公式サイトができました。
人も知るごとく、ぼくは親譲りの音痴でがきの頃は何も気にしてなかったけど中学に入る前後以来ずっと歌唱は恐怖でした。今もカラオケは絶対に歌いません。無理して歌おうとすると同行の人々全員に居たたまれない思いを味わわせることになるのです。それだったら「ついてきたくせに食ってばっかりで歌わないなんて、付き合い悪いやつ」と思われた方がまし。
それでも高校時代は芸術科目として音楽を選択していました。その理由は、1)美術や書道と違い、あとに物的証拠が残らないので苦しまなくて済みそう 2)中学時代の成績はそれでも美術よりも音楽の方が良かった(←この違いは当時の教師との相性の違いだったといっていい) 3)歌唱は嫌だけど、楽器だったら苦痛はない の三つ。
で、蓋を開けてみると高校の音楽は歌唱ばかりでした。楽器はゼロ。つまりぢごく。1年次と3年次が同じ専任の教員で、2年のときは非常勤の人でした。理系に進んでいれば3年次は芸術科目はなかったのですが、ぼくは文系に行ってしまったので、3年まで芸術科目が続きました。
んで、1年と3年のときの教員について書こうと思うわけです。その人は、人格的にも教員としても非常に尊敬できる人でした、実は。そして、1年のときはぼくのクラス担任だったりもしました。
そして、1年のときは、非常な情熱を持ってぼくに対応してくれました。授業中の雑談で「昔の生徒で、高校に入ってきたときは全然歌が歌えなくてどうなることかと思ったけど、頑張っているうちに何とか歌えるようになった人がいて、その人が歌えるようになったときはとっても嬉しかった」と、明らかにぼくを意識したことを言ってくれたり、テストのときにはぼくの声を「高い声は訓練で出せるようになるけど低い声というのはなかなか出しづらいものだ。君の声域が低いのは強みだ」みたいに評してくれたりしたわけです。
(テストは個別に、その教員のピアノのそばで伴奏に合わせて歌う、というもの。)
でもまあ、結局ぼくは全然歌えるようにはならなかったわけですな。それはもちろんその人の指導が悪かったわけでもなければ、ぼくの努力が足りなかったわけでもなくて、まあ仕方ないこと。
んでもって、2年のときは非常勤の人だったのですが3年のときに文系に進んだぼくはふたたびその教員の授業に出ることになりました。ふたたびその人の頭痛の種になったわけです。でも、今度の対応は1年のときとはかなり違っていました。ぼくに対する要求は思いっきりトーンダウンしました。といってもまあ何もしなくていいというわけにはさすがに行かないわけですが、テストのときだけピアノのそばで何かうなっていればそれでよろしい、ということになったわけです。といっても言葉ではっきりとそう言われたわけではありませんが。
これは、あえて悪く言えば「見捨てられた」ということになるのかもしれません。が、当時のぼくの感じ方は、歌えるようにならなくていいというのは、「(その教員とぼくの間の)暗黙の了解」であり、「(成果を出せる見通しのない努力がもたらす)苦痛からの解放」であったわけです。おかげで音楽の授業は楽しくはならなかったものの、それほど苦痛ではなくなりました。
教員の姿勢として「最後の一人まで見捨てないぞ!」という態度を見せるのは確かにかっこいいのですが、でもまあある意味見捨ててもらった方が幸せにつながることもあったりするわけです。
「だから何なの」とか言わないでくださいね。あくまでも昔の思い出です。
駅からスクールバスに向かう途中、ふと後ろの方から「泣きそうな顔」という声が聞こえてきました。ちょっと気になって見てみると、近くを歩いていた学生がぼくの顔を覗き込むようにして「先生こんにちは」。「こんにちは。」「▲▼クラスの者ですけど、覚えてますか?」「○○さん」。
どうやらぼくは泣きそうな顔をしていたようです。本当か?
18時10分に授業が終わった後、1時間ほど、教育実習に行く学生と勉強。
やっぱりぼくは学生に構ってもらうのが好きなようです。
手帳発見!2000/5/28 22:29。去年と同じように5月最後の週末に、去年とは全然別のところから。
(去年使ってた黒い鞄はもうとっくの昔に引退したのである。今は名もない二酸化炭素としてどこかで元気に活躍しているはず。)
今の私は、「自分は昔は今よりずっと記憶力が良かった」ということを記憶しています。だから今、自分の現在の記憶力には全然自信が持てなくて、とっても不幸な状態です。
でももうちょっと経って記憶力が今よりさらに悪くなると、「昔は今よりずっと記憶力が良かった」ということを忘れるに違いない。そうなると、「自分の記憶力は昔も今も変わらない」と思うようになるに違いない。そうなるときっと、自分の記憶力にかなり自信を持てるようになるに違いない。
た・の・し・み♪
なのかホントニ???
たとえば家父長的に振る舞う男性が、男女両方を含む部下たちに対して机を叩きながら「ばか者!」と恫喝したとします。このときに居たたまれない気持ちになるのは、恐らくは女性だけではないと思うのです。男性だって、すごく傷つくのだろうと思います。
そしてかりにその暴言に傷ついた女性が、「それはセクハラだ。だから問題だ」と主張したとします。そして実際その暴言が「セクハラ」として処理されたとします。そうすると、その女性はそれで救われるかもしれない。でも男性の方はそれでは救われない。男性から男性への恫喝は「セク」ハラではないから、暴言をセクハラとして処理したのでは男性は救済の対象外となってしまうわけです。
それでは男性は別枠で救済されるべきなのか。同じ恫喝が、女性に関しては「セクハラ」として処理され、男性に関しては「(上位概念としての)ハラスメント」として処理されるべきなのか。それも一つのあり方かもしれない。
でもそれとは別の対処の方法として、恫喝を男性から女性へのハラスメントして処理するのではなく、人間から人間へのハラスメントとしてまず統一的に処理するというやり方もあると思うのです。「女性であること(人間性のうち、女性のみが持っている部分)に対する冒涜」として処理するのではなく、「(男女に関わりなく持っている)人間性に対する冒涜」として処理するということ。そのうえで、各被害者には受けた傷の深さや内容に応じて個別にケアをする、という行き方。そのとき、女性の方が受けた傷が深ければ、女性の方により丁寧なケアをするということになります。女性に対する癒しと男性に対する癒しが違うやり方で行われるべきものであるならば、そうすべきだ、ということになります。
この前の「ただのハラスメント」という言い方は誤解されたかもしれません。この場合の「ただの」は「セクシャル」という限定語がつかない、という程度の意味です。「ただのハラスメント」と「セクシャルハラスメント」の関係はfinger(指)とindex finger(人差し指)の関係みたいなものです。それはどういうことかというと、「ただのハラスメント」だから「セクシャルハラスメント」よりも程度が軽いとは言えない、ということです。ということで、今日は「上位概念としてのハラスメント」という言い方にしたわけです。
相変わらず論理で物を言い続ける私。でもセクハラがらみの問題に対してロジックで解決を模索しようとするとメタセクハラになるようです。私も例外ではなくて、実は「気持ちを分かってほしいの」と言われました。
やっぱり出発点を変えなければいけないようです。
思い出したのはデボラ・タネン。
あのときの私は、多分「いきなり」というところに違和感を感じていたのだと思います。「ここまで信じて読んできたのに、なんか裏切られた感じ」と思ったような気がします。
あと、「素のレベル」と「メタのレベル」とは<論理的には一応区別がある>のだけれども、でも<どちらも同じようにくりしんの対象になる>の二つの<>がきちんと整理されてしかも両方とも明示されていればそれでいいのかなとも思いました。
でも「メタ」なんて言葉を使ったら、理屈っぽい響きになりすぎて、本のターゲットにしている人々から敬遠されてしまうということにもなるのかもしれませんが。
「ばか者」ですが、女性に恐怖感を与えるような口調で言ったらセクハラになるみたいですね。
ところで、女性だけに恐怖感を与えるような口調で言うのと、女性と男性と双方に恐怖感を与えるようなものすごい口調で言うのと、どちらがより悪質かといったら恐らく後者なのだろうけど、どちらがより「セクハラ」っぽいかというと、前者という気がする。男性が男性に向かって「ばか者」といってびびらせるのはある種家父長制的な態度ではあるけど、性的とは言いづらい。ハラスメントのハラスメントたるゆえんが性別とは別のところに行ってしまう。だから、「男性もびびる」が入った方が全体としてのハラスメント度は高まるけれども、「セク」度は薄まるような気がする。
「ばか者」という発言が責められるべきなのはそれがセクハラに当たるからではなくて、暴力に当たるから、と言ってもいい。
ってなんか変な論理? でも、「変な結論に行っちゃうから変な論理だ」で済まされるのは嫌。「この論理はここのところがこうおかしいから変な結論になっちゃうのだ」という風に言ってほしい。
セクハラの被害者の気持ちを考えずに論理をもてあそんでいるだけ」と思われるのだと思う。う〜ん。
でも、「情」のレベルの議論だけでなく論理のレベルでの議論もしたいし、てゆうか単に「したい」という個人的な希望だけではなくて、それなりに意味のあることなのではないかと思ったりもするんだけど。どうなんだろ。
それに、セクハラというものをいろいろなハラスメントの中で相対化して捉えることも必要だと思うわけで。
でもこういうことを言っちゃうのは結局私が男性だから?
ヒアリングマラソンの5倍ですね。1日3時間ずつ休まず続けて4年半。1日1時間半だと9年くらい。長いのか短いのか。
てゆうか、漠然と長いか短いかを論じてもしようがないですね。それだけの時間をかける価値があることかどうか、そこを考えないと。
「セクハラ」を糾弾する人の中に、異性に対するハラスメント全般を「セクハラ」と呼びたがる人がいることがとっても気になる今日このごろの私。
たとえば、「ばか者」という暴言を性別を問わず吐く癖のある人がいたとする。もちろん最小限の判断能力はあって、つまり自分より強そうな人とか自分より偉い人に対しては言わないとする。その場合、同性の人に対していった場合はただのハラスメントで、異性に対して言った場合はセクハラになる、なんてことがあるのかしら。私はあるとは思えないのだけれど。
「ばか者」ってのは地位とか権力とかを利用して性的な何かを強要する場合にも使えるかもしれないけどそうではない場合にも使えるわけで、てゆうかそうでない場合の方が恐らくは一般的なわけで、で、今考えているのはそうではない場合。自分より弱そうな人に対して言ってるのが確かだとしても、性的な何かを要求しているのでなければそれは「セクシャルハラスメント」とは言えない。また、ここで考えている仮想人物は同性に対しても「ばか者」と言うわけだ。それにそもそも「ばか者」は性的なニュアンスを帯びた(性に関わる概念を含むフレームとの関連で規定された)言葉ではない。だから、「ばか者」は、環境型のセクハラとも言えない。
でも現実には、その種のハラスメントを、異性に対して行われたというそれだけのことで、「セクハラ」呼ぶ人がいるわけです。ちょっとぐったりって感じ。てゆうか、ちょっと危険なレッテル張りかも。
繰り返しますが、「ばか者」と言うのがハラスメントであることを否定するつもりはありません。だから「ばか者」と言う癖のある人を糾弾するのに異を唱えるつもりはありません。でもそれが「セクシャルハラスメント」と言えるかどうかはきちんと検討する必要があると思うのです。
「セクハラ」というレッテルだけが一人歩きするような状況は避けたいと思うのです。
「セクハラ」というレッテルが一人歩きする様子をひたすら観察して、人間の概念構築のあり方を考える手がかりにする、というひたすら能天気なけんきう者も〜どもありかも。かもかもかも。
その方が関係者の恨みも買わなく済むしね。
実はなにげにふめいにっきかも。
でも関係者には直接言うべきことを言った。お願いだから誤解しないでくださいね。ぼくの立場は「ハラスメント容認」ではないのです。
何について書いたんだか、もう思い出せない。たとえばこれとか。ほんの1年前のことなのにね。
カリキュラム改革。うちの大学に全面的に当てはまるわけではないんだけど。
学内で発言しないのは無責任? いえ、そうじゃないところがうちの大学のすごいところなのです。つまり、分かっている人はちゃんと分かってる。分かってない人は全然分かってないっぽいんだけど。
「正義」を定義するときに、その基準を自分におけば、すなわち、「自分の行動はつねに正義に則っている」という考え方を(意識しているかどうかは別として)採用して、(気づいているかどうかはともかく)それに合わせて「正義」を決めれば、「自分にも悪意はある」という認識には至らないだろうと思う。
だからといって、自分の中の悪意を自覚しない人は、ひとりよがりの「正義」を振り回しがちだとか、自分のことを正義感が強いと思っているとか、そういうふうには(論理的には)言えないのだけれども。でもその可能性は結構高そうな気がする。
誰かに対する自分のいじめや言いがかりを「正義の制裁」と勘違いするとか、「相手が悪い」と言い張るとか。「言い張る」っていっても「引っ込みがつかなくなって意地で言ってる」という類いではなくて、ほんとに強い信念を持って言ってる、ってタイプ。
木曜の夜、大学の若いひとびとと一緒に飯能に飲みに行きました。
ぼくだけ会議が長引いたので、一人であとから遅れていきました。夜の飯能は怖いです。
飯能駅で、いきなり若い女性に声をかけられました。見ると、ぼくの授業に出ている学生。飯能駅あたりだとまだかなり仕事モードで動いてはいるのですが、でも飲みに行くということで、しかも一人で動いているということで、若干ぷらいべ〜とも〜ども入ってきます。んでもって、声をかけてくる学生ばかりではないわけで。知らないうちに行動を見られていることもあるかと思うと、ごにょごにょ。
最初の店で働いていた店員は、一緒に飲んでいた豊田ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)の英語の授業に出ている人でした。酒飲んでいる姿を学生に見られる見せてあげるのは、授業の雰囲気を和やかにするうえですごく効果があります。でも豊田ぢょきょ〜ぢゅは、ちょっと居心地悪そうな感じでした。それをぼくはヒトゴトも〜どの余裕に満ちたアタタカナまなざしで見ていました。
2軒目に行ったのは、なぜかカラオケ。幹事役の別野ぢょきょ〜ぢゅが受付をしているときに、突然一人の店員が近づいてきて声をかけてきました。うっ!
「頑張って」とわけの分からないことを言って別れます。アタタカナまなざしはどっかに吹っ飛んぢまいました。割り当てられた部屋に行く途中のエスカレーターで、「これで本多君もオレと同じ♪」と豊田ぢょきょ〜ぢゅが喜んでいます。う〜
ということで来週の授業が心配です。「先生カラオケで何歌ったんですか」と聞かれて正直に「何も歌わなかった。ひたすら食ってた」と答えたら思いっきり白けます。ど〜しよ〜。
5限の3年生の演習。ふと思い立って、授業の途中で(学生が黒板に答えを書いている間に)いったん研究室に戻って、ありったけの英英辞典をもって教室に戻った。それが、異様に重たい。LDCE、OALD、COBUILDはまだかわいい方で、アメリカかどっかで出た子供向けのイラストたっぷりの辞書がやたらかさが張ってやたら重たくて。購買の袋に入れて持っていったのだが、あまりの重さに破れそうな勢いだったので二つに分けて持っていきましたとさ。でもぐったり。
帰りはさらに、授業開始時にもってった名簿だの教科書だのをまとめて持ち帰る。重い重い。ほんっと、ぐったり。
教室内に適当にばらまいて教科書の問題について調べてもらう。一生懸命調べて答えを教えてくれる人、黙っていろいろな単語を見ている人、何にもしない人など、さまざま。
「だからだれでも身につけられる、ってのは飛躍じゃないかなあ。「ある一定レベルまでなら」とつければ少しはよくなるかもしれないけど、それでもかなり怪しくないか」
などと教育的配慮ゼロの発言をしたくなることがある今日このごろの私。
くりしんゼミの現状とか知能論とかは実は全然関係なくて、ただ単に、自分の過去を振り返ったら、身につけることができなかった技術って、たくさんあったよなあ、と思ったというだけの話。
去年の今頃も、手帳なくしてたんだよなあ。
月末になったら見つかるんだろうか、去年みたいに。
午前中の非常勤。
毎週研究室で顔を合わせる別の非常勤の方の本務校が、現代文化学部に毎年(のように?)編入学生を送ってくださる某短大の国文科の方であることが判明。
授業に出ている学生が単位互換制度で出ている別の大学の某授業の担当教員が、駿河台の某学部の江寝義主ぢょきょ〜ぢゅ(以前同じ委員会にいた)であることが判明。
ってこれくらいのことだったらあっても不思議はないのかな。
あの坂、先週に較べたらそれほど大変には感じなかった。
うちの学生だったら「次の人」というところを、あの学生は「次の方」というのだ。
別世界。
学生集めたと〜いっくの説明会で「この細長いやつ、じゃなくてこの細長い資料」とか「マークシート用紙のにせもの」とかって平気で言ってしまうぼくがあの大学で教えるなんて、許されていいことなのだろうか。今日は今日でぼく、「本多君の「ほ」はハヒフヘホの「へ」!のつぎ!!」なんて黒板に書いたりしてたし。
今日は、午後の授業のプリントの印刷をしなかったので
(昨日書いたようにプリンタが現在使えないのと、それ以前に先週大量に作ってあったのでそもそも必要がなかった。)
昼は暇でした。午前の非常勤のあと残っていた学生たちとおしゃべりしたり、移動した後郵便局に行ったりで多少は潰れましたが、それでもけっこう無駄に時間が余った。
午後の非常勤の後某研修までの間も時間が結構あって、とりあえず書店に行って中途半端に時間を潰したのだけれども、収穫はなし。
なんだかなあ。
あの時間になると、やっぱり 愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏愚烏 てゆうか英語風(?)に書くと 図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図図 って感じ。恐縮。
音は立ててなかったはず。
やっぱり問題はヒト。
ってぼやいている人は、ほんとは全然忙しくないという話がある。
ってことは、ぼくはほんとは全然忙しくないんだ。暇なんだ、ほんとは。
よかった。
まあ、このページの更新もほとんど途切れずに続いているわけだし。
まず、教師モードとけんきう者モード。
教師モードは非常勤モードと本務校モード。
けんきう者モードは校正中の紀要論文モード(アスペクト)と突然改訂した元不良債権モード(相互行為と文法化)。
けんきう者モードに不良債務モードがあることはとりあえず忘れておく。
ところが今日になってけんきう者モードにさらにもう一つ追加。さぶじぇくてぃふぃけぃしょん♪ ぼく的には進展がないわけではないけど、問題はヒト。
やっぱけっこう忙しいじゃん。
プリンタのインクが無くなった。
フレームというのは社会・文化的な産物で、社会のありよう、文化のありようが変わればある言語形式に結びつくフレームのありようも変わることがありうる。
だから、ある言語表現が差別的であるかどうかは、その表現の語源的な意味からは予測されない。
(どこまでさかのぼれば語源にさかのぼったことになるのか、という話はともかく。)
語源の時代に差別的でなかったからといって今も差別的でないとは言えないし、語源の時代に差別的だったからといって今も差別であるともいえない。
だからたとえば、「支那」とChinaがもとは同じだからどうとかこうとか、「旦那」とdonorが元は同じだからどうとかこうとか、いう議論はあやしい。
それから、差別的表現を問題にする人々の中には、ある表現の歴史の中にほんの一時期でも差別的に用いられた時代が存在すれば、その表現は現代においても差別的な表現であると無条件に決め付けたがる人がいる、ような気がする。が、それは「この語は語源の時代には差別的でなかったのだから、今だって差別的ではない」という議論の裏返しでしかないということになる。
講義科目の宿題チェック。
英語リーディングの小テスト採点。それからプリントづくり。
時事英語のレポート読み。
以上、駿河台大学の少人数教育万歳。
紀要論文の校正。
(元)不良債権論文の改訂。公開に向けて具体的な動きが始まった以上、直すなら今しかない。でも、人がコメントしてくれた事項はほとんど取り入れられず。積極的に却下したわけではなくて、文献集めてなかったりとか。2年間何やってたんだろう、って感じもしなくはない。
メールは書きかけたけどやめた。といっても昨日の2件とはまったく別。昨日のはまだこれから。
日記読み。
例文をかなり減らしたので、全体の枚数はちょっと減った。が、ファイルサイズは前より大きくなっているはず。
だって、TeXなんだもん。例文データを抹消しちゃうわけではなくて、コメントアウトするんだもん。削除するときには「%」をつけるわけで、その分ファイルサイズは大きくなるんだもん。
普段はそれで全然問題ないのだが、今回はサイズが大きくなりすぎてエディタが重い。
8時50分頃大学に入る。
1限は授業。先週のことがあったので今週は大量に資料を作る。時間かかりすぎ。
2限の空き時間はメディアセンターで仕事。学生に各自やってもらっても良かったんだけど、先にカセットテープを集めてしまっておいて、後になって「やっぱり自分でダビングして」と言ってそのまま返すのもねえ… やっちゃう人もいそうだけど。
ダビングしてるときによく知ってる学生が近くの受付に来たのでぢろぢろ見ていたら気がついて向こうから「今日は」と声をかけてきた。近況聞いたりとか。
昼休みに某集まり。終わった後食事してそのあとの空き時間は午前の授業で集めた質問用紙の入力開始。
質問用紙はこの日初めてやった。何にも言わなかったら鉛筆で書いた人が多くて、コピーだと判読不可能になってしまう。次回から「ペンで書いてね」ということにしよう。内容は… 結構面白いことを書いてくれた人あり。今年の授業では飛ばしてしまった某重要事項に関わることを書いてくれた人とか。来週補足しよう。
そのあと学部の1,2年生を全員集めて
(のはずなんだけどこっそり数数えたらかなり少なかったなあ。)
TOEICの説明会とミニテスト。前に出て、「なんで現代文化学部では1,2年生全員にTOEICを受けてもらうことになってるのか」ということの説明。「TOEICを受ける意味は人によって違うかもしれないけど、でも、誰にとっても何かしら意味がある」などと偉そうに言う。具体的にどういう意味があるのか、についても説明したけどここではめんどくさいから書かない。
TOEICを主催してる組織の人の説明の後、ミニテスト。リスニングの途中遅刻して入って来た学生がいて、遅刻は本人の責任なんだけど、席に坐ってる友人にアイコンタクトとって手を挙げて挨拶している。無言だけど、それでも立派な妨害。大声で注意するわけにも行かないので、手で制止し(ようとし)たのだが、こちらの意図が通じたかどうかは分からない。
学生からリクエストのあった某資料を配布することに決めたので、コピー機のある部屋へ。その階に行ったら、また知ってる学生にあった。午前中にあった人とは別の人。 コピーした後ふと思い出して、その学生の卒論に関係ありそうな文献を研究室に取りに行って、渡す。「テーマ変えました」ということだったが、「暇があったら読んで」という感じで、渡しておく。卒論研究と関係させなくても、読んで楽しめるものだとは思うの。
17時から18時まで会議。これは学部の教員全員。ぼくは発言せず。発言しなくても犯罪的ではない会議だったはず。
18時過ぎから20時前まで会議。数名。ぼくはほとんど発言せず。こちらでは、発言しないのは犯罪的なのですが。
20時15分の大学発最終スクールバスで帰還。
5時間弱睡眠でこれだけのことを完璧にこなすのは不可能。実際全然完璧ではないのですが。
へろへろ。
要は水曜の夜は日記の読み書きをやめるようにすればいいのだな。
tcupに作った。URLは授業中に。
書かねば。2件。
受講登録者27人の小規模な授業。今日は宿題の解説に時間のほとんどを費やした。質問を受け付けながら進むから遅くなるのだ。質疑応答から学生同士のディスカッションに突入。(こういうのは「私語」とは言わない。)今年は「まじめ」かつ「英語力ある」かつ「元気がいい」という三拍子揃った人が複数いて雰囲気をよくしてくれている。
授業でやってることについてああでもないこうでもないと学生が言ってるのは例によって止めないのだが、たまに暴走して関係ない話を始める人が出てくると「関係ない話しないで」と言う。そうすると別の学生が「聖徳太子?」
この規模の授業だと学生同士が何の話をしているのか分かる。こっちのグループはこの例文の話をしているが、あっちのグループは全然関係ない噂話をしている、とか。学生に背を向けて板書しながらでも分かる。それが彼女たちには不思議なようだった。
第一回のレポートを出しもらった。「公共の場所での携帯電話の使用を禁止すること」に関して賛成か反対かのどちらかの立場(好きに選んでよい)を選んで、以前配った紙でのブレインストーミングや教科書の内容を参考にして主張を書いてもらうというもの。英語の授業っぽくないけど、いいことにするの。
まだほとんど読んでいないのだが、約1名、ぼくと全く同じ考え方をしている人がいた。授業中うっかり口を滑らせて喋ったりはしてないはず(ぼく自身の意見はあからさまには出さないように注意していたはず)。かしこい人です。ぼくと同じ意見だから賢いということではもちろんなくて、前から賢いと思ってた。ほんとに。
教科書は新しい単元に入っている。教科書に関しては、問題のすり替えをやってるところとか、正解がない問題とかが紛れ込んでいるのだが、それはいちいちちゃんと指摘しながら進むことにした。ぼくの指摘を理解してくれればその分確実に賢くなれるはずだし、理解してくれなくても別に害はないし、そして実際理解してくれそうな人はいるし、ということで。
17時頃から最終バスまで、3時間ほど。ぼくは自分の仕事もしながら。自分の仕事といってもレポート読みとか採点とかはできず、検印押したりプリント整理したりといった単純作業だけど。
18時10分までの演習の後、担当予定の部分に関して質問があるという学生に研究室で個人授業。最終バスまで、2時間ほど。
といってもぼくは原則として答をそのまま教えることはしない主義なので、やることは資料を貸して、ヒントを出して、学生の答えに突っ込みを入れたり疑問を提示したり。
意地悪と思われてもかまわないんだも〜ん。ぼくが正解を言ってそれを書き取って授業で発表するというのでは勉強にならないのである。
帰る頃には、お互いにへろへろ。最終バスは満員だったが、無理矢理つめてもらって乗せてもらう。
という質問をする学生が、たまにいる。大体、まじめな人。教職課程をとっていたりする。
たいていの場合正直に「教員になりたくて大学教員になったわけではない」って答えてしまう私はやっぱり教育的配慮に欠ける人間なのだろうか。
研究者になりたかったの。
今日もこの質問が出たのですが、今日は答えずにはぐらかしてしまった。
小学校教師、特に低学年担当の人は、基本レベル効果について知っておくべきだと思う。
今日は先週より更に遅く家を出る。ところが、こういう日に限って(?)、乗換駅でいつもの電車が走ってないことを知る。あわてて別のホームへ。律儀に全部の駅に止まる奴。…研究室に到着したのは、授業開始5分前。
大学の入り口の坂がつらかった。うちの大学の坂に較べたらずっと楽なはずだが、今日は異様に疲れた。
ということで、午前の非常勤。今日は一番始めに、公式サイトの宣伝から。「「人妻」について」なんてのもあります、って、ついに言ってしまった。
ということで、午前の非常勤の授業。といっても、今日からぼくは授業らしい授業をしなくていいのだ。「用意した資料を機関銃のような速度で(つまり理解不能な速度で)読み上げる」とか「教室にいる人全員に向けて発表するのではなく、教師だけに向けて報告する」とかといった、 優等生型女子学生がはまりやすい罠 を避けるために、担当学生には前に出て黒板使って授業をしてもらうということにしたのだ。
(これは4月の初回に全参加者と相談のうえで決めた。「相談」という形を取って実質的には押し付ける、という狡猾なやり方をしたわけではなく、たっぷりマインドコントロールをしてあげたうえでアンケートを取って学生に自分たちの意志で選択してもらう形をとるという、もっと狡猾なやり方をした。)
だからぼくは要所要所ですくっと立ち上がって(あるいは場合によっては坐ったまんまで)補足すればいいので、ごくらくごくらくなのであった。
事前の準備は結構やってます。てゆうか授業が終わると「(自分の担当のところに)分からないところがいっぱいあるんですが…」と学生が質問にくるので、そこからディスカッションも〜どに突入するのであった。
今日担当してくれた学生は話がうまかった。
数えたわけではないんだけど、なんか思いっきり人数が減った。プリントも余った。なんで?
「人妻」の話を先週聞いて、それでもういいやって気になった?
今度は受講する学生の立場。睡眠不足と各駅の電車と坂とその後の移動えとせとらの影響で、ぐったり。う〜ん。
紀要論文の初校が届いていた。今回の印刷業者は手堅い仕事で定評のある某社。去年の別の某社とは全然違って、図のレイアウトなど、予想以上の仕上がり。
実は図の写りが微妙に怪しいのだけれども、でもそれはbmpファイルで渡したぼくのせいでしょう。DVIOUT for Windowsではbmpでしか画像か出来ないの。ps化は研究室の機械でしかできないので、めんどくさくなってやらなかったのであった。
ある論文を公式サイトで「不良債権」呼ばわりしたら、掲載予定の論文集の編者の先生から状況報告のメールをいただいてしまいました。
ニュアンスとか感じ方とかを正当な研究の対象と認めようという姿勢を持つものだと思います。bachelorがらみの話とか、spinsterの話とかbachelor girlの話とか(ここまでは偉い人が言ってる)、それから「人妻」の話とか、そして差別的表現の話とか(ここはぼくは授業では言ってる)。
買いました。
サイトの整理しました。
リンク切れが発生しているかもしれません。よそのサイトへのリンクは、う〜ん、対応難しいかも。shunpeinoheya内部へのリンク切れは…公式サイトでそれらしいのを探してください。
複雑な環境に出会ってしまった認知システムのとまどい。
とっても情けない結果が出ました。
でも恐ろしいくらい当たっていた。
うぐぐ。
「Yes」「No」で答える質問項目に「〜ない」というのがあると、一瞬、どころか四瞬か五瞬くらい迷う私。
これでも一応英語教師なのであった。
さっそく登録しました。
講義科目では去年からフレームセマンティクス的なアプローチを前面に出している。懲りもせず「人妻」の話を今年もやるのはこれが英語のbachelorで問題になることと同じ問題を孕んでいるから。「私は英語が苦手だから「ローマ教皇とかターザンとかをbachelorと言うのは変」とか言われてもぴんと来ないのん。それにそもそもそんな単語はじめて見たしぃ」みたいな学生でも「来週の授業をどうするかみたいな話し合いをやってるところを「人妻と話した」と言ったら変でしょ」といったら分かりやすくなるのではないかなあ、と思って「人妻」「人妻」と騒いでいるのである。
(と、ただの受け狙いではないことを(やけに)強調する私。)
んでもって、木曜日、別の関連で差別的表現の話をしようとして、喋りながら気がついた。「差別的表現の話は、フレームセマンティクスの話を導入してからの方がいい」。準備のときに気がつかないで本番で話している途中に気がつくところがおお馬鹿なのだが、でも話し終わってから気づくよりはいいだろうということで、急遽順番を変えることにする。予定はしょせん未定とも言うし、アラタムルニハバカルコトナカレ(←変換めんどくさい)とか言うし。
(フレーム何ちゃらを前面に出してなかった時代には、差別用語の話は、まあ、どこか適当なところに入れておけばよかったのである。)
ところが、話の順番を変えるとなると先の方の話のために用意してあった資料を先に(?)使わなければならなくなるのだが、それがわけあって途中までしかコピーしてなかった。ということで、そこの部分の話は板書と口頭で済ます。
せっかくtpicで苦労してお絵書きしたのが水の泡。う〜ん、ぐったり。
悔しいから来週配ろうかな。
今週も集まりがあった。来週も。んなわけで、空いてる2限の後半の時間に食事。
食べながら集まりに参加するのです。
来年度からまたパソコン入門の授業をやることになりそ。Wordなんて超最悪なものやんのかよ。てゆうかぼくWordの使い方分からないの。てゆうか忘れちゃったの。てゆうかもともと覚えたいと思ってないの。
ということで、頼りは学生アルバイト。みんなあ、今年の先生の話、よ〜く聞いてちゃんとマスターしてくれよ。
実は私も使っています。あれはユーザーの側から言うと拡大版マイニッキエンジンという感じで、猿人非登録ページや登録してるけど更新報告はしてないページ、それから日記以外の掲示板とかがチェックできるので便利なのです。
でもマイニッキエンジンとは違って対象ページに直接アクセスするわけです。しかもチェック対象として登録しているページは一つではないわけで、一つのカテゴリーに沢山のページが登録されてるのが普通なんでしょう。「さっきチェックしたときはこの辺のページは更新されてなかったけど、もうそろそろ新しくなったかな」という感じで一日に何回もチェックすることになりがち。そのたびごとにカテゴリーに登録されたページ全てにアクセスすることになる。
しかもそれを、WWWCユーザの一人一人がばらばらにやる。だから人気のあるサイトにはアクセスが殺到することになるわけです。
だからサイトの管理者の人が悲鳴をあげる気持ちもわかります。人間が読みにきてくれるならまだしも、な〜も分からんちんの機械のアクセスに対応するためにサーバーが動かなきゃいけないなんて。それも一度や二度ではなくて。(「しかも本当にチェックしたいのはうちじゃなくて他のサイトだったのね!」てのも…)
う〜ん、どうしましょ。
とりあえず「いやよん」と書いてあるところはチェック対象サイトリストから外しました。
レイコフがWFDTで「ラネカーがimage-schema使ってすごいことやってる!」って言っちゃったのが一つの混乱の元だったと思う。
ラネカー自身は「絵それ自体は重要じゃない」と言ってる。それから「絵で使ってるこの記号はカテゴリー化の能力の現れ、この記号は図地分化の現れ…」みたいなことも言ってる。これは、まだCognitive Grammar(←これはここではラネカーの理論を指す固有名詞)が有名になる前の雑誌論文とかを見れば分かるんだけど、彼は図の中で使う物についてはくどいくらいに定義している。で、定義しているということは、そちらの概念に還元できる、ということだ。「この記号はカテゴリー化の能力の現れ」と言うってことは、言い換えれば、「この記号が指すものは、カテゴリー化の能力に還元できる」と言うってことだ。これが言い過ぎだとしても、すくなくとも、「この記号が指すものの基盤には、カテゴリー化の能力がある」と言うってことではあるはず。
んでもって次にimage-schemaの話だが、「image-schemaがカテゴリー化の一つの基盤」は言えると思うのだけれども、「image-schemaがカテゴリー化の能力の現れ」というのは怪しいと思うのん。どっちが原因でどっちが結果かということね。図と地の分化とimage-schemaの関係についても同じ。ということは、ラネカーの書く絵は、きっとimage-schemaではない。すくなくとも、「(環境の中での)身体経験から直接立ち現れる知識構造」というジョンソン的な意味でのimage-schemaではない。「とにかく絵さえ書けばそれはimage-schema♪」という捉え方でimage-schemaを捉えるのであれば、ラネカーの図もimage-schemaになるのだけれども。
実際、ラネカー自身、「自分の書く図はimage-schemaではない」と言っている(というのは、ラネカーの授業に出た人から聞いた話だけど)。
それから、「認知言語学者」(←括弧つき)の中には、「この構文に関してラネカーが書いてるこの図は、ここがおかしい」みたいなことを言う人もいる。ところで、繰り返しになるけど、ラネカー自身は図の中で使う物についてはくどいくらいに定義している。んでもって、「ラネカーの図は、ここがおかしい」というくだんの「認知言語学者」がラネカー自身の定義をちゃんと読んでいってるかと言うと、それがけっこう怪しかったりする。絵だけを見て、それに自分勝手な意味付けをして、それで批判しているようにしか見えなかったりする。
あるいは、「Cognitive Grammarでは絵が重要」と言う「認知言語学者」がいる。ラネカー自身は「絵それ自体は重要じゃない」と言ってるんだが。
「認知言語学」という枠の外側にいる人が、「あいつらは何も考えずに絵を書いて喜んでいるだけだ」という揶揄の気持ちを込めて、認知言語学の枠組みの意味論を「お絵書き意味論」と呼ぶことがある。それに対して「認知言語学」の人は「いやそんなことはない」と反発することがたぶん多いのだろうけど、でもぼくの感じ方では、「お絵書き意味論」という蔑称は現状ではwell-deservedだと思うし、そういう蔑称で捉えられてしまうような「絵さえ書けば」という考え方はぼくは嫌いなのです。
って、私と親しいぎょ〜かいじんにしか通じない書き方になってしまった。ぐったり。
どうせなら踊っちゃいません? ワルツ?
キャンパスを歩いていたら、「こんにちは」と声をかける人がいる。見るとFAやってる1年生クラスの女子数名。
中途半端に会釈を返したら、「かわいい」と言われた。
やっぱりなんか不自然なのね。
どうして実働部隊の人からわりと偉い人まで揃いも揃って「本田様」と書いてくるかなあ。言語学者なのに。
「本多」と書いてある名簿を見て「本田」と入力する言語学者の言語記述能力って、どこまで信用していいのだろうか。
(暴言につき1パラグラフ削除しました。)←いやみ。
「別人宛ての文書が届いた」と言って送り返したら顰蹙だろうな。でも「本田啓」という名前の研究者はいるのです。その方は言語学者ではないけれども、でも ほんだあきら さんです。
悪意がなくて「裏切っている」という自覚のない人に裏切り返すと「裏切りやがった」と逆恨みされる。裏切り返さなければストレスが溜まる。
悪意と自覚があって確信犯的に裏切る人はきっと何度でも裏切るから、そのたびに裏切り返していたら根に持ってるのと区別がつきにくくなるかも。
たとえば果物の特徴。プリントには「生で食べる」と書いてあるんだけど、何回か繰り返しているうちにめんどくさくなって、最後の方は「なまでくう」とか言ってたりする。
公式サイトができました。
ということで、こちらのサイトは週末にでも内容を整理します。
4コママンガの「落ち」の分析。そしてそれがテキストのどの辺りに関係しているか。
ゆっくりやりました。学生の意見をいちいち黒板に書くスタイル(視覚化するのはぼく自身の記憶のため)は時間がかかるのだ。
小テストやってテープ聞いて教科書やって…。まずまずのペース。ただし、学生の人数が問題の数とうまく合ってしまってるみたいで、このまま行くと難しい問題が当たる人が固定してしまうかもしれない。
小テストの採点はまだ。
これもゆっくり。``thumb''は普通``finger''には含めないんだけど、``How many fingers do you have?''と聞かれたら``8''ではなくて``10''と答えるのはなぜ?とか。
それにしても、``How many fingers do you have?''っていかにも教科書的だな。てゆうか、この質問が「なぞなぞ」とか言語学の説明とかとは無関係の、普通のコミュニケーション機能を持つ文として使われる場面って、ものすごく怖くないか。指つめちゃってる人に「指、何本あるんですか」って聞くのって。
メディアセンターのパソコンで学生の.forwardの設定。多少なりともUNIX知ってると便利なのだけれども、でも.forwardの扱い方を教えるためだけにviの使い方やらchmodやらを教えるってのもばかみたいだ。
ふと前を見ると、さっきまでの授業に出ていた別の学生が別の授業の準備をしていた。帰りがけにちょっとだけ声かけて帰る。
授業が終わった後うだうだと仕事をしていたら最終バスになってしまった。人がたくさんで座れない。と思ったら、教職員席に座っていた学生が席を譲ってくれた。ぼくは近くにいた某事務局の某課長に座ってもらおうと思った(ぼくの方がずっと若いし、元気だし)のだが、そのメッセージは伝わらなかったらしくて、いつまでも座らないのも変なので、仕方なく座りました。
座ってしまった後で、「あれ、この学生、昔ぼくの授業にいた某さんじゃないか!?」と思ったが、時すでに遅し。ちらっと見てみたが、暗くて確認できない。あまりぢろぢろ見るのも変だし。
入学時にはもっとコドモコドモしてたはずだが、4年生になるとずいぶん大人。
今日はちょっと遅めに出たつもりだったのだが、それでも早く着きすぎ。来週はさらにもうちょっと遅く出ることにする。
研究室の廊下に卒論指導の割り当て表が貼ってあったが、教員の名前が名字しか書いてないのでぴんとこない。「(文学ではなくて)言語学」かつ「(古典語ではなくて)現代語」を満たす人がどれくらいいるのか、いまいちよく分からなかった。あの先生お一人だとすると… 今のぼくの演習に来ている学生の(将来の)専門の分布も、多分あんな感じなのでしょう。(ぼくが学部のときの)英文科の、英語学と文学の割合と同じようなものなのかなあ。
研究室でコーヒーを出してくれるのはありがたいのだけれども、セルフサービスでがばがば緑茶が飲めるところの方が、ぼくの体質には合ってるみたい。うちでも自分の研究室でも午後の非常勤先でもそうなのよん。ここだけ違うの。
「上品」が似合わない私。
ベランダが建物の四方を取り囲む形になっているのを発見。開始前のひまな時間にうろうろしていると、ドア発見。「もしや」と思って開けてみると案の定ぼくの教室で、そこは恐らくは黒板の右横の位置、中で座っている人にしてみれば真っ正面で、丸見えのところであった。ちらっと顔を出したらすでに中で待っていた学生の一部に見つかってしまった。やや受けしてたみたい。授業開始のときもそこから登場しようかと思ったが、一度見つかってしまったのにすぐにしつこくもう一度やるってのもかっこ悪いかなあと思って、今日はやめておくことにした。いつかきっとやる。
始まるまえに一番前の席にプリントを置いておいて、黒板に「各自取っておいてください」と書いてその場を離れたのだが、ちょっと経ってふと見ると教卓の上を覗いている学生がいる。見られて困るものがあるわけではないが、あまり気持ちのよいものではない。
用意したプリント90部は授業開始後間もなく消滅。前回配布分を10部追加で用意したのは始まってちょっとたってからおもむろに出したのだが、こちらもあっという間に無くなった。また増えたのかよ。どうしよう。
こちらに分かるような私語をする学生あらわる。前から3番目に座っていた女子学生二人組。注意したら静かになった。
のんびりと書店に行けるのも今週が最後。
新刊のバイリンガル子育ての本(くろしおの出たばっかの奴)を発見。「semilingualismなんてことが1960年代には言われてましたなぁ。うちは大丈夫よ」みたいなことが書いてある。まじ? その本で紹介されていた関連文献もすぐに見つかったので、あわせて購入。
それから、『英語の作法』も購入。帰りの電車で読みながら、自分が英文科出身でありながらいかに文学的な「教養」に欠ける人間であるかを思い知らされる。「んなのしらね〜よ」「昔やったかもしんないけどとっくの昔に忘れたよ」みたいな感じ。でも面白い。でもあの本のターゲットに「学部上級」に加えて「修士課程」の学生が含まれてたのはちょっとびっくり。あのレベルの話だったら、去年の今頃図書館で悩んでいた某英文科学部生(当時)だって知ってたんじゃないかなあ。
「理論ベースのカテゴリー観」とか言ったらだめかしらん。ICMの位置づけ。
こんにちは、馬鹿ちゃん。
私ぃはぁ あなぁたぁよぉ。
こんにちは、赤ちゃん。これ↑があなたのおじさんよ。
かわいそうに。
もうすぐおじさんになる私。「初めてのおい/めいはとってもかわいいものらしい」って誰かが言っていて、それはそうなのかもしれないけど、でもこれ↑をおじに持つ赤ん坊ってのは、ちょっと気の毒な存在かも知れません。
ってヒトゴトも〜ど。
学生の中に家族的類似を``familiy resemblance''と書く人が毎年何人かいる。見かけるたびに「今の学生は``family''もつづれないのか、お馬鹿だなあ」と嘆く私であったが、ある時ふと授業で配布したプリントを見て、びっくり。ちゃあんと``familiy resemblance''と書いてある。
本当の馬鹿は私であった。
この方が宮下真二の生まれ変わり(←もちろん学問上の、だけど)だったなんて。
今の今まで知りませんでした。
これ (5/5)ほしい。
職員が出勤して直した模様。死因は不明。
以上、問い合わせたわけではなくて、昨夜自分宛てに出して今日届いたメールのヘッダーから勝手に判断したもの。2000/5/6 15:30。
病気が発生したときに全滅してしまう。挙げ句の果てに大飢饉になって、地域の人々がいっぺんにどわ〜って飢え死にしちゃうんです。
マイクロソフト製品をターゲットにしたウイルスが発生するたびに世界中が大パニックになるのって、これに似てると思います。
大学。今2000/5/6 2:48。
ということで、今のところ、メールも届きません。
Love Bug騒動と関係あるのかなぁ。
<けんきう者としてのセンスは抜群>という人が果たしてぼくのことをけんきう者として認めてくれるかどうか、てのは実は大きな問題だったりする。
言うまでもなく「けんきう者としてのセンス」云々はあくまでもぼくの評価。違う人が評価すれば違う結果が出る可能性がある。
ある件に関して、ぼくが高く評価している太郎さん(仮名)が高く評価している花子さん(仮名)は、ぼくに言わせれば、ぢゃすとあなざ〜井戸端会議をばさんでしかない。同じ件に関して、ぼくが高く評価している華子さん(仮名)は、太郎さんの目にはただの八方美人にしか映らないらしい。
業界の話ではないです。
ちなみに、太郎さんは「個」を尊重すべしという価値観の持ち主なので、ぼくのいうことにあわせて花子さんや華子さんに対する評価を変えることはありえない。「自分は自分、本多君は本多君、それぞれの見方があっていいんじゃないの」という立場だろうと思う。そして、花子さんや華子さんに対する太郎さんのああいう評価が何に基づいているかについて、ぼくは一応分かっているつもり。そしてぼくの評価もそれなりに根拠があってのこと。で、太郎さんの評価の根拠とぼくの評価の根拠をつき合わせることは難しいから、どちらの根拠が強いともいえない。ということで、ぼくに関しても、認知的不協和の解消の予定はなし。
5人分の緑茶を入れるという作業をある人がしていたので、手の動きをじ〜っと見ていました。注ぎ分けるだけなので、「コーヒーを入れる」という作業よりもはるかに単純だったのですが、それでも結構スリップがあった。面白かった。
読んでいて思い出したのは「知識偏重教育」というレッテル。このレッテルで批判されていたものも、それから批判していた方のものも、ともに「考える」ないし「分かる」ということと「おぼえる」ということを対立的ないし相互排他的に捉えていたと思う。だから「知識偏重」から抜け出そうとして知識軽視に走ってしまった。
ものごとの間の関係のあり方について、一つ分からないことがあって、それは、関係のあり方についての理解はどこからくるべきものなのかということ。「あれとこれはこんなふうに結びついているのだ」というのは、他者からそのような明示的な言い方で教えられることによって身につけることができるものなのか。それとも、その結びつきは自分の力で発見しないと身につかないのか。関係のあり方それ自体が(悪い意味での)丸暗記の対象となってしまわないか、ということ、かな。
高校のとき、何かの問題について考えていて、「ああ、そうか」と思って発見の喜びに浸ったことがある。その後、それに関連する授業のノートを見て、ショック。「ああ、そうか」に当たることがそっくりそのまま書いてあった。そのときは、「あのときあの教師はここまでちゃんと説明してくれてたのに、それが分からなかった自分はなんて馬鹿なんだ」と思ったが、今では「それは自分が馬鹿だったのではなくて、仕方ないことだったのかも」という気になることもある。どっちが当たってるのか、わからない。
文献に書いてあってそれを読んで得た知識でも、あらためてそれを自分の力で発見するというプロセスがなければ、身につけることは出来ない、みたいなことを言ったのは、三浦つとむだったか宮下真二だったか。
そういえば、知識と理解・思考は相互排他的なものではない、と言ってたのはこの方だったかしら。読み直したら何かヒントが見つかるか。
<人格的にはとってもやな奴だけど、けんきう者としてのセンスは抜群>という人と、<人格的にはとってもいい人だけど、けんきう者としてのセンスはアウト>という人と、どちらと共同研究をするかと言われたら、恐らくぼくは前者のタイプの人を選ぶと思う。ただし相手もぼくのことをけんきう者として認めてくれていればという条件がつくけど。つまりぼくは非EQ主義的な人。
昔いたIPAというところには、<人格的にもけんきう者としても優れている><人格的にはだめだけど、けんきう者としてのセンスは抜群><人格的にはとってもいい人だけど、けんきう者としてのセンスはアウト><人格的にもけんきう者としてのセンスもだめ>の4タイプが全部揃っていて、面白かったり疲れたりした。
それから、<センスはないけどけんきう職についてしまって何となく業界で生き残っている>という人と<センスがあるのだけれど、どういう事情かは分からないけれども、けんきう職への道から外れかけている>という人とがいて、なんか切なかった記憶もある。
わけあって更新を休んでました。
何回アクセスしても前と同じ画面なのは、キャッシュを読み込んでいるからではなくて、更新されてないからなのです。恐縮。
「もんしろちょう潰し」もいいけど、「オエカキイミロンキライ」もいいな。
けんきう・きょ〜いく関連のコンテンツは けんきう室<http://www.surugadai.ac.jp/prof/ahonda/>に移します。
このページはこのまま。このサイトのトップページはどうしようか迷っているところ。今のところ有力なのは これだけ にするという案。つまりこのサイトの性格は全然変わってしまうわけです、はい。
リンクだけはっておきます。
なにげに新しくなってます。(←ってこういう場合、「なにげに」って自分で言うか?)
繰り返しになるけれどもぼくのリンク集はお友達紹介ページではありませんし、
(といってもこのリンク先を書いた頃にはリンク集は作ってなくって、文中リンクしかしてなかったのだけど。)
お友達への挨拶ページでもありません。念のため。
「おすすめ」は、真理条件的には近いかもしれないけど、概念的にはどうかしら。
「認知」に興味を持つ言語学者の大半は、生成文法系であるか「認知」言語学系であるかによらず、共通してある特殊な心理学観を抱いている、とぼくは思っている。それは一言で言ってしまえば
行動主義なんて、屁の役にも立たねえ!
というようなものである。
現在中堅ないし若手として活動している言語学者の中にチョムスキーによるスキナー批判をちゃんと読んだ人がどれくらいいるかは分からないが
(ごめんなさい、ぼくも読んでません。)
今の言語学者は「とにかく行動主義はだめ」という考え方をいつのまにか植え付けられながら育つのだ、とぼくは思う。すくなくとも、ぼく自身はそうやって育ってきた人間の一人である。(←結局自分をもとに一般化しているだけ? 違うと思うけどなあ。)
だから、行動主義の流れを引いていると思われる行為分析にも、ちゃんとぶつかる前から色眼鏡で見てしまう。ここで唐突に話をメタな方に持っていってしまうと、「色眼鏡で見る」ということができるということ自体、「頭の中にあるもの」の存在証明みたいなものじゃないかと思ったりもするわけである。そして『うまくやるための強化の原理』を読んだときにも、
「話の進め方が大雑把で荒い」
と感じたり、
「この本はあまりに多くのことを「所与」として書かずに済ましているような気がする。実際にはこの本に書いてないことをいろいろと考慮しなければうまくいかないのではないか。それはたとえば「心の理論」みたいな「頭の中にあるもの」だ」
みたいに思ったり、
「そもそも何が好子になるかが人によって違うから厄介なんじゃないか」
と暴言を吐いてみたくなったりしたわけだ。
でも、何か気になるのです。
まず第一にあの本、心理学をやる日記書きのひとびとの間ではとっても評判いいみたいだ。
第二に、ぼく自身、頭の「中」に何かあるということは否定しないけれども、でも「中」だけではだめで「外」も見なくちゃいけなくて、どうせなら「中」と「外」の境目もなくしちゃったら、みたいに思っているわけで、そうすると、「外」をメインに見る文献も見なくちゃいけないことになる。
第三に、学生との関係。
ということで、まず『うまくやるための強化の原理』をもう一回読み直そう。連休明けたら。
この方にもずっと前から注目してます。といっても学術論文は読んでなくて、雑誌に載った文章とか本とかだけしか知らないのだけれども。
時枝のテクスト論、てゆうかあの人の場合は「文章論」だったかな、あれをね…
これ以上債務を増やすわけにはいかんのですよ。それでなくても今あれが進まなくて鬱なのに。