現在、研究室のサーバーにはアクセスできません。
写真の方はsouvenir photoだそうです(そのネイティブスピーカーの教員による)。カウンターの方は、…?
(タイトル変えました。2000/2/1 17:32)
現代文化学部の受験案内には、次の言葉が引用してあります。改訂版でも生き残ってるはず。ホームページにはありません。
We become not a melting pot but a beautiful mosaic.
Different people, different beliefs, different yearnings,
different hopes, different dreams.
私たちは溶け合って一つの坩堝(るつぼ)になるのではなく、
美しいモザイク模様になるのです。
異なった人々、異なった信条、異なった切望、
異なった願い、異なった夢が作り出すモザイクに。
(アメリカ合衆国第39代大統領ジミー・カーター。 森本豊富訳。)
見たとたんに気に入ったので、推薦したら割とすんなり通ってしまったのでした。どういう状況で発せられた言葉なのかは実は調べていなかったりします。
そういえばうわさ関係の本に書いてあったこと。
「「×××」といううわさがある」と報道することや、「「×××」といううわさがあるんだけど、それって本当なの?」とその筋の専門家でない人に訊ねることや、「「×××」といううわさは事実ではありません」と否定することには、そのうわさを知らなかった人に知らせてしまう効果がある、ということである。
つまりこの場合、メタのレベルをそうでないレベルと区別することには、あまり意味がない、ということらしい。
(見方を変えると、「「×××」といううわさがあるけど、それは本当なのだろうか」みたいな言い方をする人の中には、一見中立的な立場を装いながら実際にはその「×××」を流布させることを意図している人もいるかもしれないということで。
というのもまた、手口を教えることになってしまったわけで…)
だからといって「メタクリシン(↓1/24)みたいなときもメタのレベルをメタとして別扱いしない方がいい」ということになるかどうかはまだ疑問があるんだけど。
大学受験生の頃やってた通信添削で、成績優秀者の常連の中に「堕落の漸化式」というペンネームの人がいました。「素晴らしいなあ、やっぱり常連になるような人は思い付くことが違うなあ」と思ったぼくは、自分も何か気の利いた奴を考えよう、と決めました。
そして思い付いたのが、「挫折の微分方程式」。
ちょっとだけ迷ったのですが、でも結局この名前は採用しないことにしました。パクリであることは誰の目にも明らかでちょっとかっこ悪いし、それに、人生の事実をあまりにも正確に捉えすぎていて、救いがないなあ、と思ったりもしたので。
(タイトルだけ変更2000/2/1 21:26/2000/2/1 17:34)
総合英語化。(いわゆる「総合教材」を使うということではない。)教科書はこれ。序文に示された透徹した現状認識がすごい。内容的にこれで足りない分はプリント作って補うことになる。
基本方針はGrammar/Non-Translation方式。Grammarというのはsynax/constructionのこと。
毎時間宿題出します。
とにかくcurrent? eventsものはやめて、current issuesものにする。こんな教科書を使います。書名が分からない? 一覧のなかに、「これだったらお笑いだよな」というのがあれば、それです、きっと。日本語タイトルを見て「こいつ見事に引っかかってやがる」とか言わないこと。
一課終わるごとにレポート書いてもらいます。日本語でも英語でも可。小テストもやります。
今年度の教材はメインもサブもものすごく評判が悪かったので、両方とも違うのにします。
メインの方、出版社のウエブサイトから見本請求したのに送ってこないのはなぜ? 向こうで見繕っていろいろ送ってきてくれるのはかまわないんだけど(でもそういうので実際に使うのはほとんどないんだけど)、こっちが「これ見たい」と思ったのを送ってくれないのはちょっと。
でも非常勤講師の控え室を探したらあったので許す。
サブの方はやっぱり宿題出します。
今年度は全部の科目でやってたわけではないのだけれども、でも日曜の夜は採点と作問で追われていました。ということは、新年度はもっと大変になるってことだ。げろげろ。
(自分なりに)状況を分析して、その状況に対応した動き方として可能なものを他の人の議論を参考にしてリストして、それぞれのメリットとデメリットを思い付いた限り列挙する、けれども、「だからこうしましょ」という提案は一切しない、そんな優柔不断な私と、「なぜそうするのがいいと思うのか」については一切言わずに「こうしましょ」という(一見)全く新しい提案を(ということはそれまで積み重ねてきた議論との接点もはっきりさせずに)する、そんな行動力あふれるあの人と。
足して1.5で割ったらちょうどいいかも。2で割ったら小さくなり過ぎ。
他の教員がどういう内容の授業をやったのかを確実に知ることが出来る数少ない機会なので、実は好き。ただし、現代文化の専門科目はほとんど授業内試験になってしまうので、監督に行ける科目はほとんど総合科目になってしまうのだけれども。
監督者同士のチームワークに関していえば、今回
も前回と同様、と言いたいところだけど、一つだけ違って。
吉野さんの国語表現法の監督になったのだが、いっしょに監督していた羽田満きょ〜ぢゅ(仮名)に「全部解ける?」と聞かれて、正直なぼくは「最後の問題だけは分かりません」と言ったら、「言語学者なのにぃ?」と言われてしまった。しくしく。
終わった後試験本部で「吉野さんのおかげで羽田さんにいぢめられたあ」とちくったら(カワイイデショ)、「この問題は本多さんの専門じゃないでしょう」。そうなんです、きっと。
以上、なぜか24日(月)の話。
アイヌ語の話ですか?それとも朝鮮語?
年齢の問題ではないかも。
こちらとこちら (1/24)がシンクロしている。ずれるかもしれないけど、付け加え。
ぼくは、20歳前後の人がたくさん働いているお店が嫌です。自分の立場を考えると「嫌」とかいっていてはいけないのかもしれないけど、でも大学以外の場で教師面するのもただの嫌味でしかないので、ぱしっと言っちゃいます。嫌です。
客ほっぽりだして自分たちだけで盛り上がってる店が、たまにあるのです、コンビニとかで。それが嫌。本当に責められるべきは店主の教育の仕方なんだろうけど
(一見似たようなコンビニでも、店主のキャラクターによって店員の態度にずいぶんと差が出てくるように思う。)
でもとにかく直接客に接する人に対して不満を抱くのは、客の立場としてはそんなにおかしいものではないと思う。
それから、接客は悪くはないんだけど、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」という本来客に向けて発せられるべき言葉が店員同士の団結を確認する掛け声みたいになっている
(=phaticな機能の向けられる先が客ではなくて他の店員に変わっている)
という類いの店も、あまりいい印象は持てません。一人の店員が大声で言った後他の店員がそれに続く、というところは、そうなりがち。
もっとも、「いらっしゃいませ」「ありがとうございました」が<内輪の団結を固める言葉>の機能をもつことが、全面的に悪いわけではないです。「客に向けて発せられた言葉」という意識がある、ということが重要で、それさえあれば他に何がくっ付こうとくっ付くまいと問題ではないです。でもちゃんとした「ありがとうございました」が出てこなくて「ありがとっしたぁ!」みたいに崩れてると、「何か勘違いしてないか」「一線を越えちゃってるんじゃないか」みたいに思ってしまうのです。
客商売に携わっているひとびとが、「ウチとソト」の論理で行動していて、なおかつ客を「ソト」の者として疎外する、ってのはある意味自殺行為です。「誰のおかげで…」ということになっちゃうから。そして、そのような自殺行為をしている人が、自分たちの姿勢を反省することなく、みょ〜に楽しそうに張り切っている、ってのが見ていて嫌なのです。
でも、20歳くらいの人間だったらしようがないことなのかなあとか、こういうことを考えるのはぼくが年をとってきた証拠なのかなあとか、そういうことを思ったりもするわけですが。
「本当の始まりはいつなの?」とか「いきなり死語の仲間入りしちゃいそう」とかいった話はともかく、「ミレニアム」と気軽に口走っていた人々に言いたかったこと: あなたこれからまだ千年も生きる気でいるの?
いくら長期的な視野を持つことが大切だからといっても、ちょっと無理があるのではないかしら。
まあ、ミレニアムセールは確かにそうなんだろうけど、でもそのまえに 阪神優勝セールとかタイガース日本一セールとか、いくらでもあるじゃん。
記念セールじゃなくて祈願セールでもいいよ。
ダイエーホークスタイガースに惜敗セールで我慢しておきます。
クリシンがらみの本を読んでいると、大抵、最後の方に、「この本に私が書いてきたことをそのまま真に受けるあなたはまだ、クリティカルではないのですよ」みたいな一言が出てくる。
そうやっていきなりメタのレベルに飛んでしまうのって、ずるくないかしら。てゆうか、ふつうのレベルとメタのレベルを区別しないのも非クリティカルな態度と言えないかしら?
(つづき。)
その後もぼんやりと考え続けていて、その中で、ちょっと前から漠然と思っていた(ような気がする)ことが、何となく形になってきた気がするので書きます。
以前言及した本でも、それから今回取り上げた教科書でも、「トピックセンテンス」というものを一つ一つのパラグラフの内部構造を理解するための概念として使っている。けれども、実はトピックセンテンスというものに有効性があるとしたら、それはパラグラフとパラグラフの間の相互関係を捉えるための取っ掛かりという機能に求められるべきなのではないか、という気がする。
以前言及した本でも、それから今回取り上げた教科書でも、例として取り上げられているのは、単一のパラグラフからなっている文章であった。そしてその中の文たちを、topic sentenceとsupporting sentencesとその他に分けるという作業をする、という発想だった。でもでも、``topic''と``support(ing)''という名称は、そのパラグラフの内的な論理構造に対応したものではない。よく分からないけどなんだか純粋に形式的な関係という気がする。
(「純粋に形式的な」というのはほんとに「??」な言い方だけれども、今ここで漠然とイメージしているのは「自律統語論的な発想をテクストレベルに持っていったような感じ」ということ。といってもその筋のディープな(?)知識がない人にはますますわけ分からないかもしれないけど。)
だからパラグラフの内部の論理構造を理解する上では、文たちを topic/support/その他 に振り分けるのはあまり意味がないような気がする。``topic sentence''を探す訓練をするよりは、たとえばこちらの本を一生懸命読んで練習問題にまじめに取り組んだ方がいいような気がする。
そして、トピックセンテンスがパラグラフとパラグラフとの間の関係に関わるものであるとはどういうことかというと…。
テクストというものは、文たちが階層構造をなすことで出来上がっているものだ。つまり、個々の文が直接にテクスト全体の構成に関わるわけではなくて、一つ以上の文が相互に論理的な関係を構成しながら内容的なまとまりのある塊を作る、その塊たちがまた相互に論理的な関係を構成しながら大きな塊を作る、それが… ということで、その「塊」がパラグラフだったり節だったり章だったりするわけで。
んで、各塊の間の論理的な関係を考えるためにそれぞれを「一つのもの」として取り扱うためには、そのまとまり性を認識しやすくするためにそれをrepresent (?)する「一」なるものがものがほしい、ということになる。んで、「節」とか「章」とかテクスト全体とかには表題がつくわけだけれども、パラグラフには普通それはない。だからそれを文のどれかに求めたい、ということになる。それがtopic sentenceということになるかしら、ということ。
以上、おそらくは何も新しいことを言ったことになってないのだろうけど、じぶん的には、英語教育関係の本で取り上げられたtopic sentenceなるものに対する違和感の原因がようやく分かったような気がした。
今のところはこんな感じ。
「解釈学的循環(部分の意味が分らないと、全体の意味が分らない。が、全体の意味が分らないと、部分の意味が分らないこともある。 )」→「全体の意味を与えるものとしての既有の知識構造」→「テクストと既有の知識構造をつなげるものとしての何か」という観点から考えることも出来るような気がするんだけど、今はまだ書けない。
スゥオドリングされた赤ちゃんを見て、なぜかこちらを思い出してしまいました。
本務校では今が来年度の教科書の最終決定の時期である。んで、悩んでいるのが例によって英作文の教材。paragraph writingというものについて分かりやすく書いた教科書はないものかと探し回ったら、それらしきものが見つかった。そのうちの一つの話。
この教科書、各Lessonの初めに模範文例という1パラグラフからなるテクストがあって、その下にそのテクストの分析が提示してある。そのうちの一つを読んでみた。それが、問題おおあり。具体的に書かないと分かりづらいので、以下、期間限定で全文引用。
(さくじょ2000/1/23 15:54)
topic sentenceという概念そのものに問題があるのか、それとも適用の仕方が悪いのか、はたまた教科書を最初から読まずにいきなり第3課から見たのが悪かったのか、それはぼくにはまだ分かりません。
(つづき。)
勉強すればするほど馬鹿になる教科書なんて。
やっぱ公開。といってもファイルがある分だけだけれども。すけじるページへ。去年までと較べて新しくなってるのは(公開した分では)くりしんやることにした授業だけ。
るみちゃんは共依存したかったのね。つまり「けんちゃんが自分のことをたよりにしている」「自分がいなければけんちゃんはだめになっちゃう」と思うことで自分の存在意義を確認しようとしてたの。そして10年前のけんちゃんはそれをさせてあげられる人だった。つまり、るみちゃんにいろいろな面で依存していた。あるいは少なくとも、そういう振りをしていられた。だから二人はうまく行ってた。
そしてるみちゃんはずっと共依存していたかったのね。つまりけんちゃんにはずう〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜っと10年前のまんまでいてほしかったの。でもけんちゃんは成長しちゃった。独り立ちして、るみちゃんに頼らずに生きて行ける人になっちゃった。だから二人の関係はだめになっちゃった。
でもね、るみちゃんはね、今でもまだ、10年前と同じように共依存し続けてるつもりでいたいのね。つまり、けんちゃんに、自分のことを頼りにする人であってほしいわけ。でも、それは幻想かも、と自分でも分かっている。じ・れ・ん・ま。
るみちゃんが離婚を呑む条件は結局そのジレンマを解消させてもらうことだったの。それは具体的にはこの10年の間のけんちゃんの成長を否定すること。あるいはけんちゃんがこの10年の間に自分の力で勝ち取ったものを全部奪い取ること。つまり「けんちゃんは今でも10年前のけんちゃんのまんま、変わってない」っていう幻想をもてるようにすること。だから「バックダンサーにもどれ」とか「慰謝料沢山払え」とか言い出すの。
だからね、るみちゃんはね、もしかしたらね、けんちゃんをいじめようというつもりはないのかもしれない。ただただ、あの頃のけんちゃんのまんまでいてほしい、と思ってるだけ。
でもね、「成長しないでいてほしい」というのはとっても残酷な要求なの。
昨日紹介した「ナルシシズム」という意見に全面的に賛成というわけではないの。てゆうかむしろこっちかな。
そういえば、昔、「どういう人と結婚したいか」という質問に対して「この人と一緒に年をとっていきたい、と思える人」と答えた人がいました。
あれは「一緒に成長していける人」ということだったのかもしれません。
カウンターでmemorialナンバーをげっとされた方々へのお知らせ:ご連絡いただければ追悼いたします。
富士急ハイランドの世界で一番つおいとかいうジェットコースターには``memorial photo''売り場がある。以前学部の新歓旅行で行ったとき、ネイティブスピーカーの英語の教員がその案内を見てまぢで怖がっていました。
どうやらmemorial photoから「遺影」を思い浮かべたようなのです。
(つづき。)
TV | : | 歌手の桑山雑三さんが成田空… | ||
家族 | : | え、桑山雑三がどうしたって?ねえねえ桑山雑三がどうしたのよ、ねえ!! | ||
ぼく | : | 聞こえなかったから分からない。 |
こういう時こそこの人の出番なんだけどなあ、と思っていたら出てきてくださいました。
不覚にも、 公開されていたということを知りませんでした、さっき太田先生から直接うかがうまでは。
index.htmとDefault.htmはファイル名を逆にした方がいいです。
「教科書の範囲」が「教科書以外は勉強するな!」という意味だとしたら、非常に問題があると思う。とくに、政経という科目の性格を考えると、余計にそうだと思う。
火曜日の午前中が空くことになったので死なずに済みそうです。元気があったら他の人の授業に出るぞ。ざまあみろ(?)元気がでなかったら木曜2限。
3年生の演習は16時40分から始まるコマに入っている。人数少ない授業なので毎回全員に発表してもらって時間内に終わらなかったら延長するかも。最終バスは20時10分だし>それは遅すぎ?
オーディオCDが再生できるということになんで今まで気づかなかったのだろう。
一日目よりも負担が少ない(らしい)。
月曜は一限から授業があるのだ。
二日続けて6時起き。
二日続けてナポレオンに勝った。
「眠い」という感覚はないんだけど、脳みその中で思考が干からびて詰まっちゃったような感じ。
朝は超寒い。雪。遅刻しそうになったので途中駅で降りてタクシーに乗ろうとするも、いつもは沢山待ってるタクシーが今日は一台もいない。寒い中待つ。ふと見ると、一人おいて前にいる男性は事務局の人だったので、相乗り。助かった。
昼ご飯のときに某早口の某ぢょきょ〜ぢゅ(仮名、にすらなってない)が隣に来る。今日の私はその早口について行ける頭ではないのです。
あるいは某超事務能力ある某ぢょきょ〜ぢゅ(仮名、にすらなってない)が研究室にきたり。う〜ん、そんな話を今日のぼくにされても。
今年もスキーに行く連れていってもらうことになりそう。
猿ボタンが押せない…
なにげに高いプライド(実はコンプレックスの裏返しかも)と、どう考えてもそれに見合わない実力のギャップ。基本的に人間は根拠のない自信を持たなければまっとうには生きていけないとはいえ、あれはちょっと。
ぼく自身のことではありません。
「あんふぁんてりぶる」と「ふぁむふぁたる」って紛らわしい、って思う私って、やっぱりただのお馬鹿?
でもどっちも何かタダモノデハナイって感じのオーラが漂ってると思いません?
一緒に組んだのは某学部の先野きょ〜ぢゅ(仮名:退職した教授ということではなくて、先の内務大臣ということ)、同じ某学部の霜高激ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)、事務局の正義のひいろお氏(仮名)。
だが、この仕事は誰と組んでも同じようにしんどい。普段いかに好き勝手に喋ってるかが分かる。私はコンビニ店員には向いていません。
(ぼくが喋る役をやったわけではないけど。)
それにしても、全国一斉にやってるって、すごいと思う。
朝のバス。大学のスクールバスを遠足バスと勘違いしていたかのようにぎゃ〜ぎゃ〜騒いでいる受験生がいた。しんど。
それから、ほんとに遠足バス観光バスをチャーターしてきた高校もあった。どうせうちの大学は… でも、受験会場くらい自分の力で来てもいいのではないか。
年末に貼られたリンクをたどってこのページにいらした方々は、チャレンジなさってみると面白いかもしれません。現代社会とか、倫理とか、政治経済とか。今の社会の問題を考える上で知っておいた方がいいようなことが聞かれている、という感じがしました。入試問題だからといって馬鹿にしてはいけないと思う。総花的ではあるけれども。
苦悶の表情が目に浮かぶようです。やってるかやってないかが全然逆になっちゃうんだから。
(つづき。)
まぶしいので背景色復活。
センター試験、ぼくはいつも二日目。「は」行の名字のせいらしい。(それだけじゃないかもしれないけど。)
帰ったら感想書くかも。(書かないかも。)
何年か前、某言語学者(ただし英語学ではないけど)が英語で書いた論文の下書きを見せたもらったときのこと。地の文の英語がとっても大胆で、高校生が持ってる英和辞典を見れば分かる程度の間違いがあったりもしたので、ちらっと(?)言ってみた。その時のその人の返事は、「××さんに見てもらって直してもらうからいいです」だった。
うみゅ〜。
んでもって、その時のぼくのコメント暴言:英文の校閲を受けるときには、前もって辞書引くなり同業母語話者が書いた論文の表現をチェックするなりして「自分の力ではこれ以上は無理」というところまで仕上げたものを見てもらう、ということにしないと、校閲者に対しても失礼だし、それにいつまで経ってもいい英文が書けるようにならない。
ついでに言っておくと、添削した後の英文がどれくらいよいものになるかは、相当程度までもとの英文の出来に規定されてしまうものだったりもする。
以前某他学部の大学院の授業に出たとき、論文の地の文の英語が読めない人が結構いて、びっくり。てゆうかマクロなレベルでは(つまりナニガイイタイカは)ちゃんと取れてたみたいなんだけど、小さい単位に分けてみたら、ぼろぼろ。しかもレポーター本人はぼろぼろだということがあまり分かっていない。たまに(ぼくが英文の人間だということを認識していて)「ここは文の意味がよく分からなかったんですけど…」と自己申告するところもあったんだけど、それに対して「そこの解釈よりもこっちの誤解の方が重要なんじゃないですか」と言うわけにも行かず、うみゅ〜、だった。
それじゃあ書けるようにはなりません。じゃあどうすれば? うみゅ〜。
某学部の学生で、「教養演習1」のアンケート用紙の科目名に「専門演習1」と書いた学生がいた。
誰だか分からないけど君、専門の単位は大丈夫?
今週から来週月曜にかけて、授業内試験をやっている。んでもって、講義科目に関して言えば、授業に出てこない、当然宿題も出していない、でも試験だけは受けにくる、という三拍子揃ったひとびとが必ずいる。特に、二年生以上を対象とした科目では。
んで、去年はそういう人たちは当然のように自動的に落ちたのだが、今年は…
という話ではなくて。
ぼくは今年はほとんどの科目で、授業アンケートを授業内試験と同時に実施した。ということは、三拍子揃ったひとびともアンケートに記入することになる。そこで、「欠席回数」(自己申告)と「知的満足感」の関係を考えるのも面白いかな、という気がする。
授業にまったくと言っていいほど参加していなくて、しかしそれにも関わらず単位をほしいと思う(試験を受ける)という姿勢のひとびとが、その姿勢を鏡を見るときのように自分自身に対して突きつけられる、というとき(つまりアンケートに答えるとき)に、自分に対してどう言い訳したのか、を考えてみたかったりするのだ。
お願いだから降らないで。
「ワタシのところにいてほしくない」という気持ちは分からなくもないけど、でも日本中の人がそれ言い出したらどうなるの?
そう決め付けるのもクリティカルではない。というのはこの件の場合、「どこ行っても退去要請が出る」という可能性が結構あるような気がするのだ。
「ワタシのところにいてほしくない」って、仮にこれ言う人が一人でもいて(てゆうか実際いるわけだけれども)、でその要請が通ってしまったら、それはそれで法治国家としては問題なのだけれども。
誰か前同じようなこと言ってたと思うけど。
うろうろしてたら模様替え前のページに戻った。日記ページも前のまんま。
試験中地震が起きたらどうしたらよいかをちょっと詳しく教わりました。なあんか、図と地が反転してたような感じ。
うちの大学では図書館に入れる資料をおもに教員が選定している。現代文化学部の各教員が随時提出したリストを(チェックして)図書館に持っていく仕事を今年度はぼくがやっている。が、それは一応11月末で終わったはず。
が、昨日(12日)だったか、「念のため」と思って選定図書リスト収拾箱を覗いてみたら、なんと一枚入っていました。時期外れ。ではあるけど、この時期に選定された本は翌年の予算の前借りというかたちで購入できる。だから今日図書館に持っていきました。
で、何が言いたいか、ということなのですが。
その時期外れの選定図書リストを出した安不出ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)は、新年度から始まる4年生の卒論演習の担当者である。そして、4年生(現3年生)のゼミへの割り振りが終わったのが、たしか12月だった。そして、その時期はずれの選定図書リストには「12/27」という日付が。
「もしや」と思ったぼくは、以前配られた某資料を見る。やっぱり。安不出ぢょきょ〜ぢゅ(仮名)が時期外れを承知で(でも来年の予算の前借りができることも承知で)出したリストに載っていた本は、担当学生の卒論仮テーマにぴったりあったものであった。
教員の鑑。
図書館の職員と話していて感じたこと。「至急」の感覚がぼくと図書館の人とでは違うかもしれない。
「本多先生の研究室も黒井先生(仮名)の研究室もどっちも散らかっているが、その散らかり方が違う。黒井先生の部屋の散らかり方は静かな散らかり方なんだけど、本多先生の部屋は騒々しい散らかり方だ」
悪かったね。でも、その感覚は当たっていると思う。ぼくも黒井ぢょきょ〜ぢゅの部屋の様子は知っている。
模様替えしたみたい。トップページに名字がひらがな実名モードで出てます。日記ページは消滅してしまったらしいです。
まず、アクセス解析でrefererの数を数える。このページには直接リンクを貼ってくださっているところとトップページに貼ってくださってるところ(たとえばけんきうする日記書きの会)とがあるので、両方チェックする。さらに、IEの限りなくバグに近い迷惑な仕様を考慮して、リンクが貼られているわけでもないのにrefererとして残されているサイトを削る。サーチエンジン経由は残す。
それから、アクセス解析でこのページへのアクセス数を調べる。
後者から前者を引いた数が、ブックマークから来た数と考えられる。また、前者を後者で割ってそれを1から引けば、全アクセスに占めるブックマークからのアクセスの割合と思われるものが求められる。
以上の作業によって、固定読者のアクセス数の最低値、および全アクセスに占める固定読者の割合の最低値が求められる。
(「最低値」としたのは、リンク集をブックマークがわりにしている人もいるため。)
そんなもん求めて何になるの、という疑問もあるが、とにかく求めることができる。
今日(12日)届いた洋書のカタログに2巻本の案内が載っていました。Toward a Cognitive Semanticsだったかな。「やるぞ認知意味論!」って感じ。
でもぼくはレオ様は…
配色変えるかも。白がまぶしい。
一部で話題になっている手数料を払うと新しいのに替えてもらえるという話。そもそもなぜ、替えてもらえるんだろう。書き損じは書いた人の責任なのに。
「サービスの一環なのでしょ」で済ませてもいいのだけれども、昔家族でこの話をしたときに、ぼくは次のような説を出しました。
官製はがきの代金の50円というのは、<物としての葉書き>に対する金と、<それを宛て先に届けるという業務>に対する金とが含まれている。利用者が書き損じの葉書きを捨ててしまうということは、郵便局側としては<宛て先に届けるという業務>をやってないのにそれに対する金を受け取ってしまうことになる。それを避けるためのサービスなのである。
これを聞いた家族はすんなり納得していたのですが、今のぼくはぜんぜん納得していません。だって…それぢゃあ何で私製葉書きの料金も50円なの?
「料金」というのは販売する人が(ときに恣意的に)設定するものだということがちゃんと理解できていなかった。たとえば、1個単位で買うと100円のものが6個パックで買うと600円ではなく500円になったりする、というのはなんか変だ、とか思っていた。
「50円やるからこの紙切れを大分のばあちゃんのところまで届けてくれ」とか言われたらぼくだったら絶対断ると思う。
とタイトルを決めて、さてどう続けようかと悩んでいる私。続けるべきかどうかについては悩む必要はないと思うんだけど。
とりあえず…
誰を指しているかを取り違えている可能性があるということ、そしてそれが本当に取り違いであれば致命的であるということは認識してました。「違ったかも」と思ったのはアップロードしたあとずいぶん経ってからだったけど。んで、もう一回読み直してみたところ、あの部分だけ見たらぼくの解釈は違っていないように見えるけれども、でもその解釈ではその前の部分までとの繋がりがうまくいかない、ということに気がついた。
ところがその後、フォローアップを見たら、違っていたんだか違ってなかったんだかまた分からなくなってしまったのでした。
「4月までに出版できればいいや」という気持ちでいられると、使う方としては実は困るのです。最近は講義要項に使用教材を載せるのが一般的なのですが、その締め切りが早くて12月、遅くとも1月中。それ考えると、審査用の現物が手に入るのが4月ってのは遅すぎ。結局翌年回しになってしまいます。
まだ舌の根は乾いていませんが、それから削除もしませんが、とにかく撤回します。なんやそれって?
不良債務にあえぐ私の場合、ここで自分で自分の首を絞めたら本当に窒息しかねない。
う〜ん。でもそのうち。
容器がだんだん汚くなっていく…
ソニーの宇多田ヒカルアルカリ電池バリューパック、買いました。おまけについてた小さなカードは妹にやっちゃったけど。
非常勤先の試験の解答用紙に、学生の一部(真面目と思われる者も含む)が次のような趣旨のことを書いてきた。
後期に入って、SPI模試やエントリー対策模試や会社説明会や卒論説明会などが土曜日に入ったので、授業に出られないことがあった。この点、配慮してほしい。
この学生たちと会うことは多分もうないと思うので、この場を借りてお答えします。
(このページのことは授業では話していないのでその人たちに伝わるかどうかは分からないが。)
結論から先に言うと、一切配慮いたしません。そもそも出席をとっていない科目である以上、評価段階では配慮したくてもしようがないのです。
(おまけ:かりに出席をとる授業であった場合には、出席点を減点しないというかたちで配慮することになります。試験の出来が悪いことに対して配慮することはその場合でもできません。教育効果が上がっていないのに単位をあげることには問題があると思うのです。)
評価段階ではなく、学期の初めにあらかじめ知らされていれば、講義内容の調整というかたちでの対応ができたわけですが。
もっとも、配慮を求めたくなる気持ちも分からなくはありません。SPI模試やエントリー対策模試や会社説明会や卒論説明会などが行われる土曜日に授業を開講するということは(あるいは、授業の開講日である土曜日にSPI模試やエントリー対策模試や会社説明会や卒論説明会などを行うということは)、明らかに時間割編成上の不備であると言えます。その不備に由来する不利益を学生が被らなければならないというのは、不合理なことです。
しかし私はこの大学の時間割編成に関する権利を一切持っていません。したがって、時間割編成に関する責任も一切ありません。したがってそれに関して何らかの配慮をする義務はないのです。
(おまけ:もちろん、「義務はない」ということは「やらなくていい」ということに過ぎないわけであって、「やってはいけない」ということではありません。しかし、やろうとしても無理である、ということは先に述べた通りです。)
また、SPI模試やらエントリー対策模試やら会社説明会やら卒論説明会やらが授業の日に行われるということに関して、学部長なり教務委員長なりと言った責任ある立場の人から事前に配慮要請があれば、すでに述べたように授業の進め方に関して配慮していたでしょう。が、実際にはそのような要請は一切ありませんでした。責任ある人からも、ない人からも。
結局、大学当局は卒論説明会えとせとらに出ることによって授業に出られなくなるということを、学生の自己責任の範囲と考えていたのだと思います。
(おまけ:「実は何も考えてなかった可能性が高い」とは言わないことにしましょう。って言ってるか、メタで。)
問題とすべきはそのような大学当局の姿勢です。大学の意思決定に関わっていない私に対応を要求するのは筋違いであると理解してください。
以上が解答用紙に書かれた要望に対する、私の回答です。
就職関係の催しはともかく、卒論説明会が本当に土曜日にあったのかどうかについては、確認していない(必要ないと思っている)。
『うわさの科学:勝手に一人歩きする怪話のメカニズムを探る』(松田美佐、KAWADE夢新書)を読んでちょっと後悔した。
実はその前に『流言、うわさ、そして情報:うわさの研究集大成』([現代のエスプリ]別冊、佐藤達哉編)を買って読んだ。これは論文集(アンソロジー、つまり公表済み論文の(改訂版の)再録)で、非常によくできた面白いものなのだが、いろんな人がいろんな観点から書いた論文が集まっているので、ぼくみたいなど素人が読むと混乱することがある。本格的に研究をはじめたい人にとっては便利なんだろうけど。
んで、ちょっと混乱気味のときに『うわさの科学』を読んだぼくは、思ったわけです。う〜ん、やっぱり一人の人が最初から最後まで書いたものはまとまりがよくて分かりやすい。それでちょっと後悔したのです。こっちを先に読んでおけばよかったかも、って。
あの、お手紙を読まずに食べちゃうということで有名な?
ぼくだったら、知らせるべき立場にありながら、知らない人を嘲笑してしまう人の方を、嘲笑すると思います。
あらずもがなの注: 「知らせるべき立場にありながら、知らない人を嘲笑する人」は 「<知らせるべき立場にありながら、知らない>人…」ではなくて 「<知らせるべき立場にありながら、…嘲笑する人」というつながり方。
何かを知らない人のことを、「知らない」ということを理由に嘲笑するのは、知らない人が少数派の場合には陰湿ないじめになりうるし、知らない人が多数派の場合には排他的なエリート主義かひとりよがりか自己防衛かという感じで、いずれにしても教職を目指す人が取るべき姿勢だとは思えません。
大分のひとびとは共通語の人が「はいっている」というときに、「いっちょる」という。「いる(入る)+ておる」なのだが、「いっちょる」と言われたときにぼくが最初に頭に思い浮かべるのは「行っちょる」だったりするので、ちゃんと理解できるまでけっこう時間がかかる。
ぼくは8日土曜日がようやく仕事始め。にして仕事納め。
てゆうか非常勤最終日。
休みが一日短くなる学生には大変気の毒なのだが、でも仕方ないのだ。まあ、休みたい人は休んでよし。ただし自分の責任で。あなたの行動の責任を私がとることはできません。
最終日ってことは授業内試験日ってことなんだけど。
「休みが一日短くなる」のではなくて、「冬休みがここでぶった切られてしまう」という学生も多いのかも。
MAXの『一緒に』とかいう歌、一部はコマーシャルで流れているのでそこのとこだけは前から知ってたのだが、最初から最後まで聞いたのは紅白が始めてだった。そいでもって、聞いたその時、ぼくは思った。
あ、チェッカーズ路線だ。
チェッカーズってのは、デビューしたての頃は「ちっちゃな頃から悪ガキでえ」とか言ってて、10代末期の自分をもてあましてるひとびとのうまく整理できない心境を俺たちが代わりに言葉にしてやったぜみたいな歌を歌っていた。それがいつのまにか大人っぽい歌をうたうように変わっていった。この変化が歌を作っていたひとびとの精神的な成長を反映したものだったのか、それとも営業上の戦略だったのか、それはぼくには分からないのだけれども、でもこれがチェッカーズのファンのひとびとが年齢を重ねるにつれて経験する心境の変化に対応していたことは間違いないと思う。
MAXの『一緒に』をはじめて最初から最後まで聞いて、このことを思い出していた。まあ確かに、いつまでも「と〜らとらとら」なんてやってるわけにも行かないだろうとは思う。
大分からこちらに来る日の朝、誰かが仕掛けたねずみ取りにでっかいネズミがかかっていた。あんなのが何匹もいて天井裏を走り回っているのだから、みしみしいうわけだ。
でも顔はものすごくかわいかった。
「〜しきる」。前も書いたかもしれないが、能力可能を表す。特に個人の精神的な成熟度や技能の問題としての、能力可能。だから「〜」に当たるものが「本来ならばできて当然と思われること」の場合にこれを使って、「挨拶もしきらん」みたいに言うと、ものすごい非難ないし軽蔑の気持ちが出る。「社会通念から見て、できなくて当然と思われること」にこれを使って「人間は殺しきらん」といった場合にどういうニュアンスになるのかは不明。犯罪者集団用語としては「あいつは当然必要な度胸がない」という軽蔑の気持ちを伝える表現になるのだろうけど、普通の人々の言い方として成立するのかというのは分からない。
「〜のごとある」「〜のごたる」。これは「〜の・ごとく・ある」という連鎖から予測される意味でほぼ当たっていると思われる。つまり、「どうやら〜のようだ/らしい」「どうやら〜っぽい」くらいの意味。
「あらまし」。共通語にもある語だが、用法が違う。大分ではいわゆる形容動詞語幹として「あらましじゃあ」みたいに使う。「大雑把」「いい加減/手抜き」くらいの感じ。
急激に日記がトーンダウンする恐れあり。
今のぼくにとっては書いていてあまり楽しくないということに気がついたのです、このページ。というか今日は正直言って苦痛だった。
ぼくにとってのこのページはネット依存の象徴みたいなものだから、苦痛をこらえてまで続けるべきものではない。
人の日記を読むのもちょっとしんどい。今は、そういう気分。
ディスプレイがとっても小さく見えるのです。視力の問題ではなくて、突然の心境の変化。それは、分かりやすい言い方で言うと、5リュウセイがマイナス5リュウセイになる、というのと、ある意味近い(別の意味では遠いんだけど)。
一時的なものかもしれないけど。
滞在していたのは築30数年の木造住宅。家族といっしょに紅白など見た後、大黒まきのライブにかえる。あと一分というところで歌うのをやめた大黒ほかテレビのひとびとが、カウントダウンにはいる。そしてちょうど2000年1月1日0時0分になった瞬間
ちゅうちゅう!(がさがさ)
ちゅうちゅう!(がさがさ)
パソコンのチューチューマウスが誤作動したわけではない。本物のネズミがおそらくは2匹、台所の陰で精一杯の年始の挨拶をしてくれたのであった。
しかし台所で糞やら小便やらするのはやめてほしいよなあ。
でも大山が鳴動してなかったら、鼠どころのさわぎではなかったのだけど。
ぼくは宗教は一切信じないのだけれども、初詣でには行きます。この時期にしか「詣で」には行かないので「初」をつけるのも変なのだけれども、でも「初」を取ってしまうと本気で詣でに行ってるように取られそうな気もするので、いちおう「初詣で」と言います。
大分県には古い寺やら石仏やらが一杯あって、そういうのは信仰の有無とは別のレベルでやっぱり見ておいた方がいいと思ったりもします。
そんな中で印象に残ったのが宇佐神宮(寺じゃないけど)。実は一昨年に次いで二回目。何が一番印象に残ったかというと、犬が多いのです。首輪がつながれた、飼い主つきの犬。あそこはきっと地元の犬の散歩ルートになっているに違いない。次に何が印象に残ったかというと、人が多いのです。って当たり前か。それから、帰りぎわに気がついたのですが、墓石みたいな石(みかげ石?)に「文部省」と彫り込んであります。「え、宗教施設にこんなものがあっていいのか!」と思って表を見たら、「史跡宇佐神宮」と書いてありました。建物の価値はやっぱり信仰の有無とは別なのですね。
それからあと気がついたこと。神社仏閣の建物のうち、国指定の何ちゃら文化財になってるようなもののそばには、必ずといっていいほど真新しい立て札が立っていて、それにはそれぞれの建物の名前が書いてあるのですが、下に「HITACHI」とありました。企業イメージのアップを狙って立て札だけ贈っているのか、それとも史跡の保存をサポートするための具体的な活動をほかに何かやっているのか、もっと深い魂胆があるのか、よく分かりません。
予想可能だった某事態が発生、これが予想外の展開になりつつある模様。不協和解消モードが発生しているのか、そろそろ税金(とは言わないか)払わなければいけないかなあという気になっているのか。(いみふめ?)
そのうち。今回はあまり面白いネタがありません。
来月からは「きざし」と表記します。安直な作り方の割にはできた名前はまあまあでしょ、ってところがいかにもぼく的。もうちょっと変えて「変化への胎動」とかってするって手もあるんだけど、まあそれはいつか気が向いたら。
テキストページっぽく。
リロードすると増えます。正確(といっても画像読み込まないと駄目)なカウントはUltra Rankingにおまかせ。
消そうかとも思ったのですが、何か無責任ぽい感じなので、いちおうまだ残してます。
相変わらずmailto:タグはつけてません。今後もその気なし。メールくれる人はコピーアンドペーストするなりトップページに行くなりしてください。そういうめんど臭さに堪えてもなおかつ言いたいことがある! という人だけくれればいいの。
って高圧的だけど、要は、よく知らない人からのメールに返事を書くのってちょっと緊張するって、それだけです。
あ、そうそう、このページの内容についてのメールはこのページでお返事するってのはこれからもやると思います。その時、メールの内容を必要な範囲で公開するってのもやっちゃいます。それがやなときは「やだ」と書いてください。氏名を公開していいかどうかについても書いていただけると嬉しいかも。
非常勤が増えます。宗教学校で、女子ばかりで、しかも担当は日本語学演習。キャラ違いの三乗。人に言うたびに、驚かれたり、笑われたり。
それが月曜の午前で、午後は継続のところで継続の言語文化論。
不良債務返したい<K究社、T修館。別名レオ様プロジェクトと正体プロジェクト。
不良債権回収したい<T大出版会、Hつじ書房。
ヨガもやんなくちゃね。12月は丸々サボりました。