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13時から非常勤先の打ち合わせ/顔合わせ。なぜか継続の方。本当は新規の方でやってほしいのだが。でも99年度は使えなかった英文科資料室という部屋が新年度は使える模様。土曜日と月曜日の違いは大きい。でもたぶんあまり使わないと思う。図書館のOPACで資料を検索して「所蔵:英文科資料室」となった場合だけだろうと思う、きっと。
その後三省堂。今日買った本は科研費でも個人研究費でも落とせないのだが、今日買わないと仕事に差し支えるものがあったのだ。
「錯視」とか「曖昧図形」とかを言葉で説明するのはやっぱり難しいのだろうか、それともこの人の論理的な思考力 and/or 表現力の問題なのだろうか、それとも能力の問題ではなくて、「絵を見れば分かる」「絵を見ないと分からない」ということに依存し過ぎているということなのだろうか、あるいは、ぼくの理解力の問題なのだろうか。
すでに知ってるタイプの絵だったら解説がどうであろうと問題ない。知らないタイプの絵が出て来た場合。ぱっ! と一瞬だけ見てすぐに何がポイントか分かる場合もあるのだけれども、分からない場合もある。そういうとき、「分かるまで辛抱強くぢ〜っと見つめる」という気になれないぼくは本文の解説を再読するのだが。う〜ん、おいおい。
分かる人には当たり前、分からない人には分からない、すくなくとも「錯視」「曖昧図形」の部分に関しては、そういうタイプの本。その先はまだこれから。
いい方に揺らぐのは「不安定」とは言わないのだとしたら、不安定だったのは後半だけだけど。
今はほぼ平常通り。
実は今月の初めに、めがねを作り直したのである。
(こういう「のだ」の使い方って、ちゃろん日記風かも。あるいは土佐日記の冒頭風? とにかく文章の冒頭にいきなり「のだ」文が出てくるってパターン。)
一応視力を測り直すよう頼む。ぼくは検眼表を前にじ〜っと座った状態。検眼士さんが「見えますか」とか何とか言いながらあれやこれやとレンズを換える。そしてある時突然、「これで大丈夫ですか?」ときた。
おいおい。じっと座った状態で大丈夫かどうか聞かれても困るのであるよ。座ったままのときには大丈夫かもしれないけど、立ち上がって歩き出した途端にくらくらっとなる、ということだってありうるし。賢い検眼士さんだったらこちらが何も言わなくても「ちょっと立ってその辺歩いてみてください」くらいのことは言うのである。うむむ。
そのあと今度は、今使ってるめがねと較べて、「どちらが見やすいですか?」とくる。もちろん、さっきからかけてる検眼用のレンズと今使ってるレンズとを交互にかけて較べるのである。ところがこの質問にも、ぼくは答えられないのである。
ちょっと考えると、簡単に答えが出るように思われるかもしれない。今使ってるめがねは二年前に作ったもの。この二年間に、目は確実に悪くなっている。そしてさっきからかけてる検眼用のレンズは、現在の視力に合わせてある。だから、二つを較べたらさっきからかけてる検眼用のレンズの方が見やすいに決まっている?
実はそうではないのだ。経験者はご存知のことと思うが、検眼用のレンズというのは恐ろしくサイズが小さい。つまり、視野が狭い。それに較べると、ふつうのめがねはレンズがずっと大きく、したがって視野もずっと広い。だから、二つを較べると、どう頑張ってもこれまで2年間かけてきた(いまいち度の合ってない)普通のめがねの方が、今かけている(かなりよく度の合っている)検眼用のレンズよりも見やすくなってしまうのだ。つまり、条件が違うので、比較のしようがないのだ。
で、ぼくは答える:「う〜ん、ちょっとよく分かりません」。条件が違うから比較できないだの何だのという理屈をこねてもいいことがありそうには思えないし、本当に正直に「今までのめがねの方がいいです」と言うのも問題がありそうな気がした。ということで選んだのがこの答え。
その後いろいろやりとりがあって、結局度は今までのめがねと同じのまま、新しいフレームに新しいレンズを入れてめがねを作ることになったのであった。ま、今までのフレームがよれよれになっていたから、これはこれでいいのである。
でも、全てが終わったときには閉店時間をかなりすぎていた。恐縮。
周辺視野の見え方が分からないような検眼って、やっぱり えころぢかるばりでぃてぃ に欠けるよな、とか思う私。「視野の中心で見つめる」だけが「見る」じゃないんだから。
古いめがねと新しいめがねは度はまったく同じなのだが、それじゃあ両方とも同じように見える(同じようにしか見えない)かというとそうではなくて、新しいめがねの方がよく見えるのである。なぜそんなことになるのか。
やっぱりフレームの違いなのである。フレームの違いは、目とレンズの距離の違いでもあるのである。
つまり見方を変えると、フレームの違いによって同じレンズでも見え方が違ってくるのだが、そのことは検眼時には予測できない。めがねが出来上がって実際にかけてみないと分からないのである。げろげろ、なのである。
昨日、突然 給湯機/風呂沸かし機 が壊れたので、新しいのに替えた。今度のやつはスグレモノ(?)で、何かするたびに音声メッセージが出る。(実はスグレモノというより、ちょっとうるさい。)
しかもその音声メッセージ(日本語)はイントネーション付きである。たとえば、「沸かす」のスイッチを押すと、まず「お湯はりをします」とメッセージが出た後、しばらく経ってから、
お風呂が もうすぐ 湧きます。
というメッセージが出る。つまり「お風呂が」のところだけピッチが上がるようになっているわけである。
ところで、今は冬である。暦の上では春だが、でも実際は冬である。何が言いたいかというと、ぼくは長風呂なので、入ってる途中でお湯が冷たくなってしまうのである。でも大丈夫。今度の風呂沸かし機にも、当然のように追炊き機能がついている。ぬるいな、と思ったら追炊き用のスイッチを押すと、「追炊きを始めます」とメッセージが出た後、しばらく経ってから、やっぱり
お風呂が もうすぐ 湧きます。
というメッセージが出る。これが実に気持ち悪いのである。
「お風呂が」のところだけピッチが上がるようになっているということは、「お風呂」が新情報として提示されていると解釈されやすいということである。でも、風呂に入っている途中のぼくにとっては、「お風呂」は新情報でも何でもないのである。だからこれ、すんごく気持ち悪いのである。できれば
湧きます。 もうすぐ お風呂が
ないしは
湧きます。 もうすぐ
としてほしかったと思うのである。
しかしこれで問題は解決したわけではない。ぼくはけちなので贅沢なので、前の晩の残り湯を使って昼間に風呂を沸かしてはいることがある。そういう場合には、風呂場まで行かずに台所にあるスイッチを押して沸かすことになる。この場合は、やっぱり「お風呂(が湧く)」は新情報になる。だから、
お風呂が もうすぐ 湧きます。
で全然問題ないのである。
つまり、同じ「追炊き」でも、台所のスイッチを押したときには
お風呂が もうすぐ 湧きます。
というメッセージを出してほしいのだが、風呂場のスイッチを押したときには
湧きます。 もうすぐ お風呂が
ないしは
湧きます。 もうすぐ
というメッセージを出す、というようにしてほしいのである。
「あほくさ〜」とか「細かい」とか「職業病」とか「愚かな言語学者のつまらぬこだわり」とか、思われるかもしれない。けれどもわざわざイントネーションまでつけてメッセージを自然な日本語っぽくするのだったら、徹底的にやってほしいとぼくは思うのである。
中途半端は気持ち悪いのだ。
過ぎた。
気がつくと、鬱が消滅している。何日か前、今回の鬱(鬱一般ではない)を消す方法(秘)を思い付いたためか、それとも鬱の原因が別のことに転化した(つまり、お仕事が進んでいないのであった)ため、もとの原因の存在感が薄れつつあるためか。
それとも単に、時間が経ちつつあるためか。
あと残っているのは無気力。お仕事お仕事。
以前毎週のようにぼくの研究室に英語の勉強に来ていた学生が、派遣留学の審査に見事通って、4月から一年間、協定相手の英国の大学で勉強することになりました。すばらしい。
「ぼくの研究室に英語の勉強に来ていた」とは言ってもこれは文字通り以上の意味はない(単に場所を提供していただけ)ので、ぼくの貢献はゼロに等しい
(これが謙遜でないところがぼくのすごいとこなのら。)
のですが、やっぱりめでたくもあり嬉しくもあるので、自慢してしまおう。
すごいでしょ、ぼく
のところに来ていた学生!
今年度ぼくの時事英語の授業に出ていた学生が、派遣留学の審査に見事通って、4月から一年間、協定相手の英国の大学で勉強することになりました。すばらしい。
「ぼくの授業に出ていた」とは言ってもこれは「ぼくの授業だけに出ていた」わけではないので、ぼくの貢献がどれくらいだったかは分からない
(これは実は謙遜でもなんでもなくて単に事実を述べているに過ぎないのだが、一見謙遜風に見せてしまうところがぼくの厚かましいところ。)
のですが、やっぱりめでたくもあり嬉しくもあるので、自慢してしまおう。
すごいんだよ、ぼくの授業って
派遣留学に通った人も選択してたんだよ!
うまく落ちてないなあ。
出来の悪いクリシン教材みたいだ。
今回選考に通った人はうちの学部では二人。つまり二人中二人がぼくと繋がりのある学生だったことになる。これはどういうことでしょう。
こちらを定期巡回ページに含めることにする。今更ながら。
今まで気がつかなかったのはまさに不覚としか言いようがない。
自己欺瞞的な知ったかぶりをする人が自分自身だけでなく他人までもたぶらかそうとわけの分からないコメントを連発。っていつものパターンなんだけど。あの手のコメントは「下らぬことは改善せず」を貫徹してとにかくやり過ごすのが一番。まあ、聞いてるだけでも疲れるんだけど、でも議論したらもっと疲れるよ、きっと。思わず発表者の方を見て、「目と目で通じ合う」関係になりかけて、なぜか目をそらすぼく。
最後は発表者をいじめてしまいました。
factive predicateは「叙実的述語」と訳します。「引用(?)部分が真であることを話し手が前提としてる」という特徴を持つ述語。
たとえば誰かが
私は、馬鹿だと思われるのは嫌だ。 (←これは叙実的でない述語の例)
といった場合には、その人が自分のことを「(自分は)馬鹿だ」を正しいと思っているかどうか分かりません。(まあ、多分自分を馬鹿だとは思っていないのでしょうけど。)
でもたとえば
私は、馬鹿だとばれるのは嫌だ。 (←これは叙実的な述語の例)
と言った場合には、話し手は、「(自分は)馬鹿だ」を正しいと認めていることになるわけです。
あるいは、
昔の人は、地球が平らだと思っていた。
と言った場合には「ハイそうですか、それがどうしたの?」で終わりますが、
昔の人は、地球が平らだと知っていた。
と口走ってしまうと、「ちょっとあなた何者?」という話になるわけです。
この場合の「ばれる」とか「知(ってい)る」とかが「叙実的な述語」と言われるものです。
ほいでもって、たとえば誰かが
「本多さんまたヒトヅマのこと考えてるでしょう!」
と言ったとします。この場合、その人が
本多は自分がヒトヅマのことを考えているとは認めたがらないに違いない。そこをいかに認めさせるかが私の会話術の妙なのである。
とか何とかこむづかしいことを考えているかどうかは分かりませんが、でも考えていてもおかしくはないわけです。で、それに対してぼくが能天気に
「ばれてましたあ?」
答えたとすると、それはおそらくは次のようなメッセージを伝える効果を持ちます。
ヒトヅマのことを考えているのはその通り。(つまり、あっさり認める。)でも、なんでそのことがあなたに分かってしまったのかは不思議かも。
そうすると相手は「本多は認めないだろう」という予想をあっさりと裏切られるばかりでなく、「なんで分かったのか」という自分が答える準備をしていない問題に対応しなければならなくなるわけで。だからこちらとしては一瞬意表を突いて、相手をだじろがせることができる(かもしれない)わけです。
つまり、叙実的述語であんなふうに対応するというのは、言ってみれば肉を切らせて骨を断つ(ことを目指した)話術なわけです。でも本当に骨を断てることはあまりない。一度は通用しても二度三度とやってるうちにびっくりされなくなる。だから本当の強さ(?)ではない。
だからある意味舞の海風なわけです。
某飲み会。なんでみんな英語で喋ってるの? 英語教員の集まりだから? 日本語分からない人もいるから? いいじゃん。そんなの仲間はずれでいいじゃん。だってみんなが英語で喋ったら、ぼくが仲間外れになっちゃうんだよ!
などといもむしまがいの独り言を言いながらトイレから戻ってくると、何かみんなで一人ずつ自分語りをしていました。どうやら、好きな映画の話をしているらしい。う〜ん困ったなあとか思っていると、間もなくぼくの番になりました。
う〜ん困ったなあ。
と、いきなり石山きょう〜ぢゅ(仮名)が割り込んできて、``Pornography!''。ぼくが黙っていると近くにいた日本人教員が親切にも通訳してくれて「ポルノ」。分かってるわいそんなもん。
こういうときのぼくの切り返し方はワンパターなのです: How do you know that?
もちろん女性教員もいました。これでセクハラ委員会から要注意人物としてマークされることは間違いなし?
受け狙いでこちらの意表を突くようなことを言う人がいると、やっぱりワンパターンで、ぼくは必ずこう答えます:「ばれてました?」
いろいろあって、気がつくと帰りは終電。徒歩で10分くらいかかる乗り換えを走って行くと、自動改札のところにいた駅員が
「あ、切符はいいです。もう(電車がホームに)入ってきちゃってるから。下りでしょ」
ここで、「終電間際に駅に行けばただで電車に乗れる」という結論を引き出せなかった私。しょせん一介のクリシンファンに過ぎないのです。
吹っ切れたというより、突き抜けた感じ。寝不足で一日会議に出てそのあと飲み会ってのは、かなり脳みそに悪いような気がする。
某殺人事件の被害者がうちの学部長と同姓同名で、大いにびびる。でも別人。「別人でよかった」というときっと問題発言になるのでしょう。「よい」のレベルが違うのよ、なんて言っても所詮は「へ理屈」、なのかなあ。
英語のクラスにいる学生と同姓同名の大学生が殺人事件の被害者になって、びびったことがあった。同姓同名とは言っても正確には一字違っていたのだが、でも新聞報道ではあれくらいの間違いはありうること。20代半ばで車に排気ガス引いて自殺した高校時代の同級生の名前も新聞にはしっかり間違って書かれていたし。
次の週の授業にその学生が来ているのを見て、本当にほっとしました。亡くなられた人に対する気持ちとはまったく別のレベルで、「よかった」と思った。
「それでもやっぱり「よかった」はまずいんじゃないの?」と思われたお方、あなたが教師になったら、きっととっても冷たい先生になられることでしょう。
暴言多謝。
懐かしいめまいがした。単語が分からない。
翻訳中ってもっと、楽しいと思ってた。(←それって高校の時の話だってば。)
引き受けるのは、かんたんなのに、気合いを持続するのは〜
ら〜ら〜、らら〜ら〜、らら〜ら〜、ら〜らら〜
きょ〜もあしたも家から出れない。(←嘘。今日は出た。)
ら〜ら〜、らら〜ら〜、らら〜ら〜、だ〜けど〜
きょ〜もあしたもどこかに逃げたい。
心理学と生物学は、いったいどう違うの?(←じあまり。)
とってもしんどいけど、とりあえず訳してます。(←じあまり。)
(中略。元歌忘れた。)
ら〜ら〜、らら〜ら〜、らら〜ら〜、やっぱり
何か引かなきゃいつまでも分からない。(←じあまり。)
ら〜ら〜、らら〜ら〜、らら〜ら〜、だ〜けど〜
聖書はどこに消えた!? 引用句辞典は!? 心理学と生理学と生物学の用語集は図書館に行けばあるのか!?(←どうやら切れたらしい。)
ら〜ら〜、らら〜ら〜、らら〜ら〜、やっぱり
こんなお仕事受けなきゃ、よかった。
不良債務返済無断延期中。う〜。
一応。
幻の週末が過ぎるまでは…
「実験室環境」とか「生態学的妥当性」とかいう言葉があるということで、一応 「簡単なパラメータ設定にして…とは言えないのではないかなぁ」という問題意識(2/19)はあるんだと思います。
言語学も危ないかも。コーパスの作り方/信頼性(代表性)と使い方の問題。「こういう言い方、コーパスにないけど、直観では明らかに言えるんだよなあ」というのをどうするか、とか。
いくらなんでもそろそろ書かなければ。
いくらなんでもそろそろ再開しなければ。
とっとと立ち直らなければ。
ふたたび城島後楽園ネタ。
バードマンとかいうバンジーをやればよかったのであった。
調べたら、城島後楽園のアトラクションで神様と同じ名前がついているのは「ジュピター」と「ポセイドン30」だけでした。しかも「ジュピター」が神様の名前から直接とったものだという見方はかなり危なくて。
「木製」→「木星」→Jupiterというおやぢギャグ説、当たっているような気がする。
となると「ポセイドン」も神様の名前からという見方は怪しくなってくる。水が関わるのは確かなんだけど。思い付くのが『バビル二世』だけというのがぼくの情けないところです。
ちなみに「30」というのは30メートル落ちるということだったらしい。落ちるときにちゃんと足をふんばってないと安全バーが内臓を圧迫して苦しい(危ない?)です。気をつけましょう。ぼくみたいにならないように。
またまた城島後楽園ネタ。ここには、Mr. マリックの館というのがある。金払って(ここはフリーパス券では入れないのだ)中に入ったぼくが何にも考えずに前から二列目の席に座ったところ、職員のおぢさんが一言:「一番前の方がよく見えるよ!」。 お節介なのか優しいのかそれとも両方なのかはたまたどちらでもないのか分からないまま、素直なぼくは最前列に移った。
やがて前のスクリーンの中でマリックさんがこちらを向いて喋り出したわけだが、途中でスクリーンの中の彼が客席に向かって「一番前の列のいちばん左の席に座っているあなた」。気がつくとぼくにスポットライトが当たっている。ぎぇ。「予知能力」なんていうお馬鹿な手品のお先棒担ぎをするのは嫌だったのだけれども、他のお客様の楽しみを削ぐ度胸もないぼく、素直に言われた通りにしましたとさ。
つまり、お節介だったわけでも優しかったわけでもないのであった。「あのまま席を移動しないで後ろに座っていたらどうなってたんだろう」と、素直なぼくは館を出た後で思ったのであった。
まだ続く城島後楽園ネタ。東京ディズニーランドの何ちゃらとかいうのにそっくりという噂のゴールドラッシュとかいうコースター。もともとそんなに恐くないように造ってあるのだけれども、それでも子どもにとっては恐いらしい。前の方に乗っていた男の子が、ほんとに恐いところでは恐怖のあまり声も出せず、それほどでもないところできゃ〜きゃ〜言っていたのがとってもかわいかった。
動き出す前に父親らしき人が「これに乗れればジュピターにも乗れるから、次はジュピター乗ろう」と言っていたのだけれども、「あの子はジュピターは乗らない方がいいね」とコースターを降りた後でぼくたちは語り合っていた。
てゆうかお父さん、自分が乗りたかったんだよね。子ども連れて来たときに子どもを置いて自分だけ乗るってのはやっぱりばつが悪いのだろうか。母親らしき人もいたから迷子になる心配はなかったと思うんだけど、あれは関係ない人だったのかな。
よく分からないのだけれども、現地でもらった案内に載ってるのでは「恐怖の理科教室」がそれっぽいのかも。入らなかったのだけれども。
てゆうか見ても見なくても皆いつかは必ず死ぬのら、ってゆうクリシンモードに乱入するぼくって、やっぱりい・ぢ・わ・る?
進行中。でも、はかどらない。ぐすんっ。
林檎の気持ちではなくてリンゴの気持ち。つまり椎名林檎の話ではありません。
大分の別府の山の中、湯布院に行く途中に城島後楽園(きじまこうらくえん)という遊園地がある。そこは絶叫マシン系の乗り物がたくさんあるところなのだが、その中に、「ニュートン」というのがある。この遊園地の乗り物には「ジュピター」とか「ポセイドン」とかそういった神話に出てくる神々の名前がつけられていることが多いのだが、この「ニュートン」は言わずと知れた実在の人物の名前である。それはニュートンが神のようにすごい人だったということではなくって、この「ニュートン」というのは要するに疑似フリーフォール経験ができるアトラクションなのである。つまり、このアトラクションに乗った人はリンゴの気持ちになれるわけなのである。って本当か。まあいいや。
んでもって先日の帰省の折、ぼくはこれがとっても好きだということに気がついた。富士急ハイランドのジェットコースターは乗ったときに感覚的に「恐い」と感じた。そしてフリーフォールというのは頭で考える限りではそれよりもずっと恐いはずである。自分を下から支えるものが ふっ! となくなるという事態が非人工的な状況で発生したらそれは怪我なり死なりにつながるわけだから、それと同じ経験を、たとえ人工的な状況においてであるにせよ、するということはこわいことだと判断されるのである。でも、実際に「ニュートン」に乗ったらぜんぜん恐くなくて、むしろとっても気持ちよかった。地上で見ていた人からは「ぜんぜん表情が変わってなかった」といわれた。
んで、ぼくがいったい何を言おうとしているかというと、別に何も言おうとしてはいないのである。つまり、この話は落ちないのである。
と言って済ませてしまったらただのおやぢギャグである。だから無理矢理落とすことにしよう。物理的に自分を支えるものがなくなるというのは、実はなかなか気持ちよい経験なのである。たとえそれが究極的には死につながるものであっても、そこに至るまでの何瞬かの間は、とっても爽快である。しかしこれが物理の世界ではなくて心の世界になると、話はまったく別だろうと思う。それまで自分を精神的に支えていたものが ふっ! となくなってしまうというのは、結構つらいことだろうと思うのである。これで何とか落ちたかな。
上に名前を出した「ジュピター」というのはジェットコースターである。これは足場(?)とレール(?)が木製で、コースターに乗っているとがたがたと音がして、こわさ(?)を演出するようになっている。
んでもって、この「がたがた」の原因をめぐっては、一つの伝説がある。それはこういうものである。
完成した時点で、木を留めるボルトが一つ余った。
思わず、「一つしか余らなかったなんて、上出来じゃん」と言いたくなるようなカワイイ話だが、それでも年若いひとびとにとってはこわさを増幅する効果があるのだろうなあと思う。
ぼくは「ジュピター」もこわいとは思わなかった。ほんとに恐いジェットコースターに乗りたいよぉ。
「自分の年齢を考えなさい」というコメントは却下します。
終了。
最中はすごく楽しかったけど、楽しかった分今はしんどいです。安全弁外した状態だったし。
もう二度とこのての話には乗らないつもり。和えものでも冷や奴でも何でも吹いてやる。
「スポーツバンド」
某スポーツ用品店では、「済みません、メガネバンドは売り切れちゃったみたいですね」と言われた。某スーパーのスポーツ用品売り場では「うちではメガネバンドは扱ってないんですけど、4階のメガネ売り場で扱ってるかもしれない。ちょっと聞いてみますね」といわれた。そして4階のメガネ売り場では、「スポーツバンドですね」と言われた。
さて、メガネ売り場で無事買うことが出来たその物体の、正式な商品名(箱に表示してある商品名)は、どちらだったでしょう。ちなみに箱には「SPALDING」とも書いてあります。
コピー機を使いこなせる程度の知恵はある人だと思ってました。
ぼくがはじめてコピー機を自分で動かしたのは高校のときだったと思う。あの頃は今みたいにあちこちにコンビニがあるという状況ではなかったし、コピーサービスやってる文具店では40円くらいとってたような記憶がある。というわけで今とはずいぶん状況が違うのだが、今の子どもたちはどれくらいから自力でコピー機を使いはじめるのだろう。
進行中の某事態。ここにはぜったいに書けないのだが、忘れてしまう前に記録しておきたいこともある。
ハードディスクにそれ用のファイルを作ってそこに書くという手もあるのだけれども、完全に自分だけの閉じた世界を作ってそこにこもってしまうのも、なんだか恐い。
川越の陶磁器店で見つけた犬の置物買う。
眼鏡。クリーニング。
旅行したい。
帰省の準備。
電話?
早起き。そのためには早寝!? 毎日。
ヨガ。毎日。でも今日はいきなりまた出来なかった。
いろいろ考えること。でも余計なことは考えないこと。
ある意味、10年前の気持ちに戻ってみること。
見るドラマを一つ増やすこと。何曜日だったっけ。何時だったっけ。何チャンネルだったっけ。
禁断症状はない。更新を休止したときにしばしば感じる達成感は、今も無くはない。だが、それほど強くはない。自然な展開という雰囲気。ある意味、前に予告した通り。
常盤貴子、きっと最後は捨てる弁当度(←何が言いたいかは番組終了時に、てゆうか分かる人には分かると思うけど)。
普通こんなもの、わざわざTeXでは作らんよなあ。でもやってしまった私。
出席とるかもれないってのはこのことです。
2月かぁ。