きざし(2000年4月)

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最終更新 2000/4/30 18:24

研究室のサーバーは廃止することにしました。現在、大学内の別の場所にサイトを開設準備中です。


4/30

ぼくの悪い癖。

誰かから何かを期待されているように感じたときに、その期待にストレートに応えずに、すっと身を反らしてしまうこと。

う〜ん。


4/29

氷水

IPAにいた頃、ぼくはよくノートパソコンで仕事をしていました。ただし、コーヒーを飲みながら仕事をするということはありませんでした。といってもそれは機械の安全を考えてのことではなくて、まして飲食が禁止されていたわけでもなくて、ただ単にぼくが基本的に自分でコーヒーを選んで飲む人ではないということ。出されれば飲むけど、自分でほしいとはいわない。んで、冬場は緑茶を飲みながら、そして夏場は氷水を飲みながら仕事をしていました。 こぼしたことはないと思います。電源入れっぱなしで帰っちゃったことはあるけど。

氷水は、飲みながらというよりは、ぼりぼりと氷を噛みながら仕事をしていました。氷を噛む音というのは、自分では特に何も考えていなかったのだけれども、結構まわりに聞こえるようです。せんべいを噛むときと同じくらいの音が出るらしいのです。そしてそれは、周りの人にとっては結構不思議な音だったようです。

本多さんの口からぼりぼりと音がするんだけど、でも、近くに食べ物が見当たらない。せんべいもあられもおかきも何もない。でも何か食べてる音がする。いったいあの人は何を食べてるんだ?

という感じで。

普通の人は氷ぼりぼりなんて子どもじみた品のないことはしないので、分からなかったようです。ある時ちょっとしたきっかけで真相を知った某さんは、「そうだったの」と本当にびっくりした様子でした。

氷をぼりぼりやるというぼくの癖は、特に実害はない、と当時のぼくは思っていました。IPAの人々とはいつも一緒に働いていて冗談とかも言いあう仲だったから、別に恥ずかしいとも思わなかったし。でも、これには意外な落とし穴があったのです。

ある日ある時ファミレスに行ったぼくは、出された氷水を飲み干した後、気がつくと…

やっぱファミレスではちょっとまずいです。習慣とは恐ろしいものだと思いました。でもIPAではそのあとも懲りずにやり続けたけど。

 

 

Mary killed John.

最近のぼくは、授業で使う例文としてMary killed John.というのをよく出す。主語がMaryで目的語がJohn(逆ではない)、そして動詞はkill。

主語がMaryで目的語がJohnであって逆ではない、というのは、「理論言語学の例文では主語が男性で目的語が女性ってのが多いけど、これは男性と女性の役割に関する見方が歪んでいることのあらわれじゃないの?」という指摘をどこかで見たため。

(そういえば昔はbeat his wifeなんてすごいのを好む人がいたっけ。)

もちろん言語学者はそんなつもりで例文を作ってるわけではない。でも、「差別しているつもりはない」から「差別していない」を導くことはできないというのがぼくの見方なので、「そんなつもりで例文を作っているわけではない」という反論は却下せざるを得ない。

「例文なんて大したことないじゃん」「どうでもいいじゃん」という反論もありそうだけど、どうでもいいと思っていて特に意識をしない(メタ認知によるモニターが弱い)ことだからこそ、かえって概念構造がむき出しのまま出てくる、という可能性もある。

ということなので、最近のぼくはMaryを主語、Johnを目的語、という書き方をしているわけなのです。

そして動詞のkill。何でこんな物騒なやつを使うかというと、他動性の問題。killが表す出来事は「意図的(でありうる)」「主語から目的語への働きかけがある(多分)」「目的語に変化が起こる(生→死)」というもので、だからこれは他動詞の例としては非常に優れている。

ということで例文一つ作るにもうねうねといろいろ考えてしまうわけだが、でもこのMary killed John.という一見非の打ち所のない例文にも、けちをつける人が現れてくるかもしれない、とごく最近になって思うようになった。それは

本多がMary killed John.という例文を多用するのは、男性に較べて女性の方が攻撃性が強いと思っているからではないのか。

という人が出てくるのではないか、という気がしてきたのだ。実際には(まだ)そんな人はいないけどね。

loveとかrespectとかを使えば平和的でいいのだろうけど、それでは他動詞構文の例としてはあまりよくならないのだ。

 

 

国語学者 (4/29)

「瀬を早み」の「を」をGB理論の道具立てを使って説明しようとした方でしたっけ?

ちなみにぼくの周りにいる認知言語学者の中には、山田とか時枝とかの影響を受けた(あるいはその影響から脱しようとしている)国語学者と仲がいい人が結構います。関西は違うということなのかしら。


4/28

本当か?

水曜2限の英語。毎週小テストやってます。2単位ってのは授業時以外に毎週1時間の自学自習を含めてのものだから、いいのだ。

水曜3限の講義科目。今の調子だと毎週宿題が出そうです。4単位ってのは授業時以外に毎週4時間の自学自習を含めてのものだから、いいのだ。

水曜4限の英語。連休明けに最初のレポート書いてもらいます。2単位ってのは授業時以外に毎週1時間の自学自習を含めてのもので、その一部を貯金しておいて、2〜3週間に一回のペースで一気に吐き出してもらうのだ。連休中に書くようにしなかったのは、「遊ぶときはしっかり遊べ」という親心ではなくて、単に進度が遅いだけ。

ということであっちの授業もこっちの授業も宿題まみれなのだが、「単位」の趣旨を考えれば何も問題はないのである。って本当か?

 

 

今年の学生

某曜日に二つぼくの授業をとってる人とか、火・水・木の3日間一つずつぼくの授業をとってる人とか、いたりする。そうなる事情は人それぞれ。

で、違う授業であれば当然(そう、当然)中身も違うわけで、でもってもちろん宿題も違うわけで。

がんばりましょう。

 

 

木曜午前

1限の授業が始まる前。研究室にいたら(この時はドアを閉めていた)、前回の授業で配布したプリント(段ボール箱に入れて廊下に置いてある)を取りに来た気配。誰だか分からないけど、この人は講義要項をちゃんと読んでいるらしい。えらいえらい。授業時、「プリント余ってませんか」「研究室どこですか」と聞きに来た人。ちゃんと講義要項を読みましょう。

2限が空き時間になっているのがとってもうれしい。2限に授業があると、授業が終わるとばたばたと研究室に戻って荷物を置いて、食堂に走って(別に走らなくてもいいんだけど、でもあの中庭をのそのそ歩くのはなぜか嫌なので、走る)、食べ終わるとすぐ脳みそ半壊状態で会議で…という感じでばたばたばたばたしてしまうのだが、2限が空くとしばらくぼ〜っとしていられるので、結構生き返るみたいです。

 

 

木曜午後

今年は毎週会議がある模様。去年も回数はそこそこあったけど、実質的な仕事はほとんどないという立場だったのだが、今年は某多忙な委員会に配属されていて、その関連の集まりに出るとそのたびに新たな宿題を抱えて帰るという感じ。昨日もまた宿題もらいました。

 

 

ということで

怒涛のようにコマが押し寄せ、もぐらたたきのように宿題が発生する一年になりそうな気配の今日このごろ。「宿題」ってのは学生に出す(チェックもしなきゃなのよん)のと、委員会関係と。


4/25

ごくらくごくらく

昨夜はこのページを書いた後すぐに寝てしまった。21時半くらいには眠っていたのだろうと思う。夜中に起き出して風呂入って歯磨きをするつもりでいたのだが、目が覚めると1時過ぎ。めんどくさくなったのでそのまま朝まで眠ることにする。7時半くらいに起床。

食事のあと朝風呂。極楽極楽。

授業は午後から。今日の午前中は打ち合わせも何もなかったので、ゆっくり行けばいい。のだが、2限にちょっと遅れるくらいの時間に出かけていって、準備など。

 

 

他学部と共通のくりしんゼミは定員充足。

だが、全員に志望理由を言ってもらったところ、「マンが好き」云々がほとんど。おまけに全部男子。つまり、びしびしと脳みそを鍛えるまじめな演習だとは認識されなかったらしい。一名だけ、「言葉について考えてみたい」という人がいた。彼は現代文化の学生で、確か去年のぼくの講義科目を取っていたはず。そのあと、大幅に遅れて来た学生が一名いたので、彼にも理由を言ってもらったところ、意外にも彼の口から「物の見方・考え方」という言葉が出た。

教科書買ってない学生もいたりしたので中身には入らず、とりあえず授業でやるべきことを指示した後、担当部分を割り当てる。そしてその後連休中にやるべき宿題を出した。まず教科書を通読すること。んでもって、配布した資料に書かれているもの(4コママンガ3つ、と、それから例の週刊ストーリーランドでやった殺し屋の話)が教科書のどの部分に関連するかを考えてくること。

そういえば昔この演習でやった「英訳された日本のマンガを読む」という内容の授業では、講義要項では「マンガ」とは一言も言わなかったのだった。そしたら結構まじめな人々が来ていた。そうか。来年はタイトルから「『OL進化論』で学ぶ」を削除することにしよう。

 

 

1年生の英語の授業。

例のFAクラス。ぼくは入学式の日もオリエンテーション旅行の日もきつい態度で臨んでいたので一時はぎすぎすした雰囲気になっていたのだが、例の入試のときのことを覚えていた学生の影響なのか、何となく和やかな雰囲気になりつつある模様。

でもひ弱は捨てるという方針は堅持せねば。

 

 

3年生の演習。

去年も思ったのだが、もとから現代文化にいる学生と、3年次編入(など)で今年から現代文化に来た学生とでは、「学ぶ」ということに対する姿勢が全くといっていいほど違うように感じられる。

今年は編入学生が異様に多いので、ちょっときつくなるかも。時間延長してでも、とにかくちゃんとやらなければならないのだ、という姿勢が身につくまでは、やります。時間がくればそれで逃げられるのだ、という姿勢は捨ててもらいます。

今日もいきなり延長したし。


4/24

午前中の非常勤

先週と同じ時間に家を出たのだが、途中で乗り継ぎがうまくいったのと、研究室までの近道を教わったのとで、早めに到着。早すぎてまだ研究室が開いてなかった。荷物を持ったままトイレに。その後キャンパスをうろうろしている間に、自分のお間抜けぶりに気づく。ぎゃ〜、ここは女子大。変質者と思われたかも。

演習の授業なのだが、序論ということで、私のレクチャー。教科書に書いてあることを微妙に修正しながら話す。終わらず、次回にずれ込む。

授業時間終了後、先週残った学生がまた残って質問。ディスカッション。

そういえばあの教室、やっぱり夏はクーラー無しらしい。こうなったら融ける覚悟で。

 

 

午後の非常勤

先週の出席者が73人だったので、「ちょっと多めに」と思って80部プリントを刷っていった。喋りはじめに確認したら残部が6〜7部だったので「よしよし」と思っていたが、途中で見たらいつのまにか無くなっていた。 終わったあとにプリントを持ってない人の数を数えたら5〜6名ほど。遅刻者に配慮する必要はなかったのだということを思い出したのは、これを書いている今。 いずれにせよ、来週から90部刷らなきゃいけないらしい。

言語と思考の話で、semilingualismの話。小学校の英語教育なんて、セミリンガルを大量生産するか、効果がないかのどちらかしょ、なんて過激な発言もした。今年は資料つき。

その他、「擬音語や擬態語が言語記号の恣意性の例外であるという噂は本当なのか」とか「クラゲ(風生物)と人間の身体と認識と言語の話」とかは去年と同じ感じ。

 

 

メール書かないといけないのかなあ

某件。

 

 

「酒池肉林」

「肉」って…


4/23

「裏学生新聞」ここ

学部は違うけど、うちの大学の学生が作ったサイト。テキスト中心で面白いです。駿河台の学生のサイトにはリンクをはらないという原則を破ってしまったのはウェブ日記に関するアンケート 結果報告というものがあるからなのでした。

早く就職決まってほしいです。

 

 

クリティカルシンキングがなんちゃらかんちゃらという英語の教科書

いまいち論理性に欠ける面があるということを発見。というかそれを見抜いたのは受講学生。まあフォローしながらやっていきましょう。

 

 

説教

そういえば先日、今年から駿河台大学に勤めはじめて現代文化学部担当になった某事務職員がとんでもない勘違いをやらかしていたので、説教してやりました。

その人

事務職員って、緊張します。

誰か

なんで?

その人

だって学生だったら先生に対して馴れ馴れしくできるけど、職員はそうはいかないじゃないですか。

いや、某学部とかだときついかもしれないけど現代文化学部だったら相当暴言はいても大丈夫。

別の事務職員

そうそう私なんて○○先生に…(以下覚えてない)

うちの学部はお茶目を楽しめる教員が多いのと、職員の人がものすごくよく働いているということを教員が理解しているのとで、こういうことになるのです。

 

 

そうそうこれ

ぼくが一限の日に利用するバスはもうちょっと早い時間帯で、もっと混んでます。

後ろの方の真ん中よりちょっと右寄りにぼんやりと見える高い建物が第二講義棟というやつ。


4/22

入試の記憶

今年度FAをやってるクラスの学生の中に、ぼくが推薦入学のときの面接を担当した学生がいる、らしい。実はぼくはよく覚えていないのだが、その学生の話によると、もう一人の先生がした質問に対して答えられないでいたら、ぼくが「難しいよね」とか何とか言ってフォローしたのだそうだ。

言われてみると、そんなこともあったかなあという気になってくる。面接した人数を考えると、あの日会った人が一人くらいぼくのクラスにいても全然おかしくはない。またあの日の面接は落とすためのものではなかったから気楽に気楽にというスタンスだったわけで、だからやさしい態度になっていてもおかしくはなかったわけではある。

でもやっぱりはっきりとは思い出せないのであった。う〜ん。

 

 

以前

2年続けて現代文化学部を受験して、2年続けてぼくが試験監督だったという学生がいた。その人の2年目はよく覚えています。1年目は、そういわれてみればあの辺に座っていた人かなという気になったのであった。

 

 

逆に

ある学生が合格したときの入試の監督がぼくで、そのことをぼくの方はちゃんと覚えているのだけれども、その学生の方はそのことをすっかり忘れていた、というのも1件ある。

 

 

年齢

相変わらずぼくは年齢不詳で、しかも年よりずっと若く見られているらしい。

学生その1

せんせい、年は何歳ですか?

学生その2

「いくつに見える?」とか逆に聞いてきそう。

ぼく

そうそう、いくつに見える?

学生たち

大学院は出てるはずだから…

ぎぇ。そういうコメントが出るということは、外見的には学部出たばっかりの人と同じくらいに見られているということではないか。うみゅみゅ。

そういえば先日の某集まりでは、ぼくのことを学生アルバイトか何かだと思ってるような人もいたし、別の人は、ぼくがばたばた走り回っているのをみて「こいつが下働きやってるのは入ったばかりだからに違いない」とでも思ったのか、「2年目ですか?」とか聞いてくるし。

学生からはどう見られても別に苦にはならないのだけれども、学生と変わらないような年齢(に見える外見)の人に対して無意味に(教育的何ちゃらとかとはまったく関係ない次元で)偉そうな態度を取るをぢさんやをばさんに出会うと、ぐったりと言うか、へどが出るというか。

 

 

開放系

今年度は(といってもまだ始まったばかりだけど)、研究室にいるときは、特別に重要な仕事をしているとき以外は(つまり人が来たときに対応できる精神的・時間的な余裕があるときには)、部屋のドアを開けっ放しにするようにしている。開けておいたからといって来客が増えるとかそういうことはないのだけれども、何となく閉じこもりたくない気分の今日この頃。

 

 

変温動物の日常

この時期、私はすでに学内をうろうろするときは上着を着ないワイシャツ姿で、しかも腕まくりをして動き回っている。先日、これが某観察力あふれる事務職員に見つかってしまった。

その人

暑いですか?

ぼく

動き回っていると暑いんですよ。

その人

冷房はまだですよね。

ぼく

そうですよね。

はい。いくらぼくがお馬鹿でも、この時期に冷房を入れろなどとは申しません。てゆうか冷房なんて入れられたら逆に体温が下がりすぎて困るんです。しょせんぼくは一介の変温動物に過ぎないので。


4/18

パズルの解き方

ふたたびオリエンテーション旅行のときのパズルの話。あれは「The T」という名前のパズルで、4つの部品を組み合わせてある形を作るというもの。ただその「形」というのが確か15種類くらいあった。「T」の形とか、「↑」とか、船の形とか、台形とか、あと覚えてないけどいろいろ。

そのパズルに対するアプローチの仕方が、同室になった某きょ〜ぢゅとぼくとでは全く違うということに、ぼくは気づいていた。

そのきょ〜ぢゅのやり方は、こうである。あ):最初に、どの形を作るか決める。い):その目標の形を完成させるために、「こうしたらいいのではないか」と仮説を立ててそれを実行してみる。それがだめだったら別のやり方を考える。

それに対してぼくのやり方は、こうである。1):部品を適当に組み合わせてみる。それまでの組み合わせ方に縛られないように、できるだけランダムにやってみる。2):「どうやら何か形になったらしい」という感じになったところで「形」リストを見て、自分が作ったものがそこに載っているかどうか調べる。

このやり方で、私は短時間にいくつかの図形を完成させた。某きょ〜ぢゅは私のいない間に挑戦していたようだったが、いくつ完成させたかは聞きそびれました。

私のやり方は、「途中の段階ではいったいどちらの方向にどれだけ進んでいるのか皆目分からないが、でも結果を見てみるとそれなりに成果はあがっている(こともある)。いろいろなところでいろいろな問題を解決できるが、でもどの問題が解決できるかは事後的にしか分からない」という感じ。それに対して某きょ〜ぢゅのやり方は「何をやろうとしているかが明確。進捗状況の報告も可能。ただし、目標が明らかであるということと、実際に目標までたどり着けるかどうかということとは別。どの問題に取り組んでいるかは明確だが、一つの問題が解決しないと別の問題に行けない」という雰囲気。

実はこの違い、他のところにも出ているような気がする。というか、私の研究のスタイルは、このパズルを解くときと同じなので、だから中間構文の論文の次に突発的にアスペクトの論文を書きはじめたりしちゃうのである。いろいろなきっかけで材料が揃ったものをそのときの気分で論文にしちゃうのである。「この道一筋」で一つのトピックを何年にもわたって追求するタイプではないのである。目標を定めてそちらに向かってびゅ〜んと進んでいくタイプではないのである。

それでここ数年の私の悩みの原因の一つが分かるということになるのである。それは、私がこういう「行き当たりばったり型」のやり方でいくつかの研究成果を出したのを、「目標に向かってびゅ〜んと進んでついに目標までたどり着く型」のやり方を繰り返すことで(つまりそれぞれのトピックに関して行うことで)達成してきたと思われている節があるのだ。

私の研究活動を評価してくださる人がいるのは大変うれしいのだが、でも、外から枠を与えられて「この中でやって」といわれると大変なことになる、というのがこの数年の経験から学んだことなんである。

要するに私は共同研究向きではないということだ。共同「研究」どころか、共同「作業」全般に向いていないということだ。うにゅ〜。

 

 

たとえば

授業やるのは演習よりも講義が好き。講義も、概論的なものではなくて、カリキュラムのはしっこにあって、バランス感覚欠いていてもそれほど支障が出ないもの。教科書を使わず、プリントで。な〜んか全部つながっているような気がする。


4/17

受けてしまったらしい。

午前中の新規非常勤。「なぜか日本語学演習」と「なぜか」を強調する私。それだけだったら別にどうということもないのだが、そのすぐあとに「専門は英語学で、英文科の○◎先生と◎○先生の後輩に当たる人間です」と言ったら笑いをとってしまった。こんなところで受けてどうする?

でもちゃんと日本語の研究もやってることも言いました。女性ばかりの部屋で「人妻」のことを言うのはさすがにはばかられたのでやめましたが。

初回なので早めに終わらせるつもりだったのだが、のろのろやってたので遅くなってしまった。おまけに授業終了後初回の担当学生が残って質問に来る。どうやらいろいろと説明不足だったらしい。そしていつのまにか教科書の練習問題についてのディスカッションになり、気がつけば20分超過。この大学チャイムが鳴らないんだ。

ま、ぼくは午後の非常勤は遅くしてもらったので全然構わないんだけど、研究室に忙しい専任の先生を待たせてしまった。でもやっぱ学生優先かな、こういう時は。

そうそう、同じ授業の担当教員に大学院の終わり頃一緒に授業に出ていた某氏がいることが判明。「国広系のテキストは使わない」というぼくの選択は正解でした。使っていたら彼女とバッティングするところだった。

 

 

午後の継続非常勤

やっぱり不便な場所である。次回からはメインキャンパスの控え室を使おうとか思ったりする。

教室はまさに最果て。離れ小島キャンパスのの建物の4階(名称上は5階)で、しかもエレベータもない。健康的。んで、肝心の学生はというと、やっぱり土曜日とは違って月曜なのでそれなりに来ていました。

大教室。去年も大教室だったが、あえてマイクは使わなかった。人数が少なくて空席だらけなので、聞こえなかったら自由に前に来てください、というスタンス。今年はそれなりに人がいて学生も動きづらいだろうし、お喋りが始まったら地声では収拾がつかないし、ということでマイク使用。

何をやるかを長々と説明した後、終わりにする前にぼくの一言:「次回からプリントを用意するので、人数を数えます。今の話を聞いてとろうと思った人だけちょっと残ってください。やめたという人は先に出てください」。本当にみんなとる気なのかそれとも出づらかったのか、一人も立とうとしない。

数えたら73人。去年の初回の3倍超。プリント印刷して運ぶの、しんどそうです。

去年の資料をpdf化したもののアドレスも教えた。80ページくらいあるので印刷すると大変なことになります、と脅しておきました。

そういえば控え室で現代文化学部の専任教員の名前発見。う〜ん、あの大学にはうちの学部からぼくも含めて3人行ってるわけね。

 

 

両極端な一日

手厚くお世話をしてくれるところと、自由放任のところと。一日で両方経験すると、インパクト大きいです。

 

 

う〜JRめ

山の手線内を自由に乗れる回数券が廃止になっていたことが判明。ぼくにとっては大打撃です。


4/16

アクセス数は期待感の現れ

「一生懸命書いた日記をアップした日はアクセス数が増えて、手を抜いて日記を書いた日は、アクセスが減る」みたいなことを書いた日記を最近どこかで見た記憶があるのだが、気のせいだろうか。まあ気のせいかどうかはどうでもいいとして、その記憶との関連でぼくが考えているのは、「気合いの入れ具合の変化がアクセス数の変化として現れるってのは、自己中心的な勘違いである可能性が大きい」ってこと。

それはどういうことかというと、読者が「今日は気合いを入れていいこと書いてるなあ」とか「今日は手抜きでつまらないなあ」とかと判断するのは、アクセスしてしまった後だ、ということ。アクセスする前には気合いが入ってるかどうか分かるわけないのだ。まだ読んでないんだから。したがって、読者のアクセス行動とアクセス数の組み合わせとしては、「一生懸命書いたのでいいことが書いてある→読みにいく→アクセスが増える」とか「手を抜いたのでしようもないことしか書いてない→読みにいくのはやめる→アクセスは増えない」とかということにはならないわけ。

もちろん、「気合いを入れていいことを書いたらそれに注目した誰かがリンクをはってくれてアクセスが伸びた」とか「気合いを入れていいことを書いたらそれに注目した誰かがメールなり何なりで他の人に紹介してくれてアクセスが伸びた」とか「気合いを入れていいことを書いたらそれを気に入ってくれた誰かが一日に何回もみにきてくれてそれでアクセスが伸びた」ということはありうる。でも、こういうのって、そう頻繁にあることなのかしら。アクセス数の推移が気合いの入れ具合の変化ときれいに対応するという程度まで頻繁にあることなのかしら。

ぼくの見方では、アクセス数の推移というのは、「このページはそろそろ更新されているのではないか」「もしかしたらまた面白いことが書いてあるのではないか」という、「これから」に関する期待感の現れだろうと思う。んでもって、「これから」に関する期待感は「これまで」に関する全般的な評価を反映するものではある。が、一回一回の日記に対するアクセス数がそれぞれの日記の出来具合(←気合いの入り方)を反映するということはありえない。

ただし、書き手の願望として、「今日は一生懸命書いたからぜひたくさんの人に読んでほしい」という気持ちになるのは分かる。だが、それだからこそ、アクセス数の推移が気合いの入れ方を反映するという見方は自己中心的と言わざるをえないのだ。

ちなみに、同じことは時間的な推移だけではなくて空間的な(?)ものにも言える。つまり、あるサイトの中で一生懸命書いたページが手抜きしたページに較べて飛びぬけてアクセス数が多くなるとは限らない、ということ。ある一部のページだけが頻繁に更新される(たとえば日記ページみたいに)ということではなく、どのページも同じように更新される(あるいは同じようにしか更新されない)ということであるならば、作成時の気合いの入れ方の違いがアクセスの違いとして反映されることは、リンク/紹介/奇特なリピーターの存在がない限りは、あまりないのではないかと思う。

 

 

追記(2000/4/17 0:25)

リロードする人がいるのを忘れてました。でも「今日はよかったから再読み込みボタンを押す」という人ってどれくらいいるの?

 

 

もう一つ追記(2000/4/17 0:28)

一生懸命書いた日と手抜きの日では一行コメントに差が出る可能性があるのも忘れてました。これは効くかも。

 

 

おしらせ

ついにトップページからのリンクを外しました。


4/15

メールの威力その1

この3月いっぱいでよその大学に移られて非常勤でもいらしてなくておまけに引っ越しもされて住所も電話番号も分からない(事務局でも把握していない)人と一発で連絡が取れて、私はとってもうれしいのであった。

 

 

メールの威力その2

大学の機械はもちろん専用線でインターネットにつながっていて、自宅の機械もプロバイダ経由でインターネットに接続できるんだけど、でも大学宛てに届いたメールは自宅では読めない、プロバイダ宛てに届いたメールは大学では読めない、って人がたまにらっしゃ

みんなあ、ドットコムもいいけど(←全然無関係)、そろそろドットフォワードもマスターしようぜ。

 

 

またもやお仕事勃発

最近ちょっと気になることがあったのですが、そんな動きがあったのですね。さてと…


4/14

4/12 (水)。3こま。

2限は英語。

教科書を買っている人がほとんどいないので、プリントを配ってゆっくりとお勉強。

 

3限は講義科目。

人数は多くないが、教室の規模に見合っているのは確か。やはり誰も教科書を買ってないので、進め方と評価の説明の後はその場で思い付いたトピックのいくつかに関して、例文を黒板に書いて質問。「seeとlook、確実に見えてるのはどっち?」とか「「私は馬鹿だと思われるのは嫌だ」と「私は馬鹿だとばれるのは嫌だ」、本当に馬鹿なのはどっち?」とか。学生の中に、たのしげに考えながら積極的に答えを言ってくる人がいた。あれが例の某さんなのかは今のところ不明。

 

4限の英語。

やっぱり教科書を買ってない人がいたので、とりあえず公共の場で携帯電話を禁止すべかかどうかという問題について各自考えてもらう。自分なりの意見をまとめるのではなくて、これを使って「賛成」「反対」両方の主張を考えてもらう。見回っていたら、こちらが全部説明する前に完璧に趣旨を理解して先回りして書いてくれている人がいて、うれしかったり。

 

途中

石山きょ〜ぢゅ(仮名)と学生の面談に立ち会う。きょ〜ぢゅも学生も他学部なのになぜってあなた、なんか文句ある? あと、某サークルの活動報告と会計報告にはんこ押したりとか。

 

4/13 (木)。授業は1こま。

1限の講義科目

受講者半減。理由は分かっていて、二つ。一つは1限であること。も一つは、必修科目とバッティングしているクラスが2つあること。去年は水曜3限で、しかも必修とのバッティングはなかった。これでもし減ってなかったら、それは去年が少なすぎたということになる。どういうトピックを扱うかを説明。「人妻」もやります。去年どこかに書いた、内容を精選する作業は、授業の進み具合を見ながら、おいおい。

終わった後、FAやってるクラスの学生が教職課程の手続きについて質問に来る。ぼくは教職課程の事務手続きのことは分かってません。ただ、「分かってない」ということは分かってる。それで、「教務課行って」。「FAだから聞きに行ったのに」という感じで期待外れと思われたかもしれないけど、まあ、いい加減なことを教えるよりはいいでしょう。

 

2限は空き時間

この時間をオフィスアワーにしようかと思ったこともあったがやめたのは、ぼくの担当クラスの必修科目が入っているため。たまにそういうことを全然考えないでオフィスアワーを設定する人がいるんだよな。もちろん関係書類には「そういうことを考慮してほしい」なんてことは一切書いてないんだけど、でもそれを言い訳にする人がいたら私はその人を軽蔑します。

とりあえず暇だったので例の名古屋大学のティップス先生を訪問。「できすぎぃ〜」とか思いながらあちこち見ていたら、どうやら大勢でプロジェクトチームを組んで作ったものらしい。

昼休みに某会議が入っていたので早めに昼食を済ませる。

 

昼休み

メインの議題は問題なしだったのだが、突然持ち出されたおまけの某議題は例によって例のごとくの展開。このパターンはあと1年変わらないでしょう。1年経ったら自然消滅するのだ、きっと。

 

その後1コマ分のお休み。そしてその後

今年から新規に所属することになった某委員会の会議。予想通りの和やかさ。これがほぼ1こま分。途中で、ある仕事をボランティアで引き受ける。と言っても、その部屋の中にいる誰かがやらなけばならない仕事で、しかもそれに一番関係している2人のうちの一人が私なので。

 

その後ほとんど休みなしで

この日3つめの会議。こちらは去年からの継続。ぼくに関連する議題が二つあって、一つはぼくが報告係。も一つは予想外の展開になりました。これからどうなるか、ちょっとまだ分からない(←って自分のことなのに、こんなんでいいのかしらん?)。

 

研究室に戻って

うっ! はいはい、どうせ悪いのは私です。分かる人はちゃんと分かってくれる? そうですね、目糞鼻糞だってことを見抜いている人は多いと思います。

 

バス停に向かう途中

某事務局に寄ったら、突発的に仕事発生。この仕事を私がやらなければならないということは、ある意味非常に悲しいことだということに今気がついた。

 

バスの中

某きょ〜ぢゅと一緒になる。この人はさっきぼくがボランティアで引き受けた仕事に関係する二人のうちの一人。ということで、仕事の一部を押し付ける分担していただく。

 

さらにその後

さっきの新規の委員会の新旧委員の懇親会。「本多は見かけほど下戸ではない」「本多は酒の味を味わうタイプではなく、アルコールの力を借りて脳みそを軌道修正活性化することを好むタイプである」ということを見抜いてしまった某きょ〜ぢゅが、注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぐ注ぎまくる。

長いテーブルの真ん中辺りに座っていた私は、気分次第でこっちの話に参加したりあっちに混ざったり。地の利です。

 

ということで

いろいろあった一日だが、「もう嫌こんな生活」という気分になったのは某一件のみ。

 

4/14 (金)。休日。

金曜日を休日にしたのは大正解。金曜の午後にパソコン教室を開く某ぢょきょ〜ぢゅのお手伝いができないのは残念ですが、でもやっぱりうちでゆっくりしたい。

電話とメールとファックスで例のボランティア仕事。電話はまあ順当。メールとファックスは、早急にお返事ください。ってここに書いても意味ないんだけど。


4/11

すれ違わない議論のために

あるいは、二つのグループが、それぞれ自分の言いたいことだけ言って相手の話は聞かない、という状況を避けるためには、何かについての賛成意見と反対意見を出し合うだけではなくて、こんな感じのことをやるべきだろうと思うのだけれども、教科書はそこまでは行ってない感じなのである。

この先にはさらに「重みづけ」ないし優先順位の問題があるのだが、ぼくもそこまでは行けそうにありません。

 

 

立場

新1年生のためのオリエンテーション旅行。クラス別何ちゃらのとき、4年生の陰謀配慮により、学生のゲームに参加。椅子座布団取りゲームで立場を忘れて真剣にやってかなりのところまで残っていたら、文句を言われました。しょせんその程度なのです、私の精神年齢なんて。

言われた次の回で、無気力まるだしで見事敗退。

その次の回で、某新入生が同じように敗退。彼を追いかけて、持っていた紙筒でなぐる、真似。ぼくと同じような敗退の仕方をするのは許せない、というよりちょっと気になるのであった。

 

 

ゲシュタルト心理学とパズル

ホテルの居室においてあった4ピースの組み合わせパズルはまさにゲシュタルト心理学の教材そのものであった。よくない図形の分割の仕方の見本。「よくない」と言ってもよくないからこそパズルとして成り立ってるので、だからパズルとしては、いい分割の仕方の見本ということになるのだけど。

でもあのパズル、思いついた人はすごい。きっとものすごく不自然な頭の使い方をしたはずだから。コンピュータ使ったのであればまた別だけど。


4/9

悩み

1998年度と1999年度は出講日に変化がなかったので過去2年間は基本的に同じ時間割だった

(1限と4限が入れ替わるとか毎年一つずつ新しいのが増えるみたいなのはあったけど、「この科目はこの曜日」というのは変わらなかった。)

のだが今年は出講日を変えたあおりで時間割も大幅に変わった。でそれが、まだ頭に入っていない。

身体で覚えないとだめっぽい。


4/8

メタ言語日記

「やっぱり大学というところは素直まじめな学生と有能な事務職員が頭 and/or 性格の悪い教員に足を引っ張られながらも何とか運営しているところなのだということを実感した一日であった」と書こうかどうか迷っているところである。

迷いがなくなった時点でこの項は消滅するか書き換えられるかするはずである。そうすると次項の解釈が大幅に変わることが予想されるのだが、それでも別に構いません。

「頭 and/or 性格の悪い教員」にはぼくも含まれる。念のため。

 

 

つまり大学というのは

基本的には学生の自助努力によって成立するところなのですよ。

現代文化学部の対応の良さはちょっと例外的と思ってもいいかも。(ってちゃんと話がつながってる? はず。)

 

 

ちょっとした悪い予感のてん末

3件のうち1件は、ぼくの記憶違いに基づく杞憂であったことが判明。

2件めは、事務職員はちゃんと当てになるので心配無用であったことが判明。

3件めは、やっぱり杞憂。事態は正面突破できる見込み。

 

 

別の悪い予感

発生。とりあえず1件。

 

 

教務課他学部担当責任者の前で駄々っ子ぶりっ子

え〜」とか言ってしまった。「まあ本多せんせいはああいう人だから」と思われてもいいけど、でも一応事情は分かっててやったつもり。


4/7

入学式

の前に担当クラスの学生に学生証配布。一昨年のこの日のぼくは ほんわかとろろんひよわ系 だったが、今日はこわもて系。方針転換後初日、というだけではなくて、一昨年とは組む相手が違うとか、役割分担も違うとか、いろいろあって。

 

 

入学式

の会場にいく途中でサークルの勧誘の紙を何枚か貰う。新入生と間違われたわけではなくて、ぼくのことを知ってる学生から。冗談でぼくにくれたり、ぼくの方から半ば強引に奪い取ったり。

 

 

入学式

は体育館で。その後昼食。めったに一緒に食事をしない人と食べる。そこで引きうけた某小さな仕事のうち、半分ほどはキャンセルしなければならないことに気づいたのは数時間後。ぐったり。

 

 

会議

の前、ふらふらしていたら旧知の学生に会い、研究室のある建物の前で何十分か立ち話。よく喋る人である上に、ものの見方の鋭い人なので、いつまで聞いてても飽きない。

いったん研究室に戻ると別の学生が待っていた。こちらはきちんと対応する必要のある若干ややこしめの件。

 

 

会議

の合間にさらに某件で某事務局へ。睡眠不足がたたっておおぼけ爆発。職員を絶句の刑に処してしまった。うにゅにゅ。

 

 

会議

の後、研究室の掃除などしはじめたら、さっきの立ち話の学生がやってきた。要するに別野ぢょきょ〜ぢゅに用事があるんだけどつかまらない、というのを繰り返してしまったらしい。

ちょっと掃除を手伝ってもらうが、あまり効果なし。要するに本が多すぎるのだという結論に達する。本棚買わねば。

結局その学生は最終バスまでぼくの部屋にいた。ついでなので、電車も途中まで一緒に。

ぼくのオヨメサンの心配などしてくれる。でもそれって君おととしもそんな話してなかったか。進歩がないなあ、ってどっちが?

 

 

久しぶりに学生と話すと

刺激になる。なんかちょっと若返った感じ(←そんな年か?)おかげで今日はこのページに書いた量も多い。

年度が変わっても同じ学生と話ができるってのは、いい感じ。いつまでもあちこちで同じ顔に出会って息苦しいと感じる人もいるかもしれないけど。

 

 

帰宅後

寝て起きてこれ書いている。

 

 

これから

寝て起きて出勤。その後寝て起きて寝て起きてその後家から2時間かけて集合場所までいって車に乗って家のすぐ近くを通過しておでかけ。っていつのまにか月曜の話になっている。

 

 

ちょっとした悪い予感

3件ほど。

あたっちゃったらあたったで、何とかなるだろうとは思うのだけれども。

 

 

大学のホームページ

リニューアルされてます。

こちらが最新。 (2000/8/8 21:35)

4/4

たとえば

認知意味論のイントロの本のカテゴリー論の章を、「ミミズはね、あほだからね、あほざんすを知覚しながら暮らしているんだ」という大嘘で始めたら、私はあの仕事から無事外してもらえるのだろうか。

そして、「でもね、ミミズはね、わがままだから、穴ふさぎに使えない葉っぱは捨てちゃうんだ。つまり、使える葉っぱと使えない葉っぱをシビアに区別しながら生きてるわけね。ところでさ、区別とか分類とかってのは、言葉がなければできないはずだよね。ということはだ、ミミズってのはね、言葉を持ってるってことだ」という大嘘を続けたら、私は無事認知言語学界から追放してもらえるのだろうか。

もらえると、思う。

「昔はなかなかいい学者だと思ったんだけどねえ。途中で頭がおかしくなっちゃった」…誰かさんみたいだ。

 

 

「方言文法と英文法 (1) --- 宇和島方言の進行形をめぐって ---」の提出版

こちら経由でまわっていたければ見れます。

 

 

研究室のサーバー

廃止することにしました。現在、大学内の別の場所にサイトを開設準備中です。

 

 

他にあいてる券売機がいくつもあるのにあなたの後ろに立つのは

別に嫌がらせをしようとか、そういうことではないのです。回数券はこの機械でしか買えないのです。

でもあまりゆっくりされるとやっぱりイライラする短気な私♪ 11枚券が出るってことは、私自身人をすごく待たせることになりかねないのだ、ってことを分かっていて、それでもイライラする私♪


4/3

わこっわれったぴっあ〜のっさ〜

飴は恋われたピアノさ〜

って書き方をしたらやっぱり著作権に引っかかるんだろうか。

それはともかく、走ってる電車の中から見たときの、雨の筋がついた窓ガラスをtpicで書いたら、出来損ないの鍵盤みたいになりました。

言わずと知れた自己知覚の話。どっちに向かって走ってるか! って、6〜7年前の私立中学の入試に出た問題からうろ覚えで拝借。

ほんとに認知意味論の入門かよ、というクレームは却下。繰り返すが、私にやらせたらこうなるのだ。

 

 

でもあの人がつくった歌では

さらばシベリア鉄道とロックンロール退屈男が好きだった。ぱあぷるらんぱぱ…

 

 

なぜこの仕事が私に回って来たのか?

「順番だから」「いちばん暇そうだったから」「たまたま責任者の知り合いだったから」「物欲しげな目をしていたから」「他の人にやらせたらその人がかわいそうになるような、しようもない仕事だから」「仕事を回してあげないと、逆恨みされるから」

「能力が評価されたから」「余人を以て代え難いから」

最初の方の選択肢を思い浮かべることなく、いきなり最後の二つに飛んでしまう人が、私はある意味うらやましい。ある意味うらやましいが、そうなりたくはない。

以上、オフラインの世界の出来事をごちゃ混ぜにしたら出てきた感想。

 

 

不吉な記憶

大平正芳氏。


4/2

これってほんとにぼくの担当のところなの?

という根本的な疑問とか、「ぼくの担当だとして、でもこの作業ってほんとにぼくがやらなきゃいけないの」とかいう他力本願モードな疑問とかを抱きつつ、でもこの話を入れるんだったら誰かが絵を書かなきゃならなくなるわけだしぃ、などと思いながら、例によってtpicで作業。x座標とy座標を念頭に置きながら紙に点打って、いい加減に線引いて、やりました。ちなみにx座標はちゃんと左から右に進むんだけどy座標は上から下に進む。なぜこうなるかっつうと…テキストがそういう方向に進むからなのかしら。

あ、そうそう、実はずっと前からWindows用のtpicエディターも使ってるんだけど、結局紙で手計算しないと駄目だし、しかも最後の微調整はテキスト用のエディター(つまりいつものWZ)で数字入れ替えたりしてやりました。

というわけでお絵書きにこだわっているわけですが、別に「認知意味論は絵が命♪」というお絵書き意味論まるだし路線に転向したわけでもなければ図地分化に関係ある話をしているからでもなくって、ただ単に幾何学的な知識の話をしているからなのでした。「斜辺」とか「対角線」とかの話に絵がないのはまずいでしょ。まずくない? いやまずいの。

ちなみにラネカーは確か「斜辺」だけしか言ってなくて「対角線」の話はしてないと思うんだけど、これ組み合わせるとちょっとインパクトのある話になります。「辺」とか「弦」とか「線分」とかも実は組みあわせている。どう組み合わせるのかは、一応編者にお伺いを立てて「いいんじゃないの」ということになってから。っていつのことだ? 授業では言ってます。

 

 

認知の原理が「出そろう」とき

それは認知科学がその使命を終えて幕を閉じるときだとぼくは思うのです。

 

 

記憶

ある新聞の日曜版の記事によると、1963年生まれのある人は昭和55年春に千葉市内ではじめてポカリスエットに出会ったのだが、この時彼は中学生で、しかもそれはインベーダーゲームがブームになる前のことであった。

ぼくの記憶によるとインベーダーゲームがブームになったのは昭和53年頃でその頃ポカリスエットはまだなくて、それからぼくの計算によると1963年生まれの人は特別な事情がない限り昭和55年春は高校1年の終わりか高校2年生のはじめだったはず。

う〜ん、わからん。

 

 

しつこくこだわる見まねロボット

人だかロボットだかの体のあちこちの関節に電球がつけてあって、それをスクリーン越しに見るってのもやってました。確か。

ヨハンソンの世界。

 

 

ひとこと

ぼけ


4/1

年度がわり

思えば嵐のような年度末であった。忙しかったというより、騒がしかった。 ここにはほとんど書いてないんだけど。

 

 

新年度のわたし:授業編

12/20に書いたように、ひ弱な教師はやめようと思っている。んで、ぼくの場合、ひ弱であることをやめるとただのインケンニイチャンになってしまう可能性もあるのだが、まあそれでもいいわ。

うまくいくかどうかには、同じクラスの別の外国語の授業を担当する教員の授業方針と性格がからんできたりもする、ような気がする。フォローを期待するとか、雰囲気がよくないのをその教員のせいにするとか、そういうことをするつもりはないんだけれども。

誰と組むかは当然分かってます。一つを除いて去年と同じ。

 

 

新年度のわたし:委員会編

武闘派への道を爆走しそうな予感♪ 会議の場で切れると普段の喋りからは考えられないような早口で(一見?)論理的な言葉をまくしたてる私。止められるのはある人の冷たい視線だけよん。

 

 

例のプロジェクト

個性を生かして、私らしく、私なりに頑張ろうと思います。

 

 

↑真意を取り違えた人のための通訳

ぼくにやらせたらどう足掻いたところで結局ぼくレベルのものしか出来上がらないってことよ。っけっ。

っは〜っ。

 

 

私にありすぎるもの

「バランス感覚が欠けている」という自覚。だから概論とか入門書とか、そういう偏りが許されにくいものは苦手なの。

 

 

でも

書いてます。ようやく。いきなり「世界は存在する」とか「人間は身体を持った生物である」とかそういうことをほざきだして、

(「身体を持たない生物なんているのか?」と突っ込みそうになったあなたは「東京に住んでる私」に「×」をつける人に違いない。)

「これってほんとに言語学の本かよぉ」って感じなのですが、まあ、いいや。

ぼくの担当する章はある意味とっても重要なのだけれども別の意味ではとっても「窓際」な章だったりもするので、あの本を授業で使う人の大部分はぼくの章をさらっと流してくれるかすぱっと飛ばしてくれるかのどちらかだろうという絶望的な予感を感じながら「でもいいや」って感じで書き進めています。

今はまだ書きなぐりの段階。

引き受けるときに編者の人から「これはやらなくていい」と言われたあることは一生やらないつもりでいます。やりたい人はやればいいんだけど、ぼくは無理。これは、過去10余年の経験から導き出した、ぼく的鉄則。


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