白米とみそ汁、小皿一枚におかず少々というものであった。・・・・・
   
  友よ語らむ繚乱の
-新潟・西大畑六花寮の青春-

昭和28年入寮(7年先輩)の回顧録
   「四月に入り、いよいよ新掲に行くことになった。新潟大学の前身は旧制新潟髙等学校であった。したがって学生寮も当時そのまま引き継がれて使用されていた。入学式の前日までには入寮せよ、との連絡をもらっていたので前日新潟に着き、駅前にずらりと並んでいた銀バスの行き先を、寮から送られてきた手紙を片手に確認してバスに乗った。旧制髙校の正面玄関前に「理学部前」というバス停があり、そこで下車して少し戻り六花寮の門内に入った。多少の想像はしていたが、私は思わず息をのんだ。これが六花寮か、外から見える窓という窓のガラスは半分近く破れ呆て、板切れでふさいであった。どう見てもまさに廃屋である。これからこの廃屋に四年聞も起居するのかと思ったら、暗然とせざるを得なかった。」