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昨日、アスペクトの教材を作りながら、ある人が1970年代に発表したある論文のことを思い出す。そこに挙げられた例文は英語の過去時制形式の意味についてのぼくの見方を補強してくれるはずのものである。そのぼくの見方は仮定法と過去時制の形式的な繋がりの背後にあると想定される意味的な繋がりについて、Langackerとかの見方とcompatibleではあるけれどもちょっと観点が違う説明を提示するものでもある。
そしてぼくの時制観は「横にび〜っと一本直線を引いて、こっちが過去でこっちが未来で真ん中辺を現在とする」という直線メタファー(これは実は隠れobjectivistなのよん)をやめようという見方でもある。
んで、この方針でずう〜っと詰めて考えていくと、う〜ん、細江逸記を越えるのは難しいかも、というところで終わる可能性もあるのだけれども。
昨日の疑問↓、ぼくは迷わず「上位3分の1に入っていると思う」と答えるわけです。そしてかりに「上位3分の1に入っていると思う」と答えた人が実際には3分の1より多かったとしたら、「けんきう者の中にも自分には甘いというタイプの人が結構いるのだなあ、け!」と思うわけです。このとき、「自分には甘いというタイプの人」の中にぼく自身が入っているという可能性は見えていない(ふりをしている)わけです。きゃ〜かっこわる〜。
新聞のテレビ欄で見つけた文字列。
残念ながら、「阪神日本一」ではないのであった。
てゆうか休校。別キャンパスの学園祭の余波で、授業はないのであった。
ずうっと前から作っていたアスペクトの話の教材がようやく完成。なんとA4で33ページ。ってことは縮小して両面コピーにして配ってもB4で8枚超。できるのかよこんなの。
でもこの話が全部理解できればあなたは英語と日本語(共通語)と日本語(宇和島方言)とドイツ語の進行と完了と受動の仕組みがばっちり分かる(?)のであった。
古典語の「けり」は結局やらない。ノルウェー語だのスウェーデン語だのブルガリア語だのマケドニア語だのトルコ語だのも、やらない。
くりしん本に載ってた話からヒントを得た疑問。たとえば、アンケートかなんかで「研究者としてのセンスに関していえば、自分はこの分野の研究者の中の上位3分の1以内に入っていると思う」という項目があったとして、その質問に「はい」と答える人の割合は、どれくらいになるのだろう。
「研究者としてのセンス」をどう評価するかとか「この分野の研究者」の範囲をどうやって確定するかとかはまた別の問題としてあるわけだけれども。
認知言語学を公式に(?←なんか微妙)始めた頃、「周りで認知言語学をやっている人は全員、研究能力も実績も自分より上」と思っていた。
(これは正しい見積もりだったと今でも思う。)
今さらあの頃の気持ちに戻りたいとは思わないのだけれども、
(自分の能力を修士課程の学生と同じと見積もるのはいくらなんでも問題があるでしょう。)
でもあの頃は今よりずっと一生懸命勉強していたなあと思ったりもする。あの頃の一生懸命さは「周りの人は全部自分より上」という気持ちとつながっていたように思う。
きゃ。
今日、いつものようにいもむし踏みに出かけました。
あ、これは!
…
自意識の壁を突き破る大胆な行動に出た甲斐あって、見事にカウンタを12998まで上げました(1999/10/28 0:26)。
12999を踏んで「あ!」と思ってリロードして13000を踏んで「やったあ〜!」と喜ぶのは誰?
今1999/10/28 0:35リロードしたら13002でした。こんなの↑書いてないで先にやっとくんだった。つめの甘いぼく。
ぼくから見て、授業参観させてほしい、あるいは受講者として授業に出させてほしい、あるいは宿題とかやるのは嫌だからオブザーバーとして授業に出させてほしい(←虫が良すぎる?)、と思える教員がうちの大学には何人かいる。
でも、自分の授業を見られるのは嫌(←たぶん他の人も同じ↓)。
各教員が自分の専門に一番近い授業を見せ合う、というのならいいかも。
(でも「自分の専門に一番近い授業」というのはあくまでも教員本位の見方。学生の立場から言うと「自分の専門からずれてるからといって変な授業していいわけじゃないでしょ」ということになるのであった。)
「授業に出たい」といったらしっかり「嫌」といわれてしまった。その後で確定した時間割をよく見ると、その授業の時間にはぼくの授業も入っていたのであった。
保身のため。というか、ぼくの場合、ここで言う前に(あるいはここで言うのと並行して)学内のしかるべき場で言え、ということになるのであった。
共通語で「〜かもしれない」というところを、大分弁では「〜かしれん」といいます。
大分弁では「も」はどこに消えてしまったのでしょう。なぜ、消えることができたのでしょう。共通語の「も」はいったいどのような機能を果たしているのでしょう。それは、簡単に(?)消えてしまってもいいようなものなのでしょうか。
私の知ってる大分県人は「〜しちからわりいわ」とよく言います。これは共通語に直訳すると「〜してから悪いじゃん」みたいになるのですが、これではいったい何のことかわかりません。意味が通じるように共通語訳すると、「〜してしまうと いけない/まずい/やばい じゃん」みたいになります。
この「から」は一体何者なのでしょう。
共通語の「から」とは<起点>→(時間的に<後続するもの>→)<原因>→<条件>という感じでつながっているのかしら。
大分弁の「よだきい」という表現に「疲れた、かったるい」という共通語訳が当ててあることがあります。そのいい加減な訳のおかげで、私は子どもの頃からずっとこの語の意味を誤解していました。つまり、「過去に何か行為をしたために、現在疲れている」という意味だと思っていたのです。
「あれは誤解だったのだ」と思うようになったのは、大人になってからです。今のぼくの理解では、「よだきい」は「今から何かある行為をしなければならないのだけれども、気合いが入っていないため、その気になれない」という意味です。つまり、過去の行為をめぐる語なのか、未来の行為をめぐる語なのか、について誤解していた、というわけです。
大分弁の「つまらん」も、ずっと誤解していた語の一つです。私はこの語の意味を共通語の「つまらない」と同じで、「知的な興味をひかない」だと思っていました。でも違うんですね。というか、少なくとも、違う意味があるんですね。これは「(そんなことしても)無駄だ、意味がない、効果がない、役に立たない」みたいな意味があるのでした。
てゆうか、そもそも自分ではコーヒー全然飲まないんですよ。緑茶か玄米茶かほうじ茶か。でもいちおうお客様用にとか思ってコーヒー買っておくと、いつのまにか古くなってて。「お茶と賞味期限切れたコーヒーと、どっちがいいですか」と聞いて、「コーヒー」という答えが返ってきた場合に、その古い(でもおそらく実害はない)コーヒーを出してました。
最近は最初からコーヒーは買わなくなってしまった。
ちなみにお客様用のカップは紙コップ。資源は気になるけど、洗い物で時間取られたくないし、それに薄汚いカップで飲むのは気分良くないだろうなと思って。
自分用は、人の結婚式でもらった猫の顔のイラストがいっぱいついたやつ。かわいい系。
hosokin's roomで見た議論についてのコメント。相変わらず国語辞典は見つかってないので、直感に基づいて書きます。
「自分の行為を正しいと信じてなされる犯罪」って、何に照らし合わせて「正しい」と信じるの? 「自分が悪いことを行っている事を自覚した上で行った犯行」って、何に照らし合わせて「悪い」と判断するの? その辺を明確にしておかないと、話がかみ合わなくなります。
ぼくの直観から言うと、「確信犯」というのは「法に照らし合わせて考えると「悪い」と判断されるということを自覚しているけど、法以外のもの
(その人の頭の中にあるその人なりの「正義」「大義」みたいなもの、そして、その人の頭の中では法よりも大事なもの)
に照らし合わせて考えると「正しい」ということになる、そのような行為をすること」になります。
つまり「自分の行為を正しいと信じてなされる犯罪」と「自分が悪いことを行っている事を自覚した上で行った犯行」は正反対ではなくて、ちょっとばかり複雑な面をもった事柄の、どの側面に注目するかの違いでしかないのではないか、ということです。
脱線。
「人間はネズミよりは大きくて、象よりは小さい」は矛盾しないけど、 「人間は大きくて、小さい」は矛盾する(ように見える)と似ている。
繰り返しになるけど、辞書とかは引いていません。
それはたしかに一時間遅らして設定しちゃったのはぼくだよ。でもどうして君はばか正直にその時間まで鳴らずに待つかな。つくづく気が利かない奴だ。いつもは 熟睡しているところをまだ時間に余裕があるのに遠慮なくたたき起こしてくれるくせに、こういう時に限って起こしてくれないんだから。君はぼくと一緒に暮らすようになって、いったい何年になるんだったっけね、え?
いつもと同じ時刻に大学に到着。財布から金を出すのに手間取ってたら、乗ってたタクシーがずいずいとキャンパス内に進入。そんな奥まで行かなくて良かったのに。てゆうかスクールバスのバス停を占拠してました。ごめんなさい。
学園祭の準備に奔走する君たちの真剣な面持ちはなかなかいい感じだけれども、「これ取れなければ自動的に留年」というシステムになっている必修の演習の授業にはやっぱり出てほしいのだ、立場上。
3年生になるとずいぶん感じが変わるものだね。
自分の研究方法の自慢とお説教はくど過ぎ。それより論理的で筋の通った文章を日本語で書けるようになりましょう。「高校生にも分かるように書く」というのは無様なくらい失敗しています。そういえば唐突にテクニカルタームが出てくるのも「高校生にも…」型の書物としては論外だなあ。
内容はとっても面白いのだけれども。ちなみにお猿さんの話です。
「確信犯」を調べようと思って君を探したのだが、見つかりませんでした。ほんと、どうでもいい時には ごろん! とばかりにその辺に転がっていたりしてとっても邪魔なのだが、こういう時に限って見つからないわけだ。
君といい、目覚まし時計といい、全くぼくの部屋の物体たちといったら。君たちのような物体が存在するから、マーフィーの法則などという愚かしいものがもてはやされるのだ。(←今時そんなもの持てはやす奴なんていないという話もあるけど。5年くらい感覚がずれてる?)
気が向いたら、そのうち書きます。
日記に対する見方だったら「ひとごと!」と笑って見てられるんだけど、けんきう者としてのセンスに対する評価に関して、何のためらいもなく不協和解消しちゃう(ように見える)人をみると、ぎゃ〜とか思う私。
ある人のことを研究業績だけを通じて知っていた頃には辛辣な評価をしていたのが、直接知り合いになって仲良くなって、暫くたつと研究業績に対する評価まで良くなっちゃってるとか。
あるいは、最初は「○○なんて大したことねえぜ」みたいな態度だったのが、自分の尊敬している人/世話になっている人/…が「○○は素晴らしい」と言ってるのを知っていつのまにか「○○は素晴らしい」というようになっちゃった、とか。
でも「身近な人かどうかとけんきう者として評価してるかどうかとは別」とか「△△さんと私では人に対する評価の仕方が違う」とか言ってると人間関係重視型のひとびとからは思いっきり嫌われるのであった。うみゅ〜。
ますます嫌われるのであった。
『めぞん一刻』なら全巻持ってます。
変換ミスなんだけど、直すのめんどくさいので放置。
それより早くもいい感じ。これをきっかけに、もう一回がんばって生き直そうかなと思ってみたり。
(あ、誤解されると困るんだけど(という言い方もステレオタイプで、実は困らないのかもしれないんだけど)、更新休んでたのと「生き直す」とは全く関係ありません。念のため。)
最近、いつもに増して動きが鈍いです。こんなに急に気温が下がるなんて、ほとんどだまし討ち。はっきり言って卑怯だと思う。
そういえば最近、「英語の二重目的語構文に現れる動詞(ditransitive verbs)は中間構文には現れない」と言われてるのをどう考えるべきか、についてある重要なことに思い当たったのだった。
うらを取るのはこれから。
最近寝付きが悪い。猫背の悪化と骨盤のゆがみで、寝ていて苦しい。
根本的な解決法はヨガなのだが、これやると一回30分は潰れる。「今から30分間、これに集中するんだ」という覚悟がなかなかできない。
毎日30分、一月くらい続ければ相当良くなることは分かってるんだけど。
(以下は、五月に書いていったんお蔵入りにしたもの。こちら見てどうしても復活させたくなってしまった。怒りながらうだうだと書いたので、中身の割に異様に長くなってます。要約は、こちら。)
またまた時事英語の教科書の話。今やっているところは、「バンクーバーはどうやら世界で一番住み心地がいい都市らしい」という話。
最初に日本語で(つまり、教科書執筆者によって)書かれた「ニュースの概略」が載っている。(違法かもしれないけど、出典明記せずに全文引用。確信犯。)
カナダのバンクーバーは世界でもっとも住みやすい都市であることが、ある調査で明らかにされた。
そして本文はMainichi Daily Newsの記事からの引用。
調査の概要を述べると、これはある海外(英語圏らしい)の民間企業が行ったもので、世界の192の都市を対象に42項目のチェックポイントに関して調べたもの。以下、ほぼ書いてある通りのままの概要。
住みやすいとされた都市はカナダのバンクーバーとトロント、ニュージーランドのオークランド。
逆に、住みづらいとされた都市はブラザビル、バグダッド、サラエボなど。
北米をみると、カナダのバンクーバーが一位。ここは世界でも一位。トロントが三位。 (世界三位か北米三位かは読み取れないようなシンタクス。)
アメリカ合衆国の中で一番住みやすいのはジョージア州のアトランタ、ついでカリフォルニア州のサンフランシスコ、ハワイ州のホノルル。
ラテンアメリカではアルゼンチンのブエノスアイレスとウルグアイのモンテビデオとパナマシティーが一番住みやすい。
アジアでは一番いいのがニュージーランドのオークランドで、それに続くのがオーストラリアのメルボルンとシドニー。
ヨーロッパではスイスのチューリッヒとジュネーブ、そしてフィンランドのヘルシンキがいいとされた。
とまあ、こんな感じ。
そこでぼくは疑問に思うわけです。
要するにバイアスのかかった調査である、ということです。
察するに、この調査は英語圏の会社が英語圏の人々の関心に合わせて行ったものだと思う。そういう調査が英語圏の人々にとってどのような意味を持つかについては、「とりあえず分からない」「とりあえずここではどうでもいい」と言うしかない。 だがその調査を、アジアの非英語圏に暮らしているぼくらはどう受け止めたらいいのか、ということになると、問題が出てくる。少なくとも、「英語圏の会社による、英語圏の人々の関心に合わせて行った調査」であり、それに見合ったバイアスがかかっている調査だ、ということを念頭において読むことが必要になる。
そういう観点からこの教科書を編集した人の問題意識を考えてみる。
まず最初の「ニュースの概略」を読み直してみると、これがそもそも大きな問題を含んでいる。「…であることが明らかにされた」。 「〜が明らかにされる」は人も知るごとくfactive predicateである。つまり、この文の発信者は「〜」の部分が真であるということを前提として、話をしているのである。つまり、この教科書を作った人は、この調査の妥当性を問い直すという姿勢を持っていないのである。
そして、ユニットの一番最後に「ものしりコラム」というところがある。このユニットの場合、書いてあるのはバンクーバー讃歌である。つまり、「バンクーバーがいちばん」という調査結果を問い直す姿勢はここでもまた欠落しているのである。
そのバンクーバー讃歌の途中に「伝え聞くところによると」とあり、そのあとに消費税とか食品の値段、光熱費、などなどがわりと具体的に書いてある。たしかに住みやすそうではある。でもさ、時事英語の授業ってのは、世界についての情報を提供することに加えて、すでに得られた情報を吟味したりとか、信頼できる情報源とそうでない情報源を区別する方法を考えたりとか、そういう姿勢もあっていいはずではないのかしら。という観点から考えると、「伝え聞くところによると」というかたちで出所不明の情報を流してくれても、ぼくなんかにしてみれば「う〜ん」なのである。
つまり、この「ものしりコラム」はあくまでも学生を文字通り「ものしり」にするための(出所不明の)知識の切り売りの場でしかなくて、情報を吟味する姿勢を養うための問題提起の場になったりはしていないのである。
んでもって、教授用指導書にそのようなメディア・リテラシー教育的な問題意識を満足させてくれることがどれだけ書いてあるかというと、これがまた全く何も書いてない。指導書に書いてあるのは練習問題の答えだけ。
ということで、このユニットの内容から判断する限りでは、この教科書を書いた人にはメディア・リテラシーという問題意識はないと判断せざるをえない。教科書書いた人がこの体たらくでは…
教員が教室でちゃんと説明するしかない。何だかんだ言っても、この教科書を選んだのは他ならぬこのぼく。他の教科書よりは使いやすい形式ではあると思うのだ。
ということで、また教室で教科書についてのコメントをする予定のぼく。
時事英語の授業はMedia Literacy教育の場でもあるべきだと私は思うのだが、教科書を編集する人にはそのような認識が完璧に欠落しているらしい。実に嘆かわしい事態である。
きゃ〜、あの時はあんなに一生懸命書いたのに、今考え直したらたったこれだけで済んでしまった。もどる?
極端で例外的にimpressiveな例。でも他のユニットだって、メディア・リテラシー的な視点が欠けているのは同じ。
てゆうか、このユニットのようにメディア・リテラシー的な視点を導入しやすい内容の記事でさえこうなのだから、他は…という感じです。
来年の教科書、どうしよう。(実は他の教科書もこの点に関してはそんなに差はないだろうと思っているのだけれど。)
時事英語なんだから教科書なんか使わずに生の英語使え、という話もあることはあるんだけど。う〜ん。
ちらっと思ったこと。「醜いあひるの子の定理」から「どんなお粗末な理論でも現象を記述することができる」という命題を導くことができそうな気がする。論理的に詰めて考えたわけじゃないけど、何となく。
ちなみに渡辺慧氏(?)の本はまだ読んでません。
たとえば
日本人はみんな背が高い。ジャイアント馬場などはその典型例である。
あるいは
すべてのテクストはインターテクスチュアルである。パロディなどはその典型例である。
つい最近もネット上でこれに近い議論を見たような気がする。
極端で、目立つ事例を「典型」として取り上げてそれを強引に一般化して議論を進めるのはやめましょう。
こちら(8/12)。ようやく気持ちが落ち着いて、少しずつ前向きになりかけてきたところ。
失恋したわけではありません。念のため。
これもわりとよく見かける文字列。以前から「何なんだあ」と思っていたが、サーチエンジン除けの効果はあるかも。
でも、検索する人の中にも、「dialy」って入れちゃう人はきっといると思う。
今日、いつものようにいもむし踏みに出かけました。
あ、これは!
…
自意識の壁を突き破る大胆な行動に出た甲斐あって、見事に10000匹目を踏みました。これで彼女の熱いキッスはぼくのもの、ぼくの頬は彼女のもの♪
ぎゃ〜! お願い! やめて! 溶けた頬に塩塗り込まないで! 連続10匹ふみ潰し攻撃なんて、もうしません。 次からは9匹くらいでやめます…
break windという連語には、「おならをする」という意味があるらしい。
ということは、「ウインドブレーカー (windbreaker)」は、「屁こき虫」?
他の人のサイトのリンク集に「相互リンク」と書いてあると、必ずといっていいほど寒い気分になってしまう。この理由がついさっき、分かった。少なくとも、分かったという気分になれた。
(「お前がひねくれてるからだろう!」と思った方へ、それについては最後の方で触れます。)
つまり相互リンクというのは、マリノフスキーだかヤーコブソンだかの用語で言えば、phaticな機能を果たすものなのだ。「相互リンク!」みたいに明示してある場合はさらにその性格が強い。
phatic communionというのは、人に会ったときに「やあ」とか「おす」とか「おはようございます」とか、そういう言葉をかけあうこと。「交感的言語使用」とか「ことばかわし」とかのように訳す。これは、言語の使い道としては、たとえば「今日、3時から第二会議室で教授会を開きます」みたいなのとは違うものである。
誰かが「今日、3時から第二会議室で教授会を開きます」と言うのを聞くと、「ああ、今日は会議があるんだな」という情報が得られる。これは、その言葉が向けられた相手が聞いた場合も、第三者が聞いた場合も同じである。
それに対して「おはようございます」と言われて「ああ、早いんだな」とは、普通思わない。
(いつも昼休み明けに出勤してくる人が、珍しく10時前に出勤したら、ふだんは耳にすることがない「おはようございます」を耳にして「ああ、早いんだな」と思うとかいうのは、もちろん別の話。)
つまり、「今日、3時から第二会議室で教授会を開きます」には<(命題的な?)情報を伝達する>という機能があるが、その機能は「おはようございます」にはない。それでは「おはようございます」にはどのような機能があるかというと、それは、大雑把に言って、「私はあなたの存在を意識し、かつ尊重しているんですよ、あなたとコミュニケーションをとる気があるんですよ」ということを相手に伝える、という機能である。言われた方は、相手の意識の中に自分の存在を見出して、ほっとする。それをお互いにやりあうことで、社会的な繋がりが成立する。これがphaticな機能。
そして、phaticな機能は、その言葉が向けられた相手との間でのみ、成立する。太郎と次郎が互いに相手に向かって「おはよう」と言う場合、この二人の間には社会的な繋がりが成立する。だがその時点では、たまたまそこに居合わせた六助との間には、繋がりは成立しない。
リンクにも、「おはようございます」と言うのと同じような、phaticな機能があると思う。誰かのサイトから自分のところにリンクがはられているのを見ると嬉しい気持ちになるのは、「おはようございます」と言われて嬉しい(あるいは、無視されなくてほっとする)のと同じだと思う。「相手が自分のことを意識しているということを意識すること」「相手の中に自分の存在を見出してほっとする」と同じなのだと思う。そして「相互リンク!」というような表示は、そのphaticな機能を見えやすくしている。
「相互リンク」という表示は、基本的には被リンク者に宛てたメッセージである。そのリンクをたどって新しいところに行ってみよう、という第三者に向けたメッセージではないと言いきることはできない。が、第三者向けのメッセージとしては「交友関係の誇示」以上のものではないような気がする。つまり、「面白いサイトの紹介」という機能は弱いものになっている気がする。
だから、その第三者に当たる人間がぼくみたいにひねくれただったりすると、「相互リンク」という表示を見たときに、まずいきなり「さむ〜」とか思ってしまうわけだ。そして「でも一応見てみるか」と思ってリンクをたどっていって、2〜3分後に「来るんじゃなかった」と後悔する、ということにもなるのだ。
もちろん、人格円満な人が「相互リンク」の文字を見た場合には、「この人とこの人は仲がいいんだね」という好意的な感想を持つ可能性もあるわけだが。
いまいちまとまってない気がするが、とりあえずこの辺で。
醜悪なデマの中で。
醜悪なデマの流布というかたちで。
学生の間で広まっていたあるデマに関係する話。ちょっと前にぼくが感じていた不安が、最悪のデマという、想定していた以上に悪い形で的中してしまった。
まるで学校の珍談(「怪情報」ではあるけども「怪談」ではない)か、バートレット(←また出た)か、という感じ。
「人は、課題それ自体の面白味とは関係ない報酬を目の前にぶら下げられると、その報酬目当てに一生懸命努力するが、あとが続かなくなってしまう」という趣旨の記述(どなたの、というかどちらの方のいつの日記か、今確認する余裕がない)を思い出したりもしました。
今詳しいことを書くわけにはいかないのです。気が向いたら、そして今の状況をきちんと覚えていられたら、一ヶ月後に書きます。
まあ、実際はそんなに深刻な話でもないのですが、たちが悪いというか、えげつない話であることは確か。
Cookieちょうだいモードになってしまった。やだなあ。
ちなみにぼく自身は猿人関係以外はいつもクッキー拒否モードです。
配布資料作成のために切り刻んだコピー用紙の切れ端が床に散らかっている。
今日また、非常勤先の控え室は何の予告もなく専任教員たちに占拠されていた。どうして正規の授業料払っている学生に対する正規の授業をやりにきた教員をああやって迫害するかなあ。
(「迫害」というより、そもそも視野に入っていない、という感じだった。「こういうやり方には問題があるのだ」という認識が全く欠落している模様。)
さすがは会議のために授業を休講にする大学だけあるわ、と思ったり。
こういう状況に対しては、営業の電話に対するときよりももっと気難しく原則に従って対応すべし、というか、必要なことはちゃんとやらせてもらうのが授業受けに来ている正規の学生に対する責任、という考えのぼくは、誰かが全員に向けて(今日の催しの関係者全員、ということだが)喋っている最中に部屋の中をちょろちょろしてセロテープを取りにいったり資料入れておきっぱなしにしてある袋を取りに行ったりしていた。
(嫌がらせのためにちょろちょろしたわけではない。あくまでも必要な準備のため。)
何か言われたら言い返すぞ、とか思っていたが、さすがに向こうもそこまでお馬鹿さんではなかった模様。
ちなみに、前回のときは他の非常勤の人々はほとんど休講だったのだが、さすがに今日休講にする人はいなくて、そのひとびとも結構面食らっていた様子。
まあ、必要なイベントであることは確かなんだけど。
旧「動燃」。省略しないで書くと、たしか、動力炉核燃料開発機構。略称から「核」の一文字が消えているということが、情報隠しの体質を象徴しているような気がする、と昔思ったことがある。
情報源を明らかにしてないから怪情報になってしまったわけだけれども、明かしてしまうとやっぱり迷惑だろうから、内緒ということで。
次のうち、実際にやったことのある応対は、どちらでしょう。
両方。それも一遍に。「ここはスルガ大学ではありませんし、石川という者はおりません」。
「西川」というのは当時の法学部長の名前。ぼくはすでに現代文化に移籍した後だったのだけれども、そんなことわざわざ説明してあげるほど親切にはなれない。
このての電話はほとんどかかってこない。なぜなんだろう。
優しい教員は、話を最後まで聞いてあげるらしい。
もっと優しい教員は、研究室で面談しちゃったりするらしい。そういえばどうなったか、結果を聞いてなかったことに気がついた。
駿河台大学も昔はSINETを使っていました。むちゃくちゃ遅くて外部からのtelnetアクセスすら不可能な状態でした。(ログインが60秒以内に済まなくてタイムアウトになるというとんでもない状態。)
今は別ルートを使っていて、快適な速さになっています。