きざし(2000年3月)

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最終更新 2000/3/31 18:59

現在、研究室のサーバーにはアクセスできません。


3/31

げほげほ

おうちのパソコンで、ファイル名を「z*.h*」と指定して、文字列を「とにかく」と指定してgrepをかけたら65個見つかりました。うわ〜ん。ということで文脈を特定しなければ。

う〜ん。

 

 

それから、たまに見かける言葉

「ベストじゃないけどベター」ってどういう意味?

 

 

見まねロボットから外国語教育を考える

前振り

大学の英語教員の中には、「英語教育が一番の生きがい」みたいに思っているひとびとと、そうでない人がいる。ぼくも含めて、文学とか理論言語学とかの専門を持っているひとびとにとっては、英語教育は「一番の生きがい」ではない。

(だからといって、「手抜き」に走るわけではない。一生懸命やる人と手を抜く人と、両方いると思う。念のため。)

んでもって、ぼくの見た感じでは、「英語教育が一番の生きがい」タイプのひとびとは、大雑把にいって二種類に分かれる。一つは、応用言語学の研究者でもあって、第二言語習得について一応理論的に考える姿勢があるひとびと。もうひとつは、もともと言語学かなんかの研究者だったのだけれども、何らかの事情により研究者としての活動ができなくなって、あとは英語教育しか残っていない、というタイプのひとびと。

「生きがい」タイプに見られるこの二つのタイプは、どちらも「学生にたくさん英語を使わせることが重要」と考えている点で共通している。

(「生きがいでない」タイプもその点では実は共通しているのだが…)

ただその先は、結構違う。一応理論的に考える姿勢がある人々は、「自分はどういう教授法を採用するのか」「その教授法を採用する理由は何か」についての自覚、つまり方法論的な自覚、がある。少なくとも話を聞く限りでは、あるように見える。まあ教授法の研究がその人の研究課題であったりもするわけだから、当たり前といえば当たり前なのかもしれないが。

それに対して、「英語教育だけが残った」というタイプの人からは、方法論的な自覚が感じられない。「(文法なんか教えずに)とにかくやらせる」とか「とにかく使える英語を」とかいう言葉が出てくるわけだけれども、それらに対して突っ込みを入れると、ちゃんとした答えが返ってこない。「文法なんか要らない、とにかくやらせる」に対して「なぜ?」と聞くと「ぼくらが日本語を話すときに、いちいち文法なんか考えてない」とか言われる。母語と非母語の条件の違いを考えなくていいのですか、といっても答えは返ってこない。「使える英語」の具体的なイメージもない。…だから「とにかく」はきらいなの、ぼく。なんてことはこの際どうでもいいのですが。

んで、「生きがいでない」タイプの人にも、方法論的な自覚がある人とない人がいる。ある人は二つに分かれる。一つは、やや「教養主義」(←括弧つき)より。これは、論理的な思考力を養成する場として英語教育を位置づけるタイプ。古典的ないし人文科学的という意味での「教養」ではないのだけれども、「実用」に対して距離を置くという限りでの「教養主義」。

(「実用」に対して距離を置くのは、「実用」を主張する人々が「実用」の内実を明確にしていない(ように思われる)ということとか、大学教育の目標についての考え方とかが関係している。)

もう一つは、やや「実用主義」より。ただし、学習者に与えられた限られた時間、学習者の年齢およびそれに伴う知的能力の発達状況、その他を考えて、読み書き聞き話すの全ての技能に関する知識として文法を一度は明示的に教える必要があるのではないか、という発想になる(ことがある)。

ぼく自身は、少なくとも2000年度は、授業の性質によって「実用主義」(明示的な文法を含む)と「教養主義」の比重を変える予定でいる。

以上は、ぼくとその周囲の人を見て考えたことであって、大学における英語教育全般に言えることかどうかは分からない。

そしてこの話を「見まねロボット」の話につなげたいわけだが、そのために(?)、次の軸だけを取り出して考えることにする。

英語教育以外が専門英語教育が専門
文法を明示的に教えたいと思う思わない

つまりまず、方法論的な自覚のない人は考えない。方法論的な自覚のある人のうち、英語教育以外が専門の人の中で、教養主義寄りの発想だけの人は考えない。すると問題は、文法を明示的に教えることに対する捉え方、ということになる。

本題…に向かって

ちょっと前に気がついたことなのだが、「文法を明示的に教える」というやり方は、じつはある意味認知主義的(←「認知言語学的」とは別)であり、CPUモデル的である。文法を教えようという人が想定している学習プロセスは、昔ナイサーか誰か(←いい加減)が言ってたスキーの滑り方の学習プロセスのイメージに近い。つまり、最初、やり方を言葉で教わる。その教わった内容に合わせて、意識的に体を動かす。繰り返しているうちに、特に自分の身体の動きに対して意識を向けなくても、言われた通りに体を動かせるようになる、というモデル。

それに対して、「文法を明示的には教えない」というやり方は、(ちゃんと知っているわけではないけれども何となく)伝統芸能における「技」の教授の仕方に似ているように思う。「なぜそうするのか」は分からなくてもいいから、とにかく真似る(英語教育では「シャドウイング」というのがある)。あるいは、畳の上の水練ではなく、とにかく場数を踏む、とか?

これを「知識」と「運用」の問題として考えると、「文法を教えよう」派の発想は、一応「運用」から独立したものとしての「知識」を想定していると言える。それに対して、「文法を明示的に教えはしない」派の発想は、言ってみれば「知識」は「運用」の中から立ち現れる、という立場を取っているといえる。そして「教えよう」派が「教えない」派に対して感じる不安の一端は、ここに関係している。

そもそも「教えよう」派は「頭の中の知識」から出発してしまうので、そこにこだわってしまうわけである。それで第一の疑問:「本当に知識は立ち現れてくれるのか?」。…これに関しては、「教育効果が挙がっている」という事例がある、ということらしいから、まあ立ち現れるのだろう、ということになる。そして次の疑問:「その知識は、どのように立ち現れてくるのか?」つまり、どういう頭のメカニズムがあって、知識が立ち現れてくれるのか。学習が成立するという事実があるとして、なぜそれが事実として成り立つのか、という説明がほしい。

(リンゴが落ちるのは落としてみれば分かる。でも、なんでリンゴって落ちるの? なんでふわふわ浮かんでいかないの? みたいに。)

んで、ぼくが話した人は、この第二の疑問に答えてくれませんでした。てゆうか、答えてほしい、ってのがそもそも意地悪な希望だったのかも知れません。これはすぐれて認知科学的な問題であって、応用言語学ごとき(?)に解ける問題ではないのかもしれません。

そして、「文法を明示的に教えるかどうか」の背景として、「知識」と「運用」の問題のほかに、もう一つ考えておかなければならないことがある。「文法を教えよう」派が想定している言語能力/知識のイメージは、どちらかといえばモノローグ的ないし独在論的である。頭の中の言いたいことに合わせて、単語をコードにしたがって組み合わせて文を作る。相手に向けて発されるのは、できあがった文であって、それを構築する際には他者の存在はなくてもいい。そして、他者が発した文を、ふたたびコードにしたがって解釈する。コード/知識/能力は独立した個人の頭の中にあらかじめあるもの。それに対して、「文法を明示的には教えない」派の発想は、コミュニケーション活動の中で知識が立ち現れる、というイメージで動いている(らしい)。つまり、ある意味相互行為的。

そして、見まねロボット

見まねロボットは、相手の体の動きを真似して自分もそれと同じような動きをする、それだけのロボットである。だが、真似るというのはそう簡単なことではない。相手と自分とでは身体条件が違う。その違いを越えて真似を成立させるためには、相手の体の動きそれ自体を知覚するのではなく、動きを支えている「意図」のようなものを知覚しなければならない。ただし、非言語的なレベルで。しかもこれは恐らく「意図」の存在を先に想定してそれに合わせて体を動かすようにするというCPUモデルの発想では多分なくて、動きの真似ができているということは意図の知覚が成立しているということだ、というような話だろうと思う。

んでもって、意図の知覚が成立しているということは、そこにコミュニケーションという出来事が発生しているということだ。そして、言語的な(あるいはシンボル的な?表象的な?)知性というものはこういう非言語的なコミュニケーションの中から立ち現れてくるのではないかしら、というのが見まねロボットの思想。

つまり、知性が先にあってその指令を受けてからだが動くという二元論(?)モデルではなくて、体の動きが先にあって知性はそのなかに埋め込まれているというモデル。そして、その体の動きを支えているのは他者の意図を知覚できる非言語的なコミュニケーション能力。

んでもって、外国語教育の話で出した「知識」「運用」に相当するものを見まねロボットに求めるならば、それは「知性」「体の動き」ということになる。そして見まねロボットの思想は、「文法を明示的には教えない」派の発想と近いような気がする。だから、見まねロボットの研究が(進み、なおかつそれが)ぼくらのような糞ど素人にも分かりやすい形で提示されたら、「文法教えなくても知識が身につくのはなぜ?」という先の疑問の答えも出てくるのかもしれない。

ということなのでありました。疲れた。はらへった。


3/30

本日のお馬鹿

自分の出身中学の校歌の出だしが六甲おろしにそっくりであるという名誉ある事実を指摘されるとすぐに腹を立てる振りをする私の妹。

うれしかったら素直にうれしいって言わなきゃ♪

 

 

縁を切りたいひとびと

暴走族(←メタファー)。

鏡を持ってない人(←メタファー)。つまり、ecologicalないしinterpersonalな自己認識しかできない人。あるいは、逆恨み系の人。

 

 

その他、あまり好きになれないこと

ある特定の人に対して自分が感じている嫌悪感を、自分の周りにいる人全てが共有すべきであると思うこと。そして自分がそう思っているということを自覚しないこと。

その尻馬に乗って、自分自身はうらみがあるわけでもない人についての悪口に付き合うこと。

「私はあの人が嫌いである。ゆえに、あの人のすることは何もかもどうしようもないことばかりである」という行動原理で動くこと。しかも、自分がそういう行動原理で動いているということを自覚しないこと。

とくに、本当は「私はあの人が嫌いである。ゆえに、あの人のすることは何もかもどうしようもないことばかりである」と思っているにもかかわらず、あたかも「あの人のすることは何もかもどうしようもないことばかりである。ゆえに私はあの人が嫌いである」と思っているかのように自分をごまかすこと。

「いいものはいい」という言い回しを使うこと。

「とにかく〜」という言い回しを使うこと。


3/29

ビデオ見た。

「先読み」の位置づけ、すっかり誤解していたみたい。サッカーの連係プレーの場合とイチローの場合と、別の話らしい。同じ「先読み」って言葉を使ってはいたんだけど。え、あ、あの誤差信号の話はサッカーの場合にも適用されるの? よーわからん。

それ以外の部分は、忘れた。つうか、その時は何となく分かった気分になったのだけれども、もはや再現できない。あ、そうそう、イチローの言ってることと番組の流れがかみ合ってないんじゃないか、ってところがあったような気がする。

二日目の変容の話も、見直したときに、あ、そうそうこんなのものあったね、ってのがあったんだけど、もう忘れた。

 

 

I was gonna say ...

ロフタスの実験で、起こった出来事に関して一番積極的に証言/発言していた人の、言葉。この言葉が出たのは、彼の記憶がサクラとおぼしき女性の発言によって変容したとき。サクラさんのその発言の直後の言葉の出だしとして出たのであった。

これを文字通りに解釈していいとしたら、サクラさんの発言によって変容したのは事件についての記憶だけではないことになる。事件について語ろうとした自分自身についての記憶も一緒に変わったということだ。

くりしんの後知恵バイアスにも関わるポイントかな。

 

 

今日の話

一言で言うと、心身問題。最初の方に出てきた、脳みそにシリコンチップ埋めて記憶力を増強できる時代が来るとか言ってた人はやっぱり、なんかちがくないか、って感じ。

かわと氏の見まねロボットの話が面白かった。番組とは別に、思ったこと。ある種の人格障害の本質に関して現在少なくとも二つの説が提示されていて、それはおそらく対立関係にあるのだろうと思うのだが、その対立を止揚する観点があの研究からは出てくるかもしれない。


3/28

入稿。

その後、お絵書き部分を画像ファイルにして渡すことに勝手に決定。で作業してたら遅くなってしまって、実際に寝たのは明るくなってからでした。当然まっとうな時間には起きれず、結局郵送で入稿。ってことは、pdf版は当分作成できないってこと。

テンスアスペクト関連で論文書いたのって、実に8年ぶり。ぼくの決して長くはないけんきう生活を考えると、「大丈夫なのかよ」って感じですが… 今回の論文はたとえて言えば、人のふんどして相撲をとっておいて(そしてひょっとすると勝って?)そして「このふんどし、いいよぉ」と言う、みたいなもの。

で、それを真に受けた人が「それじゃあ」って感じでそのふんどしを締めて土俵に上がると…確かにそのふんどしはとってもいいのだけれども、気がつくとぼくが残していった皮膚病に感染して痒くて痒くてということになって…

私は何の話をしているんだろう。メタファーの力。

 

 

フジテレビの記憶の番組。

一日目の昨日は潜在記憶とか運動制御とその習得とかの話。意識できるシンボルの記憶だけが記憶なのではない、ってことを分からせるという意味では面白かったけど、う〜ん。全体としてまとまった形で整理して頭に入れることができなかった。とくに運動制御の話はいまいちかしら。感覚器から入った刺激を感覚神経を通じて脳みそに取り込んでそこで処理してそして今度は運動神経を通じて司令を筋肉に送ってそこで筋肉が動く、というある意味典型的なCPUモデル。当然、その処理には時間がかかる。たとえばイチローがヒットを打つときなど、そのモデルでそのまま臨んだのではとても間に合わない。そこで「先読み」というのが導入されるわけだが、そのメカニズムがなんかよく分からなかった。先読みの例としてサッカーの連係プレーが出されていたが、あれに関して「(ゲームの展開についての?)みんなのイメージが一致していたからこそできた」みたいに騒いでいたけど、ほんとかしら。たとえばイチローの場合、ボールのコースのイメージなんか作ってたらますます処理に時間がかかって絶対振り遅れそう。それから、連係プレーで思い出すのはロボット。簡単な連係プレーだったらできるロボットがすでに存在するわけだが、あのロボットはイメージ(表象)なんか持ってなかったはず。サッカーの連係プレーも、読み/イメージ/表象なんかなくてもできるのではないかという気がした。まあ、もう一回ビデオを見て、それから佐々木先生の『アフォーダンス』の後半を読み直してからじゃないと、ちゃんとしたことは言えないのだけど。

二日目の今日は、記憶の変容や偽りの記憶の話。こちらは昨日に較べたらまとまりがよかった、ように思えたのは知ってる話が多かったからか。ロフタスの実験は面白かった。対話の中で記憶が構築されていく。しかも本人たちの自覚としては「記憶が構築された/植え付けられた」のではなくて「思い出した」ということだったりする。ずっと昔の出来事についての記憶(だけ)ではなくて、ほんの数分前のことについての記憶。あと、存在しないはずの時計の位置と表示時刻を教えてくれる人々はいいとして、選挙におけるイメージ戦略の話は繋がりがよく分からなかった。

(番組からは離れるが)過去は記憶の中にしかない。そして記憶は(共同)想起によって作られる。事実って何? 経験って何? 記憶が変容すること、特に過去の出来事に対する意味付けが変容すること、それを積極的に捉えて共同想起を通じて引き起こしていくのがカウンセリングの(一つの?)やり方、という見方でいいのかしら。

 

 

あるくりしん関係心理学本

ある章で、「性格」の果たす役割をminimizeしようという方向の議論が提示されていて、「性格は生まれつきか→違う」「行動は性格で決まるのか→われわれは状況によって決まる部分を見逃しがち」みたいに書いてあった。

んで、別の人が書いた別の章では「同じ(実験室的な、つまり、統制された)状況でも、子どもの行動の仕方っていろいろだよねえ」みたいに書いてあった。それってやっぱり性格の違いは重要ってことなんじゃないかしら。生まれつきかどうかは別として。

 

 

以上

不正確な部分、いっぱいありそう。っていつものことだけど。


3/27

ふめいにっき

先日の某所でのぼくの常軌を逸した行動の顛末に対するぼくの感じ方が誤解されてしまった模様。

本日の教訓:酩酊時のジョークは引き際が肝心。
本日の宣言:ミスターレディーに図書券あげに行く勇気はぼくありません。

 

 

美しくも悲しいsterben-Tod

う〜やっぱりぃ?

それにしても、結局何の病気か分からなかった私。架空の病気だったのか、それとも実際の病気だけど、患者が死ぬというストーリー展開だから、病名を出すと実際その病気にかかっている人の希望を削ぐことになるから出さなかったのか。

考えないことにする。

 

 

ふと思う。

4月から始まるあるドラマ。あの人やあの人やあの人はあれを見たら何を思うのか。

 

 

りべんじなんかにゃあ負けない。

そういえばこのまえ探してた本、見つかってます。

 

 

全然関係ないけど

自分が理想とする英語教育を実現させるためにはカリキュラムのそれ以外の部分が全部崩壊しても構わないみたいな感じで動く人は、大学ではなく英語学校で教えるべきなのだ。

大した理想じゃないところがまたすごいんだけど。

 

 

最後はまじめに

このまえ目次込みで18ページだったのに、うねうねと論点を追加していったらいつのまにか規定の20ページを超過した模様。ぎゃ〜。載せてもらえるかしら。

これ以上手を加えるとまた長くなるので、さっさと寝て起きてもっていきます。


3/25

業務連絡

大学内の電気設備工事のため、3月26日(日) 8:00 〜 12:00の間、電子メールが使えません。

 

 

出勤

愛媛の言葉のネイティブチェックとゼミ資料の引き継ぎをする合間に卒業式に出るため、出勤。

バス停から研究室に行くには中庭を通過しなければならないわけだが、あちこちで学生が記念写真を撮っている。映り込まないように、でも急いで進む。入ってしまったかもしれないのが一回だけあった。ごめんなさい。

卒業していく人々の中にはむかし授業を担当した学生もいたけど、うちの学部はまだ卒業生がいないので、ぼくは別にすることもなし。ただ、式の間教員席を埋める人は一人でも多い方がいいというのがぼくの唯一の存在意義。

来賓(某企業の(元?)副社長)の挨拶は長かったけど面白かった。気がつくと式典は30分遅れで終了。最後の方は寒かった。

終わった後、ゼミ資料の引き継ぎ。そして論文の一部修正↓。

夕方の謝恩会みたいなやつ、今年は出ました。法学部の部屋に紛れ込みました。知ってる学生もいました。

その後、飯能市内で何時間か過ごしてから帰宅。

 

 

インフォーマントチェック

今年は紀要論文の締め切りが卒業式の日ではなくて来週なので、今日はまだ論文を仕上げてなくてもよい日。出勤時、スクールバスのバス停で愛媛出身の教員に会ったので、さっそくネイティブチェック。先行研究でははっきりしないのだけれどもぼくの枠組みでは当然問題になることについて、聞く。ぼく説の予想通りの結果が出て、喜ぶ。ということで、このチェックに関しては論文でちらっと触れるが、本人の希望により名前は出さないことにする。

昨夜研究室にメールでtexファイルを送ってあったので、卒業式の式典後早速その結果を反映させて修正。ただし、諸般の事情により、公開は結局決定稿入稿後になる見込み。


3/22

やっぱり駄目だった

俊平君、ぼくが自宅から会いに行くとちゃんと「今2000年…です」と教えてくれるようになったのだが、よその人が冷やかしに行くと「今3900年…です」というようになったらしい。人を見て物を言うのは利発な証拠、特に主人(だったのか?)に忠実なのはよい傾向♪

などと能天気なことをいってるわけにはやはりいかないようで。てゆうか自分のブラウザが2000年問題に対応していないのに気づいていながらその古臭いブラウザを基準にプログラムを書き直した私が馬鹿でした。私が常用している古いブラウザは、JavaScriptのgetYearに対して1999年中は下二桁だけとった「99」を返していたが、2000年に入ってからは「00」を返すのではなく「100」を返すようになった。そのお馬鹿な仕様(?)に合わせて「+1900」をくっつけてしまったのが今回の失敗の原因。てゆうかこれで私の常用ブラウザでは正しく「2000年」と表示されるようになったんですけどね。

世の中には2000年問題に対応しているブラウザもあるということなのですね、きっと。そういうブラウザではgetYearに対してきちんと「2000」と返してくるのでしょう。それに「+1900」を通すとよほどCPUの機嫌が悪くない限り「3900年」と返してくるわけです。

Y2Kに対応したブラウザと対応してないブラウザと両方で正しく表示ができるようにするにはブラウザ名とバージョンをgetしてそれに合わせて枝分かれするようなプログラムを考えればよいのですが、「それってどうやんの?」という問題とか「そこまでやる必要あんの?」という疑問とかがあるのでやめることにして、やっぱり最初から「2000年」と書き込んでしまうことにします。年が変わったらまた更新すればいいのだ。

そういえば以前こちらでも同じような悩みが語られていたような。

 

 

公用語

だから言ったぢゃん、とか言ってみたり。

朝日新聞読んでないので適当に言うけど、公用語の問題ってのは行政サービスの問題のほかに政治権力へのアクセスの問題でもあるわけで、その辺を明らかにしないで経済効率の問題ばかりを取り上げてなんちゃら語(←英語に限らず)を公用語にしよう、とかいうのは植民地化へのしょ〜とかぁ〜っと!なのよん。

 

 

消えていく日記

リンク集には残しておくことにします。お元気で。


3/20

教員的日常その2つづき

大学ランキングを見たら、私の授業の教室がある離れ小島が【大学の施設・環境で悪い所】に挙げられていた。わ〜んやっぱり。

 

 

日常

部屋の整理など。ある一冊の本を探してあっちこっちひっくり返しているのだが、一向に出てくる気配がない。探しながら、「ぼくの肺は人間掃除機♪」とか思い、次の瞬間30分後、その本末転倒ぶりに気づいてとりあえず窓とドアだけは開けた。

問題の本はまだ見つかってない。以前このページでぼろくそに言った本。リベンジ(←最近はもうあまり聞かない気がする)されてる?

 

 

この時期たまにあること

非常勤先の学生が講義要項だかなんだかを見て「へ? こいつ何者?」とか思ってヤフーとかインフォシークとかグーとかで「本多啓」と入力してそれだけじゃなくて「検索!」とか押した挙げ句にこのサイトのトップページを見つけちゃってついでにさりげなく残してあるこのページへのリンクも目ざとく見つけちゃったりなんかして「この「記雑新」って何やねん?」とか思ってこのページにきちゃってそのあまりのクソティカルぶりに「な〜んだ大場さんちの嘉門ちゃんだったのね」と見抜いて授業をとるのはやめようという気になること。


3/19

いもむし踏み

さなぎんぐしてますますすをどりんぐっぽくなったと思う。

 

 

テレビで見たほーむあろーん

あのどろぼうさん二人組、世界征服を企てて幼稚園バスを襲撃する悪の秘密結社みたいだった。

 

 

教員的日常その1

新年度に備えて非常勤のスケジュールの確認など。15日に書いたゴールデンウィーク109連休化、継続の方だけでなくて新規の方もやってることに気づく。

うちの大学はまじめなので、カレンダー通り、のはず。ぼくもまじめ、か? 5月2日(火)の授業は学生にしてみれば休みづらい科目ばかりなので、休講にしてあげれば大歓迎されるはず、だが…

そして非常勤は午前の方が午後より出講回数が少ないことが判明。家から遠い方を午前にしてしまったのをずっと後悔していたのだが、出講回数を考えると結局どちらでも身体的な負担はあまり変わらないのかも。

 

 

教員的日常その2

そして念のため、と思って継続の方の教室をもう一度確認したところ…ぎぇ、離れ小島だ。あの建物はリソグラフが自由に使えるようになってたかしらとか、弁当が持ち込めて配布資料のあまりを置いておける控え室はあったっけとか、てゆうか弁当買う店も変えなければ、とか。

メインキャンパスと名称上は同じキャンパスなのだが、実際は徒歩で10分弱かかる。途中に変な階段があって、登るのが結構しんどかった記憶がある。図書館も事務局もはるか彼方。学生の教室移動も大変。遅刻厳禁を徹底していたずらに受講者が増えるのを防ごうと思っていたわけだが、それやるとまじめに3限に出ていた学生が割を食うことになる。てゆうか、3限まで授業受けてそろそろ疲れが出てきた学生たちの中に、あの建物まで足を運ぶ人ってどれくらいいるんだ。ぼくが学生だったら途中で左に曲がってまっすぐ家に帰っちゃうよ。左に曲がってまっすぐ帰る、ってのも変だけど。ってそういう問題じゃない。

どうしてあの大学はこんなに私をいぢめるの?(←被害妄想) まあまじめな学生だけが来てくれる、っていうことだったらそれはそれでいいんですが。


3/17

19100年

「平成2000年」というのもなかなかかわいいのですが、実は私のお友達の 俊平君に会いに行くと、「今19100年…です」などと大嘘を教えてくれるらしいということがある人の指摘によって判明しました。

会いに行った年月日なんて教えてくれようがくれまいがどっちにしろ大した違いはないわけで、しかも表示される年号にわずか17100年程度の誤差があっても誰も困らないのだけれども、でも「俊平君って、お・ば・か」とばれる思われるのはやっぱりかわいそうなので、対策を取ることにします。

動作確認は自宅のNetscapeでしかやってません。今度出勤したときにIEで確認します。

どうしてもうまく行かなかったら、最初から「2000年」と書き込んでしまえばいいのだ。

 

 

雑用的日常

ということで、現代文化学部ホームページの手直し。公開から早2年、この間に積み重ねられてきたことを反映させようと思えばいくらでもできる。英国への派遣留学とか、ウィーン大学の語学研修とか、学部企画とか。

でも、思うところもあって、とりあえず今回は最低限の修正だけ。「図書館」という文字列は「メディアセンター内のどこどこ」にしなければ、とか。

アップロードは事務局の人にお願いするので少し時間がかかります。(メールで送る。)


3/15

あるところである本の紹介を見て思ったこと。

「あの人々を敵に回すことになっても私は一向に構わない」という姿勢で書かれた本を「立場上、誰とも対立したくない」という人が紹介すると、ああなるんですかね。

それとも、あの本が「あの人々を敵に回すことになっても私は一向に構わない」という姿勢で書かれている、と思ってしまったのは単にぼくの性格の現れに過ぎないということなのかしら。

あの本の著者が自分のホームグラウンドとしてやってることをぼくがきちんと把握しているわけではない、というのは確かなのだけど。

 

 

本当であってほしい話

今日のワイドショーによると(←ぢつに怪しい)、海馬は使えば使うほど大きくなるものらしい。

脳みその細胞は誕生以後増えることはないはずだけど、繋がり方はどんどん変わるから、海馬に駆り出される部分も増えることがある、ということなのかなあ。

実に怪しい話だが、でも本当であってほしい話ではある。

 

 

けんきう的日常

「方言文法と英文法 (1) --- 宇和島方言の進行形をめぐって ---」の下書きのpdf化の準備。「読んでやってもいいぜ」という人には添付ファイルでお送りします。そういう人が一人も現れなくても一部の人にはきっとこちらから勝手に送り付けます。

タイトル見て、どういう主張か分かったような気がしている方々、それ当たってます、絶対。

 

 

教員的日常その1

非常勤(継続)先から学年暦など届く。5月1日(月)は何もしなくても休み。というかこの大学、ゴールデンウイーク期間はあのてこの手を使って10連休くらいにしている。気合い入れて休む大学。やりすぎという感じもしなくもない。

教室はまた大教室。

 

 

教員的日常その2

非常勤(新規)の方も、5月1日(月)は何もしなくても休み。

教室は開講時に行ってみないと分からないらしい。私、変温動物なので、冷暖房ない部屋だと死にます。


3/13-14

けんきう的日常

文字を入れる作業(!?)、最後まで到達。目次込みで17ページ。思ったよりやや短い。要するに前作った資料をまとめ直しただけなのでミスは比較的少なかったが、それでもいくつか大きな穴あり。直したら1ページ増えて18ページ。それでもじゅうぶん許容範囲。

リサイクル用のA4(単に裏紙に印刷するというだけ)が見事に底を突いたので、B5にサイズを変えて印刷しました。これから関係者に送りつけるかもしれません。郵便で。

安直にできてしまったというのはやっぱり悔しいので、夏休みの苦労が報われたということにする。

 

 

雑用的日常

昨日はよろよろ、というより餌子氏的な意味で(?)、ぐったり。自分が過去に何をやるべきだったのかを思い知る。その割に、自分が今何をすべきなのかをまた見失っていたことに気づいたり。

今日はメールを書きました。

 

 

お仕事的日常

昨日、校正をFaxで受信。某トラウマゆえ、Faxは本当は送信専用にしたいのだけれども、でもなかなかそういうわけにもいかず。本日返信。

例のプロジェクト。やりますやります。でも明日から。でも急がないと。

 

 

よんだ。

ワタシ的カリスマの一人かも。もう一冊は注文中。


3/12

けんきう的日常

このまえ例文を入れたものに、地の文章を入れはじめる。2000/3/12 23:34 今9ページまで。何とか全部で20ページ前後に収まりそうな気配。でもなんかすごく安直な感じ。かなりお絵書き意味論入ってるし。

2000/3/13 3:8いま12ページ途中。

 

 

同じデータから違うお話

人が必死こいて集めた例文を横取りしてもとにしてその人とはかなり違う話をでっち上げて構築して「はいいっちょあがり」と言って紀要に出す極悪非道のarmchair linguistとは私のことです。

 

 

お仕事/論文書きの副作用

htmlファイルをTeXのコンパイラに流し込んでしまうことがある。


3/11

昨日帰りがけに買ったこの本読む。面白い。

 

 

トマセロの顔とかおさるさんの「心の理論」(?)とかチンパンジーの表象使用能力(??)とか

面白かった


3/10 (3/11記)

雑用的日常

科研費の後始末、完了。この日が学内締め切りだった。

 

 

けんきう的日常

研究室から関連文献を一つお持ち帰り。

 

 

お仕事的日常

ふと思い立って研究室からgooにつないで「海外のページ」にして単語をいくつか入力。一つよく分からなかった某引用句の出典判明。いんたあねっとは分厚い引用句辞典より使えるかも。んで、図書館で原典に当たろうと思ったものの、今は休暇中、本務校の図書館は非常勤先の図書館より4時間早く閉まる。そしてつまり、もう閉まっているのであった。

さっさと帰ることにする。

帰宅途中、いくつか書店によるも、聖書を置いてある書店はないことが判明。関係ない本を買ってしまう。

自宅で古い口語訳を探して見つけ出して該当箇所を参照。え? どう考えても言ってることが訳してる文章とかみ合わない。そればかりか、gooで見つけたサイトの解説とも合わない。仕方ないから口語訳は無視して自分で訳をつける。校正で直すかも。

その後、訳の不統一を一部修正した後、ハードコピーとテキストファイル版を作ってそれぞれファックスとメールで送信。ハードコピーは裏紙に印刷したので微妙に混乱、一部再送などする。あいかわらずTeXで作業してるので(プレーンテキストでは落ち着かないので)テキストファイル版つくるのもけっこう時間がかかる。

ということで、23時頃夕食。昼が16時過ぎだったのでまだ死んでなかった。でもよれよれ。

次は例のプロジェクト。でもちょっと休む。

 

 

ずっと前に買ってあったこの本読む。面白い。よく勉強してると思う。


3/9

パソコンと手書きの使いわけ

実は、ぼくはある意味で手書き礼讃論に賛成なのかもしれない。「ある意味で」とはどういう意味でかというと、こういう意味で。

(手書き礼讃の中心人物が「書家」という「体の動きが勝負」の人だというのも、ちょっと興味を引かれる面がある。)

だから論文にしても翻訳にしても一通り最後まで文字が埋まった後のチェックはハードコピーでやる。それで必ず真っ赤っ赤っ赤になる。

でもパソコンも手放せない。最初のメモから使う。そして論文/翻訳/…の最後まで一通り文字が埋まるまでは、パソコン上でないと仕事にならない。ほいでもって、パソコンで仕事してる段階で一生懸命注意してやればハードコピーを真っ赤にしないで済むかというと、それも無理っぽい。

「パソコンか手書きか」という二者択一的な発想は、ぼくには向いていない。どうしてもどちらか選べと迫られたら…?

逃げます。

 

 

ちなみに

散々言ってることだけど、ワープロソフトは使わない。エディタ。もっとも手書き礼讃の人はワープロとエディタの区別なんかしないと思うけど。

 

 

ここまでは

実は昨日書いたのであった。

…………………………………………

 

 

お仕事的日常

スピノザはぴしっと簡潔に、ダーウィンは柔らかく優しく、アリストテレスはワケワカメ、マタイはやっぱりシマリなく(文語訳探せばよかったかな)、ウィリアム・ジェームズはいまいち好きになれず。でも最小限の変更でそのままぶち込みました。ジェニングズとシェリントンはあくまでもぼく風に(てゆうか見つからなかったの)。

よれよれ。

 

 

けんきう的日常

今日はなし。

 

 

雑用的日常

科研費の後始末。今2000/3/10 4:22。これから寝て起きて書類もってく。


3/8

お仕事的日常

昼時、編集者氏から電話。「フロイト流の意図---意図の生理学およびその統合---」とタイトルが決まる。「意図」は``wish(es)''の訳。``intention''の訳はどうしようとか、途中に「あまり適切な用語とは言いがたいのだが」とあるのはどうしようとか、そんな問題が発生。といっても後者は仕方がない。前者については、これから考える。

…………………………………………

入力が終わった後、もう一回打ち出して訳文の見直し。欲望のままに入れてしまった「のだ」と「という」をどう始末するかも問題

(油断するとすぐに「という」を入れてしまうのはぼくのくせ。「のだ」文は、翻訳の場合適宜これを入れないと文章がうまく流れない(と、ぼくは感じてしまう)。だが入れすぎるとうざいし、変なところに入れると分かってないのがばればれになってしまう。)

だったのだが、それ以上に、見直しながら昼の電話で聞いたことを考えていたら、編集者氏の向こう(?)にいる某先生が「これが一番大事!」とお考えのところの一部を、ぼくはかなり誤解していたらしいことに気がつく。こわ〜。

電話の内容を考えながら、「もっと適任者がいたはずじゃん」と思ったりもする。

そして直したところをもう一度入力してまた打ち出し。明日はこれもって図書館行き。

``intention''は「つもり」としてかっこ内に英語併記。英語併記といえばもちろん``wish''も。

 

 

教員的日常

教科書会社より例の物届く。お礼のメールを書かねば。

「例の物」とぼかしたが、別にやましいことがあるわけではない。ただ、この時期になって「見本」と書くのが恥ずかしいだけ。ってしっかり書いているのはいつもの手口。

 

 

けんきう的日常

今日はなし。

 

 

雑用的日常

今日はなし。科研費の後始末、明日帰ってからが勝負。

 

 

地下鉄

あの路線には、むかし大変お世話になりました。4月からまたお世話になります。

(六本木で遊び たおしていた/たおす予定 ということではない。)

それとは関係なく、合掌。


3/7

お仕事的日常

昨日その後、ハードコピーを作って、原文を見ずに訳文を一度通読。へどが出そうになったので慌ててトイレに駆け込む。

(以上、一部嘘あり。)

そして今日、原文と訳文ハードコピーと学術用語集心理学編(薄い)と学術用語集植物学編(やや厚)と学術用語集動物学編(分厚い)をもって別室で訳文のチェック。A4用紙27枚が真っ赤っ赤っ赤。丸一日かかった。しんどい。でも一日で全部やらないと訳語の統一ができない私(←物忘れよすぎ←海馬が弱っている)。

rocketを「ロケット」とするか「打ち上げ花火」とするか迷った挙げ句後者にするとか、そんな変なところでも引っかかる。

夜遅く入力開始。明日は入力の続き。図書館出張は明後日の予定。

 

 

教員的日常その1

教科書会社に出した問い合わせのメールに返信あり。よかった。

 

 

教員的日常その2

非常勤(新規)は初回を休講にしなければならない模様。頂いた書類には「開講当初は休講にしないでね(はあと)」みたいに書いてあるのだけれども、う〜む、遊びに行くわけじゃないんだけれども(←本当か? てゆうか学生の遊びにお付き合いさせていただく仕事なのだ)。

しかしあの大学は科目登録が早い(というか普通)ということ、(恐らくは)定員がある授業であること、ぼくは新規なので、ぼくに関する情報は(教員経由ではいるものは別として純粋に学生間で伝わるものは)皆無であること、などを考えると結構影響出るかも。

ま、いいか。さぼるんじゃないのだから。

 

 

けんきう的日常

今日はなし。

 

 

雑用的日常

今日はなし。科研費の後始末もしなければ。


3/6

お仕事的日常

お休み。

 

 

強引な一般化

昼寝をするとたのしい夢を見る。

それにしても、起きる瞬間に内容は忘れるんだけど(←海馬が弱っている)、「たのしかった」ということだけは覚えているのはなぜなのだろう。

 

 

けんきう作業的日常

エディタの窓を4つ開けて、内容の振り分け。

 

 

雑用的日常

メール来ぬ。大丈夫らしい。

 

 

出典

ソースは

(\href{http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/7051/watashi9906.html}
{http://www.geocities.co.jp/HeartLand-Namiki/7051/watashi9906.html (6/17)})

と書いてあります。

頭の中にもっている知識が違うと同じことを言われても全然違う解釈をしてしまうというお話。


3/5

お仕事的日常

いちおう、最後まで。本文だけで400字詰め原稿用紙80枚。よくもまあこんなに。

これから直し。前どこかで手書き礼讃論が紹介されてたが、手書きではとてもとても。

ちなみに、文章が引用されているひとびとは:アリストテレス、マタイによる福音書、スピノザ、ウィリアム・ジェームズ、ダーウィン、H.S.ジェニングズ、C.S.シェリントン。よくもまあこんなに。

てゆうか、大恥かくかも。

 

 

裏切り者!?

というわけでこれら↑の人々の著作の日本語訳を参照したいので、図書館を利用しようと企んでいるわけだ。

でもってぼくが利用できる図書館は 1)地元の市立図書館 2)本務校の図書館 3)非常勤先の図書館 と3つあるわけだが、

(出身大学の図書館はいまだに利用手続きをしていない。大場嘉門な私。)

いろいろ考えると非常勤先の図書館が一番良さそうに思える。つまり、本務校には行かない私なのであった。

でっび〜るま〜〜ん、でびるまん!

 

 

けんきう的日常

今日はなし。

 

 

雑用的日常

今日はなし。てゆうかメールの返事が来ないのだけれども、大丈夫なのだろうか。


3/4

研究室で研究関係の仕事が出来ない理由

姿勢の問題。机が高すぎて、落ち着かないのだと思う。

 

 

ファイル名も気になるんだけど

それだけではなくて、私、この方と同じ時期に同じ場所をうろうろしていたような気がする。おまけに同じところから同じ立場で金もらってたっぽい。

 

 

松田優作的行き違い?

「努力家」をめぐるこちら(3/3)と こちら(3/3)/こちら(3/4)のやりとりを見ていて、こちら(1999/06/17)を思い出した私。

疲れているのかも。(←誰が?)

 

 

↑本多君にしては物覚えがいい?

ちゃうの。松田優作のところは授業で使わせてもらっちゃったの。その資料が残ってるから、grepかければぱっと見つかるの。

 

 

学歴とか偏差値とかについて

とりあえず批判的なことを言っておけばたいていの場合仲間はずれにならずに済むという今の状況は、クリティカルに考えることを無意識に避ける人々にとっては都合がいいかもしれません。

(この項、上のリンクとは連動していません。)

 

 

けんきう的日常

論文のためのファイルづくり。一つの資料から三つ論文を書く(というか、長さの関係で三回に分けて紀要に載せる)予定。内容の振り分けを考えると三つ並行して書かないとだめかも。

 

 

雑用的日常

今日はなし。

 

 

お仕事的日常

進んだ。明日中に最後まで行く、かな。ただしこれは初稿。直さなければいけないところもあれば、調べなければいけないこともある。


3/3

けんきう的日常

本多氏は日本語の「ている」にもドイツ語の状態受動にも興味があるみたいだけれど、でもこちらの修士論文(親ページはここここここ)とは、出発点も行き先も違うみたいだ。

ということを私のマニアックな授業に出ていた人々にはおぼろげながらも感じ取ってほしい。

どう違うかは…企業秘密にする価値、あるのかなあ?

どちらの見方がより有効性が高いかはまた別の問題。

 

 

雑用的日常

抜き刷り発送。やっと。今回はたがいに全く関連のない人々から2件来ていた。

メール書いた。久しぶりに英語で作文。相手は日本人だけど。

 

 

お仕事的日常

例の翻訳、進んだ。この「進んだ」はプラス値多義の「進んだ」(=はかどった)ではなくて、単に何ページ分か「進んだ」という方の「進んだ」。それでも何となくリハビリした気分。


3/2

dvipsk

研究室のパソコンにdvipskをインストールした。これでdviファイルからpsファイルが作れる。ちなみに、そのパソコンはpsファイルを表示/印刷できる環境ではない。それじゃあなぜ?

今までは論文などを公開するときはdviファイルをページごとに画像ファイル(gif)に変換してアップしていたのだが、それではファイルがでかすぎるし、論文を画像でというのも何となく芸がないように思われたので、どうにかしたいとずうっと思っていたのだ。

これからは、psファイルで公開、ではなくて実はpdfファイルで公開するつもりでいる。日本語の入ったtex/dviファイルから直接pdfファイルに変換する方法が分からない(dvioutから流し込むとページごとに別ファイルになってしまう)ので、一度psにしてから変換することにしたのであった。

論文のほかに、授業の資料も置くつもり。授業資料のURLは、4月以降に教室で発表します。すけじるページからリンクはるかどうかは、未定。


3/1

学歴の高いオトコ

「ほかに何もいいところがないんだから、せめて学歴くらいよくなきゃねえ、あんた」みたいな人もいます。

 

 

クラス会での仮想対話

きたやま君(仮名)

「お前、勉強だけしかできなかったよなあ」

ほんだ君(実名)

「そうだよなあ。これで勉強もできなかったらほんとどうしようもなかったよなあ」

本当にこう返したらどう思われるのだろう。


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