新雑記(1999年7月)

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最終更新 1999/7/28 1:46

7/27

いろいろな英語たち

``adjective''を``aぜctive''と発音する某外国人、``domain''を``民''と言う某外国人、やたら早口なくせにやたら聞き取りやすい喋りのnative speakerらしき人、緊張のあまり直立不動になって、``order''を``erder''みたいに発音する某日本人、にこにこ顔で踊りながら日本人発音で軽快に喋り続ける某日本人。

(踊りながら、ってのはそんなに大げさな表現ではないと思う。そして、リズムがちゃんと英語風になっていたおかげで、大胆な発音にも関わらずちゃんと英語らしく聞こえていたのであった。)

今年の認知科学会はいろんな英語が飛び交っています。日本人の発音だからといって聞き取りやすいわけでは必ずしもないというところが面白い。


7/24

何が悲しくて土曜の午後から出勤してんだか

社会言語科学会の年次大会一日目もあったんだけどなあ。ことわりゃよかったなあ。

ということで、某総合科目の定期試験の監督。他学部と共通の科目なのでやたら受講者が多く、200数名。実際の受験者は183名(←ちゃんと覚えてる。えらい)。

それを4人で監督。科目担当者に一任のお気楽な授業内試験とは違っていろいろと細かな仕事があるのだが、うちの学部は新設3年目で人の出入りがないので動き方を知っている人ばかり。おまけに今回は(比較的)若い人ばかりだったので「坐っているだけで何もしない」という人もなし。ということで、4人ともまじめにてきぱきと働いていましたとさ。

あのチームワークの良さを一言で表現するならば、それは、まるで

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

倦怠期?

焦ることもドキドキすることもイライラすることもなく、淡々と。

安定していてトラブルもなくて、一人の人間に仕事が集中することもなくて、とってもいい状態ではあったんだけど。

 

 

法学部所属だった頃の話

法律の専門科目の試験のとき、質問を受け付けにきた科目担当者(非常勤)を遅刻して来た学生と勘違いして追い払いそうになった無礼な若造は、私でした。

「やけにおっさんくさい学生だなあ」とは思ったんだけどね。でもたまに年齢不詳の学生もいるだよね。それに遅刻してくる学生って、実際けっこういるし、そのときもいたから、そんな中の極端な一人かと思ってしまったのでした。


7/21

『北斗の拳』

日本語の「ている」は本当に英語のbe 〜ingに対応するものなのだろうかという疑問をぼくがはじめて持ったのは今から10数年前、『北斗の拳』というアニメが大流行していた頃だった。例の

お前はすでに死んでいる

という決め台詞を英語にしたい場合、はたして

You are already dying.

とやっていいのだろうか、と当時のぼくは微妙に疑問に思ったのであった。微妙にしか思わなかったというところが、あの頃のぼくの限界だったわけだが。

英語の進行形について「分かった!」と思えるようになったのは大学院に入って友澤さんの進行形論を読んだとき。

それでも最初読んだときは何がなんだかわけ分からなかった。しようがないから引用されていたLangackerの論文を読んで、そのあとでもう一度友澤さんの論文を読み直したら、「これは凄い!」と思ったのであった。その評価は今でも変わっていない。

日本語の「ている」については、今持ってるような考え方にたどり着いたのは博士課程の頃だったか。身近なところで言語学やってる人にもあまりまとまった形では話していなかったと思うのだが、去年からやりはじめた科目では、取り上げている。今年になって方言のデータを見て、「あ、これでよかったんだ」という感じ。

 

 

というわけで今日も

引き続き、後期の授業で使うアスペクト論の教材づくり。友澤さん説を図で表現するためにtpic specialsでお絵描き。まるで拷問。この苦しみ、分かってくれる人、いないだろうなあ。

(tpic specialsというのはTeXの拡張コマンド。これを知っている人は友澤さん説を知らないはずで、逆に友澤さん説を知っている人はtpic specialsなんて知らないはずなのだ。)

とにもかくにも仕上げた。ついでといってはなんだが、完了形の絵も描いた。

英語がらみの授業でアスペクトをやるとなると、まずさらっとVendlerの4分類に触れた後、あとは延々と進行と完了の話をすることになる。

ところで、進行と完了の話をするということはBE・HAVE・〜ing・過去分詞の4つと戯れることなのだが、実はこれらの要素で表現できるのは進行と完了だけではない。そう、お分かりの方も多いとは思うが、受け身の話がからんでくる。ドイツ語なんて「BE+過去分詞」が自動詞の場合には完了になって他動詞の場合は状態受動なんてのになる。という具合に気がつけば英語以外の言語が乱入していたりする。

それから、完了といえばやっぱり古典語の「けり」の話をしなければならないことに決まっているのだが、

(「だれが決めたそんなこと!」なんて言わないこと。ぼくが決めたのよ〜ん。)

「けり」の話をしだすと詠嘆だの伝聞だのといったmodalないしevidentialな意味がからんでくる。どうすんのこれ。

さらに、現代日本語の方言のアスペクト(ここでも何度か騒いでるあれ)だの現代日本語の共通語のアスペクトだの北欧諸語(これも騒いだ記憶あり)だのバルカン諸語だのトルコ語だのを絡ませたりしたら…

見事に収拾がつかなくなるのであった。

でも、普通にやったら到底つくはずがない収拾というやつを今回は強引につけてしまおうというのが今年の授業の方針。今言ったようなデータを、一見整理されているかのように見える形で提示してまず学生諸氏を思いっきり混乱・絶望させ、しかる後にそれらをほんとに明快に理解できるような枠組みを提示したい、という無謀なことを今考えているわけだが…

非常勤先の学生の皆さん、一緒に迷宮をさまよいましょう。

本務校ではもっと穏便に済ませる予定。でも方言の話はすると思うけど。

 

 

便所の壁

そういえば昔は、「emailに書くことはプリントアウトして便所の壁に張り出されても構わないようなことだけにしなさい」と言われていたように記憶している。

最近ではラブレターをメールでやり取りすることを奨励するようなコマーシャルもあったりして、「それって危なくないか」と思ったりもする。

ラブラブな内容をメールでやり取りしていたのを盗読されて、とんでもないセクハラにあったらしい人を知っている。どうやら以前「毎日の記録」で言われていたようなこと(済みません読み直してません。うろ覚えで書いてます)と似たような事情だったらしい。

(「らしい」の繰り返しがいかにもアヤシゲではあるが、ことの性格上、ぼくなんかには本当のところは分からないのであった。ちなみにネットで知り合った人ではない。念のため。)

7/20

ディオファントスの生涯

提示された二つの解き方 (7/18) を見て、思う。

第二の、年齢をnとして方程式をたてて解く方法には、次のような特徴がある。

それに対して第一の、方程式を使わない方法は、と言うと、

そしてさらに突っ走るならば、「つまるところその年齢は、6,12,7で割り切れる数だということが,問題の言いたいことだと思います」の6、12、7でさえ、仮説をつくる上で3つとも全部必要というわけではない。たとえば6と7だけ使うことにするという選択もありうる。この2つの数値から、42、84、…という数が仮説として出てくる。

これに対しては

「二つ以上仮説ができてしまったら、今度はどれが正しいか検証する必要が出てくるではないか」

というコメントが出されるかもしれないが、これは的を射ているとは言えない。6、12、7の3つから導き出される84だって、検証が必要なのは同じこと。『パラティーナ詞華集』とかいう得体の知れない(?)文献にしか出てこないこの人、もしかしたら168まで生きた仙人のような人だったかもしれないじゃないですか。

んで、言わずもがなのコメントをつけておくと、けんきう職にあるひとびと(てゆうか、創造的と言えるような研究ができるひとびと)がやってることは、第一の、方程式を使わない方のやり方に近い。

つまり、問題解決に必要な全事実があらかじめ与えられているということはまずない。当初は考えもしなかった意外な要因が重要な役割を果たしているということに、ある日突然思い当たったりもする。一通り説明ができあがったあとで新しい事実が発見されることもよくある

(「この説明が正しいとするとこういうことが事実として成立するはずで…」といういわゆる「予測」のかたちで)

ことだし(というかそれがない説明は面白くないかも)。

一方、第二の、方程式を使うやり方というのは,対象の全体像があらかじめ分かっていると思える場合にしか使えない。あらかじめ他の人が切り開いてくれていて「この道を行っておけばとりあえず安全」と分かっている道をあとから行くような場合には有効だろうけど、新しい問題に対して「手探り」的な感じで取り組む場合は、無力だ。

ってなわけで、ぼくは子供の頃「方程式ってのは何でも解ける素晴らしいものだ」という価値観を植え付けられた記憶がある(親類某から)のだけれども、ある時期から「そんなのつまらないじゃん」という方向に転換したのであった。

んでもって、この問題でははっきり出てこない点として、次のようなものもある。

あらかじめ与えられた部分的な諸事実のうちのどれを基本的なものと見なして仮説構築の基盤とするかによって、出てくる「答え」が全く違うものになる、ということがありうる。

ディオファントスの問題の場合、答えとして求められているのは数値なので、そこに至るまでの理屈はどうでもいいと言ってしまうこともできなくはないのだけれども、理論的な研究の場合には、理屈の違いは決定的である。そして、何を基本的な事実と見なすかによって、出てくる理屈が全く違うことがありうるわけだ。

これの例として英語のbe going toの説明を挙げることができると思うのだが、詳しい解説はめんど臭いのでやめる。

(というか8年前にやった研究の宣伝を今ここでやるというのも悲しいものがあったりするのだ。)

誤解のないように付け加えておくと

このディオファントスの問題を第二の、方程式を使うやり方で解いた人が創造的な研究に向いていないというわけではない。それぞれの研究分野でそれぞれに力を発揮できればいいだけのこと。

今日の、これ↑

これだけ書くのになにげに12時間かかっている。自分の頭の悪さに辟易というか絶望。(もちろん、間に他のこともやってはいたんだけれども。)


7/19

ごめんなさい。

研究室のコンピュータにはアクセスできません。メールも使えません。

停止期間:7月19日(月) 17:00 〜 7月21日(水) 10:00

 

 

「多様化」の意味

学内の半公式的な集まりで「長」がつく人が「学生の多様化」というときの「多様化」と同じような意味だと思っていただければ、まず間違いありません。

って説明になってない?

少なくとも「研究テーマの多様化」でないことだけは確か。

 

 

発表資料

認知言語学フォーラムのことをぼんやりと考えながら、発表資料についてふと思う。

大量のコピーを京都まで運ぶのはかったるい。現地でコピーするのは気ぜわいし、コピーできる場所がうまく見つかるかどうかも問題。

(知ってる人はいくらでもいるはずだから聞けばいいという話もあるが。)

それに、足りなかったり多すぎたりする可能性もある。

そこで思い付いたのが

というまったくもって自己中心的なやりかた。

でもほんとにやりかねないところがぼくの凄さなのであった。メールが復活したら、主催者に問い合わせてみよう。


7/18

第2回認知言語学フォーラム

プログラムが届いた。「できるだけ多くの方に、以下のプログラムをメール等で教えていただければ幸いです」ということなのだけれども、日記ページに書いてもうざいので、研究室に置きます。

発表者に関しては、「多様化」といういささか政治的な匂いのする言葉がふさわしい状況のようです。「多様化」しているのは大学入学者だけではないのであった。

多様化のおかげでぼくに発表の順番が回ってきたという噂もあるのだけれど。

 

 

温故知新

宇和島方言のデータの整理がほぼ終わったところで、英語のデータ整理に入る。安直にGreenbaum and Quirkや大江三郎氏の本などから検討に入るが、

(「安直に」というのは「部屋の中の、比較的見つかりやすい部分にある文献から見始めるぼくの態度」についてのコメントであって、これらの文献の記述の質についてのコメントではない、のだが、)

やっぱり、昔(というのはここでは1990年前後のこと)コピーした論文たちを参照したくなってきたので、発掘作業にかかることを決意。

決意しなければいけない、というのがぼくの部屋の凄いところなのです。

 

 

発掘作業に備えて

まずやらなければならないのが、見つかった論文の当面の置き場の確保。そのためには、部屋の整理をしなければどうにもならない。

そのためには、この数ヶ月の間に入手してほっぽってある論文コピーや本などの整理をしなければならない。

そのためには、文献データのファイル(.bib)の整備に力を注がなければならない。何もせずに目の届かないところにおいてしまったら忘却のかなたに消え去ってしまうのだ。

どうやら、道は遠いらしい。

 

 

『「わかる」のしくみ』について

んなわけで部屋の整理などしていたら、新曜社のパンフレットが見つかった。とりあえず無断引用させてもらうと、こんなふうに書いてある。

最近の書評・記事から

「マゴの手」は「孫の手」と思い込んでいたが、実は「麻姑(中国伝説の仙女)の手」なのである。「わかったつもり」が、どれだけ学習の妨げになるかを気づかせ、そこからの脱出法を、現職の教師による国語の文章理解のための研究会の成果をもとに、具体的に示している。●読売新聞/97.8.3より

この本、ついこの間読んだばかりなのだが、「マゴの手」を「孫の手」と思い込むことがどれだけ学習の妨げになるか、については、何が書いてあったか全然覚えていない。

物忘れのよい私。


7/16

夏休み

小学校の頃、「夏体み」と書く人がたまにいた。

 

 

宇和島方言と周防大島方言のデータ

論文に載っている例文を入力した。

実はスキャナーもOCRソフトも持ってないので、手作業で入力。IMEは方言対応ではないので(当たり前か)、異様に時間がかかった。

ちなみに、このまえ

「周防大島方言のデータ(といっても論文にまとめられたもの)…でも、宇和島方言の文献では出会えなかった実に興味深い例文に出会えて」

と書いたのは勘違いで、肝心なことはすべて宇和島方言の文献に書いてあった。

このデータをちゃんとした形で提示できれば、共通語の文法と、それから英語の文法について、かなり面白い話ができるはずなのだ。

(ドイツ語やらスウェーデン語やらでも本当は同じだと思うのだが、こちらに関しては…前にもちらっと書いたけど…信頼できる資料が見つかっていないのであった。)

ただし、東日本出身の学生には理解できない授業になる可能性もあるのだけれど。

 

 

阪神タイガース

気のせいか、なんだか少しずつ定位置に戻りつつあるような…


7/14

溶けることすらままならない朝

今日みたいな日は汗が蒸発しない。最悪。大学にたどり着くだけでへろへろ。

 

 

雨の馬鹿

「降るな」とは言わない。

ぼくが外に出なければならないときには、たいてい降っていて、ぼくが教室内に閉じ込めらているときには、なぜかお日様にこにこだったりするのはなぜだ。せめて逆にしてほしい。それくらい気ぃ使えよなあ。

 

 

昼食時

愛媛出身の教員と方言談義。「こういう言い方ありますよね?」というのがばっちり当たって、なかなか良い感じ。一緒にいた千葉県人(でしたっけ?)は言葉の感覚が鋭い人なのだが、方言助動詞(っぽい要素)の意味の話になるとさすがに直観が働かないらしく、「???」という感じだった。

 

 

ふと我に返ると

今のぼくはarmchair linguistモード全開なのだが。ま、いいか。フィールドワークやってる暇はないのだ。

前も書いたが、ぼくにできるフィールドワークといったら、大分県在住の親類にテープレコーダー持ってもらってずうっと録音しつづけることくらいか。

実際にやったことはないけど。

 

 

努力主義、意図主義、あるいは結果無責任主義のキーワードたち

「せっかく」「自分なりに」「…するつもりはなかった」「わざとじゃないもん!」

極めつけは例の「何度起こしても全然起きない」みたいな奴。日本語ではさらっと通じてしまうけど、英語に直訳すると(たぶん)矛盾した文になってしまうのだ。I tried to ... みたいにしないとだめ。

「がんばる」もこのコンテクストで考えられるかも。

英語は日本語に較べて結果主義的な雰囲気が強いように思うのだが、でも英語の教員の中にも(自覚のない)努力主義者はいるわけで。これも、異文化を学ぶことが必ずしも自分の文化の見直しにながるわけではない、ということの例だったりするのです。これはいつかのゲーテの言葉の話にもつながるのだけれども。

たとえば、「努力しないのに(あるいは努力しているようには見えないのに)どんどん成果が上がる人」と「成果は上がってないけど、一生懸命頑張っている人」では、どちらに好感を持ちますか?

たとえば、一本足打法誕生秘話でひとびとを感動させた(?)王貞治と「オレ流」を通そうとした落合博満とでは、どちらに好感を持ちますか?

 

 

認知意味論による、エスペラントの再検討

誰かやらないかしら。おそらくは国際語の可能性を理論的に問い直すような研究になると思うのだが。


7/13

星には夜があり、そして…

小学校高学年だか中学だったか、とにかくそれくらいの時期にテレビでやってた『はじめ人間ギャ〜トルズ』の終わりの歌。「…星が一つ、暗い宇宙に生まれた。星には夜があり、そして朝が訪れた…」というやつ。

「宇宙に星が一つしかないのに、どうして朝など来るの?」という突っ込みを入れる人が周りにいたかどうかは覚えてない。仮にそういう人を見たとしたら、あの頃のぼくだったら、「遊び心の分からない奴がつまらない理屈をこねていい気になっている」と思ったのではないかという気がする。

(今のぼくだったら?

「遊びで公開している心理テストに糞まじめな突っ込みを入れるぼく自身と同レベルだ」と思うに違いない。)

実は当時のぼくにとっては、「星には夜があり」という歌詞がとても新鮮だった。この表現の背後にあるのは

星に「昼」があるのは当たり前。「昼」のあり方が、星というもののデフォールトのあり方。
「夜」というものは、特殊な存在。

という世界観である。

宇宙は光が乏しいところ(「ところ」という表現が妥当かどうか分からないが、とりあえず使う)なんだから、(今のぼくらの知覚のあり方を適用して言えば)「暗い」はずである。その状態は、「昼」と「夜」のどちらにより類似しているかというと、「夜」の方である。つまり、宇宙のデフォールトの状態は「昼」よりも「夜」に近いはずなのである。

でも、子どもというものは多分そのようには考えないんだろうと思う。小さい子どもにとっては自分の周りの世界のデフォールトの状態は「昼」であり、「夜」は特殊な時間帯だろうと思う。つまり、「星には夜があり」的な捉え方なのである。

あの頃のぼくは、自分が「星には夜があり」という表現を新鮮に感じていることに驚きつつ、「自分はもう子どもの気持ちには戻れないんだなあ」とか何とか、そういうことをしみじみと感じていたのであった。


7/12

今日も授業内試験。

これで月曜日の授業も終了。とりあえず、嬉しい。やり方を考え直さなければいけない授業が一つあるのだが、考える前にちょっと休ませて。

 

 

腰痛攻撃。

最近、足の裏の感覚がおかしい。今日は試験だったので授業中とっても暇だった。そこで、時間潰しをかねて、椅子で青竹踏みごっこをする。でもなんかあまり気持ちよくない。でもやらないよりはまし。

そんな感じで2限が終わったときのこと。一度研究室に戻り、さあ食事!と走り出したら、今度は腰に来ている。行動に支障が出るほどではないが、ちょっと変。

そういえば最近ここに書く日本語も変。

 

 

今日の収穫

行きの電車で、助動詞canについて、ある重大なことに思い当たる。何で今までこれに気づかなかったんだろう、それとも、気づいたことがあったけど忘れていたのか、あるいは誰かがどこかで言ってたのを見たことがあるんだけど、忘れていたのか、という、いつものパターン。まあいいわ。これは後期の授業に反映される予定。ということで、去年の授業で明らかに話がつながってなかったところ

(その授業と全然関係ない学生でも配布資料をさらっと見ただけで簡単に気づてしまったようなこと。もちろん自分でも気づいていて、授業中にその旨伝えた。)

が今年はつながる見込み。

某所への移動の電車で、周防大島方言のデータ(といっても論文にまとめられたもの)を見る。「こういう方言にはこういう現象があるだろうな」という予想がぴたっと当たって、ご機嫌真っ直ぐ。と言っても実は宇和島方言にもあることだったりするんだけど。でも、宇和島方言の文献では出会えなかった実に興味深い例文に出会えて、とっても嬉しい。これも後期の授業で扱う。休み中にデータの整理しなければ。

 

 

カセットテープの話続き

女子校通信のホームページによると、高校の教科書の場合、教授用資料とテープは有料らしい。ただし高校の場合、支払うのは教員個人ではなくて学校だが。

 

 

それから

昨日書いたテープ送りわすれの出版社は、採用した教員の自宅に非常に高価なものを送り付けてくることで有名。だからこそ余計に、「そんなことしてる余裕があったら…」と思ってしまうのだ。

でもその後は来なくなったのは、連絡先を大学にしたためか。

 

 

時期はずれのマイナスかけるマイナス

中学時代の思い出。そのうち書くかも。

教師を試すとんでもないくそ餓鬼だったのだ、ぼくは。


7/11

学生の評判

非常勤先の専任教員によると、ぼくの授業は「学生の評判がものすごくいい」らしい。その人とは社交辞令を言うような関係ではないし、それに来年度はコマを増やすとか何とか言ってるくらいだから、多分本当なのだろうと思う。

で、あえてぼくの率直なコメントを言わせてもらうならば、「そんなのあたり前じゃん!」

「学生」って、要するに授業に出ている人だ。前も書いたかもしれないけど、この授業は

である。

こういう授業に来る人は好きで来てるに決まってるわけで、そういう人に評価を聞けばそこそこいい答えが返ってくるに決まっているのだ。ゲーセンでオセロやってる人に「オセロって面白い?」と聞くようなもの。オセロやる人の数とDDRやる人の数を較べたら、よく知らないけど… まあ、そういうこと。

で、問題は

ということになる。

で、実際はどうかというと…

さて、どうなんでしょ。

 

 

ちなみに

ぼくがやってるのは「言語文化論」という、名前からしていかにもうさん臭い科目。しかも、学科指定のない公開科目ということで、事実上「何でもあり」というつもりで言いたいことを喋っている。

(出鱈目を並べているということではなくて、バランスとかを気にせずに好き勝手なトピックを取り上げているということ。)

これが何とか概論とかになってしまうと、今と同じようにはいかないと思う。

 

 

出版社から宅配便

一度留守中に来たらしくて、紙が残っていた。夜遅く、また来た。こんな時間までご苦労なこったと思ったら、配達日指定になっていた。

で、その急ぎの荷物の中身は校正刷りとかではなくて、教科書を採用したお礼のお菓子。(このての物については去年も書いた気がする。)

 

 

けちで気難しい私

教科書で思い出した。外国語科目の英語の教科書を採用したのに、カセットテープを送ってくれないことががたまにある。送ってくれないのは方針ではなくて、単に忘れていたらしい。

んでもって、そういうものは早く送ってほしいから、電話かけてお願いする。すると「担当者が今いないけど、伝言しておく」みたいな返事。すると、いつまでたっても送ってこない。電話代はこっちもちなのに送ってこないとはけしからん、とだんだん腹が立ってくる。

で、次はどうするかというと、見本請求用葉書の通信欄に「重ねてお願いいたします」みたいに書いて送る。これは料金受取人払いだから、今度は通信費はあちらもち。そうすると、すぐに送ってくる。

実はこれはおそらくは通信費の問題ではなくて、文書の形で依頼するかどうかの問題なのだろうと思う。電話だと形が残らないから、出た人が伝言しわすれたらそれでおしまい。それに対して葉書のように形あるものは、いずれは担当者に回送される可能性が高い。でもこれをどうしても通信費に結び付けてしまう私は、やっぱりけちで気難しい人なのだろう。

ちなみに、ぼくらにテープをただでもらう権利が本当にあるかどうかは、また別の問題。でも のんねいてぃぶ による外国語の授業はテープなしではやはりまずい。だから、「ただではテープは送りません」というような出版社は翌年から採用が減ることを覚悟する必要があると思う。わけの分からないお礼を配るよりは、こちらを忘れずに確実にやってもらうことの方が良心的だと思う。目立たないことだろうけど。。

 

 

ちなみにそのテープ送りわすれの出版社

前非常勤でいってたところの専任の英語の教員も「あそこはいつまでたってもテープ送ってくれないんですよ」みたいに言っていた。

 

 

変なメールが来た。

一部無断引用。

はじめまして、私どもは××と申します

検索エンジンサイトでございます。

私どもは、生活に役立つホームページ、楽しいホームーページ等を求めています。

つきましては、御社(あなた)様のホームページ(URL)を登録して

戴きたくお願い申し上げます。(登録無料)

「登録無料」ってどういうことだ。何か勘違いしてないか。 登録してほしいということでお願いしてるんだったら「お礼は差し上げられませんが」みたいな書き方でいくべきじゃないか。

 

 

どこか切れちゃってるぼく

ゴミに突っかかってもしようがないのにね。


7/10

非常勤最終日

授業内試験。採点はまだ。

それにしても、最終週の土曜日とはいえ、正規の授業期間の授業時間だというのに控え室が当日の授業とは一切関係ない事情で専任教員に占拠されて、授業担当教員が小さくなっていなければならないとは、いったいどういうことなのだ。

え、普通は最後くらい休講にするだろうって? しない人はおかしいわけ? だって正規の授業期間だよ。それに、後期の初回はどうしても休まなければならないし、それ以外にも秋は休講しなければならないことがあるだろうから、今日は休めないのだ。それにそもそも、授業期間中なのに授業をやらない人を基準にして、休まずに授業をやる教員を迫害するようなことがあっていいのかいな。

その「当日の授業とは一切関係ない事情」というのは… まあ、駿河台でも似たようなことをやっているのだが、まさか非常勤の人に迷惑かけたりしてないだろうな。

 

 

この本

なかなかよい。

理論言語学の文献を相当読みこんでうまく消化して書いてる、という雰囲気。ときにLangacker風、ときにfunctionalist風。一部トンデモ本風に流れたところもあるが、ご愛敬で済ませられる程度。

おすすめ。

 

 

この本

上の本とは全く違う意味で、非常に素晴らしい。

あんな普通っぽい日本語であれだけの内容を表現してしまう能力には感嘆するばかり。それは途中に引用されてる他のひとびとの文章のわけの分からなさと較べると一層はっきりする。

超おすすめ。

一つだけ難点をあげるとするならば、やっぱりこういう本は一回読んでおしまい、というわけにはいかないのであった。相当丁寧に読んだつもりではあるけれども、でもやっぱりもう一度読まないと。でもそれだけの価値はある。

 

 

カップラーメンの魅力

子どもの頃、カップラーメンが大好きだった。体に良くないということでめったに食べさせてもらえなかったのだけれども、たまに食事がカップラーメンということになると、嬉しくてしようがなかった。ただし、いつも買う銘柄がテレビのコマーシャルで宣伝しているメジャーなのではなくて、無名のやつだったのがちょっと不満だったのだけど。でもテレビでやってるのを食べたことも、もちろんある。

あの味をおいしいとは思わなかった。というか、いつもどこかで「期待外れ」みたいな気持ちを味わっていたように思う。それでもやっぱり、カップラーメンは大好きだった。

カップラーメンは、調理らしい調理をほとんどしなくても、(いちおう)料理(らしきもの)ができあがる。子どもの頃のぼくはその不思議さというかトリックというかそういうものを楽しんでいたのだと思う。味に関して言えば、「うまくトリックに引っかけてほしい」みたいに思っていたのだと思う。さっきも書いたように、実際にうまくいったことはなかったように思うのだが。

家族が調味料を入れる順序を間違えたり、注ぐ湯の量が指示通りになっていなかったりすると、非常に不機嫌だった。これも、うまくトリックに引っかけてほしかったがため。ラーメンは綿密な計算のもとに製造されているはずであって、それは設計?者の想定通りに作らなければ、十分に味を引き出すことができないものなのではないか、と恐れていたのだ。今考えると、大した違いではなかったのだが。

で、なぜ唐突にこんな事を書き始めたかというと、自分があの頃からあまり成長していないことをさっき発見してしまったのであった。

 

 

原日出子のコマーシャル

今やってるかどうか分からないのだが、ちょっと前、原日出子がぢゅるぢゅるとカップラーメンを食べながら、「うちは親子揃ってカップラーメンのファンです」みたいなことを言うコマーシャルがあった。言うまでもなく、原日出子は「親子」の「親」の方である。

「子どもにカップラーメンを食べさせるのは悪いことではない」とあの人が本気で思っていたのなら、別に問題はない。ただ、そうでない場合、つまり「できれば子どもにはこういうものは食べさせたくない」と思っていたとしたら、あれは結構やっててつらいコマーシャルだったのではないか、と思う。

あのコマーシャルは、原日出子が別の誰かを演じるという設定ではなかった。原日出子が原日出子自身として語っている、と解釈されるような形になっていた。だから、もし「食べさせたくない」派だったとしたら、それだけ余計につらかったのではないかと思う。

でもあれも俳優としての仕事のうちなわけで。お仕事って、大変。

 

 

某月某日、研究室に来た学生が

ぼくが翻訳に関わった本を見て、一言

こりゃあ好きじゃなかったらやってらんないや

だから好きなんだっちゅうの。好きだからやってる、それだけ。

んでもって、やってることが世の中の役に立つかどうかに関しては自信ないけど、でも世の中の迷惑になることでもないだろうという気がする。迷惑になるんだったらちょっと困るけど、そうじゃないんだったら許して。

というような言い訳をしつつ、社会からちょっとだけ? 生き血を吸わせてもらって寄生している、それが人文系の研究者、かも。社会のヒモ、ね。

んでもって、繰り返しになるけど、ぼくはこれを楽しんでやってる(生き血を吸うのが楽しいわけではなくて、けんきうするのが楽しい)。で、ぼくがあなた(って誰のこと? まあいいか)に対してできることは、授業や論文を通じて、自分が思い切り楽しんでいる姿を見てもらうことだけ。

それを見たあなたが「楽しそう、自分もやってみたい」と思うかどうかはぼくには分かりません。ぼくの授業に出る人/論文を読んでくれる人が「楽しそう」だの「やってみたい」だのと思わなければならない、ということはありません。何を楽しいと思うかは人によって違うし、楽しいという気持ちを押し付けることはできないから。

でも、「楽しそう」とか「やってみようか」とか思ってくれる人がいたら、嬉しい。というか、一人もいなければその授業/論文は存在意義がないことになる。

ぼくの場合、外国語の授業以外で何かあなたに恩返しができることがあるとしたら、それくらいかな。ちょっと自己中はいった「恩返し」だけど、まあしょせんは寄生虫ないしヒモだから、そんなもんなんです。

 

 

で、実際どれくらい楽しいものかというと

本気でものを考えてるときは、三度の食事すら落ち着いて取れない、とか、布団に入って10分後に起き出してメモ取ったりパソコンのスイッチ入れ直したりとか。

(ずうっと根を詰めてものを考えたあとでふうっと力を抜くと、その直後に凄いアイデアが湧いてきたりするものなのだ。)

風呂の中で考えたことはメモに残せないので悔しい、とか。テレビ見ながら「この番組はとっても面白い。だからこそ、早く終わってほしい」と思ったりとか。

(つまらない番組だったら見ないで済ませられるのだが、面白いのだと見ないで済ますこともできないし、でも論文のことも頭から離れないし、ということでそのようなみょうちくりんな思いに捕らわれるのであった。)

ディスプレイ見ながら朝を迎えたり、とか。

20代のうちに一度はそういう経験をしないと理論的な研究はできるようにならない、と思う。

ちなみに、自分の不規則な生活を正当化しようというつもりはない。(つもりはなくてもやってる、ということもありうるのだけれども。)


7/8

ターゲットは宇和島方言

だってしようがないじゃない。スウェーデン語文法が馬鹿なんだから。

み〜つけた

ただちに購入した。

ふと思った不明編

あれってつまり「責任を負うのはあなた、権利を持つのはあちら」ってことだよなあ。


7/7

癒し系の学生たち

授業終了後、質問のために教室に残っていた学生たちと、気がつけばまた雑談モード。

(「気がつけば」っていうか… 狙ってるわけでもないんだが。)

「いつも同じネクタイをしてる」などという、同僚から言われることがあったら「それはセクハラでしょ」の一言で切って捨てるような話に付き合う。

(どっちがとっちに付き合ってるんだか…)

ムンクの「叫び」とか101匹ワンちゃんとかのデザインのネクタイをしている某ぢょきょうぢゅの話が出たあと、話がぼくのところに戻ってくる。ぼくの場合、「スヌーピーとか、そういうピーナツ系がいい」らしい。それを聞いて、またもや某重大機密事項を漏らしてしまうぼく。

そう、夏場はスヌーピーがでかでかと描いてあるTシャツを寝間着にしているのさ。

気がつくと一時間近くたっていたので、切り上げて部屋を出る。

学生に癒しを求めてはいけないと思いつつ、このところへろへろだったのがずいぶん楽になっているのに気づく。「こっちから求めたんじゃない。ぼくは二人の話に付き合ってただけ」というのはただの言い訳なんだろうな。

dress code

上のお喋りの最中、「大学教員はなぜネクタイしめてる人が多いのか」という話になる。上から指示があるわけでもないのだが。

ぼくなりに思うところはある(といっても同業者だったら誰でも思い付きそうなレベルの話)のだが、一応学生には「じゃあそれ宿題にするから自分で考えてきて」と言っておいた。

授業開始の鐘が鳴ってからぼくが教室に着くまでの間、マンガを読んでいる学生

何週間か前、「どうしてそんなに余裕ぶっこいてるわけ?」と思いっきり嫌みのつもりでいったのだけれども、通じなかったのか、毎週同じことが繰り返されている。

授業が簡単すぎて物足りない、というタイプの人でもないのだが。

今度言って秋学期に直らなかったら、見捨てるぞ。


7/6

月曜日、某所で

以前共同研究やってた人とばったり会う。忘れかけていた未解決の某事務手続きをremindされた。

お互い全然違うスキーマで話をしているために、いくら言葉を重ねても言いたいことが伝わらず、逆に説明すればするほど泥沼にはまっていった、あのときの苦い記憶がよみがえる。(この場合の相手はその共同研究者ではなくて、事務局の人。念のため書いておくと、日本人。使用言語は、日本語。メールでやり取りしてたんだけど。)

あのときの努力を繰り返しても、また同じ結果になりそうな気がする。「スキーマが違うんだよ」ってのは言って分かってもらえるようなことではないような気がするし。事務局の言うがままにしておこうか。その方が、不毛な議論をしなくていい分、楽は楽。

でも、こちらの言いたいことを分かってもらったうえで「それはこうこうこういう理由でだめ」と言われるのなら納得できる場合もあるのだけれども、分かってもらえていない状態で折れるのはストレス溜まるのだ。

戦争の放棄?

ふたたび週刊Student Timesから。この文章の第3段落。renunciation of the right of belligerencyに「戦争の放棄」という注がついている。renunciationもbelligerencyも難しい単語だから注をつけること自体には賛成である。

だが、この「戦争の放棄」という注のおかげでそれに続く部分のrestore that rightのthat rightが非常に解釈しづらくなっている。「それを正しく取り戻す」みたいに取る人が必ず出てくる。(構文上は不可能な解釈ではない。)

そういう目であらためて見直すと、renunciation of the right of belligerencyを「戦争の放棄」とするのは、実は正しくないことがわかる。

ここは「交戦権の放棄」でなければならない。

記憶喪失の危機

これ、こわい。

いくらマイクロソフトが嫌いだからって、こういうもの(てゆうかウイルス全般だけど)を作ってばらまいてはいけない。


7/5

言語記号の恣意性

音声学とか音韻論とかを中心にやっていて、しかも「認知言語学は共時態と通時態をごっちゃにしている点で言語学をソシュール以前の水準に落としてしまった」とか何とか言ってソシュールの貢献を強調する、そんな人が意味論に関して偉そうなことを言ったとしたら、それはよほど素晴らしい両刀使いの人か、さもなくば自家撞着しちゃった人ということになるのではないか。

別にそういう自家撞着系の人が実在すると言いたいわけではないのだけれども。

言いたいわけではないけど、でも思ってはいるんでしょ。

それは余計な突っ込みというものです。

『「わかる」のしくみ』読んだ

ぼくが興味を持ったのはこちらでコメントされているのとは全然違う部分だった。なぜそういうことになるかというと

の両方。

それにしても新曜社ってえらいかも

水曜日に大学の売店に注文を出したら、月曜日に現物が手に入った。たまたま取り次ぎに在庫があったということかもしれないけど、それにしてもこんなに早いのは珍しいと思う。ちゃんと記録を取ってるわけではないのだけれども。

ちなみに

非常勤先の図書館にもこの本はあるのだが、このまえ見たら貸し出し中だった。返却予定日は1998年夏となっていた。誰だ私物化してるのは!?


7/4

非常勤

前期終了。来週は授業内試験。

当初の予定では前期は本務校の「言語文化論入門」とシンクロ、後期は「言語文化論A」と適宜シンクロしつつそれとは別のこともやる、という予定だったが、前期は予定していた分が終わらなかった。というのはつまりテクスト論のテの字もみないうちに終わってしまったのだ。テクスト論の次の「会話」も当然まだ。

通年科目なので前期は試験は別にやらなくてもいいし、それに進度から考えるとこの時期にやるのは非常に中途半端だったりもする。だが、「学年末に一回」というのは前半後半で別の内容を扱う授業としてはあまりよくない。「会話」が終わった時点でやることにすると夏休みをはさむことになって、それも嫌だ。ということで試験は来週やる。

ちなみに「会話」で取り上げる予定でいるのはお約束の語用論と言語行為論(この二つは某概説書のコピーで済ます)の他に、「相互行為としての言語行為」という観点から、自己シンクロニーと相互シンクロニー、あいづち・うなづき・アイコンタクト、留守番電話と「言いたいこと」、共話と文法化、あたり。


7/3

『週末婚』の次週予告

断片的に与えられた情報群に対して、それらを(そしてとりあえず、それらだけを)最もうまく説明できるようなスキーマを喚起して、勝手な「全体」像を作り上げると、痛い目に会う、という経験のよい見本を提示してくれてました。

仲村と〜る(正式な表記分からん)と松下由樹がくっついちゃって、それに関して「彼が自分で選んだのよ」みたいなことを松下が言い放つとか、永作と阿部がくっついちゃうとか、最終回では永作がトラックに引かれて悲劇的な結末を迎えるとか… いろいろと妄想を膨らまさせてもらいました。途中からは「どうせこれはまた違うんだろうな」と思うようになったけど。でもこのての妄想は、分かっていても勝手に膨らんでしまうもので。

でもああいうやり方は、やっぱりずるいと思う。


7/1

「74.5%」

某英語のリーディングの教科書。本文のあとに内容理解を確認するための設問がついている。ある章の問題。

本文に出てくる次の数値がそれぞれ何を表わしているか日本語で説明しなさい。
「2,297」「25」「3,328」「74.5%」「30.6%」

で、教授用資料にはなんて書いてあるかというと…「3,328」「74.5%」だけ書きます。

「3,328」:運転中の携帯電話使用による交通事故で怪我をした人の数。

「74.5%」:運転中の携帯電話使用による交通事故で前の車に追突して事故を起こした運転者の割合。

え〜と、「割合」っていったい何なんでしょ?

「割合」ってのは、<ある(母)集団>の中に、<ある特定の条件を満たすメンバー>がどれくらいいるか、ということだ。だから、「%」がついた数値が何を表しているかを示すときには、<(母)集団>に当たるものは何かということと、<ある特定の条件を満たすメンバー>とは何かということとを明確にした上で、その二つを区別して示さなければならないはずだ。

この教科書を作った人にそのような認識はあったのだろうか。もしあったとしたら、「3,328」という「%」なしの数値の説明と「74.5%」の説明とがこんなにも並行してしまうようなことはなかったのではないか、というのがぼくの勝手な推測。

in principle

週刊Student Timesのサイト。理念と実態の落差を問題にした文章に出てくるin principleを「おおむね」と訳すのはいかがなものか。

このin principleはテクストの次の文に出てくるin factと対になっているのではないのか。


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