最後の会議。余計な先のことは今日は考えないことにして、とりあえず春学期が終わったことを喜ぼうと思う。
延期していた授業内試験を本日実施。久しぶりの1限な私は、ひどい睡眠不足。でもまあ授業内試験やるのには全然支障無し。そして実は、今日が今年度最後の1限♪ なんてことはいいとして。
終わった後、一人の学生がやって来て、「この授業の単位が取れないと来年教育実習に行けなくなるので、落とさないでくださいね」と言う。そんな風に言われたらただ一言、こんな風に答えるしかないでしょう:「落ちないでね」。
まあ、あの人のふだんの学習状況から見れば大丈夫だろうとは思うのだけれども、でもまだ採点してないので確たることは何も言えません。
思うところあって、欠席しました。私がお願いした非常勤の人が出席だったかどうか確認しないまま欠席届を出してしまいました。もし出席していたとしたら、済みませんでした。
でも私がのこのこ出ていったとしても、かえって気を遣わせるだけで全然慰労にならないと思うのだけれども。
某昔懐かしい大霊界とは関係ありません。
中学生の頃だったか、ある人に「人は死んだらどうなるの?」と聞いたことがあります。すると…
「「どうなるの」ってどういうこと?」…「たとえば苦しんでる人は、楽になるの?」
どうやらぼくは、たちの悪い刑事ドラマの見過ぎだったようです。殺人を指示するときに「楽にしてやれ」というみたいな。そして、(徹底した唯物論者であった)その人は、(当時のぼくにとっては)意外なことに、次のように答えたのでした。
「楽にはならない」…「じゃあ、どうなるの?」…「どうともならない」…「どうともならないってことは、じゃあ、苦しい人は死んでも苦しいままなの?」…「いや、苦しみは消える」…「じゃあ、やっぱり楽になるの?」…「いや、楽にはならない」…「じゃあ、どうなるの?」…「どうともならない」
その頃のぼくには、何が何だか全然分かりませんでした。
死ぬということは、唯物論(←なんかものすごく古臭い言葉に思えるのはなぜ)の人にとっては、「苦しい」とか「楽だ」とか感じる、<何かを感じる私のこころの働き>(?)が存在しなくなるということです。だから「苦しいと感じる」ということも発生しなくなるわけだけれども、その一方で、「楽だと感じる」ということも無くなる。だから、「どうともならない」ということになるわけです。
一方、「死んだらどうなるの?」とか「死んだら楽になるの?」とかいう発言は、<何かを感じる私のこころ>は生きている間も死んだ後も変わらずコンスタントに存在する、という前提があってはじめて意味を成すものなのです。
んで、この文章でぼくが何を言いたいかというと…自覚的には唯物論者であるつもりだった(幽霊とか死後の世界とかは信じていなかった)にもかかわらず頭のどこかで生前も死後も変わらず存在する<何かを感じる主体/経験者としての私>を想定してしまったあの頃のぼくは、このようなことを頭のどこかでちゃんと分かっているにも関わらず、日常の言葉で``if I were you''と言う人に、ちょっと似ていたかな、と思うのです。
これは「認知言語学」+「機能言語学」に(ax+bx)=(a+b)xみたいな操作をしたものなのでしょうが、私は「認知機能」の言語学と読んでしまうの。きゃ〜なんてお馬鹿♪
謙遜にもジョークにも韜晦にもなっていなくて、ただの自己ハンディキャッピングでしかない、って感じになってしまってることが結構あるような気がする。「突っ込まれて恥をかくまえに、先回りして言い訳しちゃえ!」って感じ。
しかもその逃げ方が、(使われはじめた当初はいざ知らず、今となっては)こてこてのステレオタイプになってしまっている。
だからこの「独断と偏見」という言葉を見るたびに、「こいつかっこわり〜」と思ってしまうんです、私。
どうやら夢を見たらしい。海馬とその周辺が順調に衰えつつある私のことなので、どういう内容の夢だったかを思い出すことは不可能なのだけれども、とにかく夢を見たということだけは覚えている。あと、あまり嬉しくない夢だったらしいということも。
そして目が覚めると虫になっていた。虫は節足動物だ。節足動物には、汗腺が無い。つまり、虫は汗をかかないということだ。汗かきの私にとってはまさに福音。
もちろん、汗をかかないということは体温を下げる仕組みが発達していないということではある。しかし、汗でびちょびちょになることがないという素晴らしいメリットに較べたら、体温調節ができないことなど大した欠点ではない(って本当か?)。それから、虫というものはあまり格好のいいものではないらしい。が、真夏の太陽の下を10数分歩いただけで「プールで泳いだ後みたいだね」と言われることに較べたら、格好がよくないことなんて大したことはない。てゆうかもともと私は格好がよくないわけで、それは虫になろうがなるまいが変わらなかったりもする。う〜ん。
私はどうやら仰向けに寝ているらしい。だが生後一ヶ月の私の姪だってずっと仰向けで、てゆうかむしろうつ伏せにならないようにみんなで気を遣っている。だから私も…というのはもちろん不適切なアナロジーの一例なのだが、それとは別に、仰向けになったカブトムシだかなんだかが起き上がる様子が佐々木正人氏の『知性は何ちゃら』というアフォーダンス本に書いてあった。あの本はどこだ。もしかしたら研究室まで行かないとない? ぐったり。
いずれにしても汗をかかないということは素晴らしいことなのである。
「これってほんとにぼくの文体?」って感じで自意識過剰になってしまうと駄目みたいです。
先日の学内での某懇親会のとき、不思議な会話が発生しました。登場人物は阿留きょ〜ぢゅ(仮名)と別野ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)と右野ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)の3人(黙っていたけど一応同じ「会話の場」にはいた私も加えれば4人)。阿留きょ〜ぢゅと別野ぢょきょ〜ぢゅはともに女性で、なおかつともに女性学に詳しくて、なおかつともに私の「人妻」の話を読んでいらっしゃる方。この日も「本多さん、「人妻」の続編はないの?」などという話が出たりしていました。それに対して右野ぢょきょ〜ぢゅは普通の(?)男性で、私の「人妻」の話は読んでいなかった模様。そんな3人の会話。
阿留きょ〜ぢゅと別野ぢょきょ〜ぢゅ(口を揃えて):
右野先生は私たちのことを「人妻」だと思っていないでしょう。
右野ぢょきょ〜ぢゅ:
いえいえ、思っていますよ。
う〜ん、この3人は分かり合えていたんだろうか。仮に分かり合えていなかったとして、その「分かり合えていない」ということを、特に((罠にはまって?)とっても無防備な答えをしてしまった)右野ぢょきょ〜ぢゅは、分かっていたのだろうか。
いつも思うんだけど、「生命科学」の試験はすごいです。問題解くのに必要になる生物学的な知識のレベルはまあ(ぼくらの時代の)高校の生物と大して変わらないと思うのですが、取り上げられている事項がすごい。ほんとはばらすのはよくないんだけど、過去問の使いまわしはなさっていないような感じなので、書いちゃいましょう。遺伝子組換食品の問題とか、脳死と臓器移植の問題とか、そういう、今の時代にふつ〜に暮らしている人でもいつどんな形で出会うか分からないきわめて今日的な問題が取り上げられているわけです。あのレベルの生物の知識でそういう問題にそこまで迫れるということをわからせてくれるのがすごい。それから、そういう問題に関して、「日本の現状はどうなっているか」ということも問われている。今生きている自分自身と、自分を取り巻く自然と社会とに対する見方が変わるような問題。
(何年か前には地球温暖化の問題とかエイズの問題とかが出題されていたけど、今年は出てなかった。ということは、問題は毎年アップデートされているということ。(なんてことまでここに書いてしまっていいんだろうか。でもまあ問題は持ち帰りだから、学生たちも過去問情報持ってるだろうし…))
そういう問題の背後には、そういう授業があるわけです、きっと。文科系の大学における理系の授業でどれだけ意味ある教育ができるかという可能性を追求している、教養教育のお手本という感じです。担当のきょ〜ぢゅは超多忙な立場の人なんですけど、よくもここまで、という感じ。
あと、お約束の(?)「血液型と性格」の問題もあった。
で、そういう問題たちに対して学生がどれくらいきちんと答えていたかというと… それが実はぼくには全然分からないのだ。解答用紙はOCR用紙なので、集めながら目に入るのは番号の羅列。うみゅみゅ。少しだけあった論述問題はとんちんかんなこと書いてる人がいたなあ。ぐったり。
最近、スクールバスが八高線の金子駅にも行くようになって、今日はそっちから帰ってきました。こっちルートだと時間はいつものルートよりも少し短くて済んで、しかも乗り換えが圧倒的に楽。電車の本数が少ないので行きは使えない(一本逃すと次は30分後とか1時間後とかになってしまう)のですが、帰りはこっちを使うことが増えそうな予感。
でも金子って駅もすごいです。駅というより停車場♪ 走っているのは通勤電車ではなくて旅客列車♪
未来にネガティブな影響を与えるのは嫌なので、公開はしない。でも万が一当たったときに「後知恵バイアス」のレッテルを貼られるのも嫌なので、今の段階で書くだけは書いておこう、どこかにこっそりと。
面白い。オリジナルの「再現・演出・模倣」でない引用って、まさに、この本に掲載されている佐々木正人氏論文の世界だ。あるいは、こちらかな?
木を倒す。
私はおだてられると勘違いの方向に突っ走る可能性が高いので、私をおだてて仕事をさせようとするのはやめた方がいいと思います。
次の紀要論文ではスウェーデン語とマケドニア語の例文を同じページに出す予定なんだけど、印刷所のフォントは大丈夫かしら。TeXだと全然苦労無いんだけど。
「伝聞(hearsay)」と「推定(inference from result)」はちゃんと分けて記述してほしいの>諸家。
現代文化学部のホームページはもっと根本的に作り替えてほしいの。新カリも固まったから科目一覧とかは書き換えなきゃいけないし、「比較文化って何?」のとなりには「心理学って何?」みたいなのも必要だし、派遣留学のこととかウィーン大学のこととか教育実習の話とかも加えて、それから学生相談室とかオリキャンとかは一学部だけの問題ではないから、全体のトップページから…
と書いたところで立ち往生。現代文化のホームページは「受験生とその周囲のひとびと」にターゲットを絞って作ってあるんだけど、全学のページはそういうターゲットの絞り方をしてないのよねん。てゆうかそもそもターゲットを絞ってはいけないのかもしれないけど。となると、現代文化学部ホームページの情報のうち、全学に関係する部分を移そうとすると…そう、行き場がないのです、現状では。ぐったり。
心理学のイントロを私に書かせるのは、いくらなんでも無謀でしょう。
それから私がやると、文字ばっかりのテキスト派ホームページになってしまう。大学の広報のページにはちゃんとした文字情報が必要だというのはもちろんそうなんだけど、でも今みたいに文字ばかりではまずいでしょう。
というわけで、誰かやって。
いえ、「かってに宣伝」のつもり。営業の方ではとっくに宣伝はじめてるわけだしぃ。
紀要論文で使う図は、電子ファイルで提出するのではなくて、私の自宅のプリンターで打ち出したハードコピーをそのまま版下として使ってもらうのが一番楽で、なおかつ一番きれいかもしれない、という実も蓋もない結論に到達してしまった私。
貧弱な環境で使用可能な手持ちのソフトで電子ファイルを作るという、涙ぐましい努力のわりには成果が上がらないやり方より、かる〜くやっつけて成果も上々、という方がいいみたい、やっぱり。問題は、「よく分からないけどとにかく何かやったぞ」という達成感より、とにかく仕上がり。
マケドニア語の「不定過去形」(実質完了形)についてのフリードマン氏の解説には賢さを感じました。
77パーセント。
私と大阪の繋がりは「阪神タイガースのファンである」という一点だけなのだが(つまり、もともと大阪とは縁もゆかりもない人間がある年突然阪神タイガースのファンを始めてしまったわけなのだ)、阪神タイガースに関する質問がひとつもないのにこんなに高い数字が出るとは。てゆうかなんで生っ粋の大阪人より高いの。あ・や・し・げ。
あむろさんの歌の「Never End」がどうしても「ね〜むれ〜、眠れ」と聞こえてしまうとっても空耳な私。
このホームページの監修者に今日会ったのだが、この話をするのをすっかり忘れてしまった。
背景とテキストの文字が同じ色というのは、私にはとってもしんどいです。
目の弱い人は見捨てられてるのかな。
せっかくの月蝕がぁ… でもがんばって見たけど。でもやっぱりきれいには見えなかった。
裏の中古自動車屋の電気が明々と、22時までついてやんの。暴力的。
貴方は貴方であって私ではないのだから、私が貴方だったとしてもそれは私が私ではなくて貴方であるということでしかない。だから私が貴方だったとしても、それは「私は存在せず、貴方だけが存在して、なおかつ貴方が貴方である」ということと変わりないのかもしれない。だから私が貴方だったとしても、貴方にとっての世界の見え方は私には分からない(私は存在しない)だろうし、私にとっての世界の見え方も貴方には分からない(貴方は私ではない)。
にもかからわず、If I were youという表現は成立する。これは、レイコフと野矢茂樹の世界。そしてこれはまた、1991年頃からしばしば私を襲う、迷想。
さあ死ぬのは誰?
さあ死ぬのは誰?
ニュートンなんぞには発見されてやらなかったに違いない?
ぼくは昔はintertextualityを「間テクスト性」と訳すのはよくないと思っていました。だって意味不明なんだもん。それからこれとは全然関係ないけど、寺村の「外の関係」という術語もいいとは思っていませんでした。寺村氏自身は「外」と呼ぶ理由をどこかに書いていたような気がしますが、でも、どんな理由だったか、忘れてしまった。で、忘れてしまったあとで「外」という語を見ると、やはり意味不明です。だからこんなの駄目、と思っていました。
でも最近になって考えが変わってきました。これらは、意味不明だからいいんです。意味不明だからこそ、新しい意味づけを提案できるのです。
「「経済」という言葉は「経世済民」という言葉を略して作った言葉なんだよ」と訳知り顔で教えてくれる人がたまにいるけど、そういう人に対して「その「経世済民」ってどういう意味なんですか?」と聞くと「それは「経済」のことさ」と言われそうな気がする。「「経世済民」って「経世」+「済民」っぽいけど、いったい「経世」って何?「済民」って何?」という疑問に答えてくれた人は…
いるんだけど、ぼくが忘れてるだけ、というのが真相なんでしょうね、きっと。経済学部の先生方はどう教えてるんだろう。
某大学大学院言語文化研究科のサイト。「基本図書紹介」のページを開くと「JAVAを起動しています」というメッセージとともにしばらく待たされた挙げ句、いきなり音楽が鳴り出す。
あんなもんいらない。
午前の非常勤。4年生で教職の単位が足りないからこの授業を登録させてください、と先週になって突然言ってきた学生に対してぼくが吐いた言葉。案の定その学生は思いっきり渋い顔をしていたけど、こういうことを言ってしまうぼくってやっぱり冷たい人なのかしら?
でもさ、登録・履修することと単位がつくこととは別だって、いちいち言うまでもなく当たり前のことだとぼくは思う。しかも、「各学期の終わりに試験をします」と講義要項でしっかりうたってある授業に前期の終わりに突然現れて単位を当てにするというのは…
他の学生と同じ扱いでいきます。健闘を祈ります。
春学期が始まったばかりの頃のこと。私は木曜2限が空き時間なので、この時間に面白そうな講義科目の授業をやっている阿留ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)に授業に潜らせていただくようお願いしたら、「ぜったい駄目」と言われてしまいました。しくしく。ちなみに、私の授業に出させてほしい、と学生ではなく教員から依頼があった場合には、私も迷わず「ぜったい駄目」と言うと思います。特に同僚に見られるのはいや。
よその学部では、一部教員の間で「相互参観をやろう」という話が出たらしいのですが、実現したかどうかは不明。私の授業は公開しなくてよくて、ただ一方的に見学させていただくだけでよければ、参加させていただきたい、と思った私でした。
結局この、「趣旨には賛成。人の授業を見せてもらうのはいい。だけど自分の授業はちょっと」って奴、これが一番の問題なんだと思います。
専任教員は非常勤教員の授業を参観する権利があって、その参観レポートを翌年以降雇用を継続するかどうかを決めるための参考資料にしてよいようにする、ってのはあまりに暴力的すぎるかしら。
てゆうかそうなると参観レポートを書くのがものすごくいやな仕事になるなあ。
アルクの通信販売で英語の勉強のためのツールをたくさん注文してしまいました。
木曜日の朝、会う人が誰も彼も「今朝は暑いですねえ」と言う。「?」と沈黙を返す私。実はこの日は朝一限から授業があるにもかかわらず起きた後風呂に入ってそれから来たのだった。
(てゆうか前の晩風呂に入る元気もなく寝てしまったのだ。)
おかげで暑さを感じなかった私。そのおかげで人様の不興を買っていたらしい私。しかもお間抜けなことに、私自身それなりに汗をかいていたらしいんだけど、気づいていなかったらしい、お馬鹿な変温動物な私。
先週、雷で臨時休講になった日は、実は春学期最終週の前週でした。これはどういうことかというと、「来週授業内試験をやるからこことこことこことこことここ、しっかり勉強してきてね」という予告をすべき日が休講になったのでした。あるいは人によっては、「今年のこの授業でいっちばん言いたかったことはこれなのです!」と強く訴える予定だった日が消滅してしまったのでした。そういう予告や訴えをする日が消えて、突然13日に試験をしなければならないなんて、困っちゃいます。とにかく何か手を打たなければ行けません。そこで教員たちは試験の範囲を掲示で知らせるとか、13日は前半を授業にして後半を試験にするとか、いろいろと工夫なさっていました。
なのですが私は13日に予定していた試験は延期してもらって(←最大の問題は日程の確保)、13日は通常授業としました。めでたしめでたし。後になってそれを知った阿留ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)が、「何で本多さんだけそんなことが許されるのですか!?」と、ご立腹の様子でした。
ふっふっふ。普段いい加減に過ごしている私がなぜいつもいい加減にしているかというと、「まじめに授業をする権利」をこういういざという時に行使するために取っておくことにしているからなのです、はい。(って本当か?)
ぼくは実質的には変温動物だと思うのですが、見た目は哺乳類なので、一応汗をかきます。炎天下をものの10分も歩くと、溶けちゃいそうになります。仕方がないから顔とか首とかをハンカチでふきまくります。あまりにびろびろ出つづけるので、そのうち出た瞬間の汗を間髪入れずに拭くようになります。するとまだ汗が熱いんです。熱いままの汗を拭くってことは、汗が体温を下げる機能を果たす前に拭くってことです。すると体温が下がらないから、ますます汗が出ます。悪循環です。でも拭かなかったら拭かなかったで、びしょびしょになります。湿度が高いから、すぱっと蒸発してくれないんです。それに、出た瞬間に拭こうが拭くまいが、拭けないところの汗は出続けるわけです。とにかく最悪です。そんな感じで、今日の研究室から郵便局への往復はびっちゃびっちゃでした。
研究室に戻ると、今度は冷房がかかってます。しばらくいると、さすがの暑がりのぼくも、体温が落ち着いてきます。てゆうかぼくは周りの温度が下がれば体温も下がるのです。落ち着くというよりは、下がるのです。しょせん一介の変温動物ですから。
ところで、室温と体温が下がったとき、さっきびっちゃびっちゃになるくらい出た汗はどうなるのでしょう。
冷房がかかっていて室温が低いので、汗の温度も下がります。まあそれはいいでしょう。問題は、温度というものは下がりすぎるものだということです。さっきあれほど生ぬるかった下着が、今度は冷たくなってきます。そして問題はそれだけではありません。冷房がかかっているので、部屋の空気は乾燥しています。そこで、汗は冷たくなるばかりではなくどんどん蒸発していきます。水分が蒸発するときには、熱が奪われます。でも、すべての汗が一瞬のうちに蒸発しきってしまうわけではありません。当然、残る汗があるわけです。その残った汗は、蒸発していく汗に熱を奪われて、どんどん温度を下げていくわけです。
ということで、しばらくはびちゃびちゃのまま、温度が下がりすぎるわけです。昼食のときに食堂に行くのに一瞬炎天下に出ると、なぜかほっとします。さっきまであれほど憎らしかったあの太陽が。
でもそこでほっとして油断してはいけないのが変温動物の変温動物たるゆえんなのです。
「ぼくは変温動物なんですよ〜」と言ったら、「変温動物って便利でいいですね。寒いときには冬眠とかできるし」と言われてしまった。どうやら冗談だと思われてしまったらしい。あの〜、全然冗談じゃないんですけどぉ。
冬場は手がかじかんで、小学校のときなんて1時間目は字もまともに書けなかったんですよ。夏は夏で、中学の部活の後ぼく一人がびろびろになっていた記憶がある。
先日某私鉄線の某駅にて。長谷川初範風の濃いめの顔の年齢不詳の長身の駅員が目立たないように帽子をかぶらず手にもって、全面禁煙のホームの端をふらふらしていました。一瞬それはただの一利用客ではないかと思わせるような雰囲気だったのですが、でも下半身は駅員の制服そのもの。だからきっと駅員。その人はジュースの自動販売機の陰でたばこを吸い終わると、その場に捨てて足で踏みつけて消して、おもむろにホームの向こう側にいる別の駅員のところに行き、何食わぬ顔で打ち合わせを始めたのでした。
見たくないものを見てしまった。
仕事以外の疲労の元は全て断ちきる。
なにより。
英作文の授業の前回の課題は「自分史」でした。その文章は授業中に書きはじめてもらったのですが、終わらなかったら宿題、ということにしてありました。「史」とはいっても教科書のお手本で取り上げられていたのが「生まれたときのこと」だったので、学生もそのときのことを中心に書きました。そしてそこで書くことになっていた項目の中に「あなたと初めて対面したとき、お父さんは何と言いましたか」(←何でお母さんじゃなくてお父さんなんだろう、と今更のように疑問に思ったり)というのがありました。う〜ん、普通そんなの知らないよねえ。
前世の記憶がある人はたまにいるらしいけど新生児のときのことについての言語的な記憶がある人がいるとは思えない。だからかりに自分の目の前で父さんが何か言ったとしても、それを覚えてはいないはず。ある程度成長したときに親御さんから「あの時お母さん/お父さんはこんな風に言ったんだよ」という話を聞いたことがある人はいるかもしれないけど(←Neisserのextended selfの世界かしらん?)、でも聞いたことがあるというのとそれを大人になった今も覚えているかどうかとはまた別の問題。
ということで学生としては何を書いていいか迷うわけです、きっと。なので私は例によって「適当に想像して書いていいよ」「こういう風に言ってほしかった、ってのでもいいよ」とか何とか口走っていたのでした。
実際にはほとんどの学生が授業中には書き終わらずに宿題になりました。それで中には家で親御さんに聞いて書いた人もいたかもしれません。いなかったかもしれません。子どもに赤ちゃん時代の頃の話をするのは親としては楽しいことのようなので、親御さんにしてみれば聞かれて悪い気はしなかったのではないでしょうか。まあぼくにとっては聞こうが聞くまいがどちらでも構わないのですが(と最後は冷たく突き放してまとめるあくまでも鬼畜な私)。
そしてその次の課題は何と、私、というか担当教員について。私についてのキーワードをもとに誰かに私を紹介する文章を書いて下さいというもの。キーワードの中にはたとえば``The Hanshin Tigers''、``Surugadai University''、``Oita Prefecture''、``By train and bus''などというものがある。で、それぞれのキーワードが実際の私に関して何を意味するかは学生に伝えてあるので、それに基づいて書いてくれてもいいんだけれども、それに縛られずに書いてくれてもいいということにした。それはどういうことかというと、「彼は駿河台大学に勤めているのだけれども住んでるところは大分県で、そこから電車とバスで通っているのでいつも遅刻ばかりしている大馬鹿者です」みたいに書いてもいいよ、ということである。それから黒板にはお手本として``He belonged to the Hanshin Tigers when he was young. He was a very good player.''とか書いたりもした。何でそんなことをするかというと、ただ単に受け狙いなのである英語の表現力をつけるという観点から言うと、内容が事実に合っているかどうかを気にするよりも、自由に想像力を働かせて、その想像に合った表現を自分で調べて書くようにした方がいいからである。
で実際そういう感じの受け狙いの多様な表現を使った文章を書いてくれる人がどれくらいいるかというと、それは9月になってみないと分からないのであった。もう春学期の授業はおしまいなのである。
↑こういうことをやってるから私はいつまでたっても動くおもちゃから昇格できないのである。自業自得。
停電で休講になった日も会議があったため大学にきた某ぢょきょ〜ぢゅが休講と分かっていたはずなのになぜか大学にきた一部学生たちと屋外で青空授業をやっていたという話を聞いて、学ぶことを楽しむ姿勢に打たれる私。(実はもっと下世話な事情があった可能性もあるのだけれども、それは考えないことにしよう。)
その頃、私は研究室で泥縄方式で睡眠不足対策を実行していました。って、要するにうたた寝していたのだけれども。いずれにしても、ものすごい落差なのである。
停電の次は台風ですか。
朝7時過ぎに教員に休講の連絡を入れるということは事務局の人は5時台かどんなに遅くとも6時台には動いていたわけで。もしかしたら徹夜の人もいたかも。ぐったり。
昨日の雷は大学に電気をひきこむ送電線のどこかに落ちたらしい。おかげさまで本日6日木曜日も自家発電以外電気は使えず、授業は終日全面休講。1限の準備ができるようにいつもの通り早く家を出たぼくがそのことを知ったのは、元加治で電車を降りて駅を出て、たむろしている学生の向こうに立て看板持って立っている教務課学生課(2000/8/8 2:2)の御出井場氏(仮名)を見たとき。確かに駅で、いつも一緒になるぢょきょ〜ぢゅがいないなあとか、今日はやけに学生が少ないなあとか、思ったんだけど、昨日の影響がここまで深刻に残っているとは思わなかったのです私は。ちなみに授業がある教員には教務課から電話がいったのだが、何しろ木曜日のぼくは家を出るのが早いので、間に合わなかった模様。
授業はなかったけど、午後からの会議はありそ〜だったので大学には行ったのでした。いつものようにスクールバスに乗って、いつも一緒になるきょ〜ぢゅといつもと違う話をしながら。ぐったり。
研究室に着いた後、建物内の某所からふと外を見ると作業しているひとびとが。へえ、あんなところで、とか思ったり。
で、実際会議はありました。合計5時間弱。またまたぐったり。
メールはまだ使えません2000/7/7 1:31現在使えています。22時過ぎにチェックしたときにはまだ使えてなかったので、夜を徹する覚悟で作業を進めたに違いない。お疲れさま。
鯖が腐っていた間に届いたメールはリジェクトされずにどこかに留め置かれていた模様。まとめて届いた中には、「今ごろ来てもらっても」って感じのもあって。
というか返事を書かなければ。
学生が作っているMLに流れた噂が学生の日記に紹介されていて、それによると「メディアセンターに落ちた」ということになっているらしい。ぼくが聞いた話と違うぞ。
3日に悪口書いたからって今日になって大学周辺を停電にしなくったっていいぢゃん。
まあ大学は自家発電で君に対抗できるから完全に機能停止にはならないのだけれども…
メールの読み書き、できません。う〜。
寝坊した。タクシーで出勤。
現代文化の学生からは動くおもちゃとしてしか見られていないような気がする。
今日も食堂に行くときによろよろしていたら1年生と4年生に励まされてしまった(二人が知り合いかどうかはわからない。とにかく全然別々に。)し、授業中に誇らしげな態度で「分かりません」という学生を怒ろうとして顔を見たら吹き出してしまったし。
まあ、いいわ。学生から弟分として面倒見てもらうのも幸せな教師生活かもしれないし。
周りの人と較べて一喜一憂するのはぼくの個人的な趣味としてはあまり好きではないのだけれども、でもそれが「次はがんばるぞ」みたいな動機付けの一つになるのであれば、それもいいかな、と思ったり。
栄養不良っぽい。あとばててるのもある。
午前中の非常勤。控え室、ってゆうか研究室事務室は冷房あるんだけど、そんなに強くなくて、おまけにぎりぎりの電車で行ったので5分くらいしかいられず。教室はクーラー無し。授業中、窓から手だしてハンカチ絞りながら学生の発表を聞いていましたとさ。失礼な変温動物教員。
午後の非常勤。ゼウスだか何だか忘れたが(←英語教師としての最低レベルの教養も怪しい私)、人が一生懸命喋ってるときに怒り狂わなくてもいいやん。
ぼくが外を出歩いているときでなかったのは、ぼく的にはよかったんだけれども。
いろいろな人に、あっちでもこっちでもそっちでも、いろいろと気を遣わせながら。
「迷惑かけ過ぎではないか」と思いつつ、でも感謝もしつつ。
誰かが鏡を差し出してくれたのを何気なく覗き込んだら、そこにはとっても腹黒い私がいましたぁ! って感じ。
てゆうか、読む人が読んだら、「腹黒いというよりは、単なる不勉強」ってことになるのかな。あるいは、「腹黒いだけでなく…」かな。
ま、いいわ。
6月30日に、現代文化学部の某1年生がしてきた質問。
教員の、授業でもなくまして試験でもなく、研究について質問してくる学生。つまり、教員を教師としてではなくけんきう者としてみる学生。うちの学部にはこういう学生がいるのだ。しかも1年生の中に。
某所でたまに、「本多さんは頭がいい」とか「本多さんは有能」とか言われることがある。「う〜ん、いやみ!?」と思っていたのだが、最近、あることに気がついた。「頭がいい」とか「有能」とか言われるのは、ぼくが会議などで戦闘的な態度を取ったあとに限られている、ということだ。
う〜ん、戦闘的であることと有能であることとは全然違うんですけどねえ。普段脱力してへれへれって感じで生きているから、たまに元気になると目立つのかしら。